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完全装鋼士 : レベル0  作者: ノシ棒
第3章 ―神撃編:放浪―
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地下51階

しばらく考えてみるといい。そうナワジが言い残し、立ち去った薄暗い研究室内で、ナナシは静かに座して向き合っていた。

赤銅色の布に包まれた鉄塊。

静かな時間が流れていく。確かな繋がりを感じた。

ただ、そのつながりに、どんな感情を向けるべきか解らぬままにいる。

向き合っているのは、向き合えているのは、果たして『彼女』とか、それとも。

答えは出ない。





■ □ ■





一所に固まって膝を抱える人々の姿は、ナワジにとってもはや見慣れた光景である。

じっとすることで力を蓄えていた時期はとうに過ぎていたのだ。

こうしてただ、終わりの時を引き伸ばすためだけのものとなったのは何時頃からか。

流れる静けさと沈黙は、敗者特有の怯えと恨みに満ち満ちている。

掃き溜めだと吐き捨てられるほどに汚くはなく、しかし希望がそこにあるわけでもない。

哀れだ。ただただ、哀れだ。

ナワジが彼らに抱く感情は、己に向ける感情はその一つだけだった。

そんな諦めの空間の中において、粘りつくような怒りを抱く者は、例え口を閉ざしていたとしても酷く目立つ。

居住区へ撤去指令を出すついでだと、ナワジは悪目立ちしている一人の少年へと近付いた。

重ねられた木箱の上に片膝を抱えて座る、シュゾウである。


「よう」


声に、ちらりとだけ視線を投げ掛けたシュゾウは、諦めたようにして溜息を吐いた。


「なんですか」


「どう思う?」


ナワジが指し示したのは、居住区の中。

そこに住まう者達である。

老若男女、数は百人は届かないだろう、だが皆一つの共通点がある。

それは、皆俯いていること。

シュゾウと同じように。


「どうって」


「ムカつくか。その顔見りゃ解るさ」


「……気に入らないですよ、全部。こんな風に、何の罪も無い人達を踏み躙った王軍。こうして膝を抱えるしかない者達。無力な自分、全部が……世界が」


「そうかい。お前も、王様が一番悪い、王憎しの考えか?」


「当たり前でしょう。あの男さえ殺せれば、きっと」


「今よりよくなるか? 血みどろの報復が始まるだろうぜ。今度こそ見逃されることはない。それに誰がそれをする。誰が王都の中に潜り込み、王の首を上げる」


「それは」


「お前の師匠か? それとも、私達か? 言っておくが、お前じゃ無理だ。どれだけ鍛えたところでな」


「じゃあ、どうしろというんですか! 何を思って、僕は生きていけばいいって言うんですか……!」


「もう一度、よく考えるんだな。今度は、ちゃんとな。国が悪い、王が悪い、世界が悪い……なんて言うのは簡単さ。目の前に美味そうな理由がぶら下ってるんだからな。そんな餌に釣られるなよ」


「解っては……いますよ、僕だって」


ナワジに言われずとも、それは解っていることだった。

古来から続く資材の奪い合い、その延長にある戦争と、“ついで”のような民族浄化。

下手人が悪であるという訳ではなく、その主が悪という訳でもないだろう。

言うなれば、人間の汚さが悪なのだ。そして、それを討つことは出来ない。

だから、シュゾウは力を身に付けることで、それら全てから目を逸らそうとしたのだ。

“気にしない強さ”を求めたのである。

ナナシと初めて出会った時に告げた、“生きていくため”の力であると言えよう。

目を瞑るのにも力が必要だ。それを幼い少年の心は知っていた。

そんな様に生きていた男。それがナナシだった。

師と仰ぐには十分な理由だった。

例えその男が人格的にどれだけ劣っていたとしても。


「そうかい……つらいな。いっそあの王様がとんでもないゲス野郎だったらよかったのにな。あれは善人さ。掛け値なしのな。だからこんなことになったとも言える」


「解るんですか?」


「技師だからな。あれは組織システムなんだよ」


「システム……」


「誰もが頭を下げる素晴らしい賢王様。その王様を育てたのは貴族連。趣味趣向も教育で刷り込まれたもの。ぞっとするくらい、清く正しい人物なんだろう。

 全力で尽くすことで罪悪感が払拭されるような、ああこれは正しかったのだ、と思えるような人物を作り上げたんだ。

 ほほえみ一つで、よくやった、と言ってくれたらそれで全て良しとしてしまえるような、な。おっさん共が頬を桜色に染めてる様はまあ、なあ。

 何もかもが王のためという免罪符で、全てを片付けてしまえるよう。そしてそれら裏側の流れに気付かぬ王であるように、そういうシステムを作り上げたのさ」


王のために“何か”して差し上げたい。

そんな風に自然と思える王を創ったのだ。

かの王がお喜びになる様さえ見れば、全てが許されるように。

そのために、“全力”を傾けられるように。

他の何を踏み躙ったとしても、王に美酒を献上する喜びには勝るまい。

その繰り返しを行えるシステムを構築したのだ。

システムの図版を引いた者は、さぞや狡猾で賢い者であることだろう。

自浄作用と言えば言葉は良いが、ナワジにはそれが素晴らしいものであるとは微塵も感じられなかった。


「マッチポンプ、ですか。先生もそう言ってた」


「気付くよな、あいつなら。お前も、あいつも、そうだから……まあいい。

 資源の独占と世界の支配、そして神に愛された選民となるためには、反対勢力は邪魔なのさ。“掃除”が始まったのは当然の成り行きで、その当然に体の良い理由付けと背中を押してくれるトップ。

 これを揃える必要があったんだ。ずっと前から計画されていたことだった」


ナワジもこれに気付いたのは、ナナシとの過去学生時代で交わした論議からである。

ナナシの祖国に程近い大陸では、多くの国が栄枯衰退を繰り返してきたという。

あるとき、高貴な血を引いた幼子が皇帝に据えられたが、それを取り囲む周囲が皇帝のためだ、と暴走し滅びの道を辿ったという。

その際行われた非道は伏せられ結果のみが皇帝に伝えられ、臣下への疑いを持たぬよう育てられた純粋な皇帝は、賞賛を送り続けたという。

そして臣下達はその言葉に奮って愚かさを積み上げていった。台頭した反勢力に討たれるまで。

このケースによく似たシステムとなりつつある、とナワジは感じていた。

国は、世界は違えど、人は同じような考えとシステムを構築するのだと。


「だから、割りを食った奴は涙を飲めと? ふざけないでくださいよ……そんなこと間違ってる。なんだこの馬鹿みたいな世界は……おかしいですよ」


「人の愚かさに愚かさで返したとしても、誰も救われないと言ってるんだ」


「救いなど求めていません。どうして大人はみんなそう言うんですか? 馬鹿なことはやめるんだって、先生も、はっきりと言わないけれど、僕をそんな目で見ている」


「理屈じゃない、か……そうだな。きっとお前の心は、正しいか正しくないかで選択をしてるんだ。うらやましいことだ。冷静に物事を判断できている。子供の特権だよ。

 実のところ、感情的に物事を判断してるのは、大人の方だからな。だからこんなことになってる。情念ってやつだ。その結果がこれさ。馬鹿みたいな世界だ。だろう?」


「こんなことになったのは、貴族達のせいでしょう。加護の、奇跡の力を好き勝手に使って、あいつらが世界を歪めたんだ」


「ほら、また心で決めた。正しいものと、正しくないものを、綺麗に分別できてる」


「取り戻そうとは思わないんですか? 奇跡を……僕達が信じる、自分達の神を」


「そこで、どうやって? になるのさ。それこそ奇跡にでも頼らにゃならんだろう。ただまあ、戦っているつもりで逃げているだけの者に、都合の良い奇跡など起きるものかよ」


ナワジのどこか諦めたようにして笑う姿に、シュゾウはたまらなく腹が立った。

殴り掛かる代わりに、握り拳に力が籠もる。


「終わりが欲しいのなら、自分一人で勝手に終わるんだ。復讐に走るなとは言わん。だがそれはお前だけじゃない、周りを巻き込んで道連れにしてしまう、そいつを忘れるな。

 いいか、忘れるんじゃないぞ。鉄砲玉のように生きて死ぬのもいいさ。だがな、お前の次に飛び出す弾は、お前の妹だ。解っているんだろうな」


シュゾウはぶるぶると身を震わせると、拳を強く握り締めて瞳を閉じ、一度だけ天を仰いで息を吐いた。


「復讐は連鎖する。次々と憎悪を武器に、飛び出していく奴等……まるでリボルバー拳銃のようだ。次発は装填済み。

 いいか、引き金を絞るのはお前だ。だが次の弾のために撃鉄を下ろすのも、お前だ」


「僕は……僕は、じゃあ、どうやってこの気持ちを抑えたらいいんですか。何もせずにいることなんか出来ない」


「そうだな……せっかく泥を被ってくれる奴がいるんだから、そいつに押し付けちまえよ」


言い捨てるようにして、ナワジは後ろを振り向いた。

こんな話を振ったというのに、捨て鉢になるような切り上げ方に、シュゾウは少なからず反発を抱く。

無責任な、と叫ぼうとしたが、ナワジの両肩が小さくか細く見えたことに驚き、口を閉じた。

一組織を率いる女豪傑であると思っていたが、あの細い肩は、どうみても傷付いたか弱い女性にしか見えなかった。


「それが大人の役目だ」


その背には、言うのではなかった、という後悔に溢れていた。

ナワジの姿が作業員達に紛れて消えていくのを見送って、シュゾウは所在無さ気に立ち上がった。

迷って、迷って、意を決して踏み出したのも愚かな間違いで。

なら僕はどうしたらいいというのか。どうしたいのか。

先生は教えてくれない。あの人も、間違えてしまった人だから。

答えはでない。


「お兄ちゃん……」


「ん?」


「あの子……」


どこに行っていたのか、ギンジョウがシュゾウの袖を引く。

心配そうにして指差す先には、先のシュゾウの様に、膝を抱えて俯く少女がいた。

傍らに、茶色い熊のぬいぐるみが、力なく横たわっている。

ギンジョウを見やる。なんとかして、と言外に瞳で訴えている。


「しょうがないな……」


言いながら、シュゾウは溜息を一つ零し、無理矢理に笑みを浮かべた。

猫虎族の村で年長だったシュゾウにとって、年下の子守は得意だった。

遠い過去に感じるその経験を思い出しながら、シュゾウはその少女へと近付いた。

答えはでない。

ただ、泣く子をあやすことは得意である。だからそれをする。

シュゾウに出来ることは今、それだけだ。





■ □ ■





湿ったカビの臭いとそこに混じる不穏な空気に、ナナシは口端が持ち上がるのを止めることが出来なかった。

時折聞こえるうめき声は、換気扇のダクトに乗って運ばれてきたものだろう。

微かに漂う血臭は、それよりも強い消毒液の臭いによって誤魔化されていた。

怪我人の臭いだ。

物資が絶対的に足りないとナワジは言っていたが、しかし反乱組織とはいっても戦争被災者の難民キャンプから端を発するような組織が、これだけの生活水準を保っていられるのは彼女達の努力によるものだ。

反乱組織、というのもそう称されているというだけで、本質は後者。“宗教難民”受け入れ組織だ。

全ては難民達の生活のために使われるために、本領である機工へと流用出来る物資が皆無なのだ、ともナワジは続けたかったのだろう。

生活必需品や環境を整えるために、全ての資材が投入されているように見える。

教会の地下に掘られた施設は武装こそされてはいないものの、居住スペースは十二分な広さと頑丈さを兼ね備えたしっかりとした造りをしていた。

地下建造物として強度を確保するために鉄筋が巡らされ、各ブロック毎には火災防護扉が設けられている。

壁は土壁だが、内側からのみ逃げやすい造りとなっていて迷路じみているし、そこいら中に垂れ下がっている電球は十分な照度を確保している。

外部を映す監視カメラは常時作動していて、外敵の進入を即座に察知するだろう。

この監視カメラは完全機械動作。神意の魔法警戒網をすりぬけるものだ。ただのモノとして感知される、人の手が生み出した、神の意から外れた技術。それが魔導科学、機械技術である。

非常時の際は、鉄壁とは行かないまでも、堅牢な地下要塞としての働きを期待出来るだろうか。

防衛機能……それを担う人員が確保されていれば、の話だが。

戦闘人員よりも怪我人や非戦闘員の方が多いような現状では、侵攻には耐えられまい。そも、“反乱”組織ではない故に、当然のことではある。

血臭と共に漂うのは、負の感情を孕んだ不穏な空気だ。殺気や怒気、憎しみ、悲しみ……そんなところか。

ナワジの方針で全ての“宗教難民”を受け入れてきたはいいものの、生産と消費のバランスなど取れはしない。コミュニティは初めから崩壊へと向かっているのだ。

ここから逃げ出したとしても、いずれは立ち行かなくなる。

それが一通り施設を見て回った、ナナシの見解だった。

天才の名を欲しいままにしていたナワジが、そのことに気付いていないはずがない。しかし、かといって皆を見捨てることも出来ないままに何とかやって来たのが、今の状態なのだろう。

彼等は積極的攻勢に出たことはなく、そもそも戦闘を行うことが目的でもなく、勝利を目指してもいないのだから。

すれ違う若者達の反応を見た限りでは、フラストレーションは爆発寸前にまで高まっていたが、行動化されるには至ってはいないようだ。

組織内過激派だろう若者たちも、スコップやつるはし片手に額を突き合わせては何かの算段を立てていたが、それで実際にどうこうという事になるとは思えなかった。

あるいは、彼らももはや諦めているのかもしれない。


「うわああああん!」


「おっと」


考え事をしていたナナシの腰辺りに、一人の少女が泣きながら飛びついて来た。

大きな目に涙をいっぱい溜め、か細く震えている。

力なく伏せられた、黒の長髪から覗く形のいい“片耳”。

薄い桜色の唇にはつつけば震えるくらいの潤いが湛えられている。

細身の身体は未だ女性としての主張をしてはいないが、それを飾るフリルが過剰にあしらわれた黒のゴシック調の服は、華奢な少女の魅力をこの上なく引き出していた。

ナナシの服の裾を力一杯掴んで顔を埋める様は、思わず息を呑んで見とれる程に可憐だった。


「せっ、せせっ、せん、せんせ、せんせいぃぃ」


「落ち着いてお嬢ちゃん。さ、深呼吸して」


「あんたもかああああ!」


「お、おう」


うーうーと唸りながら、胸板を弱々しく両手で叩いては涙を零す少女。

子供というものは何時の時代、何処の場所でも元気なものだなあと微笑ましく思うのと同時、今度ばかりは全く心当たりがないナナシはおろおろとするしかない。


「どうした。落ち着くんだ、ほら」


「うううー、うううー!」


「あっ! おね、お兄ちゃんみっけ!」


「ひぃ! 来たぁ!」


「ああ、ギンか……んん、おにいちゃん?」


はて、と首を傾げるナナシ。

一瞬おね、何がしと聞こえたような気がする。姉と呼ぼうとしたのだろうか。

少女を兄と呼んだのはギンジョウで、ギンジョウに姉などいなかったはず。

首をひねるナナシの前で、ギンジョウと少女は追いかけっこを始める。

二人の少女が自分を中心にぐるぐると回るのを為すがままにしていると、また一人、少女が現れた。


「シュー君待ってよー! ねえシュー君ってば!」


「お前もうくんなよあっちいけよ! 放っておいてくれよ!」


「えう……」


「泣きたいのは僕の方だよ! というかもう泣いてるよこんちくしょう!」


ブラウンの髪に、長い耳。

新たに現れたのは、純人種とはほとんど変わらない容姿を持ちながら、その体構造は大きく異なる精霊種――――――エルフの少女だ。

ぬいぐるみを片手に抱き、ゴシック調の服を着た少女の後を懸命に追い掛けている。

歳の頃はシュゾウと同じくらいだろうか。


「シュウ君? おまえ、まさかシュウか?」


「今頃気がついたんですか!? あんた先生でしょうが! しまいにゃグレるぞ!?」


「いやお前……これは、いや、仕方ないだろう。すごいな」


「ねー先生。おねにいちゃん、綺麗だよね!」


「おねにいちゃん!?」


「えへへ。私の自信作なのです」


「そうだよ先生! レティちゃん、すっごいんだよ! お兄ちゃんが女の子になっちゃった!」


「へえ、これ全部手製か。これは本当に凄いな、目が覚めるくらいの美少女ってのは、こういうのを言うんだろうなあ。うーん、洒落にならん」


「しみじみ言うんじゃねえよこんヘタレ男が!」


「ラッキーだったな。お前が女の子じゃなかったら、ぶん殴ってるところだ」


「ううう、うにゃーん!」


またも泣きながら走り去る少女。

その正体はシュゾウだったのだが、ウィッグと化粧が施された顔はどう見ても少女にしか見えなかった。

目元を拭いながら走る後姿は、ことさらにそう見える。


「シュー君、一緒に遊ぼうよ! ほら、もう何もしないから大丈夫だよー怖くないよー。ねえ、シュー君ってば!」


「お前はぬいぐるみの影に口紅を隠して何を言ってるんだ!?」


「ねーお姉ちゃん、今度はこのお洋服着ようね!」


「お兄ちゃん分0パーセントじゃねえか!」


「シューくーん! もう観念しなさーい!」


「い、や、だーっ!」


「まあ、元気にしてたみたいで、安心したよ」


「笑い事じゃないですよ先生!」


脱兎のごとく逃げる獲物を追いかける狩人。

どこに隠れていたのか三人の後を追うように、歓声を上げて他の子供たちもついて行く。

泣き声とはしゃぎ声を上げながら駆けて行く子供たちに、皆頬を綻ばせていた。

子供達の無邪気さが薄暗い地下で、唯一の清涼剤、癒しとなっているのだろう。

良好とは言えない環境で、すぐにシュゾウ達は受け入れられたようだ。

さっそく友人を作っていたのは、二人の保護者として、目覚めてから姿の見えなかった二人の所在を確認する意味でも安心した。

エルフの少女、レティも不幸を負っているだろうに、それをおくびにも出さずにこにこと笑っている。

レティはどうやら他の子供達とは違い、物珍しさからではなく、シュゾウに個人的に興味があるようだった。

地下施設の立ち行きが定かではないというのに、子供達の時間が労働に消費されていなかったのは、子供達が大事にされているからだろう。

未だ疑いの視線はあるが、ナナシが拘束もされず自由に歩き回っていられるのは、頭であるナワジの命をよく守っているからか。

ここにいる人達は追いつめられたとしても、未だ致命的な程には心が損なわれていない。そのことにナナシは安堵した。

子供たちをある一角には決して立ち入らせないようにしていたことからも、そう思う。


「そりゃ見せられないだろうな。これは」


ナナシが目指していた場所。

時折鼻を付く消毒液の臭い。

そこは、実際に異教狩りの被害を被った者達のための看護室だった。

ずっと鼻の奥をくすぐっていた怪我人の臭いの元である。

扉一枚隔てた向こう側だというのに、気配を感じる。

悲哀と、絶望とを混ぜ合わせたような気配だ。

見なければ、という思いがある。

見たくはない、という思いもある。

この4年間で人の犯す醜さを目の当たりにして来た、つもりでいる。だがそれによって踏みにじられた者は、どうなってしまうのか。

ナナシは知らない。

ナナシが知っているのは、いつも手遅れになり、死を待つしかなくなった者ばかりだからだ。

生き長らえてしまった者達、その末路は知る由もなかった。


「ナナシ君……? ナナシ君じゃないか!」


看護室への扉を前にした時、不意に掛けられた声にナナシは振り向いた。


「あ……神父、様?」


「ああ、やはりナナシ君か! あれから一体、どれだけ経ったのだろう……懐かしいものだ。外見が少し変わっていたから、一瞬誰だか解らなかったよ」


そう言って、穏やかに微笑む老人は、自分に『ナナシ』の名を授けた人物。

背が少しだけ曲がり、深い皺が何本も刻まれた顔は、記憶とは若干の違いがあるものの、二人目の名付け親であり恩人と言っていい程に世話になった、神父だった。

ナナシの脳裏に懐かしい思い出が浮かんでは消える。

“上の街”の知り合いは、この施設内にはほとんどいない。

貿易中継都市として栄えていた街だったために裕福な者が多く、砂漠化していく街を捨てて、王都近郊へと移り住んでいったのだという。

残ったのは、社会的地位の低い者か、神の鞍替えに賛同できなかった者かのどちらかだ。

この神父はきっと、後者だろう。

組織内の他の構成員もまた、同じく各地から流れ着いた者達で占められていた。


「お久しぶりです、神父様。俺、そんなに変わりましたかね?」


「いや、あれから8年も経っているのだから、当然だろう。こんなに髪に白が混じって……苦労したんだね。でもたくましくなった。あの頃とはまるで別人だ」


「これまで顔を見せずにいて、すみませんでした。墓参りもせずに……」


「いいさ。何時だって祈ってくれていたんだろう? それでいいんだよ。どうせ骨の一欠片も入ってはいない墓だ。

石の前で手を組んだとて、ポーズでしかないさ。ならば、どこでだっていい、真摯に祈ってくれた方があれも喜ぶだろう。

しかし……そうか、君はもう“過去”に出来てしまったんだね」


「いいえ……そんなことはありませんよ。結局ずるずると引きずってます」


首を振ってナナシは答える。

伏せられた目は、ここではない何時かの景色を、過去を見ているかのようだった。

ナナシの目に映されているのが、過ぎ去った優しい光景ではないことを、神父は悟った。


「でも、振り返ってはならないと、そう教えられましたから……見て見ぬ振りですよ」


「それは……いや、そうかね」


神父は頷いて答えた。


「私は駄目だな。目を閉じれば、今でもあいつの顔が浮かぶよ。憎まれ口が聞こえてくるようだ」


「俺もです。『うるっせえやい馬鹿野郎!』なんて」


「『勘違いするんじゃねえぞ!』なんてね」


二人して苦笑する。

いかに彼の人物が破天荒極まる人物であったか。

話に花が咲いていく。


「まさかあの人にそんな趣味があったなんて。あんな強面なのに、全然似合わないでやんの」


「いやいや、あれでどうして、少女趣味だったんだ。あいつは。恥ずかしがって表には絶対に出さなかったがね」


「はは――――――ありがとうございました、神父様。貴方にまた会う事が出来て、本当に良かった」


「よしてくれ。そんな、これが最後みたいな言い方は。しばらくはここに留まってくれるんだろう?」


「そのつもりでいます。せめて移動が終わるまでは。不甲斐ない男ですが、護衛を務めたいと。それから先は」


「――――――戦うつもりか」


「……子供たちは、置いていくつもりです」


「それであの子達が納得するはずがない。あの子達もまた、戦場で生きることになる。いや……もう、既に」


険しい顔でナナシを見る神父。

ナナシは視線を床へと逸らした。


「子を持つということの重さを、君は知っただろう。あの子達の行く末を案じているはずだ。それでも君は戦うのか。あの子達ではなく、自分の願望を優先するのか。

 ひっそりと隠れて、生きていくことは出来ないのか。死にに行くようなものだ」


ナナシは答えない。

否、答えられなかった。

自分の無責任さは今に始まったことではないが、しかし、この沈黙が問いへの返答であった。


「あの星がある限り、他教が排斥され尽くすまで闘いは終わらない。敗者は戦いから解放されるが、勝者は戦場に残る。それだけだ。

生き残った者は死ぬまで戦場を彷徨う、亡霊になるのだ。君は子供たちが、狂戦士として人生を費やすことになることを、良しとするのか?」


「良いわけ……ありませんよ」


「だが、ならばどうするというんだ」


「戦う理由が消えて無くなれば、そうなるとは限らないでしょう?」


ナナシの発言に、神父は何かに気付いたかのように顔を上げた。


「君は、まさか――――――いや、そうか、そうだったな。君は奴の弟子だからな。師匠に似るのは当然か……勝算は、打つ手はあるのかい?」 


「はい、一つだけ。とはいっても、俺にはそれしかありませんが」


「ああ、そうだったな。やはり私も歳かな、忘れっぽくていけない。君と『彼女』は、切っても切れない関係だというのに」


「ええ……思い知りましたよ。俺がつまらない意地を張ってしまって、まだまともに顔を合わせられませんが」


「こういうのは男の方が悪いと相場が決まっているのだから、早く謝ってしまったほうがいい。時間が経てば経つほど、気まずくなる」


「もう3年……もうすぐ4年かな。長い間放ったらかしにしてましたからね。愛想を尽かされちゃったかも」


「安心しなさい。それはないだろうから」


確信を持って神父は言った。


「だがいいのかい? 君の為すべく行いが成就すれば、確かに何もかもが終わるだろう。変わるだろう。しかしそれは、新たな戦端を開くことに繋がるのではないかね?」

 

「かもしれません。いいえ、そうなるでしょうね。でも復讐のためではなく、別の理由で戦場に立つことになるなら、引き返すことだってできますから」


「ああ、やはり……シュゾウ君と言ったか、復讐に心を囚われてしまっていたか」


「押し隠そうとはしていますが。あいつ、時々ぞっとするような眼をするんですよ。背筋が凍るような怖気を放ちながら。その時に妹がどれだけ悲しそうな顔をしているか、あいつは知らないでいる」


「君はその眼を知っているから、あの子を見放せないんだろうな。私も、覚えがあるよ。あいつと同じ眼だ。燃え尽きぬ執念を宿した眼だ」


「諦めろとは、中々言えないもので……」


「そうだな……私も、そうだったよ。だが、それはやはり、君の身勝手だよナナシ君。たくさん人が死ぬぞ。たくさん、たくさん死ぬ。君の行く道の後には、死体の山しか残らない。君が新たな争いの火種となるのだ」


「だからこのままの方がいい……なんて、それはないでしょう」


「自由のための戦いだとでも? 人を解放するための」


「全部が丸く収まることがありえないことぐらい、もう解っています。そんな段階はとうに過ぎた。何か方法があるかもしれないなんてことも、言いません。

 どうあっても血が流れる。無意味な死で溢れかえる。力による格差社会が形成されてしまっているんだ。行き着く所まで行くでしょう」


「君が引き金を引く必要はないと言っているんだ」


「もう弾は込められて、こめかみにずっしりと銃口は押し当てられている。逃れることは出来ない。苦痛の時が来るなら、なるべく早い方がいいでしょう。

 自分で自分を殺すことはない……俺のような立場の人間がそれをした方が、きっと救いはあるでしょう。皆にね」


「怒りと憎しみの矛先を得ることが、最後に残された救いなのか……君はきっと、全ての人間から憎まれることになるぞ。蔑まれ、忌み嫌われることになる。そんな役を負う必要はないじゃないか」


「いえ、それは、『この世界に来てしまった責任』ってやつですよ、きっと。どうやるか、までは決めかねていますが」


「ナナシ君!」


鋭い神父の叱責に、ナナシは肩を上げて答えた。

大人しく終わりを迎えれば、自分達が消えればいい――――――言ってはならないことだということは、誰もが理解していることだろう。

現状において、異分子であるのは加護の失せた人間の方であるのだ。

持てる者のみが生きる。それは力的資本主義の理屈であり、苦しみの原因であり、また自分たちを守る防衛線でもあった。

恨み、憎むことで心が救われるのだ。弱者に残された最後の救いと言えるだろう。

そうなれば、許し……余裕が出てくるものだ。思考する余裕が。

踏みにじる側にも理由があり、視点を変えれば正当な行いであるかもしれない。などと考えられる余裕が。

神父はおそらく、善悪の彼岸を問うているのだろうか、とナナシは思った。

正義はどこにあるのだろうか、と。

先ほどからナナシを諌めようとしているのか、ナナシの罪悪感を煽るような言葉を選んでいる。

そんな議論を交わせる時はとうに過ぎているとナナシは思う。

正義はどこにあるのか。

ない、と答えるしかないだろう。

争いなど利益原則に従ってしか発生しない。

更なる利を、更なる益を。それが人の基本だ。

そして、更なる力を、である。

そこそこ不満のない生活をしていても、生きるのに全く不安のない生活をしていても、欲は尽きない。

生まれ変ってやり直したい、などと心から願う者共が殺して回れる程に居るくらいには、ありふれたものだ。

消費者なのだ。人間は、生まれながらの。

消費するしかない人の全ての行いは、須らく悪でしかないだろう。

曲がりなりにも冒険者という道を志した者にとっては、当然の理である。

囮戦法といった汚いやり口も、当時からナナシは両手で数え切れぬ程にしてきた。学園のクラスメイトを先行させ、危険度を測り安全マージンを確認するなどざらだった。

ならば人は、口を閉ざして滅んでいけばいいのか。

いいや、それも出来ない。

ただ滅びを受け入れることだけは、人には出来ない。

それに、力による治世を行った国がどうなっていくかなど、歴史が示していることだ。

だから。


「この選択は幾分かマシな未来にするためのものなのだと、きっとあの子達が笑って暮らせる時間が長くなると、そう信じて事を為すしかない。

屁理屈になります……でも、それしかないでしょう。こっちはそう思うしか。あとは海の向こうのお偉いさん達がどうにかすることです」


やはり無責任ですが、とナナシは続けた。


「でも責任を持てと言われても、困りますよ。政治屋じゃないんだから、何も出来やしない。先立つ物を残そうとしても、こんな状況では。俺に出来ることなんて、一個しかないんです」


「結局は祈るしかないのか……」


「何にです?」


すぐさま、すみません、とナナシは頭を下げた。

神父に……否、“元”神父に言うべきではない皮肉だった。


「何にしろ俺は、星を堕とす。それはもう決めたことです。後の事は俺が考えることじゃない――――――その時には俺はもう、生きてはいないでしょうから」


「そう、か。君はもう、決めてしまったのか」


「それに、いざとなれば例えあいつ等を戦えない身体にしてもいい……そう思っていますよ。戦わせたくないというのなら、そうするべきだと……」


「すまなかったナナシ君。それ以上はもう答えなくてもいい。君が、そこまでの覚悟を持っていたとは」


「覚悟なんかじゃ……星を狙うのだって、ただの私情ですよ。現実を見ていないだけです、きっと。それで救われるわけでも、解放されるってわけでもないのに」


「それでも、これまで君は戦い続け、生き残って来た。得たものは多かったはずだ」


「勝てる闘いしかしない卑怯者です、俺は。それに負けた数の方が多いんですよ。恥ずかしくって、失敗談は黙っていましたが」


ナナシの闘いは、彼我の実力差を比較することから始まる。

勝てぬと判断したら、戦わない。闘いに臨んだとしても、逃走の手段は常に備えておく。

敗走の兵となることを恐れぬこと。

それが“ナナシの”無名戦術の根幹を為す、戦闘思想の基礎である。

冒険者教育を受けた者特有の思想である『生存』を、より色濃くした戦闘思想だった。

シュゾウ達はナナシの事をまるで無敵の男の様に思っている節があるが、そんなことはない。

むしろ黒星の方が多く、みっともなく地を這って逃げ延びた事も両手では数えきれない程だ。

それほど加護のもたらす力は大きく――――――元来、半身と一つになることで一己の戦力として完成するナナシは、初めから巨大なハンデを負っているようなものだった。

いくら勝てると見切りを付けたとしても、一歩間違えれば即、死なのである。

シュゾウ達と同行することになってからは、守る者ができたために逃げの一手を打つことが出来なくなり、勝利をもぎ取るには、並々ならぬ努力とより一層の慎重さが必要となった。

勝敗スコアが逆転したのはようやくここ一年の事で、それも中位以下の相手に限られる。高位魔術師が相手では、敗死は必定だろう。

だが、為す、と決めたのなら。

命を捨ててでも為すと、そう決めたのなら。


「それに俺は一度折れてしまったから、土壇場で崩れるかもしれません」


そうか、と神父は苦しそうな表情を浮かべ、頷いた。

また後で、と言い残し看護区へと足を進めるナナシの背を見送る。

神父の脳裏に、若き日の憧憬が映し出されていた。

細身ながらも鍛えられた体躯。白髪混じりの頭。迷いに揺れていた瞳。

全てがあの男の若い頃に、そっくりだった。

だからきっと、あの男のように成っていくのだろう。

最後は絶望しか残らないような、そんな男に。


「時の流れのなんと残酷なことか。君は一体、その拳をどれだけの血で染め上げ、鍛えて来たのだろう――――――」


答える声は無い。

しかしこの場にナナシが居たとて、答えに窮しただろう。

そして考え込むその様子を見れば、誰もが理解するだろう。数え切れない程だったのか、と。

狂人の縁にあったというナナシに“明確”な殺意があったのか否か。今となってははっきりしない。

その場の衝動に任せた行動だったのかもしれないし、確固たる意思の下の決断だったのかもしれない。あるいは、その両方であったかも。

それはたぶん、ナナシ自身にも解らないことだ。

だが、己の拳が成した結果である。それだけは確かだ。ナナシはそう頷くはずだ。

ならばいずれ、その責を負う時が来るのだろう。





■ □ ■





傷の痛みに呻く男を避け、赤子に似立てた人形を揺さぶり続ける女性をまたいで進む。

隙間無く包帯を巻かれ身動き一つとれない子供の横を静かに通り、病の床に着き緩やかに衰弱していく老人を眼に入れぬようにした。

身体の一部に欠損がある者は当たり前で、ある者は喉から絶叫ではなく血しか出なくなるまでに叫び続けていて、爪が剥がれてもなお壁を延々と引っかいている者もいた。

ナナシの頬にとまり手足を擦るハエは、肌が土色に変色してしまった子供の、干からびた咥内から這い出て来たもの。

その光景を見た瞬間に、ナナシは一瞬、視界が揺れるたことを自覚した。

覚悟はしていたものの、実際に目の当たりにするのではまるで違う。

ナナシがこれまで見てきたのは“手遅れ”のものばかりで、ただ自分はその処理を行えばよかった。

こんな、苦しみあぐねながらもなお生きようとする人達に会ったことはなかったし、接したこともなかった。

表にいるただ絶望している者達よりも、苦しみ喘いでいる者の方が、強く生きたいと願っている。

この者達は、生きるための戦いを挑んでいるのだ。

理不尽な理由で傷つけられた人々。

日々をただ穏やかに過ごしていただけの人々が、踏みにじられてきた命と誇りを守るためには、その命を繋ぐしかない。

そのための闘いがどれほど過酷であるか、それを知らずに第三者が勝手に諦めを抱くなど。

彼らの抗い方を知らず、この組織は長くないなどと半ば諦観の念を抱いていたナナシは、心底から己を恥じた。


「おじさん……お久しぶりです」


ナナシは一人の男性の前に膝を着いた。

ベッドが足りないために比較的軽度な症状の者は、床に雑魚寝にされている。

ナナシが側に寄った男性もその一人だ。

男は不思議そうにナナシを見上げていたが、はっとした風に目を見開いた。


「≪ジョージ! ジョージじゃないかい! あんた! ジョージが帰って来たよ! あんた!≫ 

 ジョージ! お前、今までどこに……いや、そんなことはいい。よく無事で帰ってきてくれたね」


「……うん。ただいま、父さん、母さん」


「≪あんた今までどこほっつき歩いてたんだい! お袋達みたいにはならないって大見え切って出て行ったってのに。母さんだなんて、この子は、ほんとうにもう≫

 この子も男の子だったということだよ。しばらく見ない内にこんなに大人になって。ああもっと良く顔を見せておくれ」


巨大な、人間のそれと同じくらいの大きさの兎の頭部の剥製をパペット人形にして、それを片手に調子の外れた腹話術で会話する男。

足はほとんど骨と皮だけで、上半身の動きに対し腹から下が反応してはいない。

やっとのことで体を起こしているような状態だ。

目はこちらを向いてはいるものの、焦点が合っているようには思えなかった。


「≪そうだ! この前、あんたにそっくりな子が店に来てねえ、ナナちゃんっていうんだけど、きっとあんたとも気が会うはずさ。いい友達になれるよ!≫

 この街も様変わりしたから、お前も話しやすい相手がいた方がいいだろう? 会って来てごらん。大丈夫、ナナシ君はとてもいい子だよ」


「……へえ、そんな奴がいるんだ。楽しみだな」


ナナシは一瞬悲痛に顔を歪めたが、無理矢理に笑った。

何を言ったらいいか解らず、何を言えばいいかも解らない。

自分はこればかりだ、と自嘲する気も起きない。


「――――――ごめん、父さん、母さん。俺もう行かないと」


男性のもう一方の手が頬を撫でるに任せていたナナシは、急に何かを感じた様に顔を上げた。


「≪そんな、折角帰って来たってのに、もういっちゃうってのかい? あんたどこまで親泣かせたら気が済むんだよ!≫

 まあまあ、母さん。男の子には色々あるんだよ。ジョージ」


「なんだい、父さん?」


「行かなければいけないんだろう?」


「うん。俺じゃないと駄目なんだ」


「じゃあ、行って来なさい。

 ≪あんた!≫

 いいんだよ、認めてあげなさい。親が子供に出来るのは、見送ってやるだけだ。ジョージ、気を付けるんだよ」


にこやかに男性はナナシに手を振った。

兎のパペットは不承不承といった体で、それでもナナシの手を握る。握ったように触れた。

握り返した手は手ごたえが無く、くしゃりと潰れた。汚れて堅くなった毛皮の手応えしかしなかった。

立ち上がる。

背を向ける。

扉を出る寸前、ああ、と少しだけ立ち止まってから振り返らずに言った。


「二人といっしょに食べた肉じゃがの味、俺は忘れません。ありがとう、おじさん、おばさん。さよなら」


返事をまたず、ナナシは駆け出した。

申し訳ないと思いつつ怪我人達を跳び越え、扉をくぐり、廊下を曲がると向こう側から走ってきたナワジと合流。

そのまま並走する。


「ナナシ、結界だ! 外に出られねえ! 非常口も駄目だ! 閉じ込められた!」


ナワジの説明によると、現在この地下施設をドーム状に覆うように結界が張られているのを、機器が探知したらしい。

外部からの力による魔術の行使である。

本来外からの衝撃から身を守るためにある防御結界は、しかし今は内に向けて発動されている。

それが指し示す所は、つまり、閉じ込められたということ。

堅牢な要塞は、今や土中の牢獄と化していた。


「早すぎる……!」


「功を焦った馬鹿か、サディズムに酔った殺しが大好きな馬鹿のどっちかだろうよ! 相手は一人だ! 厄介だぞ!」


ナナシは内心で再び毒付いた。

見通しが甘かった。情報を掴んでから数日も経たぬ内、この場に到着してから一日も間が空かないとは。電撃戦どころの話しではない。

こちらを狙う執念を甘くみた。

獲物を追い詰めるという“遊び”に感じる、“楽しさ”を理解していなかったのだ。

寝食を忘れる程に没頭してもおかしくないということを。

ナワジが手元で操作しているPDAには、カウント数が一つだけ表示されている。

生体反応一。たった一人による、しかし巨大な、粘ついた殺意が感じられた。

本気だ。本気でこちらを潰しに掛かって来ている。

それだけの事を為し得るという自信を持った、実力者が。


「使える人数と武装は?」


「20人程度だ。武装は火器が3丁、後は全部間に合わせの鈍器か刃物だけだ」 


「解りました。一応すぐに出られるよう、待機させておいて下さい」


「お前はどうする?」


「非戦闘員の避難誘導が終わり次第、打って出ます。俺なら結界を無視できる」


「状況説明はいるか?」


「解っています」


――――――衝撃。

遠雷が響くような音と共に、大きな揺れ。

土壁が崩れ、天上の一部が大きく崩落した。

ナワジの頭を胸に抱え、頭上に振って来た梁を弾き飛ばす。


「敵襲だ」


空を、土壁に阻まれたその先を睨み付けるようにして、ナナシは言い放つ。

どこか遠くで、撃鉄の落ちる音がした。

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