第5話
降臨した魔王は勇者によって討たれ、この大地に平和がもたらされた――というような物語はこの世界の歴史には存在していない。
ただ、“魔王”と呼ばれた女性を頂点として、法術を使役する力、“魔力”に優れたる人間達は“魔族”と呼ばれ、大多数を占める人間達と対立していたという歴史は存在する。
現在の亜人種に対する迫害の根底にはそう言った歴史的な背景があり、幾度となく戦乱を繰り返した結果が今の亜人種の地位に繋がっている。
そして、繰り返される戦乱に嫌気がさした魔族達は、“中原”と呼ばれる緑野を去り、辺境の地へと散っていく。
そして、魔族を統べる魔王もまた歴史の狭間に消えていった。
「で、今は神官の真似事をしながら、市井に暮らしているわけ。どう? 同情した?」
「同情して欲しかったら楽しそうに話さないでください」
草花芽吹く丘に並ぶように腰を下ろし、そう言って笑うラウネー、いや、ヒュプノイアと言うべきか?
とにかく、彼女の様子からは迫害や駆逐と言った過去に対するつらさや悲しみは感じられなかったのだ。
今も丘を撫でる風に黒き翼を靡かせている姿は、過去を懐かしんでいるようにすら感じられる。
「だって、別に悲しくないもの。中原の覇権とかそう言うものへの野心はないし、辺境に逃れた子達も、今じゃ多くが平穏に暮らしているしね」
「ではなぜ、姿を偽ってまでこの地に?」
「多くが。って言ったでしょ? 中には逃れられていない子もいるのよ」
そう言って、自分に対して視線を向けてくる。
「俺も、その一人だと?」
「そうね。でも、貴方は私の所にいる……、でも、中にはね……」
「奴隷、ですか」
「それだけじゃないわよ。私のように姿を変えて市井に紛れる者達もいる。何より、人間達だって似たようなものだわ」
「人間達も?」
「私が神官として神殿に仕えているのは、人々を縛る教えをどうにかして否定できないかと考えたから」
「つまり、一部の人間のせいだと?」
「そ。だからこそ、知己を得て同志を増やそうとしている。それでも、戦いと言う手段に討って出るには、はっきり言って私の力は大きすぎるのよ」
つまりは宗教とそれを実体化している教義のことを言っているのであろうか。
自分に対するカリーヌの言動や他者からの忌避を含んだ視線もそれらが原因だと。
「大いなる力は、大いなる破壊を生んでしまう。人を殺めたり、大地を破壊したり、自然を犯してまで為すべき事とも思えないしね」
「勝手な言い分ですね。自分がヤル気になれないことを俺にさせようと?」
さらに言葉を続けるヒュプノイアに対し、やや口調がきつくなる。
魔族達を救いたいという思いもあるし、そのための手段を探ってはいるが、そのために戦いと言う手段に出ることが正しいのか。
ジレンマと言うよりは、価値観の違いと言えるのであろうか。
とにかく、感情として救いたい気持ちがあっても、事を為した際の災害を考えれば果たして為すべき事なのかという疑問が湧いてきてしまうのだという。
だからと言って、それでは自分に対して破壊や殺戮を押しつけているようなモノではないか。
「そうね。でも、無理強いはしないわよ。ただ、貴方が決行しようとした際の助けになればと思っているだけ。勝手な見立てだけど、あなたはいずれ、人々のために立ち上がると思っているわ」
「買いかぶりすぎでは?祖父や貴女の助けがなければ、生きることも敵わない小僧ですよ?」
「そう? 見たところ、変革とかその類のこと……いや、自身の手によって大業を為すことに対する野心は透けて見えるわよ? 同時に、それを表に出さずに押さえ込む術も持ち合わせていることをね」
「ご冗談を…………」
自分の苛立ちを察したのか、宥めるように語りかけてくるヒュプノイア。
そして、先ほどまでの飄々とした態度を改め、鋭い視線を送ってくる。
まるで心の奥底までを見透かされているかのように思える視線に、思わず目を逸らしてその言を否定する。しかし……。
(生まれ変われるなら、自分に正直に生きてみるか……)
と、遙かに遠き過去となった独白が脳裏に浮かび上がる。
否定はしてみたものの、本心では、彼女に看破された野心なるものが渦巻いているのであろうか。
「ま、いいわ。それはあなたが決めることだもの。考える時間はたくさんある。で、話は変わるけどね、ちょっと困ったことになったのよ」
「困ったこと?」
「中央から招聘されることが決まったの」
「それは……、おめでとうございます」
「ありがと。ま、嬉しくなんか無いんだけどね……言いたい事が分かるわよね?」
「ええ」
静かに思考の渦に埋まっていた自分に対し、ラウネー、いや、ヒュプノイアは、優しく微笑むと今度は困ったような表情を浮かべはじめる。
理由はすぐに分かり、この地を離れることが決まったためだと言う。
中央からの招聘。
彼女は自分への教育を担当すると同時に、神殿内部でも神官長の補佐から、各種の職務、法術に関する様々な研究結果をもたらすなど、地方神殿にあっては過ぎたる人材であるのだ。
それが大いなる目的の為とは言え、中央から正式に評価される事になったのだ。
本人は固辞したようであるが、組織に属する以上、自身の希望が最後まで通ることなど稀である。
だからこそ、この地を離れる前に教えられることは教えておきたいのであろう。
「ただ、神官長にはオルフェノ閣下を通じてあなたの事を頼んでもある。私がいなくなってすぐに迫害されたりはしないと思うけど、身を守るための手段としても学んでおくことも必要よ」
「法術をですか?」
「それだけじゃないわ。時間の許す限り、私のすべてを教え込むから、覚悟しておくことね」
そんな自分の心情を知ってか知らずか、再び笑みを浮かべてそう告げてくるヒュプノア。
だが、その笑みもまた、背筋に冷たいものを走らせるには十分なほどの底知れぬ何かがそこにあった。
「知識として教えることはないとおっしゃいましたが?」
「それは、ラウネーという女の立場での話。魔王としての教育は終わっていないわよ?」
「はあ、俺は本格的に人類の敵ですか」
「何よ、人類って……」
魔王から得る知識。
彼女等にそんなつもりはなかったとは言え、人間が脅威に感じるだけの叡智がそこにはあったのだろう。
現に法術を学ぶ過程で神殿を通さずに刻印を宿すことは、異端と受け取られかねない。だが、ここまで生きて来れたのは彼女のおかげであるのだ。
それに、自分を迫害した世界に対する恩などはない。“魔王”と呼ばれようと、罪無き人を救おうと考えるのならば、それを否定する理由は何も無いのだ。
「こっちの話です。それで、印を得るのに司教猊下からの下賜が必要無いとは?」
「こういうことよ」
そこまで考えて、話を戻すとヒュプノイアも頷き、手の平を上に向ける。
すると、それまで何も無い空間に光が集まりはじめ、それが次第に滑らかな形を作り出していく。
そして、光が収まると、彼女の手には一つの水晶球が浮かんでいた。
「それは?」
「雷の刻印とその封印水晶よ。冷静を装っておきながら、激情を心のうちに宿す貴方にはピタリよ」
「はあ。それで、どのように?」
正直なところ、彼女が法術……魔法めいた何かを目の前で使役する様を見る機会は少ない。だが、改めて目の前で起こったそれに動揺を抑えるのが精一杯とも言える。
「邪魔が入ることはないと思うし、時間の許す限り、やっていくわよ。覚悟してね?」
そして、不敵な笑みを浮かべたヒュプノイアにの言に、ゆっくりと頷く。これが、大望への一歩であるのならばやるしかない。
21時前後にも投稿予定です。