第6話
ヒュプノイアが自身の正体を晒さぬように張った結界。
物理的な妨害を成すわけではなく、近づく者の意識に干渉し、遠ざかるように仕向ける類のものであると同時に、内側から発せられる魔力を外から意識出来なくさせる効力もある。
おそらく、この様な形で法術を使役できる人間は、刻印の保持者である神以外は彼女だけであろう。
だが、干渉の及ばぬ範囲で気づく者もいる。そして、彼女の同志とも言える人間であればなおさらだった。
「うん?」
「どうした?」
神殿の一画である。
静かに対面していた初老の男二人のうち、白を基調とした神官服に身を包んだ男がゆっくりと顔を上げ、視線を外へと向ける。
もう一人の軽装の男、オルフェノの問い掛けに、神官のジェノンはゆっくりと答える。
「ものぐさ娘が動き始めたらしい」
「ほう? フソラをか?」
「うむ。自慢の孫が魔王に見初められた心境はどうだ?」
「何とも言えん。ま、あいつに預けたから悪いようにはしないと思ったけどな。手を出すんじゃねえぞ?とは言っておいたが」
「万年未通女にそのような感情はあるまい。しかし、いよいよだな」
「ああ。やっかいな事になりやがった」
静かに語り合う両者。オルフェノの孫フソラに関しては、神官長という立場もあって気にかけていたジェノンであったが、ヒュプノイアがどのように扱うかの方が気になっていた。
両名ともに信用はしているが、どうにも腰の重いかの魔王が真剣に面倒を見るかどうかは半信半疑だったのだ。
とはいえ、現状は自身の代わりを見つけたとの言の通り、熱心に教えを説きついには法術の類にまで手を伸ばしている。
立場上、黙認は厳しくなるが、長年の同志の頼みである以上、ジェノンもオルフェノも中央に気取られぬよう振る舞うしかない。
だからこそ、今回の事も他人事とは言えなくなる。
「聖神の失踪と邪神の解放。加えて、南部諸国の侵攻か……」
二人が話す内容は、ここパルティアをはじめとする各国の信仰対象となっている聖神。正確には聖女神ユピューテの失踪。
対立国家群が侵攻する邪神ルルーシアが封印から解放されたという情報。そして、彼女を侵攻する南部の一部国家群のきな臭い動きである。
「さすがに、これ以上隠居を決め込んでいるわけにはいかんぞ?」
「ああ。にしても、ユピィの嬢ちゃんはどうしたってんだ?」
「こら、言い方に気をつけろ。女神様は、うち続く戦乱や亜人に対する迫害を嘆いておられた。おそらく、下界の有様に失望なされたのだろう」
そんな背景を受け、復帰要請が繰り返されているオルフェノに対してジェノンは迫るような表情を向けるも、オルフェノの聖女神をつかまえてのあまりの言いように肩すかしを食う。
彼らの言動が表すように、信仰の対象たる神々は下界に良く姿を現すのである。
下界にて力の行使を行うには、人の姿をして下界に降りたたねばならぬが故で、その際には不慮の事態で死亡する事態もあり得るのだ。
「あの性格だと、市井に紛れて慈善活動に勤しんでいそうだな。悪い虫が付かなきゃいいが……」
「うむ。だが、もう一つ問題がある」
「邪神に関しては俺は知らねえぞ? 神殿が対処しろよ」
「もちろんそのつもりだ。ただな」
「なんだ?」
「フソラ君の身に宿ったそれ……、邪神の封印に綻びが出はじめたのがあの日だったのだ」
「何?」
「ヒュプノイアが付いているから大丈夫だとは思うが、覚悟もしておいてくれ」
「んな、呑気なことを言っている場合じゃねえっ」
「慌てるな、貴様らしくも、あ、待てっ!!」
邪神とはいえ、元々は人々の信仰を集めていた女神で、邪悪なわけでもない。単に人の憎しみや欲望などを浄化する役割を担っていただけなのである。
だが、それらに触れているうちに彼女は狂ってしまい、聖女神達によって封印されていたとされる。
現実は、南部諸国を屈服させるべく、神殿が彼女を罠に嵌めたらしいのだが……。
そう言った背景があっても、むやみやたらに無辜の民を害す可能性は低い。だが、神殿や神々に対しては別である。
そして、封印の際に彼女の人間体は変質してしまっていると言われており、新たな肉体が求められているとも言われていた。
そして、封印の弱体とフソラの身に起こった異変。
取り越し苦労ならそれでも良いと思い、オルフェノとジェノンはその場から慌ててフソラ達の元へと向かったのだった。
◇◆◇
ヒュプノイアの手を離れた刻印がゆっくりと右手の甲に沈んでいく。
やがて、身に纏っていた紫色の光が手の甲から浮かび上がり、そこを中心に身体中にしびれが起こり始め、やがてそれは痛みに代わりはじめる。
「刻印は意志を持つ。そして、多くが宿主を求めつつも、中々のじゃじゃ馬でね。身体の隅々までこねくり回した上で、気に入らなかったら耐えがたい痛みをもたらすことがあるの」
「……また、やっかいな話ですね。となると、中央でのみ下賜されるというのは」
そう言うと、ヒュプノイアは法術を用いて自分の身体を癒してくれる。適性がある分痛みも簡単な処置で済むと言う事であろう。
とはいえ、おいしい話には裏があると言うのは相場であった。
「回復系の法術で対象者の身を癒すのよ。もちろん、刻印が気に入ってくれればそれほど大きな消耗はないけど……、なんにせよ、大いなる力を身に宿すって言うのは危険が伴うものなのよ」
「なるほど。たしかに、身体に異物が入りこめば、体調を崩したりしますからね」
ウィルスなどが原因で伝染病などが蔓延するが、この場合は自らの意志で力という名の異物を取り込む。
どちらかというとワクチン接種に近いが、あれも抵抗力がなければ体調を崩したりするのだ。
「ん? となると、刻印を身に宿すとなれば、法術に対する抵抗力なども向上すると言うことですか?」
「そうね。でも、才能とか鍛錬次第で抵抗力は増すから、多少の補助ぐらいにしかならないと思うわよ?」
「そうですか」
ワクチンの事を思い返して、抵抗力の向上を図ることを考えてみたが、やはり簡単な話ではないらしい。
「そうやって考えることは悪くないわ。さて、これでいいと思うわ。これがないと法術の鍛錬も出来ないしね。んじゃ、やってみましょうか?」
そう言って微笑みかけてくるラウネーであったが、彼女の笑みと落ち着きを見せ始めた刻印を目にしたところでふとした疑問がよぎる。
中央神殿にて刻印の下賜が行われるのは、危険を避けるため。
それは、宿主の身体に掛かる負担を軽減するために治癒や補助を施せる上級術師が揃うからと言うことである。
だが、今この場には自分と彼女しかいない。
「…………先ほど危険と申されましたが。それは、使役の際にも言えるのでは?」
「そうよ?」
「いや、ですから」
「私がいるから大丈夫よ」
「本当ですか?」
「何よ? 疑うって言うの?」
疑うわけではないが、彼女の場合は“失敗”ではなく、“ワザと”と言うことがたまにある。
亜人の身であるため身体は同年代よりも頑丈なのだが、それ幸いにと無茶をさせられることがたびたびあったのだ。
先ほどの言を考えれば、ふざけたりはしないとは思うが……。
「普段、散々弄ばれておりますが故」
「くうぅ、生意気~。それじゃあ、嫌でも安心させてやろうじゃないの」
「何をする気ですか……。うん?」
そんな他愛の無いやり取りをしていると、背後から人の気配を感じる。他者を近づけさせないように処理を施していると聞いていたが。
「あれは……」
そんなことを考えつつ、背後の気配に視線を向ける。すると、そこにあったのは予想外のそれ。
自分よりいくらか幼い少女が、藪中から姿を見せると、草原に倒れ込んだのである。
「おい、大丈夫か?」
慌てて駆け寄り、彼女を抱き上げる。
いまだ幼い身体であるが、それでも普通の子どもよりは鍛えている。少女を抱き上げるぐらいはわけない。
見ると、黒みがかった銀色の髪と白皙の肌が目に付く少女である。身体に傷が見当たらない所を見ると、森に迷い込んでしまったところをヒュプノイアの邪気にでも当てられてしまったのだろうか?
「何か、失礼なことを考えているでしょ?」
「とんでもない。それより、治癒を」
と、そんな不届きな考えはあっさりと見抜かれてしまう。慌てて取り繕い、ヒュプノイアの元に少女を連れて行こうとしたまさにその時。
「ちぃっ!?」
「うわっ!?」
急に表情を歪ませたヒュプノイアが自分達を抱き寄せると、凄まじい勢いで後方へと飛び退いたのだ。
何事かと困惑したものの、すぐに背中に感じる冷たい気配。殺気の類に似ているが、今のそれは、それ以上に得体の知れない薄気味悪い何かである。
「ラウネーっ、大丈夫か?」
「ええ。私を誰だと思っているの? ……まったく、この程度の力で私を殺せると思った?」
だが、それ以上に困惑させたのは、自分達を両の手に抱いているヒュプノイアの胸元から腹にかけて、三つの血の列が走っていることであった。
思わず、偽名で呼びかけてしまったのだが、ヒュプノイアの意識はそんな事よりも、背後から感じていた得体の知れない気配の方に向けられている様子だった。
「さて、まだ貴方じゃどうしようもない相手だと思うから、その子をしっかり守るのよ?」
「……わかった」
「ちょうどいい、実戦見学になるわ。しっかり見ておいてね? さあて……、来るがいいわ。邪神ルルーシア」
そして、自分と少女を岩影に連れて行くと、森の方へと視線を向けてそれまでにない妖艶な笑みを浮かべるヒュプノイア。
彼女が口にした邪神という名にも驚きはしたが、不意打ちとは言え魔王に傷を負わせる相手。一筋縄ではいかないとは思うが。
「それが、魔王と呼ばれるが故か」
冷静にそう口を開いた刹那、再び森の奥から凄まじい殺気。と、同時に周囲を劈く薄気味悪い咆哮が轟く。
刹那。ヒュプノイアが立っていた大地が鋭く抉られると同時に彼女は虚空へと飛び上がり、そのまま手の灯した光を森の出口へと向けて放つ。
激しい閃光が炸裂した森の入口。
そこから姿を現したのは、ボロボロの衣服を身に纏い、虚ろな表情と傷だらけの身体を引きずるようにしながら歩いてくる女性。
だが、虚ろな表情が示すように、口元から血を流す彼女があげた咆哮は、人のものとは思えぬほどに虚ろなそれであった。
一応、序盤の山場です。次回の主人公の活躍にご期待ください。