地下6階
朦朧とする意識の中、青年はふと疑問を抱いた。
はて、自分は何故ここにいるのだろう。
視界に写るのは、一面の赤。まるでペンキをぶちまけたかのような有様で、赤い水たまりの中心に自分は沈んでいる。
それが血だと解ったのは、鼻を突くむせ返るような臭いから。胸が詰まり、吐き気がする。しかし同時に、嫌に嗅ぎ慣れた臭いだな、とも思った。そんなこと、あるはずもないのに。
今どのような状況に置かれているのか。周囲を見渡そうにも、身体はまるで鉛のように固まり、指一本動かせない。
いよいよもって訳がわからない。自分は何故、血の池に沈んでいるのだろうか。
確か、コンビニで弁当を買おうとして、売り切れに悪態を吐きながら代わりにおでんを選んで、下宿先に帰ろうとしていたはず、だが。
「……ぃ……ん……」
「え――――――?」
「ななしさ……けませ……」
声が聞こえた。
か細く、今にも消えてしまいそうな声で、誰かを呼んでいる。
かろうじて聞こえる声から察するに、声の主が読んでいる人物の名が「ななし」というのだけは解った。
それ以外は意味のない音の羅列だ。
いけませんいけません行ってはいけません戦ってはいけません死んでしまいます死んではいけません死んではいけません――――――。
壊れたラジオのように「ななし」に向けてのメッセージを発し続ける声。
「ななし」と呟かれる度に、青年は恐怖を感じた。まるで、自分が自分でなくなってしまうような不安が広がる。
この世界の中、たった一人きりで放り出されてしまったような孤独感。果たさねばならない責務を放り出してしまったような、どうしようもない罪悪感が胸の内に飛来する。
恐怖と焦りを原動力に、青年は震える首を持ち上げた。
血の混じった脂汗が、額からぼたぼたと落ちていく。たったそれだけの行為に、全力を絞らねばならなかった。
顎先を流れ落ちる赤い汗を見て、青年は気付く。そうか、この血溜まりは、自分の身体から流れた血で作られたのか。
なるほどそれならば合点がいく。血の抜け切った手足は冷たく、身体は鉛のように重く、思考は錆ついたように鈍いのだから。
自分が何をしていたのか――――――誰だったのかも、まるで思い出せない。
頭一つ分高くなった視点で周りをうかがえば、目に入るのは、またもや赤一色。幾分か乾いた水面が、岩肌を写していた。
その血溜まりに沈むように、手が、足が、頭が、目玉が、幾つもの人間のパーツが転がっている。
やはり、見慣れた光景だとしか思えなかった。なぜ自分はこんな惨劇を見慣れていると思ってしまったのか、それも解らなかった。
次に目に入ったのは、何本もの針のようなものに串刺しにされた人間だった。
いや、あれは本当に人間だろうか。肌の色は青く、半ばから折れた角を頭から生やしている。腰からは何のものかは解らない尻尾が、力なく垂れ下がっている。
光を失った金色の瞳が虚空を見つめていた。濁った目をしているのだから、もう何も見えてはいないのだろう。薄く開かれた口からは、延々と呪詛のように「ななし」に向けた言葉が紡がれている。声の主はこの人物だった。
悪魔のような風体のこの人物は、体中から長い針を何本も生やし、まるでハリネズミのようになっている。針を伝って流れる血は収まりつつあったが、それはこの人物の体内に流れ落ちるほどの血液が、ほとんど残っていないことを表している。
壁に縫い付けられ奇怪なオブジェと化してもなお、「ななし」を呼び続けている。意識はもはや無いのだろう。消えかかった意識の中、自動的に声を発しているだけだ。
見るに堪えず視線を下せば、その足元には鳥頭の人間が倒れ伏していた。
針から滴り落ちる血を受けるように横たわる鳥頭は、節くれだった腕の片方がもがれ、片腕となっていた。傷跡から無理やり引きちぎられたことが解る。鳥頭も傷の断面から噴き出す血は、下方に収まりつつあった。血が体内に残り少なくなってきているからだ。こちらも危険な状態だった。
鳥頭は二人分の血だまりの中、こちらに向かって無念そうに手を伸ばして倒れていた。
這って進もうとでもしたのか、血が地面と擦れた跡が続いている。しかし途中で力尽きたのだろうか、その手は土を握りしめていた。
青年には鳥頭の心情が、なぜか理解できた。
鳥頭は自分に向かって救いを求め手を伸ばしたのではない。その逆だ。何とかして自分をここから逃がそうと、必死になって這って来たのだ。
青年は無性に泣きたくなった。
「ななし」に彼らの言葉は届くまい。青年はそれを知っていた。
青年の知る「ななし」は、迷宮に挑み続けることを決めてしまった男だった。例え仲間が力尽きたとしても、自らが倒れるまで、歩みを止めることはない。
倒れた仲間の声は、「ななし」の耳に入ることはない。仲間の声に振り返ることはない。その歩みが止まることは、ないのだ。
「ななし」が迷宮に潜ることを諦めるのは死ぬときだけだと、青年は言い切ることが出来た。これも、何故そう言えてしまうのかは解らなかった。
最後に視界に飛び込んできたのは、化け物の姿だった。
獅子の頭、蛇の鬣、猛禽類の上半身に、爬虫類の下半身、そしてコウモリの羽。
おおよそ自然界には絶対に存在しないだろう、何かの意思によって造られた、醜い化け物の姿だった。
化け物は口元からぴちゃぴちゃと粘着質な音をたて、何かを一心不乱に舐め上げている。
少女だ。
化け物の長く伸びる尻尾でもって、片足を逆さ吊りにされた少女がいた。
頭から突き出た対の獣の耳に、今は弛緩して垂れ下がっている尻尾。少女もまた、人間とは違った容姿をしていた。だが青年は、またもその少女に見覚えがあると感じた。
少女は酷い有様だった。
その下半身を守る薄布は引き裂かれ、本来少女の未来の恋人にしか見ることは許されなかったであろう部分が露出してしまっていた。片足のみで吊られているのだから、その部位は大きく開かれ、余計に強調されている格好だ。
しかし青年はその光景に劣情を覚えることはなかった。青年が抱いた感情は、むしろその真逆に位置するものだった。
嫌悪である。
それが、あまりにも醜悪な光景にしか見えなかった。
なにせ、化け物が少女の股ぐらに顔を突っ込み、ソコを丹念に舐め上げているのだから。
青年には化け物が何をせんとしているのか、考えたくもなかったが、想像がついた。“まぐわう”ための下準備だろう。化け物は、少女を自らの種を残すための母体にしようとしているのだ。
化け物に自身の中心を舐め上げられてなお、身体中の力が抜け弛緩しきった少女は反応を返さない。返せない。
周りの残飯に比べ、少女の身体には目立った外傷もないことから、麻痺毒を喰らった可能性がある。少女を傷付けずに気絶させられるほど化け物は器用そうでもなかったし、あの鬣となっている蛇達は、確か神経毒を持つ種類の蛇だったはず。
何であるにしろ、この場に居る全員が全員、直にでも治療が必要な程に危険な状態であることには変わりない。
自分を含め三人は血を流しすぎているし、少女だって化け物が五体満足無事なままにしておく保障もない。極端な話、胴体と頭さえ残しておけば、子を為すことは出来るのだから。
むしろ繁殖が目的ならば、そちらの方が都合がいいだろう。
少女を美しいままに残しておくのは、化け物の趣向である以外には無いのだ。
おぞましいまでの。
「あ――――――うぅ」
少女の口から、苦悶の呻きが漏れる。
依然として意識が戻ってはいないものの、その顔は苦痛に歪んでいた。きっと、悪夢でも見ているに違いない。青年は少女を哀れに思った。
だが、少女を哀れに思ったとしても、自分はどうすることも出来ない。
立ち上がることさえままならぬ様では、少女を救うことなど出来はしない。
青年にはそれが、歯噛みするほどに悔しかった。
そして理解した。自分は悪魔のような風体の人物と鳥頭がやられているのを見て激高し、あの化け物と戦い、そして負けてしまったのだと。
濁った頭で現状を把握し終えた青年の胸に湧き上がった感情は、怒りだった。
化け物に対する怒り……そして、自分に対する怒りである。
化け物に向けた憎悪と同じくらいに、青年は自分を殴り殺してやりたくなった。
弱い。
あまりにも弱い。
こんな所で倒れている無力な自分が、全く我慢ならなかった。
何故自分には、力がないのか。
処理しきれない憤りが暴れ狂う。だが、それでも立ち上がることは出来なかった。気合でどうこうとなるには、青年の身体はダメージを受けすぎていた。青年は、常人ならば既に死んでいておかしくはないくらいの傷を受けていたのだ。
先の咬合で、肺に一撃。化け物の鞭のようにするどい前足により、青年の肋骨は圧し折れ、肺を貫いていたのである。青年がかろうじて生きているのは、『鎧』による生命維持装置の働きに依るものでしかなかった。
青年がやられ、そして冷静さを欠いた少女は、化け物に至極あっさりと捕縛されてしまったのである。
少女が犯されんとしているのは、自分のせいだと青年は思った。
何とかして少女を助けてやりたいと、青年はあがく。
血が抜けた身体は冷たく、心臓の鼓動は弱く、関節は砕けて動かない。
無様に蠢きながら、それでも青年は諦めなかった。諦めたくないと思った。
そして、どうにか立ち上がろうと試行錯誤していた甲斐あってか、左腕がぎこちなく持ち上がった。
鎧に包まれた無骨な左腕。
右腕とは違い、左腕には厳重な封印処理が施されていた。何重にも巻き付けた鉄板がボルトで打ちつけられ、拘束具と化している。
リミッターとしての拘束。左腕が持つ機能は青年には耐えることが出来ないのだ。一度放てば最後、物理的に青年の拳は「弾丸」と化す。放たれた弾は、二度と戻ることはない。よって容易に使用出来ぬよう、封印が施されていたのである。
だがそれも言い訳だな、と青年は自嘲した。
左を当てることが出来たのなら、間違いなく一撃の下にあの化け物を屠ることは出来ただろう。だが、結果として自分は倒れ伏している。
恐れたからだ。
途惑ったからだ。
失うことを覚悟したのなら、前足などと局所ではなく、あの醜い腹を狙うべきだったのだ。
相手の手足を狙ったのは、あるいは衝撃の反動が軽ければ、自分の腕が無事に済むのではないかと、ほんの一欠けらでも思ってしまったからだ。
捨て身の一撃として備え付けられた機能であったはずだ。一片の残心もしてはならない。覚悟も無く扱えば、破滅を招くのは当然のことだ。
たかが左腕一本の犠牲を恐れたために、全滅の憂き目を見ることとなったのだ。
後悔しても、もう遅い。死に向かう体では、どうしようもない。
血溜まりに沈む自分が出来ることといえば、せいぜいが“嫌がらせ”くらいだ。
青年は、少女の股の間に身体を割り込ませた化け物に向けて、そのまま左腕を伸ばした。
左腕部の下、ちょうど手首の部分に取り付けられた射出機から、ワイヤーアンカーが射出される。
高速で飛来するワイヤーは、今正に少女の体内に潜り込もうとしていた化け物のイチモツへと、何重にも絡みついた。
化け物が醜い絶叫を上げる。
いくら見た目が恐ろしかろうが、急所は変わらないんだな、と青年は笑った。
口端から血のあぶくが零れ落ちた。
「……おいおい、そんな乳臭いガキとじゃなくて、俺と遊ぼうぜ。なあ?」
口を開くだけでも、かなりの体力を使う。
血の気が失せた身体が震えるのは、むしろ好都合と言えた。これは恐怖からくる震えではないのだと、自分を誤魔化すことが出来たからだ。
ワイヤーを切り飛ばした化け物が、憤怒の唸りを上げ、猛然と此方へ向かってくる。
加速の乗った前足の一撃で、青年は木っ葉のように宙を舞い、壁面へと叩きつけられた。
元から朦朧としていたせいか、痛みを感じず、意識も失うことはなかった。
手足がそれぞれ、てんでバラバラの方向に捻り折れてしまったというのに、青年は別段感想を抱くこともなかった。即死はまぬがれたか、と思う程度だ。
それよりも、少女に対する申し訳なさが勝っていた。
助けてやりたいと思っていたのに、結局何も出来なかった。
化け物のイチモツを絞めちぎってやれなかったのが悔やまれる。
「んぎぃ――――――!」
反射的に声が上がった。
化け物が青年の胸に足をのせ、ゆっくりと圧力を加えてきたからだ。鎧がメシメシと不協和音を上げて、歪んでいく。
じわりじわりと加圧され、ついに青年の胸部が、化け物の足の形に陥没した。青年の生身の防御力など皆無に等しい。
鎧の内側に影響を与えられるような攻撃は、青年にとって最も避けたいものであった。
青年のレベルは0なのである。魔物の攻撃を直接身に受けることは、そのまま死に繋がるのだ。
今の状況では、避けようもないのだが。
青年がようやく大人しくなったことを確認した化け物は、青年の身体をごろり仰向けに寝かせた。
青年と化け物とが見つめ合う。青年には、自分を見下ろす化け物の顔が、嘲笑に歪んでいるように見えた。化け物は明らかに侮蔑の視線を投げ掛けている。絶対者として、青年を見下しているのだ。
化け物の醜い顔が、青年に近づく。
顔面に生臭い臭気を孕んだ吐息が掛かり、悪臭を放つ涎が顔中に降り注いだ。
青年の顔面を覆っていたはずの鉄仮面は、その半分以上が砕けてしまっていた。仮面の隙間から除く青年の素顔。その額から流れる血を、ぞろりと舐め上げられる。化け物の顔が愉悦に歪んだ。
どうやらいたく気に入られたらしい。
自分は化け物の“メインディッシュ”にされるようだ。ならば、少女はデザートか。
その事実に、青年にはもはや怒りを覚えるだけの気力は湧かなかった。
諦めが心を浸食していく。
まるでエビの殻を剥くように、少しずつ丁寧に鎧を剥がされていく度に、青年は身を切られるような痛みを感じた。もう痛覚など、等に麻痺してしまっているというのに。鎧が傷つけられることに、たまらぬ激痛を感じていた。
やめてくれ。
そう叫び声を上げたかった。だが潰れた肺からは、ひゅうひゅうと空気が抜けていくだけだった。
“丸裸”にされた青年の目から、自然と涙が溢れ出た。
死にたくない、とは不思議と思わなかった。
ただ、悔しかった。無念だった。たまらなく情けなかった。
自分の冒険がここで終ってしまうことが、残念でならなかった。
化け物の顎が開かれる。
口内の暗闇に、吸い込まれていくかのような錯覚を覚えた。数瞬後、事実そうなるだろう。
鋭い牙が、青年の喉に触れる。
喉を喰い破られることを青年が覚悟した……その時だった。
『このまま理不尽に屈することを、良しとしますか? 【Yes or No】』
唐突に。
化け物の牙を喉に喰い込ませた青年の、片側の視界に、輝く文字列が表示された。
青年にとってその文字列は馴染みが深いものだった。それは鎧の設定時に用いるコンソール、網膜投射型ディスプレイの表示モニタだった。
兜に包まれたままの片側の視界へと、ノイズの奔るモニタが写されていた。
獲物が恐怖ではなく困惑により硬直していることを察知した化け物が、怪訝そうに顔を上げた。
最後まで抵抗がないのはつまらない、と言いたい風な態度であった。
『回答を入力してください。このまま諦めてしまいますか? 【Yes or No】』
青年は虚空に向って指を伸ばそうとした。しかし、砕けた腕は動くことはない。回答を入力することは叶わなかった。
獲物が急に生気を取り戻したことが気に食わなかった化け物は、獲物の頭を殴りつけた。
青年の頭部が、稼働域を超えて回転する。枝が折れるような、嫌な音が響いた。
二、三度青年は身体を激しく痙攣させると、そのままぐったりと身体を弛緩させ、もう動くことはなかった。
もはや化け物の前で、青年が動くことは、何かを思うことはないだろう。
折れ曲がった首に、骨に、血液が止まり、脳に酸素が運ばれることはなくなったのだから。
踊り食いを楽しもうとしていた化け物は、獲物の予想外の貧弱さに辟易とし残念そうに喉を鳴らした。
まったくもって、脆過ぎる。
だが最後まで怯えた表情を見せなかったことに、大きくプライドを傷つけられた気分だ。
首が圧し折られた今もなお、虚ろなその目には絶望を映してはいなかったことが解る。
不愉快だ、と化け物は前足を振り上げた。
こいつを喰うのはもうやめだ。粉々に踏みつぶしてやろう。
化け物の前足が、青年に向って振り下ろされた。
『――――――回答の入力を確認。全ては貴方の心のままに』
回答は入力されなかったというのに。
青年のコマンドを認証した、と文字列は、合成音声で承認の声を上げた。
はた、と化け物の足が止まる。
どこからか、声が聞こえてきたからだ。そしてその声は、多大な危険性を孕んでいるのを感じる。
何かが居ると、そうは解っていても、気配がない。
気配はないというのに、身を圧しつぶすようなこの威圧感。不可視の存在が居るのは確実だ。
声の出所に耳を向けるも、そこには獲物から剥ぎ取った“殻”の山だけだ。まさかコレではないだろう。
化け物は青年の身体に足を掛けたまま、周囲を注意深く見渡した。
隠れず出て来い、この迷宮の王者から逃げられると思うな。そんな意が込められた咆哮を放ちながら。
ある一点のみを、視界から外して。
『これより当機、機関鎧――――――ツェリスカは、自律行動を開始します』
化け物の死角で“何か”が立ち上がり、告げた。