地下53階
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大変申し訳なく思います……が、感想には全て目を通してありますので、ご安心を
皆様のご感想がありがたい限りです。やる気が湧いてきますね!
スローペースですが、お付き合いして下さる方々へ、この場をお借りして感謝を!
戦いに意識を細く尖らせていく中では、感情さえ削ぎ落としてしまったような感覚に陥る。
端的に言えば集中という作業であるが、これをナナシは、“捨てる”ものである、と捉えている。
集中とは、捨てることである。
雑念、懸念、高揚、期待、恐怖、そして絶望……追い詰められた人間が最後に行き着く場所が、戦いの場であることはよくあることだ。
死にたくないから戦うのだ、という理屈は矛盾しているように思える。死にたくない、という理由さえ、戦いの中では捨て去られてしまうものだからだ。
では、人はなぜ、戦うことを選ぶのか。
それは、捨てたいからなのだとナナシは理解していた。抱え込んだ全てを、忘れ去りたいからなのだと。
逃げ出したいから、戦うのだと。
“闘避”と呼ぶべきか、“逃争”とでも呼ぶべきか。それに身を浸している間は、救われる。
前へ、前へと、逃げている間だけは。
「振り向いてはいけない……か」
軽く握り拳を作れば、あらゆる雑念が、捨て去ってはいけないものまでもが、頭蓋の内から飛んで消えていく。
ナナシは踏みしめた足を軸とし、身を半回転させると、死角から忍び寄っていたゲイルビーストへと視線も寄越さずに腕を振った。
手刀打ちである。
改造された魔物特有の、キメラめいた機能。複眼に、肺を発火気管にでも入れ替えたのだろうか、咥内に溜め込まれていた火気に腕の産毛が焼ける感触がしたが、構わずに振り切る。
喉を下顎ごと斬り飛ばされたゲイルビーストは、もんどり打って倒れると、そのまま動かなくなった。
足元をかぶりつこうと跳んでいたゲイルビーストは、踏み切り回避不能になったところをするりと足を上げられ、牙ががちりと空を噛む。
いっそ優しくゲイルビーストは、地にその顎を着けた。ナナシに踏み付けられて。
もがこうと、万力のように締め付けられ、身動きが取れない。そのまま頭部を丹念に踏み砕くことで処理された。
遺伝子操作により挿げ替えられた複眼が、圧力によって外部に飛び出し転がっていく。
――――――2秒。
これら一連の動作が遂行されるまでの時間である。
たった数秒で、ナナシはゲイルビースト達を仕留めたのだ。
ゲイルビースト達にしてみれば、あの子供と同じ方法で喰い殺してやろう、という嘲りの意味を込められた戦術軌道だったのだろう。
ただ、ナナシは常ならない相手であった。
レベル恩恵を受けられぬ環境下での対格上戦は、ナナシにとって当然ともいえる状況であり、その戦闘経験は膨大な蓄積がある。この結果は然るべきものだ。
大きく息を吸い、吐く。次第に深く、細く。調息をした後、残心。
ナナシは体形厳然として、無名戦術動の構え、落蓋を堅持する。
意識を細長く張り巡らせていると、関心したような声と、柏手を打つ音が。
「ほおう……大口を言うだけはある。魔獣を歯牙にもかけぬその実力、これは私も危ないかな?」
貴族然とした男は、単身乗り込んできた高位魔術師である。
爽やかに笑いながらも、その目に暗い輝きを灯している。
よくある手合いだ、とナナシは内心溜息を吐いた。
これまで戦ってきた相手は、こんな、欲と狂気に目を爛々と輝かせたような奴等ばかりだった。
ただ、こうして正面から、一切の消耗もさせず十全の状態で相対するのは、ナナシにとっても初めての経験である。
卑怯者のそしりは甘んじて受けよう。
この数年内、ナナシの戦いは、その全てが奇襲不意打ちを中心とした、ゲリラ戦であった。
「君の働きに敬意を評し、私から名乗ることとしよう。我が名は」
「ああ、いいから。すぐ忘れる名前なんて必要ないだろう?」
「貴様ッ……! 二度も貴種の言葉を遮りおって……! 楽には死なせんぞ!
いいか! 貴様が目の前にしているのは、メディシス家が龍姫、セリアージュ様が率いる東部魔術士団の将、『氷華』の二つ名を持つ者ぞ!」
氷華。
その二つ名はナナシも聞き及んでいたものだった。
決して出会うべからざる名、として。
つまり、全滅必至の殺し名である。しかも、楽しんで殺す類の。
ナナシは息を吐き、諦めたようにして頭を下げた。卑屈な笑みを浮かべたまま。
相手を舐めきった態度である。
「はん。それは大変失礼を……お噂はかねがね。しかし将の割に、お一人であると見受けるが?」
「貴様は、極限にまで己を高めた魔術士を知らんようだな。本来我々に部下など必要ないのだ。
全てが己一人で事足りる、故に、貴族。至高たる魔術士なのだ。手足が必要ならば魔物を使役すればよく、破壊が必要ならば言わずもがな。見るがいい!」
氷華と名乗った貴族の男が、胸に挿していた青い華……一体何の花であるか解らぬそれを振りかざせば、無数の青白い綿毛が辺りに舞う。
中空をふわりと舞ったと思えば、急降下、円錐状に尖った下部が地面へと突き刺さる。
まるでドリルのように土に捻り込むと、数秒も待たぬ内に、綿毛は巨大な花へと成長した。
ナナシの背丈ほどもある、氷で出来た花である。
なるほど、氷華の由来はここにあるのだろう。
近付いてきた綿毛を手の甲で払った瞬間、そこに赤い、別の花が咲いた。
血液の花である。
皮膚下を流れる血管が、破裂したのだ。
「これは……」
この程度の痛みでは、ナナシは少しばかり呻くだけで小揺るぎもしない。
しかしこの手の甲に残った感覚は、幾度も経験したものだった。
独特の感覚。ナナシに、地球人に備わった特性が発動したもの。
結界破り、神意遮断の感覚である。
恐らくは、あの綿毛の中に、花の成長過程を術式として織り込んで一つの形としているのだろう。表面の“膜”を破ったことで、中身が炸裂したのだ。
ただ本人が願い供物を捧げれば、術式の構築や計算式の代返を神が行い、術として返す。
これこそが、スキルを“使う”、という現象だった。
消費されるのは魔力のみであり、集中や、その瞬間の環境に合った魔術式を組み上げる演算も、何も必要はない。
手の込んだ遊びだ、とナナシは呆れすら覚えた。
「そう、これが氷華だ。本来ならば触れただけで半身を抉り飛ばす威力があるが、ふん、何をして逃れたかは解らぬが……」
男が青バラを振れば、氷華が震えを起こす。
地鳴りだ。
氷華が、魔力を吸収して、それを地面に打ち込んでいるのだ。
「不死鳥……神の星から降り注ぐ魔力を糧にして、氷華は咲き誇る! 地の果てよりからも見渡せるような、大輪の氷華を咲かそう。
その時が貴様達の最後! そして、それが我が功績であると! 知らしめるのだ! そう、あの方に――――――」
男の独白を前にして、ナナシは裂けた手の甲を、じっと見詰めていた。
魔術現象、それも結界に属するそれを無力化できなかったのは、物理現象として顕現してしまったからか、それともとうとう容量を超えてしまったからか。
ただ、この痺れるような魔力波のパターン。
まるで、どこかの“優等生”が練ったかのような、メレンゲのように緻密な魔力。
心の奥底が、酷く疼いた。
「セリアージュ様に、我が勝利を捧げるのだ!」
噴水の様に綿毛が吹きだし、当り一面が、荒れた砂の色から氷の花畑へと変わっていく。
「咲き誇れ! 氷華よ!」
一つの綿毛に閉じ込められた結界術式が大地に根を張り、その根が一つの魔法陣を編み出していく。
街をドーム状に青い魔法陣が包み込む。
檻だ。
獲物を逃がさぬように、そして、この男の工房として機能する檻である。
ドームの天井近くに、得体の知れない力が集まっていく。
街にある命を吸い上げているのだろうか。
地鳴りが大きくなる最中、ナナシが下がり続ける気温に白い息を吐いて言った。
「もうやめた方がいい」
「今更命乞いかね? 泣いて、地に額を擦りつけ、懇願するというならば、あの子供の命だけは救ってやろうではないか! さあ、跪くがいい!」
ナナシの頬が歪んだ。
嘲りの笑みだ。
相手を見下し、優越感に浸った笑みだった。
貴族の男が、激昂するよりも先に、ナナシは笑いながら言った。
「だからさ、やめた方がいいって。知ってるか? あいつは……お前の大好きなセリアージュ様は、赤い花が好きなんだってさ。青い花は趣味じゃないんだと」
「死ね」
一言だけ告げた貴族の男。
怒りの限界を越えると、人の顔は青白くなるのだろう。
あれだけ表情豊かだった顔が、氷のように凍てついて、青バラの杖を振るだけの殺人機械と成り果てていた。
シュゾウ達に綿毛が届かぬよう、誘導しつつナナシは戦場を移していく。
「そら、こっちだ! ようく狙えよ!」
地を蹴り、壁を蹴り、時には空を滑りながら、走る。駆ける。跳ぶ。
数発食らったとしても、“迎撃”出来たならば、表皮が弾け飛ぶ程度で済む。
両腕に赤い花を咲かせながら、ナナシは走る。
虎視眈々と、相手の隙を狙いながら。
幼子達から引き離すべく。
さらに気温が下がり、吐く息まで氷付いていく。
しかし体は燃えるようだ。額からは汗が滝の様に流れては落ちる。
冷気に筋が縮まぬように、身体が熱を燃やしている。寒さに消耗が激しいのが厄介だ。
ナナシの疾走に、目まぐるしく過ぎ行く街並み。
氷華の発射した綿毛によって、朽ちた家屋が二十棟は破壊されただろうか。
解りやすい軌道。速度は弾丸の様だが、軌道を見切れば対応可能だ。
正面切っても、高位魔術師と戦えている。
男が杖を振りかぶった。ここは、一足で男の懐まで跳び込める距離。
勝機である。
殺意を漲らせ、ナナシは拳を弓引く。
幾万と繰り返し身体に刻みこまれた動作は恐怖を振り払い、ナナシに闘争心と冷静さ、相反する二つの情動を同時にもたらす。
ぎり、ぎり、と拳が固く、堅く握り込まれていく。
無名戦術最新奥義――――――。
「ぐ、う、お――――――ッ!?」
左側頭部へと唐突に生じた衝撃に、ナナシは地へと身を投げ出した。
「驚いたかね?」
喜色満面な男の声。
追撃を警戒し、回転しながら飛び起きて再び構える。頭を押さえた手には、べったりと血が付着していた。
――――――射角は外したはずだ。
だが、打ち据えられた。
そう、“打ち据えられた”のだ。全くの死角から。
ナナシが綿毛の弾丸を避け、男の懐に潜り込まんとした瞬間。
何処からか飛来した物体が、ナナシの頭部を叩いたのである。
否……これは、爆ぜている。
爆ぜた皮にへばり付いた灰色の髪が、頭皮ごとずるりと落ちた。
「避けたはずだ……クソッ!」
「避けた? 私の攻撃をかね? 貴様は何か、勘違いしているようだが」
四分の三程になった頭髪。指に油と皮と髪がへばりついている。
一撃で足をふら付かせるナナシを見て、男が満足そうにして杖を上げた。
「まだ私の攻撃は終わっていない」
ざわざわと、植物が風に揺れざわめく音がした。
暴力的なオブジェと化していた氷の華が、魔力の操作によって蠢いた音である。
無数に咲いた氷華が、ナナシへと一斉に顔を向ける。
その瞬間である。
「――――――!!」
冷気の嵐がナナシを襲う。
声を、悲鳴すらも上げられない。
辛うじて頭部を両腕で抱え込むのが精一杯なほどの猛攻……“氷の種子”が、ナナシの身をずたずたに切り裂いていく。
否、これは、千切り取っていく。
皮が裂け、肉が爆ぜ、傷に傷を重ね、ナナシの身体がぐずぐずに溶け落ちていく。
「種子が根を張り、花となり、そしてまた種を残すように……芽吹いた氷華は結界魔法陣というネットワークを組み上げ、それぞれが攻性端末となる。
解るか? この結界の中にある限り、貴様はもう、どこにも逃げ場はないのだ」
両腕を差し出さなければ、頭骸骨が砕かれていた程の威力。
射出と自動迎撃を兼ね備えた……言わば、セントリーガンのような特性を持った変則射撃魔術。
それが氷華の正体であった。
見た目程単純な魔術ではなかったということだ。
こうまで無数にばら撒かれては、それこそ結界の中に閉じ込められたに等しい。
「装鋼さえ、あればな……!」
己の口から出た言葉は、無意識の底からせり上がったものだった。
表皮で弾ける氷の華は、肉までを深く抉り取る。しかし、もしナナシ皮膚が鋼の装鋼であったとしたら、この程度は容易く受け流せるのではないか。
考えても意味のないことだ。もし、などと。
だが、否定しきることは出来ない。
追い詰められた今、装鋼を求める己が居た。きっとそれが、真実なのだろう。
得よ、と身体の内側から、魂が叫んでいるのだ。
だが、四方八方、前後左右、囲まれては逃げ場はない……そうまで考え、ナナシは血濡れの歯を剥き出して笑った。
「貴様! まだ笑うか!」
「ああ……笑えるね。逃げるだのなんだの、ここまできてまだ考えてる俺が、おかしくってさ」
へらりと笑い続けるナナシ。
焦点の合わぬ目で、嬉しそうにして虚空へと語りかける。
「安心しろ、シュウ……お前は負けちゃいない。負けちゃいないんだ……俺とは違うんだ、お前は。俺とは違う……」
「なんだ、急に。狂ったのか……?」
「そうさ、狂ってる。どいつもこいつも、狂っていやがる。ああ、あの子だけが正気だったんだ。あの子だけが、ちゃんと前を向いて生きようとしていた。あの子だけがな……」
「……薄気味の悪い奴め。もういい。腹立たしいが、慈悲をくれてやる」
「なあ! 貴族様よう!」
ナナシが叫ぶ。
縋るような声だった。
「神様ってのは、何なんだ?」
それは、ずっとナナシが抱き続けてきた問いだった。
地球から異世界へと飛ばされた。そこは神が実在する世界だった。世界を構成する概念を統べる神。
実在する神とは何なんだ。
神とは一体、何なんだ。
「教えてくれよ。あんた達がそうまでして崇め奉る神様ってのは、一体何なんだ?」
「神とは、神聖にして不可侵なるもの。人を統べ、人を愛し、人に愛を与えし存在だ」
「ならなんで、俺達はこんなに苦しいんだ。どうして神様は俺達を助けてくれない」
「なんだ……? わけのわからぬことを……。当たり前ではないか。神は、我ら人のために在られるのだから。貴様達のような“人でなし”には、神はおらぬのだ」
わかるか、と男は言う。
「家畜にも、虫にすらも神はいる。わかるか? 貴様達は虫以下なのだ。ゴミだ! ゴミクズなのだ!」
「……そうかい。そりゃよかった」
ナナシは諦めたように、吐き捨てるようにして苦笑した。
「いつも見られてちゃ、目障りでしょうがないからな」
「見苦しい嫉妬よな」
優越感に浸った笑み。
だが、その笑い声を掻き消すように張り上げられた、叫び声。
「俺はさ! 加護の消えた人達は、神に見放されたんだと思っちゃいない!
大いなる父であり母が神なのだとしたら、子の独り立ちこそを望むはずだ。親の望みは子の自立だからだ!
放り出されたのは、“一人でも大丈夫だ”という信頼なんだ。神がいないことこそが、神様からの信頼なんだ。
そうさ、ずっとそうだった。俺はずっと、神様の存在を感じていた! 地球にいたころからだ!」
その叫びは、祈りのように。
「神がいないと感じる、その瞬間にこそ神がいるんだ。神の存在を、俺はいつも感じていた。
理不尽の中、不幸の中……神の不在こそが存在の証。そこに神がいることを、俺は知っていた。
それは希望。それは怒り。それは絶望。それは愛。いいか、こんなにも強い気持ちを人が抱けるのは、守られていないからなんだよ!」
思い出す。
その通りだった。
ナナシが強い、身を焦がすほどに強い想いを抱いたのは、いつも理不尽の中だった。
それは不幸に浸り、心を震わせていたからではない。世界の負の側面を見詰めて、暗い感情を抱いていたからではない。
暗闇の中でなお、拳を握り、立ち上がる。
人はそれが出来る生き物だ。
それは、守られていないからだ。
どんな絶望の最中にあったとしても、恨み、憎しみ、怒り、諦め……想いは溢れて来る。
なぜか。
ナナシは今、一つの答えを得た。
「神がいないこと、それこそが神の愛なんだ。
運命を憎む時、理不尽を呪う時……都合のいい時だけ神様は俺の胸の内にきてくれる。
お前達は神様に呪いの言葉を吐けるか? 俺は言える。神様なんざ、いつだってぶちのめしてやろうと思ってる。
そうすることで、明日も生きていける。そう思えるんだ。
そう思った瞬間に、救われているんだ。救いなんだよ! 許されているんだ! 呪うことを!」
それは祈りだった。
紛れもなく、祈りだった。神に捧げる、神を想う、祈りだった。
神を呪えることこそが。祈りであるのだと。
現実に悪態を吐き、それでも、もしもの未来を夢見ることができる。
「呪いをぶつけてもいいと、理不尽に対して理不尽な感情をぶつけてもいいのだと! そう、自分にぶつけよと! 許しているんだ!
そうすることで言っているんだ。生きよ、と!
愛だよ! 愛を感じる! あらゆる全ての呪いを、受け入れてくださる! これを愛と言わずして何と言う!
感じるね。ああ、俺は今、神様に愛されている! くそったれが!
だから恩返しにいかなきゃならない。ありったけの呪いをぶちまけに、人は一人でもやっていけるって姿を見せにさあ!」
これが、ナナシの信仰の形――――――。
「わけのわからぬ事を長々と……お前は本当に何なのだ? 酔っているのか? それとも、やはり狂っているのか?
自分の方が神を知っているなどと、たわけたご高説は捨て置いてやる。
だが……なぜ屈服せぬのだ? 痛かろう、つらかろう、苦しかろうに、なぜ泣いて許しを請わない? これだけ痛めつけられてなお、なぜ心折れぬのだ。何故だ!」
「お前は俺を泣かせたいもんだから、俺の話しに付き合わなきゃいけないんだ。
こんな自分語りにも一々リアクション返さなきゃいけないんだから、ざまあみろだよ、本当にな。
でも残念。お前の望みは何一つ叶わない。なんでかって?」
笑う。
いやらしく、斜めに見上げながら。
「なーんでこの俺が、虫以下の俺にも劣るような、てめえの尻も拭けないクソったれ野郎共に頭下げなきゃいけないんだ? あ?」
「どこまでも、貴様は……! ここまでうっとうしい羽虫は初めてだ! もういい、さっさと死ね!」
男が杖を振り上げる。
綿毛がナナシへと殺到する。
「ううう、わあああああッ!」
喉の奥、腹の底から絞り出したような叫び声は、しかしナナシのものではなかった。
「なんだ、お前も来たのか」
ずっと、ナナシが浮かべていた笑みが、嘲りの形から別の形へと変わった。
それは戦いの中で敵に向ける、挑発じみたものではない。
雄叫びを上げたものへ向ける、ナナシの笑み。
それは、信頼する仲間への――――――。
「堕天使……オレイシス」
「それ言うのやめろって言っただろ、ちくしょう!」
綿毛への盾としたのだろう。
赤黒い耐火布に包まれた鉄塊を、現れたオレイシスはナナシへと放り落とした。
盾の体を為さなくなった鉄塊は、ばらばらと、引き裂かれた布の中から零れ落ちる。
「オレイシス」
「なんだよ!」
「お前結局、アジトに行ったのか?」
「な、なんだよ。悪いかよ」
「嫌われてるっての、わかってたろ?」
「余計なお世話だよ!」
「その様子じゃ、ナワジ先輩にでもドヤされたな? こんな状況で乳とかガン見しちゃったとか? お前それで追い出されたんだろ?」
「うっさいわボケ! そこにおっぱいがあったら見るだろが!」
「だよなあ。見るよなあ。おっぱいはいいもんだよなあ」
「何で俺こんなこと、どうしてこいつのためにとか、ああクソ! 死んじまう……殺される……死にたくねえ、クソ!」
「なあ、オレイシス」
「んだよ!」
「ありがとう。助かった」
「……あーッ! クソッ!」
地団駄を踏んで目を逸らすオレイシスの肩を、ナナシは苦笑しながらも叩く。
「ついでで悪いけど、ちょっと手助けしてくれないか?」
「悪いとか思ってないだろ! その顔!」
「いやあ、悪いって思ってるよ。お前たぶん死んじゃうからさ。弱いし。いやあ、ほんと、胸が痛むわ」
「顔! その顔! 笑ってんじゃねーし!」
「ほんのちょっとでいいんだ。一秒でもいい。隙を作ってくれたらさ、それで……な、頼むよ」
「っあー! わかったよ! ちくしょう! 俺の命が1秒分しかないとか、何なんだよ、ほんと、マジで!」
どうしてこの場に居合わせたのか、ナナシには解らないが、ただオレイシスが“間に合った”ことだけは理解できた。
郊外でシュゾウ達の修行につき合わせてしごき倒して放置していたが、この場に駆け付け、さらにはナワジから預かり物までしてきた。
不思議な巡り会わせだ、と思う。
どうにも、憎み切れない男だった。ナナシにとって、オレイシスという男は。
あらゆる部分が自分に重なり、気に入らず、かといって嫌い尽くしもせず、どうにも親しみさえ覚えてしまう。
「俺だって、俺だってな! 俺だってええええ!」
雄叫びを上げながら駆ける、堕天使オレイシス。
茶色く錆ついた“腕部機関鎧”からブレードを展開し、貴族の男へと斬りかかる。
「うううーっ! うううーっ!」
「なんだ、こいつは?」
恐怖に涙と鼻水と涎を垂れ流しながら手足を振り回すオリシュに、さしもの貴族の男も困惑しているようだった。
見下し嘗め切ってはいるものの、考えなしという訳ではないのだろう。
急に現れた相手にどう対処すべきか、決めあぐねているように見える。
ナナシを袋叩きにしていた姿を見ていただろうに、しかし姿を晒したその行動を、自信ととったのだ。
慎重策をとったことが、この貴族の男の有能さを現している。
しかし、雄叫びを上げながら襲いかかるなど、まるで伏兵の用をなしてはいない。
切り札的存在であるとしては、無防備すぎる。
何よりもみっともない。
将としての慎重さというよりもむしろオリシュの奇特さへの困惑で、男の意識がナナシから外れた。
「ちいィッ! うっとうしい!」
ナナシへ向けていた杖の先が、オレイシスへと向かう。
きっかり、1秒分の隙――――――。
「やるなあ、オレイシス!」
綿毛はナナシに反応を示してはいない。
オレイシスのおかげで、綿毛は目視により狙いが定められていた事が解った。
自動迎撃機能は、華となってから発生する効果ということか。
どちらにしろ、ここまで接近すれば、意味を為すまい。
蛇のようにうねりながら移動する相手には。
「く、お! 油断したか、狂人めが!」
狼狽する男が杖を向けるが、もう遅い。
地を舐めるように這うナナシ。
ナナシは腰の後ろから短刀を鞘毎引きぬくと、それを地面へと突き立てた。
ブレーキング。急激な減速。
綿毛が右肩の肉を抉り取っていく。
オレイシスと入れ替わるようにして、ナナシは貴族の男へと肉薄し、そして腰の回転と共に鯉口を爪弾いた。
慣性と膂力が支える抜刀の一撃は、おおよそ人間の限界を超える速度を叩き出す。レベル差を覆すまではいかないが、それでも脅威であると感じる威力は生じる。
抜刀術、あるいは居合い抜きが神速とも呼ばれる所以。その仕組みは、“デコピン”を想像すれば解り易いだろう。力の溜めと解放である。
そしてナナシの刀は抜き打ちの理念に則り、最速最適解を辿り放たれる……かに見えた。
刃筋を反らすよう、正確に貴族の男が杖を構えられたのは、加護による動体視力の強化によるものか。
ナナシの手にある刀は依然として、鞘に収まったままだった。
斬りかかるのではなく、抑え付けるようにして、動きを封じる。
「な、なああ――――――!?」
釣られたのは貴族の男である。
見当違いの場所に剣杖は添えられたまま、動けない。
ナナシの判断は正しかった。いくら魔術士であろうとも、レベル差によってあらゆる能力がナナシよりも数段上。
『防御力』のステータスを無視できたとしても、太刀筋を見切られていれば、打ち合いとなる。
そうなれば逆に斬られるのはナナシの方だ。バラの杖は、おそらくは剣の役割も担っているのだろう。
ナナシは男とはまともに打ち合わず、杖の守りを突破しなければならなかった。
だから、抜刀しなかった。
刀を鞘から抜かずに追随させることで、抜刀までの時間をずらしたのである。そして相手の動きを封じた。
それが出来るだけの強度が、この短刀にはあった。
当然である。
これは、“託された”刃なのだから。
残ったのは、読み違えてガラ空きとなった男の胴。
ナナシの刀は、速く疾く在らねばならない抜刀術の理念の真逆を往くものだった。
それは、相手が優れた知覚の持ち主であればある程、効果的な技。
遅く、重く、相手の思考を引きずる程に鈍い剣。
「おのれぇえ!」
男の焦燥の叫び。
ナナシの逆手が手刀を形作る。
槍の様に放たれた指先が、男の胴体を横一文字に貫く。
「これは……!」
手刀が横一文字に貫く……はずだった。
その刃が男に届くことはなかった。
唐突に、瞬きするよりも短い一瞬の内に現れた氷の壁に、腕が半ばまで飲み込まれていたのだ。
氷に肩口まで呑み込まれ、腕が動かない。
「氷の、壁だと……!」
「おのれおのれ、なんたる屈辱か! 下銭な獣共相手に最後の護りを見せることになるなど! なんたる屈辱! なんたる恥辱!」
「魔術師が!」
ナナシの持つ特異性は、神意遮断である。無効化ではない。
『防御力』などといった加護そのものは無視できるものの、氷や炎といった物理現象として顕現した神威には効果がないのだ。
分厚い氷の壁は貫けなかった。
必殺となるはずであった一撃を阻んだ氷の壁は、あらかじめ術式によって組み込まれていた、自動防御である。
ナナシが触れるより前に出現すれば、遮断効果も及ばない。
また魔術か、とナナシは舌打ちを零した。
本当に、技術も何もない。例えナナシの技が全てを置き去りにする程の領域に達していても、同じ結果が待つだろう。脅威に対して“そう”反応するように“なっている”のだ。
それは魔術の……世界のシステムで。
どうにもならないことなのだ。
「ええい、目障りな! 邪魔だ!」
「ギャッ――――――!」
オリシュが綿毛に貫かれ、悲鳴を一つ残し、吹き飛んでいく。
「認めよう、これは私の失態であったと。獅子は獲るに足らぬ獲物を狩るのでさえ全力を尽くすというが、私もそうすべきだった! 貴様等全員、嬲り殺しにしてくれる!」
残る綿毛の全てが切っ先を揃え、ナナシへと殺到する。
ナナシは為す術もなく吹き飛び、朽ちた家屋の扉を打ち破ると、食器棚に打ち付けられて落下した。
「う、あが……ッ! ううあッ!」
頭、手、足、腹。
全身のあらゆる箇所に灼熱を感じる。
数十メートルも吹き飛ばされる衝撃。しかし全く痛みを感じなかったことが恐ろしい。
綿毛の氷の針が、組織を過剰に傷つけることなく通過したからか。
体中にぽっかりとあいた穴から、体液が濁々と流れ出していく。
「ああ……ちっきしょ……痛ぇなあ、おい!」
悪態を吐いて立ち上がる。
すぐさま氷に貫かれ、引き倒される。
「は、は……クソッ」
自嘲の笑いがこみ上げる。
あの子達を守ろう。そう決めたといのに。
何と言う無様を晒しているのだろう。
だから、立ち上がらなければ。
立って戦わなければ。
だが、立ちあがろうと力を込めた手は滑り、無様に床を掻くだけ。
「これが相応しい姿というものだ。強者は立ち、弱者は地を這う。砂を掻くその姿……蟲と言わずして何と言う」
声が降る。
貴族の喜色を孕んだ、愉悦に塗れた声が。
「だが、哀れよな。お前はよく戦った。私に相応しい敵であったと、認めてやろう。どれ、慈悲をくれてやる」
ナナシは無造作に髪を掴まれ、地を引き摺られる。
頭髪の千切れる音。
地面を凍結させ、アイススケートの様にして移動する貴族に引き摺られ、遠心力に振り回される。
何度も建造物に身体を叩き付けられ、地面に擦られて、ナナシは赤黒い肉にの為り損ねのような姿へとなっていった。
「そう、慈悲だ。嬉しかろう?」
放り投げられると同時、辛うじて薄皮で繋がっていた頭皮が完全に消失した感触がした。
「汚いな」とぼやくような貴族のつぶやきが聞こえた。
いつの間にか、元の広場にまで戻されたようだ。
シュゾウと、少女の居る場所にまで。
「先……生……」
シュゾウの、絶望に魂が砕け散ったかのような囁きが聞こえた。
情けない。そんな想いももはや、口に出すことはできなかった。
格好付けて出て来た手前、余りにも情けなく、そして惨めだった。
傷塗れの姿を見せることが恥だった。
そして、それが少年と少女の心を打ち砕くには十分だと理解していた。
少女がナナシの汚れ果てた姿を見て、諦めたかのように瞳を閉じ、シュゾウを抱き締めた。
シュゾウはもはや表情も無く、ただ透明な眼をしてナナシを見ていた。
見ないでくれ、とナナシは叫びたかった。
余裕を装っていた。大人という鎧を纏っていた。
子供達の標になりたかったのだ。ナナシは。
だが、全て、圧倒的暴力の前では無意味と化す。
哀れを誘う道化のような姿を晒すしかない。
「お前を処刑する姿を、幼子達に見せてやろう。お前の死に行く姿を焼き付けさせてやると言っているのだ。さすれば、小さな希望は打ち砕かれ、“わきまえて”生きていけるようになるだろう」
「生きて、いける……?」
「そうだよ、小さなお嬢さん」
言葉尻を捉えたエルフの少女に、にこやかにして貴族の男は答えた。
「ここまで侮辱されたのだ。もはや唯では済まされない。だが、私も悪魔ではない……君たちの内、どちらか一方だけ生かしてあげよう。さあ、選びたまえ」
言って、倒れたナナシを踏みつける。
「選ぶのは、お前だ。どちらを死なせ、どちらを生かすか……お前が選ぶのだ」
「ふ、ざけ……ッ!」
「無回答である場合、両者共に殺す。ああ、そちらの方が幸せであるのかな? 想いあう者同士、引き裂かれるのはつらかろう。どうかね? 心配するな、約束は守ってやる。ただし、一番最初に死ぬのはお前だがな」
呼吸が乱れる。
背筋が凍りつく。
ここまで、追い詰めるのか。ここまで、嬲るというのか。
こいつは絶対にやる。
そんな確信があった。
しかも、ナナシが望まぬ方法で、それを実現する。
「私が死にます」
凛とした少女の返答があった。
眼は赤く、涙の跡があったが、しかし雫は落ちてはいなかった。
真っ直ぐな眼で、貴族に相対していた。
「お願いします、ナナシさん。シュウ君を生かすと、言ってください。私のことはいいですから」
「や……めろ……! よせぇ……!」
シュゾウの呻きに耳を貸さず、少女は言う。
「ふざけんな! よせよ……先生! 僕を殺すと言え! 言ってくれ! お願いだよ先生……!」
なんだ、とナナシは思った。
どうしてこんなことになっている。
訳が解らない。
「なんだ……なんだその眼は、迷ってるのかよ! ふざけんな! あんたは切り捨てられる人だろ! 僕の村も、敵を倒すために切り捨てたじゃないか!
やめろ! やめろよ! 僕を選ぶな! ナナシィイイ! 何とか言えよおおおお! 恨むぞ! あんたを恨んでやる! なんであんたは、どうして……どうして“そう”なんだ! なんでだよお!」
こんなはずでは、という言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡っていく。
呼吸が出来ない。
手は虚空を浚っている。
舌を出して喘いでも空気を吸い込めないのは、肺をやられたからか。まだ言葉を発せられはするが、それも長くは持たないだろう。
眼球の毛細血管が破れ、血の涙が零れた。
視界が真紅に染まっていく。
僕が。私が。僕が。私が。
二つの幼い主張が、ナナシの全身を蝕んでいく。
「だんまりかね? 二人の内一人でも、と考えないのか? 愛していないのかね? ではしょうがない。三人まとめて、死にたまえ」
シュゾウが砂を叩いた。
エルフの少女が、がっくりと頭を垂れ、シュゾウを掻き抱く。
刺すように睨むシュゾウの瞳に、ナナシの心は音を立て圧し折れた。
「さあ、懺悔するがいい」
血塗れ砂塗れになったナナシの頭を、男はさらにう擦り付けるようにして踏み付け、告げる。
「ざ、懺悔、することなど、ない……!」
「するのだ。貴様が犯した数々の罪全てを……“存在する”という罪を、神と、セリアージュ様へとな!」
男がナナシの首元へと杖を突きつける。
そして、そのまま抑え付けていた足を下ろした。
激しく咳き込んだナナシを見下ろし、男は言う。
「お前は華となるのだ。我が女神、セリアージュ様へと捧げる華へと」
例えようのない悪寒がナナシの全身を這い回った。
足が、爪先から凍り付いていく。
氷だ。全身を氷が覆い尽くしていく。
氷に持ち上げられ、ナナシの身体が浮かび上がっていく。
「あの方の龍息と同じ、七色に輝く、虹のような華へと変えてやろう。
獣の命を吸えば吸うほど、氷華は大きく、美しくなっていく。だがいくつもの氷華を束ねたとて、あの方の美しさには遠く及ばぬだろう。
ああ、セリアージュ様……美しき龍の巫女よ。何故いつも悲痛にゆがめたお顔をなさるのか。
ああ、ああ! その苦悩を取り去って差し上げたい! 我が女神セリアージュよ! 貴女に微笑みをもたらすため、私は華を咲かせましょう! 七色の氷華を!」
貴族の男が眺める先には、朽ちた竜を模した噴水が、神像のようにして静かに佇んでいる。
確か、街の守護として、水を隆々と噴き上げていたものだったはず。
何を司る神であったかまでは覚えは無かったが、龍神の一柱であったことだけは記憶していた。
この街は“彼女”の別荘があった街だ。
きっと、彼女にとっても特別な土地であると、男は解っていたはずだ。
殺し方にこだわりを見せていたのはそのためか。
「そして、その命が尽きる最後の瞬間に、貴様はこの私に懺悔するのだ。
いいか、毒虫が。これは儀式なのだ。神の御下にて、神敵を忠実なる使従が討つという。さあ、自らの行いを悔いるがいい。後悔の念を言葉に尽くし、述べるがいい」
男が語る最中、肉が、骨が、凍り付いていく。
穴を空けられ脆くなった身体が、ゆっくりと、際限無く氷に覆われていく。
十字に張りつけられたようにして、ナナシの身体が氷の華へと転じていく。
「言え、言うのだ! 許しを乞え!」
「ぐ、ぅあああっ――――――!」
「泣いて、叫べ!」
もはや、喉元までが氷に飲み込まれた。
手足の感覚は既にない。
その気になれば、ならなくても、一息で擦り潰すことなど簡単なはずなのに、ナナシの反応見たさに恐怖を長引かせるよう、故意に焦らしている。
肉が血管が臓器が、氷付いていく音。身体の内側から響く音がする。
このような状態になってなお、鍛え上げられた身体は、生命活動を停止しようとはしない。脳内麻薬の分泌が活発となっているのだ。痛みはない。感触も。ただ凍っていく、その実感があるだけで“まだ”生きている。
爪先から次第に死体になっていく身体。いっそ恐怖ばかり浮かぶ頭蓋を割って、それを感じさせる部分を取り外して欲しかった。
大げさな程に歯を打ち鳴らしても、内側から聞こえる音はかき消すことは出来なかった。
全くの無力だった。
全くの無駄だった。
武がなんだというのだ。神の力の前では、全くの無意味ではないか。
あれだけ子供達のため、守るためと勢い勇んで飛び出したというのに、なんと情けなく愚かだったのだろう。
やりようによっては通用する、などと、なんと甘いことを考えていたのだろうか。
必死にしがみついてきた矜持。かき集めて張り合わせた信念。
その全てを無造作に圧し折られた。
「ああ――――――やっと、終われる」
ナナシの頭を過ったのは、安堵の念。
ナナシは心から、ほっと、安らぎを覚えたのだ。
たった一瞬が生死を別つ。しかし、その一瞬の機会すら掴めないなど。どうにもならないではないか。
だから、もう、いいだろう。ここまでやれば、十分だろう。
子供達のために闘うという“理由を得たのだ”。
“そのために闘っていた”のだ。
だから、死ぬには、これは十分な理由ではないか……。
頑張ったさ、頑張っても無理だったんだ。だからもう、いいだろう。もう十分だろう。
“正当な”失敗への言い分が、止め処なく溢れ出す。
初めから、ずっと、理由を探していたような気がする。
これはもうしょうがない、と納得がいく理由を。
子供のために闘って、力及ばず負けて、死んだ。
十分な理由だ。
だからもう、少しくらい、休んでもいいだろう。ここで終わりにしても、いいだろう。
このまま目を閉じてしまえば、きっとあいつだって――――――。
『わんっ!』
――――――声が、聞こえた気がした。
「ぐ、う、お、お、お……!」
喉の奥、腹の底から振り絞った声は、小さな響きしかなかった。
しかしナナシは血の涙を流しながら、手足に力を込めた。
何度も、何度も、それが無駄だと解りきってなお。
「ご、ごめ、ごめ……な……」
いつしか、ナナシは血を吐くようにして喘ぎ始めていた。
「んんー? 聞こえんなあ? 命乞いはもっと大きな声で、はっきりと、哀れみを誘うように言いたまえ」
「ゆる、し、て、くれ……」
「はは、ははは、ははははは! 小虫のさえずりといえど、実に心地よいものだな。
これは帰って皆に自慢してやらねば。貴様も、己の分をわきまえぬからこうなるのだ! はっはっは、ははははは!」
哄笑に氷が軋む。
崩れた肺腑で、なおナナシは訴えた。
「ごめん、な――――――」
視界の先。通りの向こう。
そこに散らばる、鉄の塊へと向けて――――――。
その瞬間のことだった。鉄塊が魔力風を爆散し、人型をとって立ち上がった。
貴族を無視し、“ナナシの氷像”へと、猛然と突進。氷華を吹き飛ばし、戦場へと乱入する人型。
朦朧とする意識の中、驚愕と共に貴族の男が身を引いたことを知覚していた。些細な事だった。
鉄塊が、壊れたマリオネットのようにして崩れ落ちたナナシを、力強く抱き上げた。
膝に腕を差しいれ、大切なものを扱うように、横抱きにして。
男としては、情けない格好だ。だがナナシはそれを、当然のように受け入れていた。
それはナナシにとって、当たり前のことだった。
「ずっと、言いたかった。お前に一言、謝りたかった。あいつの声が、聞こえたんだ……俺を叱る、声が……あいつの、声が……」
堅い鋼鉄の指が、しかし頬を柔らかく撫でた。
機械的でいて無機質なその挙動は、しかし慈愛に溢れていた。
暗く虚ろな瞳は、しかしありったけの情が込められ、温かかった。
「追い詰められなきゃ、お前に謝ること、さえ出来な……俺は、本当に……ああ、なんで……本当に、どうしてこんな、俺は……」
鋼の指が、ナナシに訴えかけてくる。
それは違う。違うのだと。
貴方が謝る必要などないのだと。
持ち主の意にそぐわぬ道具など、存在する価値などないのだと。
違うんだ。違うんだよ。
ナナシはそう答えたかったが、口はパクパクと開閉するのみで、代わりに粘性の高い黒い血を吹き出すだけだった。
とうとう限界が来たようだ。これまで意識を保っていられたことが奇跡だったのだ。
――――――全ての罪は私に。全ての重荷はこの私が負うべきもの。貴方を守るために、私は存在しているのだから。
そうだ。だから俺は、お前に全部を押し付けて、逃げ出したんだ。お前は俺の、心を守ってくれたんだ。自分が罪を背負うことで。俺は卑怯者だ。お前を都合のいい存在だとしか見ていなかった。逃げ場にしたんだ。お前を。
――――――違います。それは、違うのです。
結局、駄目だったよ。オレイシスに言った言葉は、全部自分に言い聞かせていた言葉だったんだ。あの子達に教えた言葉は、全部そうなりたかった自分の姿だったんだ。適当に愚痴を垂れて、それで体裁を取り繕って生きてきたんだ。ここが俺の限界だ。俺が見限ったのは、俺自身だったんだ――――――。
“心”と“心”が触れ合う中で、二つの言葉が交わされる。
ナナシは疑わない。
この無機物にも、心があることを。
心の声が、ナナシの耳に届いたような、そんな気がした。
――――――違います。貴方が闘っているのは人ではない。神なのです。神域に足を踏み入れるには、身を守る鎧がなければなりません。呪いに身を固めなければ、神意の毒に犯されてしまう。これは当然のこと。決して恥ずべきことではないのです。
それでも、拳を握ったのは自分の意思だ。
他の誰でもない。己の意思で決めたことなのだ。
――――――貴方は最強を誇りたかったのですか? あらゆる存在を蹂躙できる力があれば満足ですか? それとも技を極め、その極地を証明したかった? 違うはずです。貴方の祈りは、その握った拳は、理不尽な運命を強いる絶対者へ、ただ一矢報いるためだけの刃であるはず。
そうだ。
武だ何だと言ってはいるが、それは弱き者が強き者に抗うために、せめてもと身に纏った、仮初めの強さだ。
だが、それでいい。それで、いいんだ。
それでいいんだと、知っていたはずなのに。
――――――私という存在も、それと同じもの。ならば、私達は一つになれるはず。なのに、なぜ貴方は。
なのに、なぜ、俺は。
『なぜ、私の名を呼んではくれないのですか!』
心を通じて伝わる叫びが、ナナシの魂に、確かに届いた。
『私は貴方を、守りたかっただけなのに』
知っていたよ。うん、知っていた。
お前はいつだって、俺を想って、俺だけのために在ってくれた。
だから怖いんだ。
お前にふさわしい俺でいられるか、自信がないんだ。
恐ろしくてたまらないんだ。この世界が。
『後にも先にも、私のマスターは貴方だけ。貴方以上の使い手は無く、貴方以外の担い手は不要。
例え貴方が塵芥にも劣るとしても、私だけは叫び続けましょう。
彼の方こそ、無名戦術ヶ真打、その人であると。
信じ続けましょう。
彼の方こそ、神の夢から世界を覚醒させるべく現れた、名無しの者であると。
崇敬し続けましょう。
彼の方こそ……我が愛すべき主であると!』
いいのか。俺でいいのか。
こんな、折れて曲がってしまったような、俺でいいのか。
俺はお前を、捨てたというのに。
『貴方しかいないのです。私には、貴方だけなのです。膝を付き、脚が折れ、もう立ち上がれぬと言うならば、私が貴方を支える鋼となりましょう。
私の手足は、貴方の手足。貴方の血潮は、私の血潮。我々の力は、呪わしき神殺しの力。
さあ、共に参りましょう。貴方と私で、神の夢を打ち砕くために。この運命に、抗うために!』
ああ……ああ、応ともさ。
ああ、行くともさ。
あの敵を打ち倒しに行こう。あの絶望を砕きに行こう。
ああ、もっと、ずっと早くに言えばよかった。
お願いだ。
俺を、助けてくれ。
『当然です。私の力は、貴方の力。私はそのために在るのですから、我が主よ――――――さあ、呼んでください。我が名を』
ならば、俺と、お前で――――――。
『ならば、私と、貴方で――――――』
お前の鋼。
俺の血。
我らこそが鋼鉄。
お前の名は、俺達は――――――。
「ツェリスカ――――――!」
告げる。
口にしたのは、たったの4文字。
だがそれは、絶対勝利の覚悟が込められた、必定不滅にして拳打必殺を唄う祝詞。
鋼に支えられ、立ち上がる。
手は天に、そして地に。
覚悟の指先が、空を裂く。
「装着―――変身!」
完全装鋼。