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完全装鋼士 : レベル0  作者: ノシ棒
第3章 ―神撃編:放浪―
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地下58階:第3章・完


神父が地に墜ちた瞬間、ナナシの胸を激情が焦がす。

拳に感じる余韻でも、勝利が齎す安堵でもない。

憎悪のそれとも違う、地団駄を踏んで頭を掻き毟りたくなる程の、困惑と憤りだったのだ。


「なんで、どうして・・・・・・」


理解できない。納得できない。

ナナシは唇を噛み、叫ぶ。


「どうして“手を抜いた”んだ!?」


悲鳴にも聞こえる叫び。

両者の拳が交わる瞬間、極限に研ぎ澄まされた集中力が引き伸ばす永劫の瞬間の中、ナナシは見た。

神父がするりと軽く、拳の切っ先を落としたことを。肩の力を抜いたのだ。意図的に、間合いを逸らしたのである。

その瞳に浮かんでいたのは、慈しみであろうか。子供の成長を見守る親のように、満足気な微笑を浮かべてさえいた。

見間違いでは、ない。

本来ならば、横たわっていたのはナナシのはずだった。

奥義の“不完全連係”など、よほど頭に血が上っていなければ使用すら考えない暴挙だったのだ。

かつて、亡き師がそれを禁じ手としたのは、恐ろしい威力への忌避“からではない”。

元が未完の武術の集大成である無名戦術の、一つずつの用途に特化させた奥義を連係させるとなれば、その間には致命的な隙が産まれることになるからだ。

連係と銘打ってはいるものの、それは技の終わり際を省略し繋いでいるのではなく、放った後の態勢から比較的無理の無い構えが執れる技を繰り出しているに過ぎないのである。

これでは連係ではなく、単純に技を順次繰り出しているだけだ。

【無秒即災】が禁じられた最たる理由は、これを技として完成させるには、土台無理があったからである。

念を押した厳命はナナシへと釘を刺したつもりであったのかもしれない。その時から、予見していたのだろう。ナナシを若い頃の自分にそっくりであると評した老人である。ナナシが辿りつく所を予見するのは容易かったはず。

一撃が必殺の意を込めて放たれるべき奥義を、しかし全弾撃ち込むとなれば、それは過剰な威力を求めた以外にない。

即ち、憎悪を以て放たれる他はないのだ――――――と。

復讐の権化であった老人の、踏み留まれと言ったも同然の忠告に、どれだけの想いが込められていたのか。今となっては解る術はない。

あるいは、最後の瞬間まで己を貫き通した者がふと漏らした、悔恨の嘆きであったのかもしれない。

お前もいずれ、俺と同じ存在になるのだ、という。


「答えろ! どうして!」


「が、ぐぐっ・・・・・・ご、ぼっ・・・・・・」


「答えろ・・・・・・言え!」


不完全な連携奥義でもって、神父並みの“武”を誇る実力者を相手取ったならば、それは自殺行為でしかないのだ。

命を捨て勝利を、それも不確定なそれを掴むための捨て身の技だった。

【無秒即災】、相手は死ぬ。そして、己もまた、死ぬ。

本懐を遂げるためだけの自爆技。

だが、生き残ったのはナナシだった。

神父の体は既に死に体も同然だったが、しかしナナシは構わず、襟首を掴み上げて揺すり起こす。

明らかに致命傷である。

当然だ。

必殺の一撃を六発も撃ち込まれたのだ。死なねば、人の道理から外れている。それが例え、いかに高レベルの“自動回復補正”を受けていたとしても、

それでも即死には至らなかったのは、神父のその生涯を捧げ鍛え上げた肉体のためか。


「み、見事、だ・・・・・・」


神父は血を吐き散らしながらも、緩やかに唇を緩めた。

青ざめ、あらゆる毒気が抜け落ちた顔は、侵せざる神聖なものに見える。今ならば、彼を神父であると称すことに、何の違和感も感じない程に清く、潔く。

唇の隙間から濁った朱に染まった歯が覗いた。


「これならば、成し遂げられるかもしれん・・・・・・」


「何を言って・・・・・・」


「聞きなさい、ナナシ君」


神父の視線がナナシを射抜く。

知性溢れる眼差しは、初めて出会った頃のようだった。

ナナシは反論に口を開いたが、結局二の句を告げず、黙り込むしかなかった。

このまま一言も口を開かせずにすり潰してやりたい。だが不思議な事に、身体は全く別の動きを現わしていた。

声を発し易いよう、首後ろに手を添えて持ち上げてやるナナシの姿には、憎悪を感じることは出来ない。本人が戸惑う程に。

それは、技と共に吐き出されてしまったのかもしれない。

ナナシは解離する心と体を、戦闘者特有のどこか冷静な部分で計る。

ここまで来て、未だに情を捨てられない己が居た。


「奴等を直視することも出来なかった。あまりものおぞましさに気圧されたのだ。恐ろしさのあまり、指一つ動かせなかった。

 直接対峙した君ならば、解ってもらえるだろうか・・・・・・」


はい、といつかのように――――――言って気付き口を噤んで――――――初めて出会った頃の、教師と生徒の関係のように、ナナシは答えた。

神父が言う奴らの正体。

ナナシの脳裏に、暗闇に浮かぶ醜悪なオブジェに支えられた三つの脳髄の異形が浮かぶ。

カラスのように笑う男に連れられて行った先に、それは在った。居座っていた。神の像のように。

失せよ、と唯の一言。

唯の一言投げかけられただけで、お終いだった。

傷一つ付けられずにナナシは心を圧し折られ、魂の一欠片に至るまで凌辱され尽くし、なけなしの矜持までを踏み躙られた。

その後、物理的にも滅多打ちにされたのは、些細なことだ。それ以前に、ナナシは完膚なきまでに敗北していた。

ナナシは恐ろしさに泣き叫びながら、小便を撒き散らして逃げ出すしかなかった。

実の所を言えば、この数年間、戦火に炙られていた大陸中をナナシが放浪していたのは、精神の回復のためだったのだ。正気を取り戻すために無意識が選択した、精神の防衛機能に準じたからだった。

初めの一年はただ蠢くだけの物体として山野で過ごし、次の一年は食うことと襲うことしか頭にない獣となった。

その次の一年で、ようやくナナシは言葉を取り戻し、ようやく人里にまで降り現状を確認したのである。

正気に戻った時にはもう、何もかもが遅すぎた。

炎が全てを焼いていた。

あの残酷でありながら美しい世界は、見渡す限り、焦土と化していた。どこもかしこも地獄だった。ある種正常であった冒険者と魔物の弱肉強食の関係などとは程遠い、人が愉悦を以て人を殺す世界になっていた。

それはナナシがよく知る、産まれた世界で繰り広げられていた戦争であった。

どこもかしこも、戦火が覆い尽くしていた。

何かが焦げる臭いが鼻の奥にこびりついてとれずにいる。

未だに後悔してもし切れない。慕ってくれた少女一人守れなかった自分に何が出来たとも思えないが、それでも冒険者ギルドの一員として、戦って死ぬことくらいは出来ただろう。

この世界で自分は冒険者となることを決めた。

例え倒れたとしても、そうなる運命だったと受け入れる覚悟くらいはあった。

だが、冒険者として死ねず、生きる屍となる覚悟など・・・・・・ありはしなかった。

死んだ方がマシだとさえ思っていたのだろう。だから、神父との戦いで隙を晒すことを厭わなかったのかもしれない。むしろ、殺してくれと思ってすらいたのかもしれない。

あの脳髄が浮かぶ暗い神殿を思い出す度に、恐ろしさに背筋が震え、歯の根が合わなくなる。

湿った肉の腐る甘い香りが、何処からか漂ってくるかのようだった。


「だから言いなりとなったことは仕方なかった、などと言うつもりはない。何故なら、私は・・・・・・あれが恐ろしかった以上に、力を失うことを恐れたのだから。

 私は神父だった。力を失うと言うことは、神に見放されるということだ。そんなことは、耐えられなかった。私には、ジョゼットの様な強さはなかったのだ」


「そんな、ことは、あなたは・・・・・・」


「やめてくれ。頼むから、私を許さんでくれ」


神父は同情を拒絶する。

自嘲の形に頬を歪めたのは、もう一度ナナシに、解っているのだろう、と言っているように見えた。

その通りだった。

言い訳は出来ないし、擁護することも不可能だ。

己の信仰のために、恐怖心のために、多くの罪なき人々を犠牲に捧げた男の言葉になど。


「後悔、しているよ。過去の己に会えたなら、迷わずに自分を殺しているだろう。だが、もし時を戻したとて、私は同じ選択をする・・・・・・信じてくれとはいわない、ここに暮らす人々を、私は大切に想っていた。それだけは本当なんだ」


「・・・・・・はい」


「ああ・・・・・・一体どうして、私は道を誤ってしまったのだろう。神父とは神の奴隷ではなく、駒でもなく、神に代って人々を愛するために在るのだというのに。

 どうして私は愛を忘れてしまったのだろう・・・・・・ああ、今ならば解る。“お前は”真の使徒だった。お前は人を愛するために、神から離れたのだから」


血を吐いて、神父はナナシの耳元へと顔を寄せた。

段々に声が小さく、細くなっていく。

ナナシは電源の落ちた兜を脱ぎ捨て、神父を抱き上げた。

モニタも補聴機能も死んでいるのだから、兜はもう邪魔でしかない。

外気に晒されたナナシの頬を、神父がぬるりとした血に塗れた手で撫でた。


「聞きなさい、ナナシ君・・・・・・聞いてくれ。私は奴らの真の思惑を知ってしまった。奴らの目的、それは、神となることだったのだ――――――」


「だから奴らは、その前段階として偽星を」


「いいや、違う。あれは、違う。違うのだ・・・・・・!

 あれは唯の一実験の結果に過ぎない。貴族連中の目を反らすための、ぶら下げた褒美に過ぎない。目くらましなんだ。

 奴らが『神降し』を頻繁に行う真の理由は、“神の降臨条件を探るためではなかった”のだ。

 その目的は、世界を膜のように覆ってたゆたう神を無理矢理に、幾度となく引きずりおろし、“世界の壁を薄くすること”にこそあった。

 そして今、現神として偽星・不死鳥が降臨してしまった。この大陸に限り、世界の狭間はとても狭くなってしまった。

 奴らが行ってきた実験の全てが、そこに繋がっている。君という存在も、また」


「待って下さい、それは一体、どういう・・・・・・まさか!」


「奴らの真の目的、それは――――――偽星・不死鳥を降臨せしめ、世界の壁に大穴を穿つこと。そして」


そして、と言い淀む。

神父の手が震える。

恐怖によるものであることは、想像に容易かった。


「天に穿たれた穴より、“異世界そのものを召喚すること”にあったのだ・・・・・・!」


「そん、な・・・・・・馬鹿な――――――」 


天を仰ぐ。

季節柄、星の少ない夜空が、もう十年も昔になる掠れた記憶を呼び醒ます。

あそこも―――――――“あの世界も”また、星の少ない場所だった。


「ここに喚ぶっていうのか・・・・・・」


ナナシの目には小さな星の瞬きが映されていた。

それはひっきりなしに行き交う車のテールランプと、何時までも消えないビル灯りを幻視させる。

ナナシの産まれ故郷だった。

もはや戻ることはないと諦めていた、己が魂が根差す星だった。


「『地球』を――――――!」


魔物も、魔法も存在しない。人間のみが支配する、人間による人間のための星。

青き水の惑星――――――『地球』。

球状に膨らんだ空が青の星となり、逆さになって墜ちてくるような、そんな幻覚がナナシの驚愕に開かれた眼には映っていた。


「ただ星を喚ぶのとでは訳が違う。

 異なる性質と法則を持った世界同士がぶつかり合うのだ。その際に生じる対消滅のエネルギーは、宇宙誕生のそれに匹敵するだろう。

 どちらの世界も無事では済まない。滅びは必至だ。そして、二つの世界が滅んだその後に、新たな世界が産まれることになる」


「つまり、奴らの真の目的とは――――――『宇宙創世』だっていうのか!」


そうだ、と神父は頷いた。

もうその瞳には、何の光も映されてはいなかった。

声から気力が消えていく。


「奴らはとうに概念としての神と化すことを諦めていた。いいや、元より目指していたものはそれではなかったのだろう。

 実質的な世界の支配者として君臨することがこそ、目的だったのだ。笑ってしまうな、実に人間的な欲望じゃあないか。神の道に至れないことも当然だ。

 既存の世界を対消滅させることで、新たなる世界を創造し、そこに神として君臨する・・・・・・。

 神を葬り、二つの世界を“ない混ぜ”にして、新しい宇宙を創るなどと、なんと恐ろしいことか。

 子共が粘土細工を何度も潰しては捏ね上げて遊ぶように、無垢で残酷な所業だ。それこそが奴らのメインプラン――――――第三計画『神葬廻天』の全貌だ」


「第三計画、プランC――――――『神葬廻天』・・・・・・」


ナナシの全身の毛穴という毛穴から、ぶわりと汗が噴き出した。

プランC――――――自らが発した呟きが、これほどまでに背筋を凍らせるとは。寒くてたまらないのに、汗が止まらない。

数年前にカラスのように笑う男から説明された事柄。それは懐かしさと共に語ることなど出来ようはずもない単語だった。

プランとは、大きく分けて二つだと思っていた。思わされていたのだろう。

プランA――――――『転生』プログラム。それは、地球より弾き出された“死にたて”の魂を捕獲し、成功例である堕天使のデータを元に人工的に強化したうえで赤子へと注入、様々な環境下に放逐するプラン。

プランB――――――『召喚』プログラム。こちらは抽出数に物をいわせることで解を模索するというプランである。データサンプリングのための、無作為抽出法だ。地球人をこちらに喚び墜とし、放逐するプラン。

プランBがプランAと大きく違うのが、人一人丸ごと肉体を保持したままこちら側へと呼び落とすことにあった。ナナシが異世界に転移させられた理由は、このプランBによるものである。無作為抽出であるのだから、ナナシが選ばれたのはただ運が悪かっただけであると、落とし穴に嵌められたようなものだ。

どちらも地球人の命を、魂を、単位としてしかみていない。

当然だ。これらは実験なのだから。

数を重ねることによって、神へと至る道を探っているのだろうと、ナナシは今までそう思っていた。

だが、違った。

もうずっと前から、答えは出ていたのだろう。

両プランA・Bでは、自らは神に至ることはないのだと。

偽星が天に発ってからの、不自然なまでのテンポの良い大陸統一に向けた流れは、いかに若き王が人を魅了する魔力を持っていたとしても、何者かがそう仕向けたとしか思えなかった。元々からそうなるよう根回しし、土台を作り上げておいたのだと。

悪夢染みた考えだが、恐らくはこれが正しいのだろう。今現在、大陸を包む動乱は、全てが茶番だったのだ。

自分の知る二つのプランは、これまで採取したデータに見落としはないかを探る、デバック作業でしかなかったということか。

プランC、この第三のプランこそが、本命だったのだ。

“世界に世界を挿入する”ことにより、“新たなる世界を孕ませる”という――――――。


「何だ、それは。巫山戯るな・・・・・・ッ! なら、地球人は、世界の穴を広げるための建築材だったのか!?」


ナナシは小煩く鳴く奥歯を噛み締めて黙らせた。

世界を“犯す”ことによって、上位者へ成り立とうとしているのか、“あれ”は。

何が『神葬廻天』だ。あらゆる神を葬り、天を掻き廻そうというのか。

それは神父の語る通り、子供が粘土細工をして無秩序な混沌を産み出すに等しい行いだ。いいや、それよりももっと悪い。無垢故の残酷性は、しかし確固たる意志を以て行われるのだから。

そして産み落とされるのは、醜悪な忌児でしかないだろう。新たな世界に産まれた人は、蟲のように蠢くことしか許されなくなるだろう。調和と秩序に満ちた世界に生きるということは、そういうことだ。自由意思の全ては剥奪され、人は生をプログラミングされることになるかもしれない。

いいや、むしろ奴らにとって、世界などどうでもいいと思っているのかもしれない。この場合の世界とは、人の生きられる世界ということ。奴らは人など、生きようが死のうがどうでもいいと考えているに違いない。何しろ新たなる世界なのだから、人は住まうには値しない存在であると見做しているのかも。

例え命が根こそぎ奪われた世界であっても構いはしないのだろう。

その世に君臨し、神となることが目的なのだから。

そうなれば、都合の悪い事実は、どうとでも改変出来ると思っているのかもしれない。

人を導き統べるのは、その後でもいい。自分の意のままに動く、人間の姿をした人間とは呼べない生物を作るのかもしれない。

もはや奴らの行動理念は執念や信念ではなく、妄念だ。

ナナシには解る。

奴らはやる。絶対にやる。

実現するか否かは問題ではない。現実性の無さも、未来性の薄さも度外視している。

それでも奴らは世界を犯すだろう。

始めからそのつもりだったのだ。

だから、より確実に世界への強姦を成功させるために、計画を練り続けていたのだ。

あの粘りつく視線、眼球は存在しないというのに確かに感じたそれを一身に受けたナナシは、たった今確信した。

世界が滅ぶ、ということを。


「本当にすまない、ナナシ君・・・・・・とても卑怯なやり方だった。君の行いに、大義を取って付けたのだから。

 だが、何者でも無かった君の存在に、今こそ意義が生まれたのだ。君でなくては、神に近い場所に立つあれを相手取ることは出来ない。倒す事など出来はしない。

 神に囚われることのない、君にしか――――――」


神父は息も絶え絶えに告げた。

例え踏み台としか見ていなかったとしても、偽星・不死鳥を呼び醒ますことに成功しているのだ。不死鳥に連なる様々な神から大神官並みの加護を得ているはず。

信じる心は関係がない。

神と人との間に構築されたシステムは、いかにして奉じるかという一点のみである。

悪魔染みているのかもしれない。儀式さえ行えばどのような思惑があったとしても、応える存在というものは。

何を捧げるのか、という、極めて経済的な関係。

そう、神は自らを助けるものを助く。そういうことだ。

そして神が最も力を与えた者は、自らを滅ぼすものであるとは、何という皮肉か。

全ては心より信じ愛するべき神が、システム的な存在であるが故に起きたのだ。

神は自らを助けるものに、力を与えるしかないのである。

ならば、もはやナナシにしか、それを滅することは出来ないだろう。

“この世界”の理から外れた存在である、ナナシにしか。


「戦え、ナナシ君。戦ってくれ、世界のために。これは、君にしか出来ないことだ。頼む、戦ってくれ。二つの世界に生きる、全ての命のために」


重大な宣告を告げられたナナシは、うう、と不明確な言葉を発し、唇を戦慄かせるしかなかった。

これまで何のために戦うのかも解らなかった男が、死ぬ理由をかつての友に見出して我武者羅に拳を振り上げるしかなかった男が、急に世界を背負って戦えと告げられたのだ。

押し付けられた責任と自分の器を遥かに超える大義に、ナナシは怒りを覚えることも出来ず、自失寸前となっていた。


「どうして・・・・・・どうして俺に、全部押し付けるんだ」


「君ならば必ずやり遂げると、そう信じているからだ」


「己を貫けもしなかった貴方が、信じているだなどと! それを言うのか!」


「そうだ。なぜならば君は、“あいつ”が全てを託した男だからだ。私はもう、自分の信仰も、自分自身さえ信じてはいない。

 だが、あいつのことだけは変わらずに信じている。それだけなんだ。あいつの弟子である、君を信じるには、十分な理由なんだ」


「無理だ・・・・・・無理だって! 俺は逃げ出したんだ! 全部を捨てて、逃げ出したんだよ! 泣き叫んで小便を漏らしながら逃げ出したんだ! 

 戻って来たのも死ぬためだ! 逃げ延びた罪悪感に目を瞑るためだ! クリフのためだなんて、自分を正当化させるためだけの誤魔化しだ!

 俺はきちんと死に切れる理由が欲しかっただけなんだ! あんなのに人間が勝てる訳ない、あんな・・・・・・“化物”に!」


「そら、解っているじゃないか、“化物である”と。私はね、あれと対峙して、“頭を垂れた”んだ。

 ひざまずいて、祈ったんだ。抱いたのは恐怖ではなく、畏怖だった。まるで神を目の前にしたような気分だったよ。

 私は自分を恥ずかしく思う・・・・・・あの薄暗い部屋を思い出す度、恍惚に耽ってしまう自分を。君に全てを押し付けなくてはならない私が」


言葉を次ぐ度に薄くなっていく神父の気配を、ナナシは腕の中に感じていた。

これが最後の呼吸となるだろう。


「そろそろのようだ・・・・・・あいつに殴られてくるとしよう」


「あの人の所には、行けませんよ。あなたは、神の下へ召されるんだ。神を捨てたジョゼットさんと同じ場所へ、往くことはできない」


「そうか・・・・・・そうだな。どうして私は“神の教え”ではなく、“神の力”に縋ってしまったのだろう・・・・・・」


「今更後悔したって、もう遅いんですよ・・・・・・」


「すまない、ナナシ君。すまない、すまない、子供たちよ。すまない。すまない。すまない・・・・・・」


すまない、と。

そう繰り返される謝罪は、吐息が止まるその瞬間まで続くだろう。

知らず、神父を抱く腕に力が籠った。

後悔と未練を残しながら死んでいくことは、ナナシとてとうに覚悟はついていた。しかし死ねば全てから解放されるとも思っていた。

死ぬためか、生きるためか、何をかの理由を探すために放浪していた。

虐げられる者達のために戦って、親友のために死力を尽くして、その末に力尽きたならば、それは仕方のないことだろうと。自分がこの世界に生きた意味は、それで十分となるだろうと。

そのために、たくさんの命を奪ってきた。

わけもわからぬ自分のために、闇雲に。

だからこうやって、全てに詫びて死んでいくことだけは、出来ないと思った。

己に意味を見出さなければ、この拳にかかって消えていった命は、いったい何だったというのか。

死ぬ覚悟を取り上げられ、屍のごとく生きる羽目になった。

無為に生ける覚悟は出来てなどいなかった。

そして、今――――――。

これからどうしたらいい。どうすべきか。

天を仰ぐ。

夜の帳の中、少ないが、それでも燦然と散りばめられた星々が輝いている。星の光を受け、一層と紅く輝く巨大な星・・・・・・偽星・不死鳥は、変わらずに宙に佇んでいた。


「神を・・・・・・墜とさなければ――――――」


あの星を墜とさねばならない。

ナナシは砂を掴んで、空を睨む。

友のためであると言い訳をし、死ぬ事に理由を求めていただけの時は終わる。

虐げられた者達のために戦ってきたのも、また。

言うなれば、失敗すればそこまでだと始めから諦めていたのだ。むしろ道半ばで斃れることこそ願いだったのだ。

だが、もうそれは許されない。

為さねばならない。

『神殺し』を――――――。


「すまない・・・・・・すまない・・・・・・」


神父の吐息が細くなっていく。

手の中にある神父の身体が一瞬強張ると、全身から力が抜け、重く冷たくなっていく。

終わりの時が近づいているのだ。

ナナシは言い表せぬ心境でもって、神父の身体を抱きしめた。

名付け親なのだ。

ナナシ、と名付けられたその時に、この世界に居てもいいのだと、そう許された気がした。

名と、始まりと・・・・・・そして今、終わりを託されたのだ。

神父が語った真実は、恐らくはカラスのように笑う男からの情報だろう。

鵜呑みにしてもいいのか・・・・・・否、ここまで来て、今更疑うか。

“誰も彼もが”、何かの思惑でもって動いている。きっと、“この世界のため”に。

残酷で悪辣な手段でもって。

神の降臨によって世界を隔てる壁に孔が穿たれたというのなら、その神を墜とし元在った座へと還したならば、孔は塞がれるのだろうか。

月を覆い尽くし天に輝く巨大な星を睨み付け、その輝きの中にほんの少しの陰りを見付けた。


「本当に、すまない・・・・・・君をここで、殺してやれなくて・・・・・・そうすれば、あんなものなど、見ずに済んだだろうに・・・・・・ずっと、こちらの様子をうかがって・・・・・・狩りをする、動物のように、隙を・・・・・・ああ・・・・・・」


「あんな、もの?」


「君の地獄は、まだここからだ」


今際の錯乱であったと取れば幸せだっただろうに。

異質さを感じ、問い返した。問い返してしまった、次の瞬間だった。

陰りが一瞬で視界を覆い尽くした。

次いで――――――衝撃。


「う・・・・・・おおおおおッ!」


凄まじい衝撃に天地が逆さまとなって、ナナシは宙に放り出される。

何だ、何が起こった。

解らぬが、恐らく、攻撃を受けたに違いない。

あの陰りは、空を超速で迫り来た影。敵が来たのか。

上も下もなく空を回転するナナシであったが、混乱の最中にあってそれでもしなやかに着地したのは流石武芸者の端くれである。

両腕両足を地面に柔らかく着け、衝撃を殺し、這うような体勢となってナナシは顎を上げた。そして、見た。

初め、それを見てナナシは、似ている、と思った。

自分の姿と、よく似ている、と。

『完全装鋼士』の姿に――――――。


「お、お前は・・・・・・」


『それ』は鋭く息を吐き絞ると、重さを感じさせない風体でゆらりと立ち上がった。

ナナシと同じような、全身に機関鎧を纏ったようなシルエット。

しかしあれは機関鎧ではない。脈動する繊維の束が、筋肉の一部であることを教えている。

猛獣を思わせる爪に、絞り込まれた体躯。人間よりもずっと細く、強靭な筋と骨格がそれらを支えている。腰からは、これも甲殻に包まれた尾がくねっている。

それは一個の生命体であった。

機関鎧を模した外皮を持つ、『魔物』であった。

魔物の足元には紅い華が咲いていた。

凄まじい速度で踏み潰された神父の頭部は、原型を留めておらず、ペースト状の染みとなって大地に擦り込まれていた。

神父の亡骸を蔑ろにされたことへの怒りは微塵も湧いて来ない。

それよりもナナシの全身を襲っていたのは、驚愕と困惑、そして、哀しみだった。

ナナシは全てを理解した。


「お前は、ああ、そんな・・・・・・お前は・・・・・・!」


言葉が続かない。

唇を噛み締め、震えを殺す。

“鎧の魔物”は、拳を半分握った手を、一報は顎の前に、もう一方はナナシへと突き出した。

ナナシが執るものに似た、突打両方に対応可能な独特な――――――酷く残酷に、馴染みの深い構えだった。

鋭い爪の間には血肉がこびり付いている。

この人達を殺したのは、神父ではなかったのかもしれない。寸瞬、ナナシの脳裏に焼けた思考が刺し込む。

元々、ここを襲った貴族と魔獣がいたのだろう。

そして、それらはあの魔物によって一掃されたのだろう。

この惨状の半分を造りだしたのが、あの魔物であると、ナナシは確信した。

“おかしさ”はあったのだ。

神父と遭遇した時、神父が一瞬、紛れもない安堵の表情を浮かべたのは、ナナシよりも前にこの魔物が神父を見付けてしまうのを危惧してのものだったのかもしれない。

殺すことで、この後に続く地獄を見せぬこと。それが救いであると、神父は語った。

ならば、“救いをもたらす”ために、神父はこの魔物を探していたのかもしれない。

そこに、ナナシがやってきた。やってきてしまったのだ。

神父もまた、利己的に他者の命を奪ってきたはずだ。

以前拠点としていた街が襲われた際に、戻ってこなかった者は、神父の手に掛かったのは間違いがないはずだ。

そこでもう、限界だったのだろう。

ナナシによって救いが齎され、神父は救われた。

それだけの話しだった。

そう、神父は魔物を追っていたのだ。

今の今まで、あの魔物は、貴族達を“たいらげた”後にやってきた極上の料理が出来上がるのを、待っていたのだ。

ナナシか神父のどちらが勝つかを、じっと息を潜めて待っていたのだ。

あれは身の内に収まりきらない神意によって、強者のみを追い求めて彷徨う魔物だ。

ナナシには理解出来る。ガラスに覆われたような瞳に宿る輝きは、ナナシを真っ直ぐに捕らえ、歓喜の輝きを灯しているのだから。

周囲に散らばる力無い人達の屍など、まるで目に入ってはいないようだった。

ナナシのみを視界に納め、構えろ、とでも言いた気に、差し向けた掌を開いては閉じている。


「そうか・・・・・・」


ナナシは一つだけ頷くと、ゆっくりと拳を掲げた。


「お前がそれを、望むのなら」


半分だけ握った変型拳。

それを一方は顎の下に、もう一方は相手に向って突き出す。

インパクトの瞬間に堅く、固く握りしめることで貫き通すべく、独特な構え。

奇しくも左右対称に、ナナシと魔物は同じ構えを執り合った。

ギリギリと間接から擦れた鋼が鳴る音がする。動力のほとんど落ちたツェリスカには、もう膂力の常時補助は望めない。高速機動は当然、治癒もまた、働かないだろう。ただ、スパイクを撃ち出す炸薬へ着火する魔力を残すのみだ。

それで、十分だった。

一撃でケリは尽く。


「来い」


告げると同時、鎧の魔物は咆哮と共にナナシへと襲いかかった。

真っ直ぐに、見せ付けるように、誇るように――――――子供が、こんな事が出来るようになったんだよ、と自慢するかのように。

ナナシは避けなかった。避けられなかった、というのが正しいだろう。膂力補助が無ければ、機関鎧など、唯の重たい鉄の塊でしかない。こんなものに身を包んでいては、いかに相手の動きが見えていたとしても、即応できるはずもない。

意思に反応し、肘のスパイクへと火が入る。だが、この拳は当たらないだろう。

詰みか・・・・・・ナナシはコマ送りになる思考の中、冷静に分析する。

決意を固めんとしたが、これだ。

だが、戦うこととは残酷だ。明確に勝者と敗者が出来上がる。そこにどのような意思があったとしても関係がないのだ。

あの魔物が放たんとしているのは、事前の構えと踏み込みから察して、相手の関節を踏み締めることで行動を奪う体幹崩し、蹴撃間接技、無名戦術の奥義之弐【清淡虚無】に相応するものと等しいに相違ない。

同じ技が噛み合った時、勝利するのはどちらであるか。簡単だ。単順に、速い方が勝つ。あの鎧の魔物の方が、ナナシよりも幾段も速かった。

掛けられた技は込められた拳理を十全に発揮するだろう。

即ち、己の膝を踏み割って、身体を地へと縫い付け、ガラ空きとなった顎先か、喉か、胴体に必殺の一撃を叩き込むのだ。

だが、それもまたよかろう。ナナシは尖っていく意識の中、思った。

土台、自分に世界を救うなど、出来ようはずもない。

世界を救うのは堕天使のような、主人公のような奴にこそお似合いの役目なのだ。

こんな落ちぶれた男になど、何が救えようか。誰が救えるというのだ。

ただ自分が救われることしか考えていない男になど。

ナナシの想いとは裏腹に、拳は奔る。


「――――――そうか、まだ教えてなかったな。駄目な先生だったよな、俺。ごめんな」


それは一瞬の邂逅。

息が掛かる程の距離で、ナナシは鎧の魔物へと告げた。

右足の、膝から下の感覚が無い。

鎧の魔物に“蹴り抜かれ”たのである。

魔物の蹴りの勢いで吹っ飛んだ右足が、後方で木に打つかって弾け飛ぶ気配がした。

ナナシの脚は踏み付けられて縫い留められたのではない。凄まじいまでの蹴りの“キレ”に削ぎ落とされ、斬り飛ばされたのだ。

断面図から血も噴出すのを忘れる程の鋭い刀剣が如く蹴撃は、よって、体幹も崩されておらず――――――固く握られた拳は、過たず標的を撃ち抜く。

それしかない。在り得ぬことだ。

構えも、技すらも同じであったナナシと鎧の魔物。

両者の違いがあるとすれば、それは技に対する理解度の差であっただろう。

その蹴り技は、蹴りの威力を重視するのではなく、対象を踏み付けることで行動不能にさせる間接技、拘束術であるのだと。

ああ、それを知ってさえいれば。

ああ、それを教えてさえいれば。


「ごめんな――――――」


諦めていたのならば、拳を降ろせばいいものを。

己の拳はそれを拒絶する。

思えば、振り上げた拳を降ろすことは、それだけは出来なかった。

死を望んでさえいても、闘うことだけは、決して辞めることは出来なかったのだ。

何故なのだろうか、どうしてなのだろうか、考えた所で答えは出ない。

人が己の本質を知ることは、容易ではないのだから。

それが“逃争”であり、“闘避”の本質であるなど、ナナシには知る由もないのだから。

魔力が炸薬に点火され、圧搾空気が作動。スパイクが射出される。

制御を離れた拳が加速する。

暴れ狂う運動エネルギーを一定方向に誘導。腕を突き出す、唯それだけの動作に集約する。

何万と繰り返されてきた動作。

仕損じる事は無い。無いのだ。

例えナナシ自身が、どれだけ願ったとしても。


「おおおァァあああアアア――――――ッ!」


迸ったのは雄叫びか、慟哭か。

固く握り込まれた拳が魔物の胸を撃ち、貫いた。







■ □ ■







親友の形見である仕込杖を頼りに、片足を失ったナナシが、顔面蒼白で輸送トラックに崩れ込んで来た理由を、ナワジは何も問わなかった。

ナナシがたった一人で帰った意味を、全て理解したからだ。

嘆きも、慰めの言葉も口にすることはない。

涙を流しても死んだ人間が還ってくるわけがないことを知っていたし、女から慰められる程男は惨めになることも知っていたからだ。

ただ、組織の首長として問う。


「皆は“どうした”」


その問いは、無事を確認するためのものではない。

燃やしました、とナナシは小さく答えた。

振り返れば、ちらちらと照る炎が木々を燃やしていた。

直ぐに出発するぞ、とだけ告げ、ナワジは輸送トラックの運転席に乗り込み、ハンドルを殴り付けた。


「くそっ・・・・・・くそくそくそ、ちっくしょぉぉ・・・・・・ッ!」


失われた命は還ってこないと、知っているのに。

なのに、涙は溢れて止まらない。

ナワジは無線で連絡を取り、残った輸送トラックを出発をさせる。

台数は三台。そのどれもが、本来は物資運搬のためのトラックだった。数十人規模の組織を食わすための食糧や生活用品が詰め込まれいたものだ。

ナワジの頭脳が、残りの物資の配分と補給のための計算を始める。これだけの人数でやっていくだけの貯蔵は十分だ、という結論が直ぐに出た。

十分になってしまったのだ、という方が正しいだろう。

増え続ける難民に、切り捨ても必要であると冷たい判断を下す必要は、ここに無くなった。それを幸運であるとは思えない。全く、思えない。

だが、物資があったところで、何だというのだ。

薬を使ってやらねばならない怪我人はもういない。ミルクを飲ませてやらねばならない赤ん坊はもういない。

犠牲になったのは、隊列に中腹に置いた、戦闘力がない者達だった。

横っ腹の、“一番旨い場所”を食い荒らされたのだった。

拭っても拭っても、涙は止まらない。

炎に追い立てられるように、輸送トラックはスピードを上げた。

トラックの荷台には、生き残った――――――生き残ってしまった、戦闘班の面々が座り込んでいた。

自らが真っ先に死ぬべきであったと、誰かが言った。


「殺そう」


そのつぶやきも、また。

そうだ、とまた誰かが言った。


「殺そう。奴らを皆殺しにしよう。たくさんだ、もうたくさんだ。

 奴らに思い知らせてやろう。大切な人を失くす痛みを。大切な場所を焼かれる苦しみを。思い知らせてやるんだ」


そうだ、そうだ、と賛同の声は続く。

殺そう、殺そう、皆殺しにしよう。

殺意の輪唱が広がっていく。守るべき人々を守れなかった男達の、悲哀と憎悪の唄が。

反響する怨嗟の中で、ナナシはがっくりと頭を垂れながらタイヤの振動に揺れる床の一部を見詰め、微動だにして動かない。

堕天使が心配そうに近くに侍り、脚に包帯を巻いても反応した様子は無い。

生来の空気の読めなさを発揮して狂熱に染まらずにいる堕天使に、感謝出来る程の精神状態ではない。

当然治療の知識など無い堕天使は泣きそうな顔になりながら、ナナシにてんで出鱈目に包帯を巻いていく。

ナナシが顔面蒼白であったのは、失われた右脚から流れ落ちた血のせいではないのだろう。

それを感じ取ってそっとしておくくらいには、堕天使も他者の心の内を察することが出来るようになっていた。


「先生」


揺れる車内の中、一層と揺らめく少女が居た。

足元が覚束ないのでは無い。悪路に激しく揺れる車内に反し、少女の身体は地に立った柱のように、不自然に敢然としていて真っ直ぐで動かない。

揺らめいて見えるのは少女が纏う空気、雰囲気のせいだ。少女の全身から陽炎が起ち、揺ら揺らとして、掴みようが無い。

少女の在り様が、魂が、不安定であるのだ。

先生、と少女はナナシに近付いて、振動にぐらぐらと揺れるナナシの頭を見下ろして言った。眼に光は無く、何処までも何もかもを呑み込んでいくような、深い虚があった。

その姿はまるで、幽霊のようにも見えた。

少女に声を掛けられても、ナナシは顔を上げなかった。

反応は、あった。一瞬、肩がびくりと跳ね上がっていた。

ナナシはより深く頭を垂れた。

その姿はまるで、懺悔をしているようにも見えた。


「ギ、ギンちゃん。ナナシはちょっと疲れてるんだ。酷い怪我もしてるし・・・・・・さあ、向こうへ行こう、な?」


「先生――――――」


堕天使に肩を抱かれて、ナナシから離れた隅へと動かされる少女。

だが、ナナシには聞こえた。


「先生、どうして――――――お兄ちゃんを、助けてくれなかったの?」


殺そう、殺そう。延々と呟かれる怨嗟の輪唱。

力尽きて四肢を・・・・・・否、三肢を投げ出したナナシもまた、ぼそりと呟いた。


「殺そう」


それからずっと、夜が明けるまでの間、ナナシはもごもごと何事かを呟いていた。

鎧を纏った意思が、羽化せんとしていた。

もはやナナシの地球人としての、日本人としての道徳は、モラルは、消えて無くなった。

ナナシをナナシたらしめていたものは、もう、どこにもない。



大変長らくお待たせしました。

更新が出来ぬ期間が長くなってしまい、申し訳ありません。

ようやくこの物語の終わりを迎える算段が付きましたので、投稿をいたします。

それでは、最後までお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。

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