地下57階
拳を撃っては撃墜される。
蹴りを放っては固め、折られる。
全ての機先を封じられ、後の先をとられ、挙動を叩き潰される。
裏切りの牙を剥き出しにした神父。無名戦術のオリジナルの、体系化されていないいわば原生の“武”そのものは、洗練されたものではないはずだった。
だが、ついにナナシは血の泡さえ吐きながら、地に膝を着く。
両者の間には圧倒的な力量差が横たわっていた。
例え鎧を纏っていても、覆し難い程の差が。
「もう諦めなさい」
「ま、だだ・・・・・・ッ!」
「楽になってもいいじゃないか、もう」
「うるさいッ!」
何度目になるか解らない、言葉の応酬。
十数合という打ち合いの悉くを返り討ちにされ、鎧は罅割れ、砕けている。拳型に陥没している部位さえある。口元は、亀裂から滴る吐血の跡で薄黒く汚れていた。
それでもなお立ち上がろうとするナナシに、神父は悲壮さえ浮かべ、頭を振った。
手を撫で摩る。殴った拳が痛むのだろう。
骨の露出した両の手を揉みながら、神父はナナシへと近付いていく。
人を殴れば自分が痛む、とは良く言ったものだ。他者の痛みは我の痛み。神父はそれを体現していた。
ナナシの特異体質――――――『神意遮断』は、ナナシが触れた対象に掛かるあらゆる神意を遮断、無効化する。火や氷など、物理現象として顕現した『神威』にはまるで効果はないが、それ以前、その準備段階にある指向性を持った魔力塊を問答無用で霧散させるのだ。
即ち、「防御力」や「攻撃力」といったパラメーターというものが、ナナシの前では無に帰すことになる。そこで勝負の要となるのが、機関鎧の存在であった。
巌の皮膚を技術で破り、生物的格差のある一撃を鋼鉄で防ぐ。
しかもナナシの機関鎧、ツェリスカは装着者の治癒機能まで備わっている。
いくら能力補正の挟む余地などない、個と個のぶつかり合いしかないといえど、それは平等で公平な戦い、という訳ではなかった。
“レベルのある”人間や魔物とは身体能力は比べるべくもない。その差を埋めるには機関鎧だけではまだ足りない。
だが装着者が戦闘技術を身につけた人間となるならば話は別。ナナシにとって機関鎧は補助具ではない。列記とした武具である。
優れた武芸者は得物を自らの体の一部として扱うという。ならばナナシと機関鎧との相関たるや、ただ筋力補助や治癒効果のある鎧を身に着けたという範疇では収まらないものがあった。
たとえ数十というレベル差があったとしても、これを乗り越えるまでに。
鋼の拳は、相対する者を、打倒し得る存在へと落し込む。
ならば、である。つまりは、ナナシはこれまで、潜在的格下相手としか戦闘経験がなかったということだ。
技術でもって鎧を纏うことで、その生物的格差であるレベルを実質無意味化させる。それは相手にとっても同じことだった。
お互い油断ならぬ敵対者として始めて向き合うことが出来るだけであり、ナナシが勝利し得たのは、相手の油断あってこそ。
技術も、精神性も、気概も、何もかもが完全に格上の相手と、今初めて、ナナシは相対したのであった。
神父の裂けた拳から煙が上がる。急激に裂傷が癒えていくのは、魔術による治癒反応だ。
神聖魔術による回復魔術は、魔術師が用いるそれとは異なり、純粋に神威によってのみ行使される。
一般的な治癒魔術は、言ってしまえば召喚魔法である。損傷した肉体の細胞片を繋ぐ作用のある微生物を培養し、投与するのがその正体だった。回復薬の仕組みもまた同じものである。
これを機械的に再現したのがツェリスカの“ナノボット”であろう。
微生物の生理的作用のため、ナナシが触れたとしても、その効果は薄れることがなかった。
神聖職の扱う魔術はナナシの神意遮断とは相性が極めて悪い、ということだ。
それだけではなく、強化魔術もまた当然行使されているだろう。
だがそれは純粋に肉体補助と加速にのみ割り当てられているようだった。インパクトの瞬間に装甲によって神父の手が砕けて柘榴と化す。
それも一瞬先には、煙を噴き上げて再生していく。
これは『リジェネレイト』と呼ばれる治癒系魔術の一種であった。
ナナシと同体系の技術だけでなく、治癒能力までもが同系統、そしてそのどれもが上を行く。
ナナシの治癒能力は機械技術に依存している。効果は大であるとはいえ、それを行うためのエネルギーは無尽蔵ではないのだ。
立て続けに即死級の一撃を加えられては、動作に充てている電力、蓄積魔力も回復に回さなければならない。いずれ機能停止に追い込まれ、鋼は身を引きずるだけの枷となるだろう。
既にジリ貧状態に入っていた。
このままでは、じわじわと削り殺されるのを待つしかない。
「もう一度言うよ、ナナシ君。諦めなさい。痛くないようにしてあげるから。私は君を、救ってあげたいんだ」
「戯れ言を――――――!」
赤銅色の装甲が熱を放ち、”一層”と周囲の空気を歪ませる。
圧搾魔力を一気に噴出し推力を得る、高速機動形態『スラブシステム』。
それもまた高レベル保持者との実力差を埋めるシステムであるというのならば、もはや既に、その状態でナナシは戦っていたのである。
「つおおッ!」
「愚かな」
踏み込みの跡が地盤に刻まれ、ナナシの姿が空に掻き消える。噴出した魔力残滓による赤い像のみが残った。
高速のステップを踏みながら、実在する残像と共に、ナナシは神父に殺到する。
だが。
「無名戦術古奥義――――――【貫手・千歯】」
「ご、おあっ!?」
手刀による抜き打ち。
鋭さでもって軟体型の魔物を切り裂くことを目的とした手刀は、構えは違えども、恐らくはお互いにとり最速の技。
神父の放ったそれは、ナナシの扱う無名戦術において最新奥義の四――――――【百載無窮】の変型に違いなかった。
否、あちらがオリジナルなのだとしたら、変型はこちらの方か。
ナナシの【百載無窮】が両手を刀身と鞘に見立た高速斬撃であるのに対し、神父の【貫手・千歯】は刺突による貫通を目的としていた。
【百載無窮】―――――刀の居合抜きの原理を応用した抜刀術。
【貫手・千歯】――――――フェンシングのしなりを応用した突剣術。
基は同じ技であるというのに、ここまでの様相の違いをみせるのは、これも使い手の技量差が理由であるか。
無名戦術最速の技が、ナナシの側頭部を削り取っていく。
頬面が割れる。鼻から上が斬り潰されなかったのは、単にナナシが寸での所で飛び退いたにすぎない。
慣性によって上半身が流れ、崩れる体勢。
焦りが集中を乱し、息が上がる。
苦し紛れに肘を放つも軽く受け流され、指先を腹に突き立てられた。
「ぐえぇっ」
カエルの潰れたような音は、横隔膜を突き上げられて絞り出された空気が漏れた音。
治癒と高速機動形態を同時に起動していたツェリスカのエネルギーゲージは、一気にレッドゾーンへと針が振っている。
ツェリスカの警告を無視し、ナナシは治癒機能をカットさせた。
残存魔力は全てを高速機動に充てる。
だが、そうまでしても埋まらない差は、一体どれだけのものだというのか。
「もう諦めなさい、ナナシ君」
諦めろ、諦めろと繰り返しながら、神父はナナシを撃ちのめす。
淡々と作業を繰り返す姿は、真摯に想いを伝えれば、きっと伝わると信じているかのようだ。それはまるで祈りのようであった。
そこに居るのは、敬遠な神父そのものだった。
この世でもっとも尊く信仰を体現している姿だと言われても、ナナシは頷けるだろう。祈りを乗せるのが言葉か拳かの違いだけだ。打つ手が痛む分、より相手の心に響くだろう。
それが本心からの言葉であると悟れることが、ナナシをさらに痛めつけた。
ナナシの身体から赤い輝きが失せる。
モニタには、通常運行モードに強制移行させる旨の警告文が。ツェリスカ自身が、これ以上の高速機動形態での戦闘は継続不可であると判断したのだろう。
放熱と大量に流れる汗で、鎧内部は蒸し風呂状態となっていた。
急激な体力の消費で、ナナシは頭がグラグラと揺れるのを感じた。
神意付加能力に対しては万能にも見える神意遮断であるが、しかし一つだけ覆せないものがあった。
それはスタミナである。
接触したその瞬間は、能力の“伸びしろ”を消し飛ばしてしまえるとしても、離れれば即時補充されるのだ。
ナナシはどうしても短期決戦に掛けねばならず、そのためのスラブシステムだったはず。
だが、それもこれも土台には差がないと、生物的な格差は積み上げた技術でもって全てを覆せるのだ、という前提があればこその話だ。
その技術の全てが数段上を行く相手では、いったいどう戦えばよいというのか。
機転を巡らせる能力も、機会を見出す能力も、あちらが上。
人間としての総合力に、既に圧倒的な差が開いていたのだ。
相手の攻撃がまるで読めない。
そして逆に、こちらの一挙手一投足が全て見透かされているような錯覚に陥る。
理解できるのは、それが、これまでナナシが戦ってきた魔術師達に与えて来た感覚であるということだけだ。理解できるだけ、相手の実力に追い縋っているということなのだが、しかしそれだけだ。届きはしない。
何をしても無駄なのではないか。
戦場の空気まで把握し、操作しているのではないか。
そんな恐怖までもが心中に湧き上がる。
神父の立っている境地こそが、かつての恩人が語って聞かせた武術体系の到達地点。完成系なのだろう。
下だ。どう足掻いても、下。
大地に刻まれた亀裂のように広がる格差を思い知り、ナナシは戦慄いた。
高々十年程度の経験で覆せるものではない。
しかし、それでも戦わねばならない。
「・・・・・・なぜ立ち上がるんだ、君は」
答えられる訳がない。
自分自身にさえ解らないのだから。
膝は震え、装甲は剥がれ落ち、もう治癒に回す動力は残ってはいないというのに。
何度打ち倒されようと起き上がり、身体は構えを執ってしまうのだ。
「もういい。もう、いいんだよナナシ君。君はよくやったさ、もう休みたまえ。どうしてそこまで頑張れる?
目的も強い意志も、思想も信念も信仰すらも持たない君が、なぜ。以前語っていた、子供達の未来のためだとでも? いい加減、本心を偽るのはやめたまえ」
「何を、言って・・・・・・!」
偽るな、とは何を言っているのか。
ナナシは神父の言葉が理解出来なかった。
子供達のために。虐げられた者達のために。そして、かつての仲間達のために。
自分を慕ってくれた人のために。
戦う理由はそれだ。それだけしかない。
それがナナシの本心である。
本心である、はずだ。
「偽りなどない! だから俺は――――――」
「神を討つ、と? くだらない」
本心であると、思っていたのに。
「仲間のため子供達のため、未来のため世界のため。そんな綺麗言はもう聞き飽きた。そんなもの、君の本心ではないだろうに。
まさか正義のためだなどと、微塵も思ってはいないだろう? いや・・・・・・いくら聞いた所で無駄のようだな。
君は弱い己を鎧で装ったはいいが、心まで覆い隠してしまったのだな。ならばその鎧、この私が剥ぎ取ってあげよう」
神父が何を言っているのか解らない。
解らない、解らない――――――否、これは、そう装っているだけなのか。
言葉を交わすなどするべきではなかった。ましてや、行動理念の真偽など。
乞われるままに、状況に流されるままに戦ってきた。
全ての価値基準はおのれが地球で培った道徳であり、行動理念もそれだった。
仲間が無念の内に死んだ。だからせめてもの手向けをしてやりたい。
紛争に巻き込まれ、涙に咽ぶ子供たちがいる。だからせめて、自分が出来ることで、守ってやりたい。
そんな想いに突き動かされ、ナナシは拳を握ったはずだった。
固く。
硬く。
だが神父は、それがナナシのそもそもの勘違いなのだと突き付けた。
お前に信念はないのか、と問われた。
それにナナシは無い、と答えた。
当たり前だ。
唐突に異世界に放り込まれた己には、信念など持ちようもないのだから。
強いて言うならば、神を全ての中心として周るこの世はおかしい、と何時まで経っても変わらずに感じる感覚と、その基となった地球の思想こそが信念である、というべきか。
ナナシが感情と知性に拠って動いているのならば、その根本は善意からきたものか。
知性とはただの“思い込み”に過ぎず、感情は“装われ”、主我は隠されてしまったのではないか。
ナナシの抱く善性は、己に根差したものなのか。
神父の問いの本質である。
そして暗に、それは違うであろうと言っている。
そんなはずは――――――言いかけ、ナナシは喉が動かなかった。
替わりに拳を握りしめた。
固く。
硬く。
教えられた通りに。己を強くするために。
何もかもがあやふやな自分にとって、それだけが確かなもの。
だが――――――ナナシは、ふと思った。
何も握らぬ空っぽの拳が、それほどに堅くなるものなのだろうか。
「まさか君は、無条件で人の命は・・・・・・尊厳は守られるべきだなどと思っているのか?」
「当たり前の、ことをッ・・・・・・ぐうぅッ!」
虚を突かれたナナシは、頭部を庇って身を縮める。
全身が拳打の雨に曝された。
「戯けたことを! 君はこの数年間、いったい何を学んだのか!
人の死に触れ続け、それでも停滞を選んだというのなら、死者に対する大いなる侮辱だよ、それは!
犠牲なくして何を得られるものか!」
「地を固める為に雨を降らせたというのか! 血の雨を!」
「そうだ。そしてもはや犠牲は出てしまったのだ! 悲劇を礎に新たなる国を築かねば、いったい彼らは何のために死んだというのだ!
多くの屍が、この国の土となり肥となるために必要だったのだよ!」
「それは贄と呼ぶものだ! 必要悪などと! そんなことで闘争と虐殺が正当化されるものか!」
「ここまで来てまだ誤魔化すか! 君はこの光景を見て、義憤しか抱かないのか! お偉いことだ。まるで聖人だな、君は!」
「裏切り者が、何を!」
「君は自分に正義があるなどと信じている! 君の抱いている信念はそれだ!
地球人・・・・・・ああ、知っているさ、地球人よ! 度し難い民族!
自らの抱く思想こそが正しいと、根本的に思っている! 笑わせる!
呆れたことだよ! 君もとっくに解っているはずだ、自分達が不要物であることなど!
それでなぜ己の感覚が正しいのだと言えるのか! 世界の法則すら異なる存在が、なぜ!
滅する運命しかないのだということを! 滅ぼされることがこの国の未来にとって正しいということを! なぜ受け入れない!
やり直すことが救いなんだ! もう一度、最初からやり直すことが! 解っているはずだ!
それでもなおと戦い続け、死骸を積み上げてきた君こそが、闘争を助長するものだ!
それで何だ、言う事といえば、犠牲はいけないことだ? 子供たちのために?
君が正義を口にするのかね! いい加減、正直になりたまえよ!」
「黙れ・・・・・・! 語るな!」
「君は・・・・・・否、地球人は、“人”は! 血が流れることにこそ心躍るのだと認めたまえ!
楽しくてしようがないのだ、こちらの世界の人々よりも、ずっと!
興奮していたはずだ! 最高だと思っていたはずだ!
血を見て、苦しみに触れて、それこそが生の実感であると喜んでいたはずだ!
醜いな、地球人! 自らの悪性を受け入れられず、美辞麗句で装いたてるその様は!
望んでいたことだろう?
これが君たちの望みだったのだろう?
どうだ、つらく苦しい経験ができたぞ、愛を歌い正義を振りかざし、悪を打ち倒せる機会を得たぞ?
君がヒーローだ。よかったな!
所詮は他人事、自分自身の心を安全な場所に置いたうえでの考え!
恥ずかしいと思わないのか、自分が!」
一撃一撃、その全てが、心を圧し折るような威力。
装甲が砕け落ち、動力パイプが千切れ、ボルトが弾け飛ぶ。
衝撃に身体が硬直し、動けない。
ツェリスカがオートパイロットシステム、強制割込を起動させたことをモニタに表示する。
しかし、システムは作動せず。
代わりにモニタには、システム・エラーのウィンドウが大量に表示される。
ナナシの治癒に、動力を回し過ぎたのだ。
いかに潜在的に高いポテンシャルを秘めた機体であっても、人間を数回も半蘇生させれば、動力は尽きる。
残存動力は、通常運行に回す程度しかない。戦闘行動での膂力サポートは望むべくもなく。
諸機能に加え、右腕の杭を後一回でも作動させたら、完全に動力が尽きて鋼の塊と化すだろう。
「だが、それでもまだ立ち上がる・・・・・・君が戦う理由は、いったい何なのだ!」
神父はナナシに問う。何故戦うのか、と。
ナナシは己に問う。
何故――――――。
「それは、それは――――――」
答えられないのは、顎先を掠められたからだけでは、ない。
視界の上半分が黒くなったのは、白目を剥きつつあるからだと思いたい。
意識が混濁する――――――。
ばちばちと、チグハグに繋ぎ合わせたビデオテープを再生するように、過去の記憶がナナシの脳裏を駆けていく。
師とも仰いだ恩人が力なく倒れ伏す最後が見えた。
命を懸けて救った少女が獣に成り果てた姿が見えた。
学園の級友達の無惨な亡骸が見えた。
同郷の者達がただ生きているだけの実験体として弄ばれる外法が見えた。
魔物に浚われた村娘の哀れな末路が見えた。
別れの際に親友が浮かべた寂しそうな笑みが見えた。
そして、眼前のこの光景が。
見て――――――なにを感じたのだ。
ナナシは朦朧とする意識の中、己に問うた。
人の死に触れて、なにを思った。
“鎧”が崩れていく。
己の本性が、剥き出しになっていく。
何を思ったかなど、解りきったことだった。
それは封じ込めたものだ。在ってはならないものだと。
だが。
ああ、神父の言うとおりだ。
ナナシは人の死に触れる度に、元の世界では味わえない体験に、昂りを覚えていたのだ。
とても興奮していた。
自分でも理解不能の感情だった。
否・・・・・・違う。
理解しまいと、目を背け続けてきたのだ。
“人の死に憤れる自分が誇らしい”などと。
浅ましいにも、程がある。
ヒューマニズムが存分に発揮できる機会に、酔っていたのだ。
いいや、むしろそのままであったのならば、ずっとよかった。
憤りは奥底へと追いやられ、沈み、澱んで、ヘドロと化したのである。
きっかけは己の浅ましさからだが、それが別の何かに進化するまで、育て上げてしまったのだ。
悪臭を放つヘドロが、今、鎧の亀裂から噴き出そうとしている。
周囲への損害など、考えていられるものか。
こんなものを、一秒たりとも抱えてはいられない。
ナナシの辿り着いた結論は、かつてその恩人が抱いたものと同じもの。
見ぬ振りをしてきたのは、それに名を付けてしまえば、冒険者になると、元の世界に帰ると誓った”ナナシの始まり”となったあの約束を、反故にしてしまうから。
だが――――――。
「――――――もう、いいよな。俺、我慢したよな。頑張ったよな。諦めても、もう、いいよな?」
『ええ、マスター。貴方の思うままに』
少女の声が、したような気がした。
だらりと両腕を弛緩させたナナシは、そのまま拳圧に後方へと弾き飛ばされる。
「・・・・・・ようやく諦めてくれたんだね、ナナシ君」
神父は仰向けに倒れるナナシへと、解ってくれたかと微笑んだ。
ええ、とナナシは答えた。
「はは、ははは・・・・・・もう、諦めましたよ、神父様・・・・・・ははは」
「そうか・・・・・・ありがとう。君は勇気ある選択をした。
誰にでも出来るものじゃない。君の魂は神の下に運ばれることがなくとも、必ず報われる。私がそう保証するよ」
「ははは、誰にでも出来るものじゃない、ですか。ははは・・・・・・。
ひひひ・・・・・・ひひひ、ひひ! ひひぃっひっひっいひいいひいいいひ! げげ、げげげ、げげっ!」
げら、げら、げら、と血痰でうがいをしながら笑い転げるナナシ。
可哀そうに、と神父は痛ましくそれを見下ろしていた。
ナナシが狂ったのだと思ったのだろう。
事実、そうだった。
もはや取り返しが付かない程に・・・・・・否、ようやく。
「すぐに楽にしてあげるからね。大丈夫、痛くはしないから」
「ひひぃひぃひひひ! かっかかかかっ! こここここ、こ、こ・・・・・・こぉぉ」
不明瞭な言語を発しながら、ナナシは喘ぎ、もがく。
手掛かりを求めて彷徨う手が、転がっていた何かを掴んだ。
原型は残ってはいなかったが、毛糸屑が付着しているのを見るに、焼け焦げたぬいぐるみだろうか。
ああ、確か、少年を慕うエルフの少女が持っていたような・・・・・・見覚えのあるそれが、ナナシの手の内で、ぼろりと崩れて無くなった。
手の内にはもう、何も無いというのに。
ナナシの拳は何かを掴んだように、固く握りしめられていた。
「こ、こ、こぉぉ・・・・・・」
「もう、よせ」
ゆらりとまた、数えることにも飽き幾度とも無く立ちあがったナナシに、神父は悲痛な面持ちで頭を振った。
これ以上苦しみを続けさせること哀れと思ったか、差し出されたように俯いた首へと、強烈な踏み込みに手刀を振り上げる。
「ろぉ・・・・・・しぃ・・・・・・てぇ・・・・・・やぁ・・・・・・るぅうううううあぁあぁああああッ!」
呪詛が、溢れた。
沼の底に澱のようにたまった汚泥よりも、なお穢れた泥が。
吐き散らされた呪いと怨嗟。
ナナシの首が跳ね上がり、仮面に包まれた顔が正面を向く。
その双眸は、ガラス越しであるというのに、獣性にぎらぎらと輝いていた。
眼光の強さは、意志の強さの現れであるという。
気を中てられてしまいそうな程の視線には、薄暗い黒い光が灯されていた。
剥き出しになった憎悪が、そこには渦巻いていた。
異世界へと飛ばされ、何もかもがあやふやにしか捉えられなかった男が得た、この世界への確固たる真実――――――。
憎悪――――――それが、ナナシが握りしめたものだった。
「む――――――ぬううッ!?」
ナナシは、こちらも手刀を振り上げ、神父のそれへとがっきと打ち合わせる。
鋼と素手とが衝突し、火花の舞う中、血と肉片が飛び散った。
「な、にいッ!?」
空をぱらぱらと飛んでいくのは、神父の五指。
「治癒が発動しない・・・・・・神意遮断の適応範囲が拡大したのか!」
しかして治癒の煙が立ち上ることはなく。
距離を取った今もなお、強化魔術、そしてリジェネレイトが封じられていることに神父は驚愕の表情を浮かべた。
「はは、素晴らしい! ようやく、ようやく“目が開いた”か! 動きが全く読めなかった! ははは! 素晴らしい!」
神父の驚愕の一端は、ナナシの動きを読み切れなかったことにあった。
それも無理はない。
切断用のサークルカッターを手首へと露出させ、それを一回転させて神父の枯枝のような指を切り落としたのは、ナナシではなかった。
予めコントロールのタイミングを全て譲渡されていた、ツェリスカだったのだ。
確かに神父はあらゆる面において、ナナシの上位の性能を誇っている。上位互換存在であると言ってもいい。
ただしそこには、一つの思い違いがあった。
それは、ナナシ対神父の、一体一での戦いであると、そう神父が思い込んでいたことだった。
そうではなかった。
ナナシという冒険者――――――完全装鋼士は、二つで一つ。
その鎧の内には、ツェリスカという、もう一つの意志が秘められていることを、神父は失念していたのだ。
内界において、ナナシと神父は一体一などではなかった。一体二であったのだ。
繰り返された神父の問いは、ナナシのみに向けられるべきものではなかった。
少なくとも、“ツェリスカにとって”は。
ツェリスカの意識が介入を見送っていたのは、もはや自分の意志など、一瞬の判断が繰り返される戦いにおいては足手まといにしかならない、という事実を学んでいたためであった。
だが、それも今となっては、全てはこの瞬間のための計算であったのかもしれないとさえ思える。
事実を踏まえ、それでも虎視眈々と機会を狙う。
それは、ナナシを信じる、などというAIにあるまじき針の先ほどの可能性を前提とした作戦だ。
ツェリスカは、人の可能性を信じる、という機能を備える程にまで成長していた。
神父は武の真髄である内界の読み合いにおいては、ナナシの追随を許さなかった。
だが、その裏に潜むツェリスカの意までは、汲み取ることが出来なかったのだ。
「く、が、あ、ぐがあああ――――――ッ!」
「良い顔になった! 仮面越しでも解るぞ、ナナシ君! それだ、それが見たかったのだ! それでいいのだ!」
「殺してやる! 殺してやるぞ異世界人共ォォッ!」
追撃に迫るナナシを前に、神父は両手を広げて叫んだ。
まるで、神の前に宣誓する聖職者のように。
本懐を遂げるが如く。
「強さを装うというのなら、その下に隠した弱さを知らねばならない!
自分がいったい何を隠したのかを! その上で、もう一度鎧を纏えるのならば、君は――――――!」
「黙れぇええあああ!」
「それで良し! 今は解らずとも、いつかきっと掴むだろう! 憎しみよりもずっと上等なものをな!
さあこの老いぼれの命、摘み獲るがいい!」
散々にヒビ割れた兜が、とうとうナナシの挙動に耐えかね、顔から剥がれ落ちた。
死角に入り込むでもないその動きは、決して速くはないはずだ。
両腕をだらりと垂らして無防備に駆けるなどと、後の先を旨とする無名戦術では、考えられない暴挙を犯しているというのに。
後の先の“後”を、まるで考えていないように見えるというのに。
だというのに、神父はナナシを捉えられないでいる。
傍から見れば、ナナシはただよろめきながら、揺ら揺らと足を進めているだけに映るだろう。
しかし神父の眼には、ナナシの姿が霞んだ煙のように映っているのだ。
ツェリスカのエネルギーはとうに底を着きかけているのだから、これはスラブシステムによる魔力像ではない。
そもそもナナシの動きは速くはないのだ。速度は戦闘機動に耐えるものとは決して言えないものだ。
両手をだらりと垂らし、揺ら揺らと揺らめく構えは、静の構え【磨石】でも。動の構え【落蓋】でもなかった。
それは、構想段階において、あまりにも現実的ではないとして切って捨てた、無名戦術“幻”の構え。
人間の思考が連続的なものではなく、瞬間瞬間を繋ぎ合わせた断続的なものであるとの思想から考案されはしたものの、技術体系として絶対に成立しないと棄却された、虚の戦術機動。
無名戦術、幻の構え――――――【蒸籠】。
敵をその思考の速さまでも理解し尽くした時、初めて意味が与えられる機動歩法。
【蒸籠】から繰り出される一挙手一投足は、相対する者に、まるで使い手が幽鬼の如くに現実味の無さを感じさせる、それを目的とした極めて特異なもの。
“断続する思考の隙間”に潜り込み続けることで、実であり虚、虚であり実を両立させる、矛盾に満ちた構えである。
夢か幻か、虚か実か。
全ては煙のようにたゆたい、流水が如く掴みどころが無い。
破るには、仕手の内界を読み返しこちらも同等の挙動を取るか、あるいは自らに没頭することによって思考を加速させ隙を打ち消すかのどちらかしかない。
それは神父も承知の上だろう。理解していることだろう。更に、その技術はナナシよりも数段に上である。だというのに、神父は動けないでいた。
“理解する”、という思考作業、そのものが既にナナシにとり何十手と遅いのだ。
これはもはや、経験や身体能力により覆せるものではない。
打ち鍛え続けた時間は裏切らず、冷静となる余裕を与える・・・・・・はずだった。
だが、今まさに、この冷静さを与える時間こそが仇となる。
内界に没入し、中空と、天と、世界とすら一体となり、“魂の速度”を加速させ・・・・・・もはや速さなどという概念は置き去りにした存在に相対しては。
経験が、鍛錬に費やした時間が・・・・・・あらゆる積み上げてきた全てが、裏切りの牙を剥く。
「裏切り者は、己に裏切られて終わるのがお似合いさ――――――」
【蒸籠】という構えは、一度術中に陥ったが最後、突破不可能な構えである。
死角ではなく、相手の思考の空白に潜り込み続けるというその構えが、言うなれば、“心構え”の果てだというのなら。
ナナシの心は一つではなく、二つなのだから。
戦いの中でして、相手の思考の速さを読み切るのでさえ困難なのだ。
全く位相の異なる“二段構え”を、どう読めと言うのだ。
動けぬままでいる神父の下へ、ついにナナシが肉薄する――――――。
「無名戦術最新奥義――――――」
「無名戦術古奥義――――――」
夜の帳よりも暗い暗雲が、天を覆い始めたその下で。
無名なる最も新しき技と、最も古き技が衝突した。
「【無秒即災】――――――!」
「【夢病息細】――――――!」
奥義炸裂。
新旧奇しくも同技同名であり、同時にも放たれた技が、しかし神父の視界を鈍い鋼の色で埋め尽くす。
奥義之弐【清淡虚無】――――――間接は逆側に踏み込まれ。
奥義之参【天衣無縫】――――――退路は吸い付く足裏によって封ぜられ。
奥義之伍【永永無窮】――――――防御は握り合わせた肘鉄によって崩され。
奥義之肆【百載無窮】――――――受けて流すも握り合った手から放たれた手刀に断たれ。
奥義之陸【乱雑無章】――――――ガラ空きの胴を掌底でもって壊され。
奥義之壱【鴉雀無声】――――――鍛え上げた鋼の拳に魂までも粉砕され。
踏み込み。
封じ。
崩し。
断絶。
圧壊。
粉砕。
以上をもってして、奥義六連と成す。
奥義之弐より始まり、壱までを一身に叩き込む連係技。それが互いに振るわれた技の正体であった。
それぞれが十二分な威力が込められた殺人技術を、ただの一人に全て用いるという、強い過剰殺傷の意思でもって放たれる、必滅奥義である。
同じタイミング、同じ技。しかし、一つたりとも神父の指先はナナシには届かなかった。
ナナシの奥義が全て必殺に相応しい威力を有していたのに対し、神父のそれは苦し紛れに放ったものでしかなかったからだ。
記すことさえ決して許さぬと、口伝でのみ伝えられた奥義が、今ここに禁を解かれ、無名戦術創始者へと存分に振るわれたのである。
無名戦術最新奥義――――――奥義之零【無秒即災】。
それは紛れもなく、ナナシの憎悪の発露だった。
舌先が感じたのは、鋼の味なのか、血の味なのか、それとも胸の奥からこみ上げる何らかの情動の味であるか。
終ぞ神父は理解することはなく。
風にさらわれた木っ端のように空へと舞い上げられて、辛うじて人の形を保ったまま、血飛沫を吹き散らしながら地へ墜ちた。
泥団子を床に叩きつけたような、水を含んだ物体が潰れる音が、した。