地下8階 プロローグ2:回想―ナナシ―
鉄を打つ音。
焔に照らし出される後姿を、もう何日もの間、見続けただろうか。
「何故泣く」
振り返らずに、鉄の音の中、老人が問う。
「……解りません」
その問いに自分は、幾分かは流暢になった言葉で答えた。
老人は鼻を鳴らすのみ。ただ黙々と鉄を撃ち続ける。
その後姿を、両の眼から溢れ出る滂沱の涙が滲ませる。
何故涙が溢れるのか。それがナナシ自身にも解らない。
「……解らないんです。でも、ただ涙が……」
ジョゼットは答えない。鉄を打つ音だけが響く。
ナナシはジョゼットの後姿を見る度に、胸を締め付けられる思いでいた。
一心に鉄を打つ姿に。一打、一打、魂を込めるかのようなその姿に、ナナシは心を揺さぶられていた。
ジョゼットは黙して語らず。
その鳴り止まぬ鉄の音が、ナナシには何故か、ジョゼットの悲鳴に聞こえてならなかった。
かぁん、かぁん――――――と、鉄を打つ音が今日もまた、響き渡る。
■ □ ■
ナナシが名を授けられてから半年。
名の授け親でもある老いた神父は、魔列車を乗り継ぎ、『地下街』へと赴いていた。
しばらくは二人で生活をさせろというジョゼットの言葉を信じ、神父は見守る気持ちで、今日こうして訪れるまで連絡も取らずにいたのであった。
地下街の端に位置する駅は、かつての商いの中継基地としての機能を未だ保持している。魔物に襲われるリスクに眼を瞑っても、この運輸ルートを潰すには惜しかったのだろう。此処から後は徒歩である。
瓦礫に埋め尽くされたような町並みには、以前の面影は少しも見え無い。所々から魔物の鳴き声が聞こえてくる。魔物の予測ルートをやり過ごしながら、神父はこんな場所に居を構える偏屈な友人と、彼の新しい家族となった少年を想い、苦笑を浮かべた。
ジョゼットの住宅である工房に近づいた時、神父の耳が、何か、おかしな音を捉えた。
んぎぃぃいいぃぃ――――――。
それは唸り声だった。
人間の、苦悶の声だった。
「何だ……まさか!」
神父が駆け付ければ、正気を伺う光景が眼に飛び込んで来た。
そこにはナナシが居た。ジョゼットが居た。
ただし、ナナシの姿は異形と化していた。
全身に、鉄のジャンクパーツを括りつけて、山と化していた。
その総重量はいかほどか……重量上げの選手も二の足を踏むであろう負荷が、ナナシの身に掛かっていることは確かである。それをジョゼットが、何をするでもなく、冷たく眺めている。
神父が非常識な光景に硬直していると、ナナシの足から、乾いた音が。
足が三つに折れ曲がっていた。加重に耐えかね、縦に圧し折れたのだ。
「や、めないか! ナナシ君! やめるんだ!」
「邪魔をしないでもらおうか」
ジョゼットの神父を静止する声は、いっそ冷酷ささえ含まれていた。
「ジョゼット! お前、何を……彼に一体何をさせている!」
「うるせえな。これだからお前を寄り付かせたくなかったってのに」
大丈夫だとでも言う風にして、鬱陶しい蝿を払うようにジョゼットは手を振る。
二度目の乾いた音。
上がる悲鳴。
神父が駆け寄らんとすれば、ジョゼットが立ち上がり、その腕を掴んで止める。
「正気か! ジョゼット!」
「いいから、見てみろよ」
ジョゼットが指した地面には、淡い輝きを放つ文字が掘り込まれていた。
「これは、回復魔方陣、か……?」
それは神父の言う通り、『回復魔方陣』であった。ジョゼットが住居周辺にある空き地へと刻みこんだものだった。
魔方陣の輝きが強くなっていく。
ナナシの周囲へと光が集えば、とたん、フイルムを逆回転させたかのようにして、ナナシの足が捩れ、元通りに戻っていく。
回復魔術が作用した結果である。
だが。
「あぎぃぃいいぃぃええぇぇぁぁぁ――――――」
白目を剥き、涙と鼻水を垂れ流し、口から血のあぶくを吐くという、ナナシの苦しみ様。
回復魔術は本来、寸瞬の内に肉体の再生がされ、苦痛は伴わないはずである。
ではこの回復魔術は失敗しているのだろうか。しかし、回復魔術の専門家たる神父の見たところ、魔方陣は正常に作用している。
激痛の中、じっくりと癒されているのは、ナナシの側に異常があるからに違いなかった。
「これは、一体……」
「……魔方陣ってのは、それそのものが力を持つ。注ぎ込む魔力さえ確保すりゃ、誰が書いたって変わらねえさ。俺のような放神を行った者でもな。
あれは俺が冒険者だった頃の奥義……低レベル帯の者なら即座に全快する回復魔方陣だ。だが、見ての通り。効き目は薄い」
「やはり、彼がスタンドアローンであることが影響しているのか?」
「それもあるだろう。だが俺は、この現象を引き起こしてる根源は、別の所にあると思うぜ」
「馬鹿な、彼には新たな名を与えたはずだ。加護を得たはずだ」
「俺経由で、な。俺が受けたんだ。あいつは何も得られちゃいないさ」
薄らと笑うジョゼットの顔は青白く、生気が感じられない。
神父の喉が唾を嚥下し、自然に、鳴った。
「魔方陣や結界のような、使い手が存在しなくても発動するタイプの魔術は、神様の承認下で制御されてるだろう。神意……言い換えりゃ、世界の意思ってやつだ。そいつに異物だと判断されたんだろうぜ」
「だが、彼には新たな名を与えたはずだ」
「だから、根源なんだろうさ」
「根源……」
「さあてね……何休んでんだナナシ! さっさと立たねえか!」
「ジョゼット、お前まだ!」
「手出し無用! 黙って見ていてもらおうか。これはあいつの、ナナシの望んだことだ」
意識が混濁しているのだろう。
神父の来訪に気付きもせず、ナナシはジョゼットの叱咤の声に悲鳴を上げて立ち上がる。
顔面は情けなく歪み、泥と体液に塗れて、見れたものではない。
だが、ナナシは立ち上がる。
「なぜ、こんなことを彼は望む。苦痛ばかりじゃないか!」
「強くなりたいんだとさ」
詰らなさそうに鼻を鳴らし、ジョゼットは答えた。
「この街の地下には、蟻の巣状に迷宮が張り巡らされている。中心部から円状に封印が施されているが、どうしたって見落としは出るさ。街から出るには、そこから漏れた魔物達を相手にせにゃならん。
どうあったって、生きていくには少しでも強くならなけりゃいけねえ。あいつが言い出さなきゃ、俺から扱いてやってたさ」
「だが、彼は戦神の加護を受けられない。レベルは0のままだ。強くなるだなんて……彼の努力には何の意味もないじゃあないか!」
「だから、鍛えてる」
神父はジョゼットの言葉が理解できなかった。
ジョゼットは続ける。
「意味がないと、そう思うんなら、思っておけ。今だけなのさ。日に日に回復魔術の効きが悪くなってきてやがる。異物認定を受けつつあるからだろう。異物は排除されるのが当然だ。
だから、今やっておかなきゃならねえ。今だけだ。今だけなのさ……」
そう言って、ナナシを見詰めるジョゼットの眼は異様な輝きを湛えていて。
神父はその危うい輝きを知っていた。忌避すべき執念が込められた眼を。
「お前は、まさか……まだ諦めていたかったのか! お前は、まだ、まだこんなことを続けて! 私はナナシ君がやってきて、やっとお前が救われたと思ったんだ! お前に新しい家族を、神が与えてくれたと」
「黙れ」
吐き捨てられた言葉に、神父は口を噤むしかなかった。
「狂っているぞ、ジョゼット。お前は狂っている」
「何を知れたことを。俺がとうに正気じゃないなんて、放神をした時から解っていたことだろう」
「お前の狂気にナナシ君を巻き込むんじゃない!」
「そうさなあ……」
その瞳はナナシを通し、どこか遠い場所へ。
記憶の彼方へ――――――。
「俺がどんな無理難題を押し付けても、あいつは嫌な顔一つしないんだよなあ。体がぶっ壊れるまで痛めつけても、泣きながら、それでも止めやしねえ。
もう解ってるだろ。俺があいつを拾ったのは、親切心からじゃねえ。あいつを置いてやってるのは、あいつを“パーツ”に使うためだ。それをあいつも解っていやがる。
だってのに、理不尽な目に合ってるってのに、ジョゼットさんジョゼットさんって、にこにこしてよ……。なあ親友よ。なんであいつは俺を嫌わないんだ? 憎まないんだ? なあ、何でだろうな……」
「ジョゼット……お前は……」
「あいつがどの道を行くかは、それはあいつ自身が決めることだ。俺はただ力をくれてやるだけさ。そう、それだけだ」
背中ぐらいは押してやってもいいがな、と。
神父を流し見るジョゼットの眼には、もうあの危うい輝きは灯されていなかった。
代わりに、深い、星の明るい夜の海のような、大きな慈しみが宿されていた。
神父は何も、言うことが出来なかった。
■ □ ■
巨大な目玉を中心にガス状の身体を持つ魔物が、壁一枚を挟んだ向こう側で、獲物を探してその大きな眼をぎょろつかせている。
確か、『フローターデビル』という魔物であったか。
戦うのならば逃げの一手しかないが、やりあうつもりはない。
魔物達の巡回ルートから逃れるようにして、ナナシは廃墟の影を静かに進んで行った。
「にんじんに、じゃがいも、醤油……はこの世界にないんだった。砂糖に、小麦粉に……よし! 書き忘れはないな」
手元のメモに視線を落とし、ひとり言ちる。
ナナシの名を授けられ、早一年。
ジョゼットから苛烈な訓練を受け続けたナナシは、今では一人でこの魔物が徘徊するゴーストタウンを出歩ける程にまで、“生きる術”を身に付けていた。
この一年でナナシの顔つきは精悍に、破壊と超再生を高速で繰り返された肉体は、ジョゼットに劣るとはいえ、いずれは鋼の体躯になる予感を感じさせる鍛えられたものへと変化した。
一年前まではただの少年であったナナシは、今はたくましい青年へと成長を遂げていた。
筋力トレーニングに始まりサバイバル訓練、一般教養から身体医学まで網羅した座学、魔術知識、魔物の特徴、そして護身術の実践。
元冒険者であったというジョゼットが課す訓練は、実用性重視の方向に偏っていて、そのどれもが尋常なものではなかった。
だがその全てにナナシは耐えた。こなせはせずとも、耐え抜いたのである。
「レベルに、冒険者かあ。なんだか遠い世界の話だよなあ……」
戦神の加護などないために、【レベル】として経験が還元されることはない。しかし、この一年の経験は間違いなくナナシに、自信を与えてくれた。
用心深く魔物の死角へと潜り込んでいく所作には、当初のおどおどとした様子はもはや欠片も残っていない。
「肉は冷凍してあったし、ソースも作れるよな。うん、今日の献立は異世界風にくじゃがに決定だ。ジョゼットさん喜ぶぞ」
ジョゼットが務めてしかめっ面を作ろうと努力しながらも、料理の旨さに顔を綻ばせる様を想像し、ナナシは笑みを浮かべた。
青年とはいうものの、その顔にはやっと少年の域を抜け出たかのようなあどけなさを残している。
にっこりと浮かべる笑顔は、見る者にナナシの純朴なイメージを印象付けた。
外見だけでなく、物静かで素直な態度であったナナシである。老若男女問わず人気が上がるのは自然なことであり、隣町では年配中心に「ナナちゃん」の愛称で呼ばれるまでにもなっていた。田舎で子供が大人達に可愛がられるのと同じだろう。
鍛えられ男を感じさせる体付きへとなっていくにつれ、交際や縁談を持ちかけられたことも、一度や二度ではない。
やたらと世話焼きなおばちゃんたちのお節介は、正直なところありがた迷惑であった。
市民権は得ていたため、結婚するには法的にも何の問題もないのだが、どうしても二の足を踏んでしまう。
この世界の人権というものは基本的に金で買うものらしい、ということをナナシが知ったのは、ジョゼットからひょいと市民証を投げ渡された後のことだった。
人の生き死にが激しいからか、戸籍制度が甘く、書類による身分証明という概念があまり重要視されてはいないのだ。
つまりは、異世界からの来訪者も、金さえ払えばこの世界の住人として認められてしまうということだ。
市民権とは端的に言えば税を納めているか否か、との証明のようなものであったが、これがあるなしでは利権が大きく違うのは言うまでもない。
特に獣に近いタイプの亜人族、遺伝病の発露とも言われる獣頭人身種達にとっては、市民権の取得は文字通り死活問題だった。
亜人族は大別して二つに分けられる。
天魔族を代表する一般で言われる意味の亜人族である、人間に近い容姿を持つ純亜人種と、獣頭人身種だ。
亜人族の中には魔物と見間違うような容姿を持っている者だって居るのだ。市民権無しで迷宮付近をうろついていたら、それこそ魔物として退治されかねない。
見た目が獣に近いタイプの亜人種、ベタリアンにとっては笑えない話だ。
なまじ神が実在するせいで宗教というものの力が強く、当然種類も多数あるのだ。元来日本人であったナナシにとっては、八百万信仰は馴染み深いものであったが、頂けない部分も存在する。
宗教多数化による“人種”差別だとか、民族格差だとか、そういった弊害も少なくはなかったことだ。
全ての宗教で尊ばれるのは、「平等」だとか「平和」だとかである。それはどこの世界でも変わらないだろう。
しかし、これらを履行するためには優れた知性と理性がなければならない。
そうなれば、ベタリアンが社会的ハンデを負い易いのも解ると言えよう。彼らは自分の意思とは関係なしに、本能が表出してしまうことがあるからだ。
猫がネコじゃらしに飛びつくのと同じである。結局は身体のハンデの問題になってしまうのだ。
流れる血が違うのだから、ヒトは皆平等である、という前提が通らないのである。
しかし魔物とヒトとの違いとは、明確な知性が有るか否かであるために、もし魔物と間違われても「やめてくれ」の一言で解決する問題だった。そのはずだった。
人里に住まうベタリアンに知性が無い訳がなく、もっぱらこの問題は冒険者となった亜人種に付きまとうものであるらしいのだが……。
なので一般の生活レベルでは、そこまで深刻な問題ではない、というのが社会的認識であるらしい。
虐待が行われている訳でもなく、奴隷層だって存在しない。ただ、身体の形でヒトを判断するものが居るだけだ。
「悲しいもんだねぇ」とは、ナナシが通う八百屋の女将の弁。彼女もまたベタリアンだった。
初め、ナナシは彼女の風体を見て大いに驚いた。どこからどう見てもウサギにしか見えないのだ。二足歩行で人語を解する、という違いはあったが。だが彼女は巨大なウサギであった。
差別はいけないことだ、と皆知識では解っているのだろう。だが、これまでに築き上げてきた文化と歴史が、人に何をかをさせるのだ。
これは地球でも変わらないことだった。
ともあれ、市民権とはどちらかといえば保証書に近い意味合いを持つものであるということが、ナナシの理解するところであった。
異世界ともなれば、制度も大きく変わるらしい。ナナシも噛み砕いてようやく理解できた程度であり、細部までは解らない。
勘違いしている部分や、足りない部分が多々あるだろうことには、気をつけておかねばならないだろう。
一人で商いの盛んな街に買い出しに行けるほどに成長したナナシだったが、出歩くたびに住人から声を掛けられていた。これも、ナナシの感覚の違いを、物珍しく思われているからだろう。
今日だって、富豪の娘に茶の席を共にする誘いを受け、それを丁重に断ってきたところである。
「まったく、僕……“俺”みたいなボンクラのどこがいいんだか。まあ、日本人が珍しいだけだろうけどさ」
ジョゼットに「舐められる」と矯正させられた口調で言い直しつつ、黒髪を指先で弄る。ぼやく言葉は流暢だ。ナナシはこちらの世界の言語をマスターしていた。
多種多様な『人種』が混在している世界だからか、ナナシのように純人族でいて黒髪黒目であるものは珍しかった。
人目を惹くわけではないが、魔術的な用途で価値が高いらしい。それにはナナシも驚いた。
初めの頃は、そちらの方面でひっきりなしに声をかけられていたくらいだ。
上手くあしらう術は身に付けたが、色仕掛けといった方面で攻められるのには参った。何やら自分の精が良質な魔法薬の材料になるのだとか。
そんなこともあってか、ナナシはこと女性の好意に対して「自分が珍しいから勘違いをしているだけ」と間違った認識を抱くようになってしまっていた。
無理矢理に、そう思うことにしていた。
「あーあ! もててえなあ! どっかに可愛くって純心な娘っていないかな。こう、猫耳とか生えてて、メイド服着て、お帰りなさいませご主人様ーって言ってくれる娘とかさ」
サブカルチャー好きだったナナシも、元いた場所ではまともに女性と付き合ったことなどなかった。
独り言がかなり偏っていることからも、それは解るだろう。青春に掛けるべき時間は、ほとんどが漫画やテレビや、男友達とつるむことに費やされていた。
経験不足と、誤解。そして、言葉の壁。
これらの理由のせいで、ナナシは女性に関してやたらと鈍い奴になってしまったのである。そう言い訳できるように、なったのである。
まともな男であったなら、顔を赤くして「もう少しお話していたい」と上目遣いに見上げて引き止める富豪の娘に対し、「八百屋のタイムサービスが始まったから帰る」などとは返さないだろう。
先にふさふさとした毛を生やした龍尾をしょんぼりと丸めてしまった富豪の娘は哀れであったが、ナナシはそのままあっけらかんと屋敷を後にしたのであった。
やんごとなき血筋の龍人にその様な物言いをしたと知ったら、皆真っ青になったこと間違いなしだ。
それが許されるのは、単に全く悪意が無いことを先方が理解しているからだ。そして、若干の嘘が含まれていることも、彼女は理解していたはずである。
純朴、悪く言えば天然で鈍いのだから、彼女にしてみればこれほど厄介な手合いはいないだろう。
「うわ、もうこんな時間だ。早く帰らないと、ジョゼットさんカンカンだぞ」
ナナシに強く異性を意識させるには、まずナナシがジョゼットを越えねばならないだろうか。
命の恩人ということもあり、ナナシはジョゼットに精神的に依存するようになっていた。
ジョゼットもジョゼットで、厳しい訓練に喰らいつき与えた仕事も良くこなすナナシをますます気に入ってしまい、仏頂面で甘やかすのだから始末が悪い。
あれで気難しい爺を気取っているのだから、周りの者からしてみれば微笑ましい限りだろう。
ジョゼットの過去を知らなければ、だが。
「あ――――――」
かぁん、かぁん――――――と、鉄を打つ音。
ジョゼットの工房から、廃墟に虚しく鉄を打つ音が響いている。
ナナシはふと足を止め、静かにその音に耳を傾けた。
他者と会話が出来るようになり、廃墟の街を一人歩きできるようになったナナシは、隣町での買い出しついでに情報収集にも務めるようになった。
例えば現在の国の国政。通貨価値。物の名前とその用途。人と人との関わり方。マナー。
そういった、ジョゼットのように実用一辺倒ではなく、日常生活を送る内に身に着く社会的知識を、ナナシは意欲的に取り入れていった。
当然その中で、噂話というものも耳にする機会があった。
普段ならばナナシも気にも留めなかっただろう。
だが、その噂が耳に飛び込んで来た時、顔色を変えずにはいられなかった。
ナナシの意識を釘づけにした噂の内容。それは、ジョゼットに関する話であった。
曰く、ジョゼットはかつて名うての冒険者だった。
だが十六年前の『地下街』出現の時、ジョゼットの家族も巻き込まれ、彼を残し皆魔物に殺されてしまった。
ジョゼットは息子夫婦と、それはそれは可愛らしい孫娘と共に暮らしていたが、目の前で魔物に喰われてしまった。
毎日祈りを欠かさないほどに敬虔な神聖教徒であり、神聖教の加護の下にあった街に家を建てたが、祈りを捧げていた神は彼らを見捨て、魔物を遣わした。
だからジョゼットは神を憎み放神をして、力を捨て去った。
彼は神への復讐のために、憎しみをこめて鉄を打っている――――――。
――――――噂話を要約すれば、こんなところか。
悪意に基づいた噂ではなく、哀れみを向けたものであるのが救われない。
かぁん、かぁん――――――と、鉄を打つ音。
ナナシにはそれが、ジョゼットの叫びに聞こえていた。
仇を討つ、仇を討つ……と。
「ジョゼットさん……」
無心に歩いて来たからか、気がつけば工房の扉に手を掛けていた。
鉄を打つ音が、徐に止まる。ジョゼットは小休止に入ったようだ。
ジョゼットが行っている作業は、日本刀を鍛造するのによく似ていた。だが何を作っているかは解らない。
ナナシも何かの機械部品の作成は飽きるほどに手伝わされたが、あれが何に使われるのかはよく解らなかった。
人工筋肉など、元いた場所では実用化さえされていなかったというのに、用途を想像しろと言われてもそれは無理だろう。魔物との闘争があるためか、ナナシのしる科学技術よりも、こちらの科学技術の方が進歩している箇所も多々あった。
噂話しから察するに、ジョゼットが何を作っているのかは、何となくは感じられる。
工房の片隅で、日々“カタチ”になっていく、あの鋼鉄に全ての“パーツ”は使われるのだろう。
ジョゼットがナナシに決して鉄を打つ作業を手伝わせなかった理由。それだけは解っていた。
きっとジョゼットは、怒りを、憎しみを、具体的な形として産み出そうとしているのだ。だから雑念が含まれてしまっては、いけないのだ。
そうしなければ、身体の内側に燃える復讐の炎で、自らが焼き尽くされてしまうから。
ナナシは思う。あの鋼鉄を全て組み上げてしまったら、ジョゼットは少しでも楽になるだろうか。
「……ジョゼットさん、ただいま!」
頃合いを見て、ナナシは勢いよく扉を開けた。
「おう、帰ったか。もう腹ペコだ。さっさと飯作ってくれや」
「うん、ほら見てよ! 今日は野菜が安く買えてさ――――――」
ナナシは、いつかジョゼットが苦しみから解放されてほしいと、そう願った。
そのためには、早くこの鋼鉄を完成させてもらわなければ。それの手伝いができるのなら、何でもするつもりだった。
そうして悲しみが全て消え去ったジョゼットと、新しい生活を送れるのなら、自分は幸せだ。
ナナシは“本心”に蓋をして、ジョゼットとのこれからの暮らしを想いながら台所へと向かった。
そんな未来、来るはずがないというのに。
クレーンに吊られた鋼鉄の人型が、虚ろな双眸でナナシの背を見つめていた。
■ □ ■
あくる日のことである。
いつもならこの時間帯は鉄を打つ音が聞こえてくるというのに、嫌に静かなことに疑念を抱いたナナシは、ジョゼットの邪魔にならないよう静かに工房の様子を伺った。
「ジョゼットさん!?」
そして、驚愕に目を剥くナナシ。
いつもと変わらぬむせ返るような熱気が立ち込める工房の中、ジョゼットが口元を押さえ、蹲っていたのだ。
「ジョゼットさん! どうしたんですか、ジョゼットさん!」
「……うるせえなあ、聞こえてるよ。耳元ででかい声だすんじゃねえ」
ジョゼットは鬱陶しそうにナナシを振り払うと、ふらつきながらも立ち上がる。
その時に口元を拭った手を隠そうとしてことを、ナナシは見逃さなかった。
ナナシは反射的に、ポケットに突っ込まれようとしていたジョゼットの手を掴む。
力が抜けた手は、簡単に持ち上がった。筋骨隆々だったジョゼットの力強さは、微塵も感じられなかった。
見た目に反して恐ろしく軽く持ち上がった腕に、ナナシの背筋を冷たさが駆け上る。
ジョゼットの掌には、赤々とした鮮血の跡が。
吐血を拭った跡だ。
「ジョゼットさん……こ、これ……!」
「ちッ……離せ」
「駄目だよ! お医者に行かないと!」
「うるせえ! 離しやがれ!」
「でも、血が!」
「鼻血だよ馬鹿野郎! 離さねえか!」
ぜえぜえと息を荒げながら、拳を振り上げるジョゼット。
殴られるか、とナナシはきつく眼を閉じた。
ジョゼットの拳の痛さは、身体が良く覚えていた。腕力に駆って出られては、こちらは何も出来ない。いつも一撃でノックダウンだ。
……だが、予期していた痛みはいつまでたっても襲っては来ない。
「……ジョゼットさん?」
うっすらと目を開ける。
「ぐ、ぬ……」
「ジョゼットさんッ!!」
ナナシには、床に沈んでいくジョゼットが、スロー再生のように見えた。
そこから先のことは、かすかにしか覚えていない。
まさか『地下街』に医者を呼ぶことも出来ず、頼る伝手は神父しかいないとナナシは急ぎ連絡を取った。無線の接続時間が嫌に長く感じられた。
神父が到着するまでの間ジョゼットをベッドに寝かせるも、唸るような咳と共に吐き出されたのは、また鮮血。
ナナシにはどうすることもできず、焦りが思考を塗り潰していく。
ようやく神父がジョゼット宅に到着した頃には、ナナシは憔悴し切ってしまっていた。
そして神父の手により僅かばかりの薬と、神聖魔法で応急処置を施したものの、どうやら容態は非常に悪いらしい。
聞けば、ナナシと出会う以前から、ジョゼットは病に犯されていたそうだ。
ここにきて急激に容態が悪化し、今後は定期的に薬と魔法による治療を続けなければ長くは持たない、と神父は唇を噛み締め、無念そうにそう言った。
その治療にかかる費用が、どうしようもなく高値であることも。
「そんな……」
「すまないが、援助はできないんだ……。神職に従事するものは、放神を行った者に直接金銭の工面をすることは許されていない。私に出来ることは何も無い。無念だ……」
ジョゼットは常日頃から金はあると豪語して憚らなかったが、それは半分正しく、半分間違っていた。
迷宮出現による被害者の遺族・被災者保険で、そこそこ大きな額の金が入って来ていたらしい。
しかし、ジョゼットはその大半を工房に注ぎ込んでいた。そして最近になってナナシとの共同生活と、市民権取得である。
高価な治療が、しかも継続的に必要だともなれば、直ぐに資金は底を着くだろう。
解決する方法はただ一つである。
ジョゼットの、もう一方の高額な継続的消費を止めさせることだ。
即ち、鉄を打たせないこと。
そうでなくとも、身体を休めさせなければならない。
だが、ナナシはジョゼットが止まらないだろうことを、知っている。
ハンマーを取り上げたとて、ジョゼットはたとえ素手ででも執念で鉄を打つだろう。
「どうしたら……」
唖然とナナシは呟いた。
「神様……」
こと己に限っては祈りが届くはずもないというのに。どの神に祈ればいいのかすらも解らないというのに。
ナナシは祈らずにはいられなかった。
その日から、ジョゼットは一日の内、床に伏せている時間の方が長くなった。
■ □ ■
日当たりのよい、白で統一された品のよいテラスに、一人の少女が座っている。
年の頃は十台前半であろうか。ナナシよりもずっと幼い、未だ幼女と言うべき少女であった。
こうして一通りの多い場にあったとしても、彼女の美貌が損なわれることはない。そう、幼さに不釣合いの美貌が、彼女にはあった。
風を受けて広がり、星を散らす金の髪。紅を引かずとも赤い唇。滑らかな肌。
彼女の凛とした強さを引き立てる赤いドレスの腰からは、先が毛に包まれた龍尾が飛び出し、憂鬱に空を泳いでいる。
調度品のような、人外の美しさを持った少女であった。
「お嬢さん」
そんな彼女へと近づいたのは、貴族然とした若者。
若者は手を差し伸べて、彼女の前に跪く。
「貴女はもしやかの高名な龍姫様では……? このような庶民が行き交う所におられては、お体に障ります。どうか、私に貴女のお屋敷まで、エスコートさせて頂けないでしょうか。
なに、ご安心を。決して下心などございませぬ。ただ、その太陽の如き髪の放つ輝きに憧れ、身を焦がすことだけはお許し願いたい。さあ、この哀れな男の手を取って――――――」
「あなた、死ぬわよ」
男を一瞥もせずして、少女は言い放った。
「は……は? はは、は。お、お戯れを。そのような」
「残念だけど、見得ているから。わたくしの眼に何が映っているか……あなたの未来、教えて上げましょうか?」
「ひ、ひひぃぃ!」
少女の冷え冷えとした視線に、男は悲鳴を上げて逃げていく。
ふん、と鼻を鳴らして少女は苛立ちを隠そうともせず、風を送っていた扇子をばちりと強く閉じた。
「まったく、根性がないったら。男ってなんて馬鹿なのかしら。あなたもよ」
「はは……すいません。でもちょっと今のあしらい方は酷いような」
「黙らっしゃい。半刻も遅刻したくせに口ごたえするなんて、良いご身分だこと。さて、どうしてあげましょうかしら」
「いや、その……すいません」
「年上でしょう。しっかりなさいな!」
そう言われても、と頬を掻いて、死角の席から立ち上がったのはナナシである。
この富豪の娘と出会って数ヶ月。
こうして街の様々な場所で待ち合わせ、言葉を交わすことがナナシと少女との約束であった。
少女の怒りを全面的に受け入れるナナシ。
年が離れていようが、待ち合わせに遅れてくる男は、絶対悪である。
「それで、宿題はやってきたのかしら」
「うん。この台本も、もうすぐ終わりそうだよ」
と、着席と同時にナナシが鞄から取り出したのは、一冊の本。
演劇の台本である。
「その様子じゃあずいぶんと進んだようね。あなたが勤勉でいてくれて嬉しいわ、ナナシ」
「先生の教え方が良いからさ。俺だけじゃ、こうはいかない。感謝してるよ」
「ふふ、ありがとう。その感謝は態度で表してもらいたいものですけれどね」
「いやあ、それは……まいったな。今度埋め合わせはするよ。絶対に、うん」
「約束する?」
「約束します」
「ならよし。でも、本当にすごい進歩だわ。たった半年でこんなにおしゃべりになれるなんてね」
「必要だから覚えられたって感じかな。未だ読み書きはあやふやだけど」
「完璧にされたらわたくしの出番がありません。さあ、今日の会話教室を始めましょうか」
「よろしくお願いします、セリア先生」
「はい、ナナシ君。今日も元気でよろしい。それじゃあ、宿題を出した箇所から、声に出して読んでもらおうかしら」
「ええと、庶民の騎士と……」
「そこはただの騎士、と訳すべきね。演劇なんだから、詩的に訳すの」
「うん。ただの騎士と龍の巫女、身分違いの恋、第六章――――――」
穏やかな日差しの中、静かな時間が流れていく。
周りの喧騒など耳に入らない。今はこの世界には、ナナシと少女の二人きりしか、いないのだから。
「――――――ただの騎士は言いました『君を、愛している』と」
「……もう一度、今の所を」
「ただの騎士は言いました『君を、愛している』と。『だから』、騎士はまた言いました」
「騎士の台詞だけ抜き出して」
「発音がおかしかったかな?」
「いいから、続けなさい。前半だけでいいわ」
「君を、愛している」
「……もう一度」
「君を、愛している」
「――――――!!」
唐突にがばりと机に伏せて、足をバタバタとばたつかせ始めた少女。
「ど、どうしたのお嬢様」
「な、なんでもない。なんでもないんだから」
「それならいいんだけど……」
「うふ、うふふふふ、さあ、続きをしましょうか」
「そのことなんだけど」
ナナシは台本を閉じて、申し訳なさそうにして少女へと頭を下げる。
「今日は、もう帰るよ」
「そう」
「ええと……もっと怒られるって思ってたんだけど」
「わたくしがこうしてあなたのために時間を削ってあげているというのに、遅刻して、さらには時間を繰り上げて帰りたいだなんて言ったから?」
「うぐ……!」
「ふふ、ごめんなさい。冗談よ。怒ってなんていないわ」
ふわりと優しく笑う少女に、ナナシは眼を奪われた。
どうしてこう、この少女は可憐なのだろう。
「本当は今日、あなたの顔を見た時から解っていたもの」
「……それも、『龍眼』の力なのかい?」
「乙女の勘よ。まあ、あなたは顔に出やすいんだもの。何かに悩んでいる事くらい、直ぐに解るわ」
「そんなに、解りやすかったかな」
「ええ、とっても。ねえナナシ。わたくしが何か、手伝えることはない?」
頬に添えられた年下の少女の手に、ナナシの涙腺が緩んでいく。
だが、この手に縋り付くことは出来ない。
少女が貴族に名を連ねる者であるが故に。
貴族とは、最も神に愛された者達であるが故に。
「ごめん、自分でなんとかしなきゃいけないことだから」
「……そう。何かあったらわたくしを頼りなさい。安心なさいな。あなた一人……いいえ、あなた達二人くらい養うことは」
「そこから先は、言っちゃあだめだよ。お嬢様」
「意地っ張りなんだから。でもね、忘れないで。わたくしはいつでも、あなたに差し出す手を開いているわ」
「……ありがとう。それじゃあ」
「ええ、また、いつもの時間に。ここで」
富豪の娘の誘いを断ったナナシは、彼女と別れ、ふらふらと街を歩いていく。
その足取りは重く、顔色も優れない。
八百屋の女将が「どうしたの、ナナちゃん?」と声をかけて来ても、ナナシは生返事を返すだけだった。
先の少女と会っていた時も、ナナシの頭の中は、どうやって金を稼ぐのか、という思考で一杯だった。
小康状態を保つジョゼットの世話に、街に買い出しに来る機会の多くなったナナシは、一層情報収集に励んでいた。
もちろん金儲けのヒントを得るためだ。
当初ナナシは自身の持つ知識から、新たに商売でも始めようかと思っていた。だが、見通しが甘かったと言うしかない。
神の加護が実在するこの世界、物理に依る技術というものは、非常に非効率なものだったのである。
文明レベルが地球と変わらない程に……否、それ以上に発展していたことも、ナナシの思い違いに拍車をかけていた。
そもそもが、それに掛けている時間が違ったのだ。
地球での科学技術というものは、短期間の間に爆発的に発展した。
だがこの世界の科学技術は、数千年を掛け、ゆっくりとだが着実に進歩してきたのだ。魔術の影に隠れて。
密度の薄さを時間をかけることによって発展させていった形である。
純物理に依る科学技術というものは、もはやカビの生えた経典と同じ意味合いを持つものでしかなかったのだ。
そう、世は魔道科学時代の成長期にあった。
ナナシの知識や発想は既に時代遅れのものであり、自身の根幹を成す常識はまったく通用しなかったのだ。
これにはナナシは大いに狼狽した。
ある意味、ここに来て直に魔物に襲われた経験よりも、衝撃的だった。
人は自身の知識によって支えられているものなのだ。それがまるで無意味だと知らされたのならば、アイデンティティは崩壊の危機を迎えるだろう。
ナナシはなまじ知識を半端に持っていたがために、それによって自分にアドバンテージがあるものだと勘違いしてしまっていたのだ。
これにはかなり堪えた。
しかし、もちろん分別は忘れてはいなかった。
令嬢からの援助の申し込みを受けても、ナナシはそれを受けることをしなかった。プライドだとか、そんな問題ではない。
「あの良家の子女は、どこの馬の骨とも知らない男に援助をしている」などと噂が立てば、彼女は苦しい立場に立たされてしまうだろうとも考えた結果だった。
手が震える程の葛藤だったが、ナナシの純朴さは、他者に迷惑をかけることを良しとしなかったのだ。もちろん、彼女と自分達の立場、地位を考えてのことでもある。
それに、女を泣かせたとあってはジョゼットが決して許しはしないだろう。
「手前ぇ、女を泣かせやがったなあ? 歯喰いしばれや! 俺があれだけ漢道を叩きこんでやったというのに、お前は――――――」
口を開けば、きっとこう言うだろう。
病の床に伏せっても、ジョゼットのナナシに対する態度は変わらない。
以前のような体中に漲っていた力強さは失われたものの、眼の輝きだけは失せることはなかった。
流石に訓練は無くなったものの、口だけは寝ていても開けるぞと小言だけは欠かさない。
そして日々、ベッドから抜け出しては鉄を打つ。
ナナシには、それを止めさせることはできなかった。
止められるはずも、なかった。
「どうしたものかな……」
治療の初期費用として、まとまった、それも大きな額の金が必要だ。
更にはそこから先も、継続的に費用は重む。
それだけの安定した額を稼げる職など、ナナシには全く心当たりがなかった。
いっそギャンブルでもしようかと思い詰めたくらいだ。
八方塞がりである。
「『冒険者』にでもなろうかな……」
ナナシが知る中で、もっとも稼ぎが大きいだろう職が、自然と口を突く。
ジョゼットの話の中で度々登場する、『冒険者』とよばれる職だ。
彼らは自らの命を掛け、迷宮に潜り、富や名誉を手にする者たちだとジョゼットは言っていた。苦々しく、吐き捨てるように。
それだけを聞くのならば、ギャンブルと変わりない。
いや、もっと割に合わないだろう。
だが、何も冒険者の仕事が迷宮探索だけというわけではなかった。
もしそうなら今頃迷宮は人で溢れかえっているだろう。
冒険者がこなす役割というのは、迷宮探索だけではなく、ギルドと呼ばれる組織に寄せられる依頼を請負うことも含まれていた。
依頼は大小、種々様々。
例えば「犬の世話をして欲しい」、「迷子の子猫探しを」、「子供の勉強をみてやってくれ」、「商隊の護衛を頼みたい」等々。上げればキリがない。
つまりは冒険者というものは、何でも屋ということだ。その一環で迷宮に潜るのである。
雇われ傭兵やギルド所属の戦士達との違いは、迷宮探索に掛ける時間の多さだけらしい。
そして、人の世にトラブルは付き物である。冒険者となれば、危険は伴うものの、金銭面に限っては安定するだろう。
自分がそれに見合う実力があれば、の話しだが。
必要なものは最後のひと押し。決意だけ――――――。
この時ナナシは、愚かにもそんな事を思っていた。
冒険者というものをまるで知らないがための、無知から来る考えであった。
この時のナナシを、更に一年後のナナシが見たならば、簡単に冒険者になってしまおうなどと考えていた楽観的すぎる自分を、殴り飛ばしてやりたくなっただろう。
知らずにいたのだ。恒常的に命の危険に晒されるという恐怖を、金に目が眩んだ人間の狂気を、名声の裏に潜む悲劇を。
まるで知らずにいた甘ちゃん、否、話を聞いただけで知ったつもりになっていた大馬鹿野郎だったのだから。
「金、欲しいなあ……」
「ははあ、そうですかそうですか。お金が欲しいのですねぇ?」
「えっ? うわっ!」
どうしようか踏ん切りが付かず、願望のままに一人言ちていたナナシは、急に横合いから声を掛けられ飛び上った。
「いやはや、いやはや。すみません。驚かしてしまったようですねぇ! クァッカッカッカ!」
「ちょっと、あの! 耳元で大声出すのやめてくれませんかね!」
「失敬、失敬。大丈夫ですかねぇ?」
男が此方を興味深そうに覗き込んでいる。
黒の帽子にくたびれた黒のスーツ、さらにはほつれた黒のコートと、全体的にくたびれた格好。
頭の上から爪先まで全身黒一色で、帽子の隙間からはくすんだ灰色の髪が覗いている。
顔のハリからみるに、二十代後半から三十代前半といったところか。
まだ年若いというのに片眼鏡を愛用しており、やたらと特徴的な出で立ちの男だった。
季節も少しばかり暑くなってきたともなれば、長身も相まって、街中で出会ったら自然と人目を突くだろう風体だ。
だというのに、ここまで接近されるまで、ナナシは男の存在に気付かなかった。
くたびれたサラリーマン風の男など、この街にはそぐわぬ格好である。上の空だったとしても、こんな異様な格好をしている人物だ。気付かないはずはないのに。
近づいた男の顔には、これといった印象が無い。ともすれば、直ぐにでも忘れてしまいそうなくらいの存在感の薄っぺらさだった。
「あの、何か御用ですか?」
「いえいえ、いえいえ。偶然にも貴方様の一人言を小耳に挟んでしまいましてねぇ、はい。是非とも私めが仕事の斡旋をして差し上げようかと存じまして、はい」
「仕事、ですか?」
「ええ、ええ。その通りでございます」
大仰に帽子を取り礼をする男の仕草が気に入らなかったが、話の続きを促す。
「一体どんな仕事なんです?」
「簡単でございますよ。ええ、本当に本当に簡単ですとも。ただ『地下街』の封印点の写真を撮ってきて頂きたいだけなのです」
「地下街の?」
「その通りでございます。もちろん、お代ははずまさせて頂きますよ。私、こうみえても太っ腹でしてねぇ、クァッカッカッカ!」
はて、とナナシは首を傾げた。
『地下街』は、国から百害あって一利なしと封印処理を施された迷宮である。
魔物以外の資源、武具やアイテムといった物資の生産機能が潰えていたための処置なのだが、それは別段珍しいものでもないはずだ。
大陸各地に点在する迷宮は、数こそ多数ではないものの、しかし十分に各国を賄えるだけは揃っている。
その中でも資源的側面から見て特に優秀な迷宮は、国管よって理し運営されていた。その迷宮には国家冒険者のみしか立ち入ることが許されておらず、内部を迷宮防衛専門の兵士達が巡回することで管理がなされている。
大規模な迷宮の喚起もなく、資源の奪い合いのための戦争もない昨今では、もっぱら兵士の役割といえば迷宮巡回であり、彼らもまた冒険者と変わりない迷宮探索のスキルを求められるようになっていた。
そんな兵士達の手によって迷宮は管理・調査され、そこに辿り着くまでのルートや、採掘される資源量を比べた結果、その迷宮を封印するか否かが決定されるという。
つまりほとんど資源の採れない『地下街』は調査の末、有益な迷宮ではないと判断されたということだ。
そんな迷宮は腐るほど存在するし、そも調査の結果として封印されたのだから、今更映像資料を撮っても意味はないだろう。
一体何故か、とナナシは不思議に思った。
「おおっと、申し遅れました。私こういうものでして、はい」
言って、男は懐から名刺を差し出す。
訝しみながら受け取ったナナシは、数十秒の時間を掛けてそれを解読した。
この世界の言語は、この国に限っては話し言葉は会得したが、文字様式は未だに完璧と言うには程遠い。
何とか最低限の読み書きが行えるようになったのは、お嬢様の教育のおかげである。
「ええと……ルポライター、なんですか?」
「その通り! 私、月刊冒険者の冒険情報担当、ジョン・スミスと申しますです、はい」
「……偽名? いや、違うか」
「はい? なんですか?」
「ああ、いえ。何でもないです。……これも文化差ってやつかな」
「それでですね、いやいや、まずは謝罪しましょうか。実はあなたが『地下街』の住人だと聞きまして、ここで張っていたんですよ」
「はあ、そうですか」
スミスの話はこうだ。
今月号の特集として、封印された迷宮についての記事を書きたいらしい。
タイトルは決まっているそうで、封印されし迷宮に出没する霊の影、鎧に宿った美少女の幽霊は涙を流すのか――――――云々。要するにゴシップ紙だそうだ。
『地下街』は封印処理を施されてはいるものの、出入り口が街のそこかしこに開いてしまっている特殊な迷宮である。
街中どこから魔物が出没するか解らず国も管理を放棄したのだが、兵士の監視の目がないことがジョンにとって都合がよかったのだろう。
封印点は地表にあり、その中心までは一般人であっても、ノーチェックで入り込むことができる。
問題は一般人では魔物が徘徊する街を抜けられない、という一点だけだ。
そこでナナシにお鉢が回って来たらしい。
「聞けば貴方様は地下街からこの街まで日常的に行き来しているのだとか。失礼ながらお強そうでもなさそうですし、これは秘密のルートでも知っているのではないかなと思いましてね」
「秘密のルートなんか無いですけど、まあ、コツを掴めばどうにでもなりますよ。かくれんぼと一緒です」
「それはそれは素晴らしい! では私めを助けると思って、どうかお願いできませんかねえ?」
「でも、ジョゼットさんに、封印点は危ないから近づくなって言われてますし……」
「そうそう、そのジョゼットさんですよ!」
「えっ?」
「お身体、お悪いんでしょぉう? 噂になっていますよ。もう長くないんじゃないかって、ねえ?」
「……それは」
「大丈夫、お代ははずみますよ。ほうら、前金はこれくらいでどうですかねえ?」
スミスが示したのは、大金であった。
前金でこれだけなのだ。仕事を無事こなし全額受け取れば、数ヶ月は持つ計算になる。
ナナシの答えは一つしかなかった。
「……その仕事、受けます。やらせてください」
「いやはやいやはや、喜ばしいことだ! ではさっそく今日、これから行ってもらいましょうかね!」
「報酬の方は……」
「それはもう、もちろんですよ。ほうら、前金ですよ。どうぞ、お受け取りを」
「こんなにも……ありがとうございます!」
ナナシはスミスからカメラを受け取ると、礼を述べて札束を上着にねじ込み、仕事についての細やかな指示を受ける。
スミスに手を振られながら、来た道を急ぎ駆け戻るナナシ。
その顔に、笑みを浮かべながら。
やめろ――――――!
行くんじゃない――――――!
そう、此処ではない何処かで。今ではない何時かの自分が叫んでいた。
だが過去の映像に声が届く訳がない。
無慈悲にも、『ナナシ』はナナシの後姿を見つめるしかないのだ。
夢の終わりが、近付いていた。
■ □ ■
過去の映像の中、ナナシの知覚が及ばぬ所。
作りもののような笑みを浮かべるスミスの足元で、影が“ぬるり”と蠢いた。
「おやおや。誰かと思えば、貴方ですか。どうしたのです?」
「……ジョン・スミスだなどと、神の名を騙るとは不敬極まるとは思わないのか?」
「未だ、と、いずれ、が抜けていますよ?」
「いいのか? あのまま彼を行かせてしまっても。死んでしまうかもしれんぞ?」
「クァッカッカッカ! なるほどなるほど! 彼が心配ですか! これはこれは、貴方も一端の聖職者だったようだ!」
「茶化すな。彼が死んでしまっては、元も子もないのだぞ」
「やれやれ、今回は特に噛み付いて来ますねえ。彼がそんなに気に入ったのですか? それとも私が、産まれ来る最も新しき神の名を騙ったのが、気に入らないのですかねえ?」
「……後者だ」
「彼を気に入ったとは言わないのですねえ。ま、いいでしょう。それにしても『ナナシ』ですか。これも運命というのでしょうねえ」
「まさか神と等しい意を持つ名だとは、な……」
「クァッカッカッカ! そもそもかの神も我らの頭の中だけ、理論だけの存在でしょうに! 神に名付けるなど、なんという不敬であるかと、便宜上無名の神と呼んでいるに過ぎないというのに!
ああ、彼も可哀そうなものだ。これからの彼の運命を想えば、ここで死んだ方がきっとずっと楽でしょうに!」
「そうなっては困るのだ……! 今すぐに連れ戻せ。これでは急過ぎる!」
「まあまあ、先延ばしにしたって彼が力を得るわけでもなし。無意味でしょう? なら早い方がいいに決まってますよ。それに心配ご無用。最悪、彼が死んだとしても、困ることはないはずでは? だって、ねえ?」
「……何が言いたい?」
「|また代わりを喚べばいい《・・・・・・・・・・・》だけですからねえ! クァッカッカッカ!」
「き……さま……ッ!」
「神の道を歩むものは皆尊い。ですが今の段階で信仰を捧げたとて、どうなるというのですかねえ? いやはや滑稽滑稽! 信仰は盲目ですか!」
「おのれ、今度こそ引導を渡してやろうか!」
「おおっと! 怖い怖い。私はこれにて退散しましょうかねぇ、クァッカッカッカ! それでは、我らが新たなる神に幸あれ! クァッカッカッカ、クックックカカカカカカ!」
スミスが手を突いた物影の影が、“ぬるり”と蠢く。
次の瞬間、スミスの姿はどこにも見当たらなかった。
ただ鴉の鳴き声のような狂笑が響くのみ。
蠢く影達を、ナナシは知らない――――――。