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◎第一話:  「そら、エライコッチャ!」の話

「そら、エライコッチャ!」の話


1.女は両方いける


 男の口の機能は元来食べるだけだが、女の口は食べるのとしゃべるのと両方いける。


 無論、女にも種類がある。私の配偶者は特におしゃべりで、少なくとも私の百人力は行く。ママさんバレーをやっている「四十三歳バツイチ子持ち」の私の女友達は、オリンピック選手みたいに健康。これも劣らずおしゃべりでスポーツの合間に三人分を余分にしゃべるから、合わせて軽く四人前の存在感を示す。

 併せて百四人の人間が身の周りにはいるようなもので、私が寂しいと感じた事はない。


 因みに、昔の私は超が付く寡黙な人間。元来が老成した感じを若い時から身につけていたから、つまり無愛想で若い女に持てるタイプではなかった。けれども本人の為に弁明すれば、だからといって威張る風ではなかった。むしろ(内心では十分に助兵衛で)人のいい笑顔で女へ応対したかったのだがーーー、上手くは行かなかった。


 大学も技術系学部だったし、本を読むのが好きで環境としてしゃべる必要がなかった。用事があれば、内容については説明的に人と喋るけれども、用がなければ喋らない。要するに、雑談というのをようしないのだった。何をしゃべって良いか、分からなかった。


 人口の半分は女だと言われるのに、不思議に女と出会う機会が無かったから、私の口下手は表面化しなかった。が、社会に出て初めてのデートとなって、問題が深刻化した。学校の試験勉強みたいに前夜から悩んだ。

 女といて何もしゃべらないとなると、喋らないというだけで雰囲気が不味くなるのを、経験的に知っていた。微分方程式の解法を教えてくれと言われたなら、一時間かけてでも淀みなく丁寧に説明できるけれども、女と居てそんな用事が有る訳ではない。特に当時の女は、方程式が嫌いで結婚式の方が好きだった。


 オスの本能として、女を愉しませなくてはならないという義務感を覚えた。デートの前日随分と考えた末、事前に雑談の準備を周到に行う事にした。試験勉強みたいなもので、女としゃべる用事が無ければしゃべる用事を作くれば良いのだと気付いた。私の癖でヤルとなると徹底する。こんな準備をした:明日一緒に姫路城に遊びに行く予定となった。事前に関係ある歴史を調べて丸暗記した。デートでしゃべる為だ。


 けれども暗記したのを口から垂れ流すだけだと教科書の棒読みみたいになるから、所々にユーモアや冗談を混ぜる工夫をした。技術系人間だから元々工夫は得意。本当はそうではないのに、「面白い人」だと錯覚させる作戦でもあった。


 実はこんな風に思い悩むのは私だけの事ではなかったようで、大学同期の友人のE君(私と同じく技術系人間で、当時の事で、見合い結婚をする予定だった)も似ていて、雑談力の不足は私以上だった。


新婚旅行のやり方について悩んだのだ。最重要課題としてパンツを何枚持って行くべきかの計算は彼にとって難問で、無論計算式は微積分を使ったが、回答を出すのにまる三日掛かった。更には、結婚式の一カ月前に旅行の全コースを事前にたった一人で周遊して来て、乗り換え方法や現地での観光の説明を全部頭へ叩き込んだのである。全て本当の話。対して(恐らくどの女もそうだろうが)呑気なもので、こんな男の秘かな気苦労を全然知らないし、深刻に考えた事がない。男に何もかも任せておけばよいと考えている。


それにしても、先のE君は温泉旅館で夜の布団の中の行事はどう予行演習したんだろうかと、こっちは他人事ながら低俗な心配をした。昔の事で大部分の手続きはもう忘れたが、夜のアレは確か、男が一生懸命になればなるほど余計に上手く行かないものなんだ。教えておいてやれば良かったと思う。


 話を姫路城へ戻す:デート前日に考えついた雑談すべき内容を、当日忘れてしまってはどうにもならない。女の前で上がるという事もあり得る。迷った末、忘れないように左の手のひらに黒色ボールペンで、小さな字でぎっしり記した。恋のカンニングペーパーである。何せスペースは手のひらサイズと来たから、要点を圧縮して書いた。


 書き切れない分を、右手に書こうとしたら無理と知ってがっかりした。代わりに足の裏には書けるが、これはイザとなって役に立たないし、ひたいはスペースが広いが書いたら相手にばれてしまう。

苦心したカンニングペーパー作戦だったが、こんな試練があったればこそ、「問題解決能力」が人より発達し、「策を練る」クセが自然に身に付いたものと思う。この能力は後年人生の様々な場面で役立ったから、若い内に人は色々苦労をしておくべきだと、つくづく思う。


 さて本番のデート当日は、バレないように左手を握りしめていた。時々チラチラと盗み見た。これで大抵上手くいったから、やはり人間は猿とは違い、アイデアと知恵の勝利が証明された。お陰で、ウイットに富んで話題の豊かな「面白い人」と思われて、女が私を好きになってくれたから前半は大成功であった。処がーーーである。番狂わせが起きた。


 女は私より七つ年下だったが、デート中に私の右側に立てばよいものを、選りによって左側に立ち「手を握って欲しい」と訴えたのである。そんな卑猥な行為は昨夜の予行演習には入ってなかった。何と身勝手な女と思ったが、こっちは突然の申し出に応用が利かないから、大いに当惑した:


 左側に居る女を右手で握ったら、進行方向があべこべになるから、止む無く左手を差し出した。問題発生! 手を握ろうとした女は「手に、バクテリアが付着している!」と感づいた。びっくりして、しげしげと眺めた。私がたった五分前にしゃべった小説の内容が克明に書かれていたから、きっちりばれた。


 女は「キャハハーーーのキャ・キャ!」と暫く笑い転げてから、「カンニングペーパーだなんて、我が国のデート史上、かってない発想だわ」と生真面目な顔で、こっちの目をジッと覗き込んだ。この男は正気かという顔である。無論こっちは正気だが、パンツの中まで覗かれた気がして、危機感を強めた。


 が、あにはからんや、女は急に優しくなった:「貴方は頭が良いのに、根が正直なのね、ウフフ、見直したわ。好きになってあげる」これが、七つ年上の男に言うべき言葉か! その日の後半は一方的に女が景気よく喋るようになった。それまでは私が一方的にしゃべっていたから、女はしゃべるのを遠慮していただけなのだ。


 驚くべき事に、カンニングペーパー無しに、デートのあいだ中女の雑談が一瞬たりとも「途切れる」事がなかった。口だけあれば人間用が足りると思わせた。夕方別れ際に女は、「今後は隠し事をしてはいけない」と教えたから、結果的に外の女へカンニングペーパーが蔓延するのを食い止めたのである。

 

 こっちの寡黙という困難な問題を解決してくれたから、この女とデートする限り、以後私は事前に何かを暗記する労苦から解放された。便利な女だと思った。女が四六時中しゃべり続けたから、携帯ラジオを持ち歩いているようなもので、電池切れを起こさないからもっと便利だった。ただ音楽番組だけが無かった。なるほど、これが女かー――、とひとつ学問をした気になった。


 ラジオ番組の中で、女は徳川家康のこんな教訓も私へ語った:

「男は兎に角チャンスを作り、女を物にすることが大切よ。あまり厳しく選別していると、チャンスをみすみす逃しかねないわ! 貴方に比べて七つも若いんだし引く手は多いから、私だって逃げるかもよーーー」と。こうして、こっちを巧みにやきもきさせた。女たちのそんな絶妙な策略に、当時だけでなく今の時代でも多くの男が犠牲となっている。


 本当に家康がそう言ったのかどうか怪しいが、素直に教訓に従って「あまり厳しく選別」しなかった結果、その時の七つ年下の女が今でも私のそばに居続けている。この女の言語能力は教訓も含めて驚くほど発達しており、百人力の雑談力を発揮しているのは、冒頭で紹介した通りである。


 つい脱線したが、話を戻す:

 私は昔も今も「用事が無ければ」人へよう電話をしない。大抵の男がそうではないかと思う。が、配偶者は「用事が無くても」易々と出来る。相手は女友達ではあるが、「ねえ、元気にしている?ーーー」で始まって、延々一時間は楽にしゃべる。途方もない女の能力知って、結婚当初とても不思議に思ったものだ。


 以来半世紀が経つ今も、女のおしゃべりが衰える気配はない。それどこか、一層進化した。話題はスーパーでの買い物の話から始まり、隣近所の悪口へと展開、次に安倍首相への同情、死んだ私の母親への恨みつらみまで、野を走り山を越えて線路は続くよ何処までもーーー、といった具合だ。


 お喋りには私への親切なアドバイスも含まれる:

「週一のゴミ出し」に対して、隣近所の不道徳な行為に対する仕返しの為もあるが、相手に知られずに隣家を覗く方法も教えてくれる。何でも知っていて、「近所のS中央公園内の西入口付近はオヤジ狩りが盛んな場所だそうよ。七十七で若くはないんだから、近所だからと言って貴方はもうそんな狩りに参加しなさんな」とかの忠告も、受ける。


 話はパノラマの如くキラキラと展開し、あっと言う間に結婚前に私がどんなウソをついたのかだって、昨日の事みたいに生々しく再現される。そんな時に、降り掛かる火の粉を払おうと思って、「そうだったかなあ?」なんて空とぼけた相槌を打つと、どえらい事態を招く。

 女は昔の悔しさに自己陶酔しているから、物凄い形相で睨みつけ、今にも離婚を宣告しそうな剣幕になる。当初のスーパーの買い物の話が、どうして離婚問題へ繋がるのか、プロセスが簡単には判らない。女の記憶力は凄いを通り越して、怖い。


 結婚したてで、私が女のおしゃべりに未だ不慣れな昔の失敗談: 女が一つの話題でしゃべり始め、それが長時間続く気配を見せた時に、私は何とかしてそれを止めさせようとしたものである。相槌を打ちながらも、もっと短時間に終了しそうな別の話題へと誘導を試みたのだ。しかし、この作戦は大概失敗した。


 なぜなら、先の話題は既に八割方まで済んで終了間際だったのに、当時こっちは話のスケジュールの塩梅と見分け方が判らず、新しい話題を提供する形になってしまったからだ。また勢いを盛り返して再スタートを切るから、おしゃべりは予定の一・八倍にはなってしまう。

 こうして女の話はよどみなく言葉が出て来て延々と古代から未来へと流れ、じっと聴いているこっちの体のあちこちに蜘蛛の巣が張り始める。私が年より風化して見えるのは、このせいである。




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