地下54階
大変ながらくおまたせしました。
お待ちして頂いた皆様、応援を頂いた皆様。
ありがとうございます。そして、申し訳ありませんでした。
少しだけ時を遡る。
ナワジがその男の後姿を見つけたのは、混乱の最中。
半ば偶然のことであったが、何故かナワジはそれを見過ごすことが出来なかった。どこか確信染みたものを感じたのかもしれない。
この忙しい時に、と舌打ちを一つ。首根っこを掴んで無理矢理振り向かせた。
ひい、と情け無い声を上げて竦み上がる男……銀髪に色の違う両目、オレイシスとナナシが呼んでいた男である。
「お前、何しに来た! こんな時に逃げ込んできたのか! 恥知らずが!」
「ち、ちがっ! 俺も、俺、俺も……!」
顔の造りは全く違う。どう見てもこの男の方が整っている。端的に言って美形だ。誰が見てもそう言うだろう。
手足も細く、やつれていても筋肉はついていて、伸ばし放題な髪も様になっている。
凡庸でいて、長年の旅生活で不潔な見てくれとなったナナシとは全く違う。
だが、似ている。
どこか似ているのだ。
そう感じさせる何かがあることが、ナワジを酷く苛立たせた。
ほぼ全ての人間を受け入れる度量のあるナワジが、この男だけを受け付けない理由がそこにあった。
「待て……お前、なんでここに居るんだ?」
「お、俺だって……俺だってやれるんだ、俺だって……!」
「違う! どうやってここに入ってきたと言ってるんだ! ここは結界で閉ざされた! うさぎの穴だ! 煙で燻して弱らせたうさぎを、一匹ずつ狩るためのな!
外に出す人数を絞るタイプの結界だ! ガキ共が出て行ったのを指をくわえて見ているしかなかった……! 逃げ帰らないよう、一度出たら二度と入れないよう設定されているはずだ!
お前はどうやって潜り込んだと言ってる!」
「どうって……普通に……」
「あいつと似たような事を……!」
ナナシと似た煮え切らない態度に、ナワジの額に血が昇っていく。
激情のままに、襟首を掴んで拳を振り上げた。
非常時に自分も平静ではいられない。これは八つ当たりだという自覚があったが、止められなかった。
「あいつと似たような……? 似てる……そうか、“結界破り”か!」
ナワジの呟き。拳が顔面の前で、ぴたりと止まっていた。
「おい、お前!」
「ひゃ、ひゃいい!」
「ここで戦うか、逃げるか! どうする!」
「はえ……へえ……?」
「これが最後のチャンスだ。お前が変わるためのな……どうするんだ!」
「お、おれっ、俺は……」
「はっきり言え!」
「変わりたい、変わるんだ! 戦うよ! 戦わせてくれよ! お願いします、お願いします! 俺はもう、こんなのは嫌だ! 俺は、自分を変えたい! 変わりたいんだ、今度こそ、本当に!」
悲鳴のような叫びだった。
ナワジは鼻を鳴らすと、突き放すようにして襟首を振り解き、言った。
「よし。よく言った」
苦々しく、しかし満足そうにして。
――――――これは、ナワジの自覚していない部分の話しである。
オレイシスが叫んだその瞬間に、ナナシとオレイシスは、似て非なる存在となった。そうナワジの無意識が……魂が理解したのだ。
人は変われるのか否か。ナナシとオレイシスが、悩み、苦しみ続けた命題であるとも言えよう。
より正確に言うならば、己の嫌う自分自身の、最も見たくない薄汚い部分から脱却できるかどうか、である。
これよりオレイシスは自己変革の道を歩むこととなり、ナナシとは異なる、真に“独立”した人間へと変わっていく。
ナワジの思考に誘導の意図が多分に含まれていたことは否定できない。
女傑であれど、人であり女である。ナワジは、これでこの男とナナシとが異なる存在になった、自分がそうさせた、という達成感と満足感に満たされていた。これでナナシは特別な存在のままである、と。
オレイシスが独り立ちしたという清々しさ。それは、この後ろ暗い悦びを隠すための、自己防衛だ。
ナナシが血を吐いてさえ願った「変わりたい」という望みは、ナワジによって断たれたのである。
異世界にて、変わったのだという証を欲していたナナシだが、その異世界人によって不変であることが保証されたからだ。
結局のところ、である。簡単なことだった。つまりは。
「この廊下をまっすぐ言った突き当たりに、俺の研究室がある。そこにあるものを、ナナシの奴に届けろ。いいな、任せたぞ!」
「お、あ、えと、何を届けたら・・・・・・」
「なあに、見ればわかるさ。結界を“抜けられる”のはお前しかいない。お前しかいないんだ。頼んだぞ」
ナワジの二重に重ねられた言葉に、頬を紅潮させてオレイシスは駆け出した。
結局のところ、つまりは、だ。
愚かな男共を生かすのも、殺すのも、女であるというだけの話しであった。
ナワジもまた、手の内の手帳型ステータスカウンターに、忙しなく視線を巡らせながら廊下を走り出す。
誰もいないはずの研究室内にエネルギー反応。
「装着者なしで起動した……そうだな、お前のご主人様のためだもんな。ずっと待ってたんだもんな……そうだよ、待ってたんだ」
自然、笑みが零れる。
次第に声は大きくなり、狭い通路にナワジの笑い声が木霊する。
「はっはっは! 懐かしいな! ピンチだな! 畜生め! わはははは!」
衝撃が壁を揺るがす。
先の地下施設を抉り抜く様な、圧倒的なエネルギー量ではない。とても小さな脈動だった。
地下に居た誰もが息を呑み、天を仰いだ。
それは恐怖からではなかった。
何かが上で起きている。何か、これまでの鬱屈したものを吹き飛ばすような、何かが。
「碌に調整は出来ていない。修復も不完全だ。だがお前にそんなのは関係ないだろう? なあ・・・・・・ツェリスカ!」
ナワジもその一人だった。
理由は解らない。ただ予感が……否、確信があった。
反撃の狼煙が上がったのだという。
「そうだ! 戦え! 鋼の鎧を身に纏い、お前の全部を拳に込めて、歪んだ運命を打ち砕け! ナナシ!」
天を仰ぎ、見えないはずの鋼の背に向けて、ナワジは叫んだ。
愚かな、しかし愛すべき男に向けて。
■ □ ■
――――――そしてまた、愚かな男たちがここにも。
「おい神父さんよ、まだなのか? これ以上よそ者にばっか任せてなんていられねえ!」
ナワジに率いられていた若者たちが、戦意を漲らせながらそれぞれの獲物を握りしめていた。
狭い通路で肩を寄せ合い、流れる汗をそのままにしている。
訓練されているとは言い難いが、統率はとれているようだ。皆の心が一つとなっているのだ。戦うのだ、と。
薄暗い廊下に光る、手帳型ステータスカウンターのモニター光。
彼等は設置された監視カメラによって、地上で行われている戦闘映像を垣間見ていた。
「そうだぜ! 俺達も戦うんだ!」
「もう少し、もう少し待ってくれ!」
急かされる神父の手から、神秘の光が漏れ結界を削る。
高位魔術士が施した広域結界の解除には、緻密な作業と、何よりも時間が必要となる。
「よし……開いたぞ!」
「よしきた! 皆行くぞ! 俺達も戦おう!」
「そうだ、戦おう!」
「行こうぜ皆!」
男達の湧き立ちに、神父は沈痛な面持ちで頷いた。
「そうだね……さあ、行こうか」
誰にも悟られぬようにして握り締めた手から、血が滴り落ちた。
その拳は固く、堅く――――――。
■ □ ■
軋む。
軋む。
鉄の軋む音がする。
指を一本ずつ、小指から順に折り曲げていけば、ぎしぎしと、鉄が擦り合う音がする。
不調を示す音だ。
全身はガムテープと補強ボルト塗れで、そこらの廃材を継ぎ接ぎしたような不恰好。
特に兜の左半分の損壊が酷い。首から上は左右非対象。右と左とで、完全に別物となってしまっている。
補強材だらけで、全体の重心バランスも滅茶苦茶だ。スマートだったシルエットは見る影もなく、初めてその姿を見た時よりもずっと鈍重でいて、分厚く、アンバランスなものへと変わり果てていた。
全身に纏わり付くような重みを感じる。
ここ数年、身体スキャニングを受けていないということもあるが、どうにも異物感が拭えない。補強材による体積と重量の増加に、各部が純粋に身体に合っていないのだろう。
整備はよくなされている。なされているが、あくまで限られた資材の中、出来る範囲での話しだ。
残存燃料だって残り僅かだ。死蔵していたのだから、当然、補給などされることもなかったはず。
モニターに映されるコンディションはイエロー。危険域ギリギリのライン。
戦うには適さぬ状態に、しかしナナシは頬を釣り上げた。
「ああ……いい。やっぱり、これだな。うん……“俺はこれだ”」
ナナシは確信を持って、指をぎしりと、鉄の音を鳴らして言った。
「なんだ、それは? 機関鎧……医療具か? ハ、ハハハ! これはいい!
何事かと思ったが、何だ貴様、そんなものに頼らねばならん程か! 自ら弱者であると喧伝するか!」
嘲笑う貴族。
機関鎧とは、本来は身体の一部を失った者のために開発された、医療用機材である。
一部ならまだしも、全身にそれを纏うなど、在り得ぬことであった。
なぜならば、全身を完全に機関鎧で覆うということは、それを用いて戦うということだからだ。
かつて冒険者の中には、身体の機能を失い、それでもなお冒険者という在り方を諦めきれず、機関鎧に縋る者もいた。そんな彼らは、みっともなく夢の残骸にしがみ付く、弱者であると蔑まれていた。
規格品や他者によって作られたパーツの寄せ集めである“機械”には、神の意思は宿らないことは、自明であったためである。
この世界において、機関鎧を戦いに用いることは常識外のこと、まじめにそんなことを考えるものは、愚者でしかなかった。後ろ指を差されて当然の者である。
ナナシへと浴びせ掛けられる侮蔑の言葉……しかしナナシは無反応。ためつすがめつ、自分の手を握っては開いてを繰り返す。
「こちらを……向け!」
貴族の男が憤慨と共に杖を振る。
杖の軌道に沿って、氷の種子が射出された。
その数は十を超え、先端は男の激情を読み取ってか、もはや氷の針と化している。
氷針が唸りを上げてナナシへと迫る――――――。
「げッ……ばああああ!?」
寸瞬。
鈍い音と共に、悲鳴が上がった。
地面を砂濡れになって転げ回るのは、貴族の男。
氷針の針ねずみになっているはずのナナシの姿は、そこにはない。
幾本もの氷針が、砂地に突き刺さり、霜を張っている。それのみである。
否、その中心には穴が……ナナシの足跡のみが残されている。踏み切りの跡だ。地面が罅割れ、陥没するまでの、強烈な。
ステータスが強化された人間をも迫る、機械式の膂力。高レベル保持者をして、“消えた”としか言い様のない挙動。。
生身では決して実現不可能な動きが、ナナシの姿を踏み切りと同時、世界から切り離す。
人の意識とは、連続性があるものではないのだ。誰もが自覚がない程に、隙を持っている。
理屈から言うなれば、その空白時間を移動すれば、まるで透明人間になったかのごとく動けるだろう。
だがそのためには純粋に挙動時間が足りない。ただの生身の身体では、次の空白にまで、とても追いつくことができない。
それを補うための、機関鎧である。
意識の隙間を縫う体術。絶対攻勢。
人機一体の術理がここに顕現したのだ。
鋼の拳を突き出して、ナナシは男の前にゆっくりと佇む。
「な、なんっ・・・・・・な、なんなのだ!」
折れた歯と鼻から噴き出す血を押さえ、男は狼狽したようにまくし立てた。
顔を傷つけられたことによる激怒ではない。
その姿に余裕はなく、目には恐怖が満ちている。
加護なき者では貫き通せないはずの“防御力”が、例えミノタウロスの一撃さえはじき返す魔法的防御が。
ただの拳で、撃ち貫かれたのだから。
「なんなのだ、お前はああああ!」
構えた拳をゆらりと降ろし、ナナシは男の前に、自らの姿を誇るように立った。
それは異形の人型だった。それは灰一色の、鉄の塊だった。“鈍色”の。
鋼を無理矢理に人の鋳型に押し込めたような、人の似姿。
左右非対象でいて滑らかさと鋭角さを併せた形状は、矛盾を孕んでいて異様な印象を見るものに与える。
そこいら中が鉄板とボルトと、あろうことかガムテープでさえ補強されたような有様は、しかし弱々しさを微塵も感じさせない。
肥大した左右の腕には、杭が突き刺さっていた。それは、まるで暴力を具現化したような攻撃性を発している。
――――――鎧だ。
一分の隙も無く、鋼の鎧でその身を包んだナナシの姿がそこにあった。
「知っているはずだ」
静かに、鉄兜の内で籠った声で、継ぎ接ぎの鋼の人型は答えた。
「ただの――――――『完全装鋼士』だ」
全身に鎧を纏った戦士――――――完全装鋼士。
これこそが、ナナシとツェリスカの真なる姿。
油と鉄が擦れる臭い。錆びたボルトが軋む音。人工筋肉が膨張する熱……ああ、とナナシは感嘆の声を上げた。
ああ、これだ。この感触だ。
堅い手応え。装甲内部の冷たさ。ナナシは無言で歩を進め、拳を軽く握り締める。
鉄の軋む音が聞こえる。魔力回路の駆動音が木霊する。
人口筋肉の膨張が四肢に活力を与え、バイザーに表示される情報が視界認識の領域を拡張する。
神の加護に替わる、魔導科学の結晶……機関鎧。
鋼の威容が立ち塞がっていた。
「こっ、これは何かの・・・・・・何かの間違いだ! そうに違いない! この私が、氷華の将が殴り飛ばされるなど・・・・・・反逆者などに触れられるなど――――――」
己の二つ名を口にした男へと、冷静さが戻る。
混乱の最中にも杖を手放さなかったのは、流石軍属であるためか。
杖を振りつつ、氷針を操作する。
「ありえる筈がない!」
再装填された氷針。その数は二十を超える。
先ほどの倍の数の氷針が、それぞれが別機動を辿り、空を斬り音も無く、ナナシへと殺到する。
超速と追尾性能を同時に併せ持つ氷針は、例え防御されたとしても防御面を支点とし、破砕と打撃魔術へとシフトする特性を持つ。
だが、目視により標的への狙いをつけているため、移動距離が十分ではない初動にてかわされては、虚しく失速し地に墜ちるという弱点が露呈した。
故に男は氷針に距離を取らせる。氷針が装填されたのは天。垂直に並び立つ氷針の群れが、空にあった。
一端天空から垂直に“撃ち”降ろし、そして地を這うようにして跳ね上げる。加速と誘導距離を稼ぐ射出法である。
水平に撃ち抜くよりも、雨のように垂直に撃ち降ろし、刺し貫く。外れたとしても、すくい上げるように蛇の如く地を舐める軌道へと変化する。逃げ場は無い。
鎧を装着したことにより接触面が増えたナナシは、男にとって良い的だ。
避ければ延々と追尾し、撃墜したとしても炸薬となる氷針。
ナナシの執れる選択肢は避け続けることしかない。
超速で迫り来る細長い飛翔体を、衝撃を殺して受け止めるなどと、現実的ではない。
氷針に十分な加速距離と誘導の目算を付けたならば、もはや恐るるに足らず。
「ありえる筈が……ないのだ!」
氷針はその全てが定められた神意通りに機能し、垂直に射出。
先手を打ち時間差で射出された氷針が、地を舐めるように這い、ナナシを四方八方から刺し殺すべく機動を変える。
天、地。四方八方の、氷針による殺劇結界。
鋼の鎧を紙屑のように引き裂いて、装着者を一切の躊躇も慈悲もなく凍殺せしめる……はず、だった。
「……は、はあ?」
男が思わず間抜けな声を上げたのは、仕方のない事だろう。
男の見たものは、男の信じて来たあらゆる常識を超える、常軌を逸した光景だったのだ。
「ああ、くそ……腕が重い。俺も鈍ったな・・・・・・現在のコンディションは?」
『稼動率68%――――――全機能が約四割以上低下しています。気を付けて下さい』
「ああ、解った……やっぱりこうじゃないとな」
“くるくる”と、“それ”を弄びながら、何でもないという風に独り語ちるナナシ。
否、それは独り言ではない。ナナシに応えるよう、澄んだ機械音声が兜の内側に、ナナシだけに聞こえる声で響いている。
「これでいい。“いつも通り”の絶不調で・・・・・・つまり、絶好調だ」
『お役に立てて幸いです』
機械音声が澄んでいるなどと笑い話でしかないが、しかしそこには紛れもない感情が込められているように、ナナシの耳には聞こえていた。
「な、何をした……“何をしている”んだ、貴様は!」
「見ての通りさ貴族様。運動エネルギーを削いでる。錆もとれて、ようやく馴染んで来たとこだ。さっきみたいな“失敗”はもうしないさ……次は仕留めてやる」
男は二の句を告げず、ナナシを凝視した。
ナナシが一体何をしたのか、全く理解出来なかった。
男にはナナシが、つい、と何でもない風に、まるで毎朝の日課の散歩のように軽やかに足を踏み出しただけに見えた。
次の瞬間、ナナシの両手の指と腕には、まとわり付くように氷針が“くるくると回転していた”のだ。
腕に、指に、肩に、首に、くるくると氷針が回転している。
まるで大量のナイフでジャグリングをする道化のようだ。
命のやり取りの場でなければ、大道芸の催しにしか見え無い、悪夢染みた光景である。
いや、原理は解る。
相手の防御を支点として氷針が急方向転換、または衝撃を感知して破裂するならば、重心の真芯を捉えて柔らかく受け止め回転させてやれば、氷針は運動エネルギーが消失するまで風車のように回り続けるしかない。
ナナシがしたことは、それをただ実行しただけだった。
「あ……ありえぬ……」
針の推進力を回転させ続けることで処理する。
だが、それのどれだけ有り得ざることか。現実離れしていて、目の前の光景が男には信じられないでいる。
スキルでは説明の付かない現象。
防御したのでも、無効化したのでもない。
受け流している。現在進行形で。
それは、人間自身の力によって行われる業。
男は大陸史上初めて、正しくその脅威に直面した。
絶対であるはずの神意を、人の手で“いなそう”などと。
馬鹿な、と男は唖然としたままに何度となくつぶやき続ける。夢ならば覚めよと願うかのように。
氷針は大小様々であり、捻れたものや欠けたものまであったのだ。二十を超える氷針の、その全ての真芯を捉えるなど、完全に理解の外。
人外の領域である。
何よりも、猛スピードで接近する飛翔体の重心を寸分の狂いなく指で腕で肩で打ち据えるなど、人間に――――――神に見放されたレベル0の者共に可能な芸当であろうか。
有り得ない、と男は後ずさる。
「これが自動的に射出される類の魔術ならもうお手上げだったが、目視で狙いを付けているなら話しは別。
一度喰らって速さも覚えた。仕組みも理解した。お前のクセも……後は“先に”放たれる殺気の軌跡に、ただ手を添えればいい」
武の理術。深淵無比の領域へと、また一歩。
ナナシは両腕を舐めさせていた氷針を空へと放り、お互いに打ち合わせて砕く。
甲高い炸裂音を立てながら、氷針は次々と砕け散った。舞い散る霜の美しさは、しかしおぞましさにしか感じられない。
男には、当然の帰結だとばかり肩を竦め何でもないと言ってのけたナナシが、正体不明の化物に見えたのだろう。
「馬鹿な……馬鹿な、馬鹿な! 馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な……こんな馬鹿なことがあるか!?」
半狂乱となって杖を振り、意味の為さない言葉を泡と共に喚き散らす。
再び出現する数え切れぬ程の氷針。天を冷気が覆い尽くす。
男は持てる技術の粋を尽くし射出角やタイミングをずらし針を撃ったが、しかしまた、再びその全てはナナシの指に腕に絡め取られていった。
氷針は回転させることなく、そのまま受け流し、捨てられていく。飛来する運動エネルギーの、その“流れ”さえ見切った故だろう。
男の眼には、ナナシが眼にも止まらぬ速度で氷針を叩き落していくように見えていた。
二度、三度、何度繰り返しても同じ結果。
至極ゆっくりとした足取りで、ナナシは男へと近付いていく。
「一度殺された。もう容赦はしない。お前の驕慢を……根こそぎ叩き潰してやる」
余裕はもう奪ったようだからな。そう言って、ナナシは腰溜めに構えを執った。
先の一撃、無名戦術最新奥義【鴉雀無声】の完全装鋼状態【武装纏成】――――――『フィスト・バンカー』は氷の壁を貫くに至ったが、男には届かなかった。
右肘の五連リボルバーに装填された杭の一斉射出による一撃は、絶大な威力と突破力を誇る。だが今回はそれが仇となった。氷の壁を砕かずに、突き刺さってしまったのだ。貫通力過多。腕だけが氷壁を抜け、身体の前面が壁にぶつかってしまったのである。
正拳突きは単純に見えてその実、腕部のみで打ち出す技ではない。
とりわけ脚部から背筋にかけての動きが重要となるのだが、氷の壁に阻まれた状態ではいかに杭で強化された一撃であっても、十二分の威力を発揮することはなかった。
ならば、とナナシは構えを変える。
腰を落とし、腰溜めに両手を握り合うような構え――――――無名戦術が静の構え【磨石】。
そこから放つのは、対鋼体型魔物用奥義。
無名戦術最新奥義【永永無窮】。【武装纏成】――――――。
「【バリア・・・・・・ブレイクゥアアアア】!」
繰り出された、渾身の肘鉄。
衝撃音は一つ。
しかし、二重に込められた別種の衝撃が、氷の壁を粉々に打ち砕いた。
敵投射前面の腕部による肘鉄に、間髪入れず握り合っていた掌を打ち合わせることにより、一瞬で異なる二重の衝撃を打ちこみ内部にて乱反射させ、敵の外殻を砕く。
その技の正体は、衝撃の重ね合わせにより敵の防御を内から砕く、多重肘鉄である。
砕けた壁の向こう側で、男が唖然としてこちらを見ていた。
「ひ――――――ひいあ!」
数瞬後、慌てて剣杖で斬りかかる男。
その判断と体勢の建て直しの早さは、流石に将を名乗るだけのものはある。
ナナシの無名戦術とは魔物との闘いに特化したものだ。
対人用の護身術とは相性が悪かったが、だがこれだけ技量が離れていれば無意味である。
鎧袖一触。
男の剣杖はナナシの拳槌によって叩き落とされる。
あたかも“杖が逃げていった”のではないかという程に軽い感触。
眼前に迫る鋼の胸板。
ガラスの双眸が、男を至近で睨み付けている。
視線に殺される。
男の感じた恐怖は、この瞬間に限っては事実だった。
ガラス越しに感じる眼力は、物理的圧力を伴い男を圧倒する。
「あえ――――――?」
気圧されていた間、意識が飛んでいたことは男にとって幸運だったであろう。
自身の顔が下アゴからごっそりと抉り取られる様を感じずにすんだことは。
「ひゃ・・・・・・は・・・・・・はほ・・・・・・ふぁらひのふぁほはあああ!?」
血飛沫が舞う。
ナナシの手刀が、男の顔面を袈裟懸けに切り落としていた。
「浅い・・・・・・二度までも!」
苦りきった舌打ちが鉄兜の中で響く。
ナナシは脳天を唐竹に真っ二つに割るつもりであった。
手刀を振り下ろした瞬間、男の膝から力が抜けたのである。
男は意図せずして無意の・・・・・・無拍子と呼ばれる体術にてナナシの攻撃を回避したのだ。
次は仕留めるなどと嘯いてこれか、とナナシは自らの失態と未熟に歯噛みする。
何が起きるか解らないことが戦いの妙である。
「ひ―――――ひひ、ひひひひひひ!」
追撃の足を止める。男の様子がおかしい。
けたたましい笑い声を上げ始めた男。
この程度で狂ったのかと仮面の下で渋面となったナナシだったが、男が懐から取り出した物を認め顔色を変える。
焦りに喉を詰まらせたのは、ナナシだった。
「もう・・・・・・いい・・・・・・このような無様を晒したのだ。いい恥晒しだ。誰もが私を笑うだろう。何より、私自身が私を許さん」
男の言葉が戻っている。
頬に当てた手から淡い光が迸っていた。
回復魔術である。
「ならば私がすべきことは、あの方に・・・・・・セリアージュ様に華を捧げること。それのみよ!」
男が取り出したのは、先端が鏃状になったアミュレット。
かつて、どこかの祭壇で。
ダンジョンの中で産まれ、暮らしていた犬耳の少女が囚われていた教団の。
学園の地下に巣くっていた、誰も知らぬ巨悪の。
ナナシが魂を幾度となく砕かれた、恐怖の象徴が、そこにあった。
「あああ見ていて下さいセリアージュ様! 貴方への愛を! 我らが神への忠誠を! 今ここに証明してみせましょう!」
――――――敵だ、と。
あれは何をもってしても討ち滅ぼさなくてはならない、敵だと。
終ぞ男には感じることのなかった脅威。
それを見た瞬間、ナナシは感じた。
思うよりも早く、本能がそう判断した。
そしてナナシの拳は、本能よりも速かった。
討ち鍛えられた業を鋼によって支えられた拳。
ナナシの拳が届く前に、自らの腕へとアミュレットを突き刺したのは、男の狂信が為せる業だったのだろう。
「しまっ・・・・・・!」
「ひひひ、ひひひひひ! ひひひひぎびぎゃごびゃ――――――!」
アミュレットの刺さる男の腕が内側から膨れ、独りでに動き始める。
指が蜘蛛の脚のように蠢くと、そのまま這いずり、飛び跳ねては移動していく。
まるでそれ独自で生きているかのようだ。
ボコボコと音を経てて、男の身体が沸騰していく。
「一体、何が――――――!?」
ナナシが見たのは、吐き気をもたらす光景だった。
死に体だった男の身体が泡立って、黄色い脂肪を撒き散らしては、小さな泡を破裂させる。
体液を辺りに撒き散らしながら、男の身体は変質を始めていく。
渦巻くエネルギーは、高レベル保持者の魔力であっても有り得ぬ程の量。
局所的な嵐となって、天高く雲を貫き、世界を震わせる。
神の息吹を感じた。
鼻がモゲ落ちそうな程の、臭気を。
そして、ナナシがたたらを踏んだ一瞬の躊躇で、全ての変異が完了していた。
一瞬である。
時間にして、二秒も満たない時間。
男が変異する様を、ナナシが背に庇っていた幼子達が、しかと見ていた。
見てしまっていた。
この一瞬を、ナナシは命尽き果てるまで後悔することになる――――――。
「そこまでか・・・・・・? そこまでしてお前は・・・・・・何なんだ、お前達は。一体、何なんだ!?」
男が吐いた同じ問いを、ナナシもまた。
芋虫。
そうとしか言い様の無い。
巨大な芋虫の化け物が、そこに在った。
何万という足の生えた、虚栄心と慢心でぶくぶくと肥え太った、醜い芋虫の化け物が。
「『神降し』かあああ――――――ッ!」
人の肉を神の意の器とし、この世の理から外れた化物へと転じさせる外法。
ナナシはそれを知っていた。
芋虫がその足を蠢かせ、走り始める。
巨体に見合わぬ速度。
「チィィッ!」
ナナシは手首からアンカーを射出。
芋虫の背へと食いつかせる。
緑の体液が噴き上がるのにも構わず、芋虫はただ走る。
否、地面を食いながら真っ直ぐに、街の中央を目指して走っていく。
ナナシは空中を振り回され、引きずられるがまま、廃屋へと次々に叩きつけられる。
鎖を手繰り寄せ、身体に巻きつけては固定する。
芋虫の化け物の背へと辿り着くナナシ。触れた表皮は薄く、巨大な幼虫はその皮下に、おぞましいものをたらふく詰め込んでいるのだろう。
触れた表皮が変色し、硬質化していく。
“サナギ”に成らんとしているのだ。
はらぺこ芋虫・・・・・・人間の際限なく膨れ上がる欲望が形となった、偽神。
ならば、この芋虫が成虫になったら、何が生まれるというのだろう。
「ぎびび■■―――――――――ぎびびびちゃにちょぎょべびょじゅ■■■!」
人間には理解不能な鳴声を上げ、芋虫は往く。
ナナシの疑問に回答するかのように、ぱんぱんに張り詰めた背中にヒビを入れながら。
隙間から見えた“中身”は、ナナシをしても怖気を振るうもの。
かつて己の身を幾度と無く蹂躙した、触手の群れが蠢いていた。
氷を引っ掻くような不快な鳴声が、周囲に木霊する。
吼え嘆きながら、街の中央にそびえ建つ塔へと突っ込む芋虫。
狂ったような速度で身体を叩きつけていたのは、もはや“頭”が無いからなのだろう。
ナナシは衝撃で中空へと再び投げ出され、鎖が引き千切れる。
「ツェリスカ! スラブ・システム、起動!」
『了解。スラブ・システム起動します』
ツェリスカの合成音声と同時、ナナシの纏う機関鎧の第一装甲へと亀裂が入る。
それぞれが展開、スライドし、重ね合わさっていく装甲。それはまるで雪崩のように、次第に大きく崩れその形状を変えていく。
剥き出しになった魔力経路に圧搾魔力が過剰に流され、表層が赤熱化。熱が周囲の空気を歪め、陽炎が立ち込める。
機関鎧ツェリスカの、高速機動形態である。
その姿はさながら赤い華のようだった。“彼女が”愛した華のように。
「行くぞツェリスカ!」
『いつでもどうぞ』
瞬間、中空に揺られていたナナシの姿が掻き消えた。
否、消えたのではない。
爆発的な加速が、金属と魔力の微粒子が形作った人型の残像を残しただけに過ぎない。
「グ、ウ、オ、アアア――――――!」
慣性と風圧の暴虐に歯を食いしばり、雄叫びを上げる。
駆ける、駆ける、鋼の塊が空を駆ける。
全身の魔力噴射口から圧搾魔力を噴射し、ナナシが天を駆けて往く。
圧搾魔力の瞬間噴射は空気の対流を造り出し、ナナシへと擬似的な足場を提供することを可能とする。
羽もなく天を走る人型の威容たるや、不自然さの中に美しさが入り混じる不可思議な魅力で見るものを惹きつけるだろう。
それは、化け物と成り果てたものにとってさえ、例外ではないのかもしれない。
「ぶちょがぎゃばががぶ■■■■■■―――――――――ぶちゃりょあびいびび■■■!」
あるいは自らの天敵に向ける、一種の情動とも言える感情か。
ナナシへと呼応するように、芋虫の背が爆ぜた。
青い奔流が迸り、その背から氷の華が咲き乱れ、塔を覆っていく。
塔を覆い尽くした青い華は、冷気を放ちながら、しかし、美しかった。
人の命。善性と悪性、清らかさと醜さを等しく吸って美しく咲く華・・・・・・捧げられたのは一人の女であることを、ナナシは知っていた。
くねる枝葉と散る花弁を避けながら、手首からアンカーを氷華へと打ち出しつつ無理矢理に身体を引っ張り上げると、ナナシは氷華の遥か上空にまで駆け昇っていた。
美しさに隠されたおぞましい触手が、ナナシを迎撃せんと蠢いていた。
ならば。
魔力噴射により空中で一瞬静止したナナシは、蹴り足を放たんとする構えを執る。
無名戦術最新奥義――――――。
「【ァアアアアスッ・・・・・・ィイイイタアアアアアア――――――ッ!】」
垂直に。
蹴り足を伸ばしたまま、墜ちる彗星のように尾を引いて。
ナナシは一直線に“舞い墜ちた”。
静と動、両の構えより放たれる蹴撃は、足裏全体を使って対象の間接を踏み締めることにより、間接の稼働を阻害し、対象の動きを封じる。
全力で踏み“着ける”ために、密接態勢でなければ放てぬそれは、蹴りと言うよりも関節技の側面が強い、変則蹴撃である。
――――――垂直蹴爆撃。
それが無名戦術最新奥義【清淡虚無】の正体である。
「ウ、オ、オオオオオオアアアアアッ!」
矢のように降り注いだ赤い華が、迸る青い奔流を真っ二つに踏み裂いて、氷華を散々に、粉々に砕いていく。
貴族の男の驕慢も慢心も全てを含めた一切合切が、ナナシの宣言通りに完膚なきまでに踏み躙られた。その全ては、根元まで文字通りに根絶されたのである。
それを呆と見上げる二人の幼子。
シュゾウと、そしてエルフの少女は、舞い散る霜と、空に残る紅い残像の美しさに目を奪われていた
一対の眼は、己を救った輝きを、純粋に瞳に映していた。
そしてもう一対の瞳は、その輝きの放つ力強さに見入っていた。
否・・・・・・魅入られていた。
真実そうだったのかもしれない。
華は散る瞬間が、最も美しいのだから。
銀世界の中、紅い華が一輪だけ咲き誇っていた。
■ □ ■
そう、と女が呟いた。
酒気が混じった気だるげな声で。
「男って、本当に馬鹿よね」
送りつけられた青い薔薇を、まるで興味がないと手の内で弄ぶ。
「でも、綺麗だったわ。ええ・・・・・・本当に」
優しく荒々しい海のような豪奢な金の髪。
女の即頭部から、金髪をうねらせて、魔力で編まれた角が現出する。
龍角である。
「馬鹿な男達。愛してあげるわ。みんな、みんなね・・・・・・」
ふう、と青薔薇へと息を吹きかければ、たちまち薔薇は萎れて散り、魔力の粒へと還っていく。
「お嬢様」
「ええ、わかっているわ、アルマ。もうすぐよ。もうすぐ・・・・・・」
傍らに侍るメイドへと、女は微笑みかけた。
それは氷の華よりもなお冷たく、残酷な程までに美しい微笑みだった。
「殺しなさい。たくさん殺しなさい。もっともっと殺しなさい。私が全て受け止めてあげる。だから早く・・・・・・早く、私を殺しに来なさい」
国王婚約者。
王妃の座が約束された女。
カスキア合衆国統括魔術軍、主席幕僚長。
セリアージュの微笑み――――――。
■ □ ■
ナワジたちが地下から外の様子を窺った時には、すべては終わっていた。
彼等が見たのは、片手で貴族の男・・・・・・であった肉の塊を見下ろす、鋼に身を包んだ何者かの姿。
貴族の男の顔は、元の形が解らない程にひしゃげて変形していた。
手足は潰れ、あるいは千切れていて、胴体のいくらかも欠けている。肉の団子だ。そんな状態で生きていることが奇跡である。奇跡的な不幸であった。
まとわりついていた襤褸布に、そこに金糸が含まれていたことから、かろうじてこれが貴族の男であると判別できる。
何やら、意味の解らない化け物と化していた。
これをもはや人間と言っていいものか。
時折思い出したように呻いているのは、なまじ高レベルである分生命力が影響し、自動修復魔法でも効いているのか楽に死ねず、苦しみが続いているのだ。
周囲の破壊痕は大たるもの。しかし鎧姿の男はどこか気落ちしたような、気だるい緩んだ空気さえ漂わせていた。
気の進まない仕事をこなした後のような、倦怠感と疲労感が伝わる。
彼らは皆、その男がレベル0であることを知っていた。
貴族に立ち向かえば、自動的にそうなってしまうのだ。当然のことであった。
当然のことであったが、しかしここで一つの理不尽が起きていた。
高レベル帯の貴族を妥当した。あの鎧を身に纏い。
有り得ない光景である。だが現実を見るがいい。この結果が全てなのだ。
おお、と誰かが声を上げた。
それは次々に感染していき、期待と希望を含んだ歓喜の雄叫びとなるまでそう時間は掛からなかった。
「“俺でよかった”な。“まだ人間の形でいられた”。変質してそう時間が経ってなかったから、上手く分離できた」
「ひ、ひゃめへ、ひゃめへふは」
「本当にしぶとい奴。理性が残ってるのか・・・・・・降ろした神が低級のものだったか。
華の将だから、そうか、蝶の神様ってとこか。そりゃ、人の身に押し込められるのは、幼虫しかないよな。
安心しろよ。俺はもう、お前に手を上げることはない。そう、俺はもうお前には手を出さないさ。俺はな」
そう言って、鎧の男は貴族の男を・・・・・・貴族の男だったものを、穴倉から這い出てきた難民達へと、無造作に蹴りやる。
「好きにしろ」
鎧の男が一体何者なのか。
あの鎧はナワジが後生大事に保管していたものではなかったのか。
どうやって貴族を、高位魔術師を倒したのか。あの鎧さえ着れば、同じことが出来るのか。
組織員の若者たちに疑問が浮かぶ。
だが、しかし。
一番の問題は、この化け物をどうするかということ。
「懺悔するがいい。神にでも、俺にでもなく、彼らへと」
「ひ、ひぃぃはああ! ひゃめへふへ、ひゃめへふへぇぇええええ! いいイイイイッ!」
化け物の断末魔の叫びは、耳にしばらくこびり付いて離れないような、暗い泥に塗れていた。
だがそれも、振り上げたスコップが、ツルハシが、肉を叩く音に飲まれて消えていく。
今までの鬱憤を晴らすかのような凄惨な行いを、しかし鎧の男は・・・・・・ナナシはそれを止めなかった。
視界に入れないよう離れ、痛みに涙しているオレイシスを見やる。
情けなく喚いて泣いているが、それは元気な証拠だろう。どうやらオレイシスは見た目に反して軽傷だったようだ。
貫かれたように見えたが、腹に仕込んだ鉄板がギリギリで食い止めたらしい。
用意が良いのは実力の内であるか、用心せよという心得は冒険者時代に身に付けたものに違いない。
そして鉄板程度で魔術を防げたのは、ナナシが貴族の男を仕留め損ねた理由と同じだ。
体幹がしっかりとしていないため、自然とふらつき、衝撃を消す方向へと身体が動いたのだ。
お互いまた生き残ったな、とナナシは皮肉気に笑った。
「ナナシ! お前・・・・・・お前!」
怒声が響く。
焦ったかのような女の声は、ナワジのもの。
「お前・・・・・・お前・・・・・・!」
ナナシの鎧姿を見たナワジは、そのままナナシへと駆け寄ると、わなわなと震える手を兜へと添える。
豪傑な女に似合わぬ、おっかなびっくりといった体。
夢よ覚めるな、と願う少女のような弱々しさ。
怒っているような、笑っているような、どちらともとれない顔。
ナワジはそのまま罵倒を重ねんと口を開け閉めしていたようだが、しばらくして急にぴたりと口を閉じ、はらはら両眼から涙を溢れさせた。
自分でも何故泣いているのか解らないようで、唖然と目元を擦っている。
「お前ぇ・・・・・・」
天を仰いで、唇を噛み締め、ただただ流れる涙に任せるナワジ。
感極まっての涙だった。
「先輩・・・・・・ただいま、帰りました」
「遅ぇんだよぉ・・・・・・馬鹿ぁ・・・・・・」
「長らくお待たせして、すみません」
ナナシは戸惑いがちに指で涙をすくったが、鋼の指は冷たく堅く、女の柔肌に触れるのには当然適してなどいない。
いてえよ馬鹿、とナワジは文句を言ったが、表情には拒絶の色はなかった。男の指に手を添え、させるままにしていた。
「戦い続けること。それが君の答えなのか、ナナシ君」
「神父様・・・・・・」
芋虫男の解体ショーから目を背けるようにして、神父がナナシへと語りかけた。
ナナシと同じく、その手は血に濡れていた。
きっと戦っていたのだろう。この場に張られていたのは、少数の人間を炙り出しては狩るというタイプの結界だった。恐らくは“出入り口”を守っていたのだ。
ナナシは聞くだけ野暮だとそれを無視することにした。戦いの残り香など、進んで嗅ぎたくはない。
神父の問いに、じっと自らの手を見つめ、開いては閉じ、開いては閉じを繰り返し、最後にそれを堅く結んで、頷いた。
どこか疲れ果てたように、諦め果てたように。
「はい。俺は戦います。戦って戦って、戦い抜いて。戦わなくても済むようになるまで、戦い続けます」
「それは何のために? 誰のためにだい?」
「俺を守るために。子供たちのために」
「そうか・・・・・・だが」
ナナシは首を振る。
「わかっています」
視線の先には、兄に飛びつく妹の姿があった。
シュゾウとギンジョウ。
兄は暗い目をしていた。暗く輝く目を。水を含んで輝く刃物のような。
致命的なところにまで踏み込んで、もはや帰ってこれない場所にまで行ってしまったかのような目を。
「ならばもう、何も言うまい。
屍の山を築き上げ、その頂きに君臨し続けたならば、あるいは神の喉元へと届くかもしれない。
そう信じ続けなさい。ナナシ君・・・・・・否」
否、と神父は続けた。
宣言するように。かつてナナシに、その名を授けた時のように。
「人鎧一体となりし殺劇の皇、『纏鎧皇』よ――――――!」
鋼が軋む。
これは産声だ。
小さく、しかし鋭い鉄の声だ。
この刃は天に届くだろう。
きっと、あらゆる何者をも切り捨て血に塗れて。
ナナシは天を仰いだ。何かに祈りたい気分だった。
天には代わらず、偽星となった不死鳥が佇んでいた。
■ □ ■
――――――『纏鎧皇』。
後の世で、邪悪の代名詞として使われるその名は、知名度に比べてそれを冠する彼の人を表す記述が驚く程に少ない。
執拗に検閲が繰り返され、消去に消去が重ねられ、記録から彼の人格の足跡が全て抹消されてしまったのだ。
名前すら残されてはいない。
あるいは、初めから無かったのかもしれない。
彼が何処から来て、何処へ行ったのか。誰も知らないし、知ろうともしない。事実の羅列だけでは、推察すら出来なかった。好き勝手に雑多な説が並ぶのみである。
名が示すよう、鎧が素顔共々人間性まで覆い尽くしてしまったのか。
唯一確かな事は、歴史上初めて纏鎧皇の姿が確認された場所が、かつて地下街と呼ばれた地であったという事だけ。
そして纏鎧皇は、この場で反乱組織の旗印として担ぎ上げられることとなる。
治安維持の名目で民族浄化の憂き目に遭って来た彼等であるが、果たしてこの時には想像していたのだろうか。
纏鎧皇の裏切りに会い、全滅するなどと。
纏鎧皇の血塗られた道が、この時この瞬間から始まったのである。
やりすぎかというくらいに必殺技名や名前やらを考えていたら楽しさがふつふつと湧き上がってまいりました。
それでは、また次回に!