地下49階 エピローグⅠ:廻想―ナナシ―「未来」
――――――長い夢を見ていたようだ。
零れていく記憶を眺めるような、決して戻らぬという喪失感だけが胸に残る。そんな夢だった。
また一つ失った。こうして目を閉じる毎に、一つ、また一つと失っていくのだろう。
その悲しみと苦しみを認めるのには、正直なところ、そう苦労することはなかった。
失くしたものが大事なものであったことすらも、忘れてしまったのだから。
あくびを一つ噛み殺す。
諦めに深く吐いた息が、白く変わった。
季節は冬。そろそろ本格的な寒気がやってくるという頃。
もうすぐクリスマスであるためか、新たに誕生したカップル達で賑わう大学のキャンパス。その一角に供えられたベンチに、一人の青年が座っていた。
寒さに凍えることもなく熱を含んだ学生達の、全身で青春を謳歌するような声を聞きながら、コンビニで買ったおでんのカップを膝に置いて、三角に切られたこんにゃくをもそもそと口に運んでいる。
寒空の下、どうやら食事中に転寝をしていたようだ。時折目元を擦っては滲んだ涙を拭っていた。
身を切る風に一人背を丸めている姿を見れば、この青年が寂しい青春時代を過ごしている事は理解出来よう。
どこか枯れた雰囲気を纏っていることを覗けば、特に特徴もない、特徴がないことが特徴であるような、そんな青年……だった。
数ヶ月前までは。
昨今における良くも悪くも模範的な若者であった青年には、特に挙げるような特徴はない。
その身体的欠損に眼を瞑るならば、だが。
青年の見た目に、誰も彼の周りに近付こうとはしない。
賑やかなキャンパスとは対照的に、青年の周りは腫れものを扱うかのように、ぽつんとして静かだった。
「ごちそうさん」
食べ終わったおでんのカップをコンビニのビニール袋に詰め直し、“片手で”口を締める。
さも遣りづらそうに何度も失敗しているのは、青年が隻腕であるからだ。
青年の左腕は根元から、肩口から喪失していた。
上着の左袖はそこに何も存在しないことを示しているように、萎れて揺れている。
不慣れな手付きは、青年が隻腕となって未だ日が浅いことを表していた。
「ああ、くそ……やっぱ上手くいかないな。身体自我と現実の身体の連結がなんとか、だったか。面倒だな……」
ぼやき、愚痴を言いつつも、青年はぎこちなく片腕での作業を続ける。
掻き上げられた白髪だらけの灰色の髪。
顔面には右眼窩を覆うように包帯が巻かれ、傍らには一本型の松葉杖、ロフストランドクラッチ型の杖が立て掛けてある。
左腕だけでなく、青年の身体には少なくとも右目と、歩行に支障を残す程度の損傷があるようだ。
頭髪が老人のように灰に染まってしまっているのは、内側からの欠損……心的な作用によるものだろう。
肩から羽織ったジャケットに隠れて解らないが、露出している残った右手首の傷は、服の下がどうなっているのかを想像させるには容易いほどの量と、深さがある。
こんな、傷の上に傷を重ねているような青年が、特に特徴もないなどと―――――“普通”で在れるなど。考えられるだろうか。有り得ることなのだろうか。
気を抜けば、風景に溶け込んで消えてしまうような、不自然なまでの自然さ。
“存在として”壊れている。
そこには恐ろしさしか感じない。
青年が避けられている理由は身体的欠損などではない。そんなものは些事であり、関係はない。
身に纏う空気の歪さ。
これこそがこの青年の直視されぬ特徴であり、異常である。
「あー……寒……冷え込んできたなぁ」
青年が撫でさする場所は、虚空。
四肢のいずれかを失った者は、ある筈もない肉体に痛みを感じると言う。
幻肢痛と呼ばれるものだ。
青年が更に忌避されることとなった仕草である。
援助されるべき立ち場にあって同情を集めないのは、その仕草に形容不可能な感情が込められているから。
それは、おおよそ現代日本で日常を送っているならば、含み得ない感情である。
ふとした時に感じる、背骨に氷柱をねじ込まれたかのような冷たさだ。
それは、決して体験するはずもない死地と言う場所に吹き荒れる風を運んでくる。
日常にするりと入り込んでくる非日常など、誰も関わり合いたくはないだろう。
煙のように消えてしまいそうな、恐ろしい存在。
まるで幽霊だ。
関わり合いたくないならば、無視するしかない。
「一体俺は、何だったんだろうな……」
誰に問うでもなく、青年は呟きを漏らした。
そこに込められた想いは、虚しさに満ちていた。
絶対に答えなど出ないことを確信しているような、諦めているような、そんな響きさえした。
「何をしたかったのか。何を為したのか」
――――――それとも、やはり、全ては幻だったのか。
中身の無い左袖を握りしめて、青年は項垂れる。
脳裏に浮かぶ光景は、もはや夢であると認識している。
そう、現実ではないと認識してしまっているのだ。
もはや実感は消え失せてしまっていた。妄想であったのだとさえ思っている。
十年分の妄想だ。
どうも、精神科医の言うには、そのせいで精神上の身体年齢と、現実の年齢が食い違ってしまっているのだそうだ。
夢の中の世界で十年という時を過ごした。
だが、こちらでは、一日も経ってはいなかった。
だというのに、傷だけは残されている。
それが現実と妄想を繋ぐ最後の証拠であるかのようにして。
「でも、楽しかったよな」
全部が悲劇で終わったけれど。
誰も満足しない終わりであったけれど。
その結末には皆、納得していたはずだ。
自分もまた、その終わりに未練はない。
「ああ、うん。本当に楽しかったんだ」
それだけは確かなことだった。
残ったものは、救いは、それだけしかなかった。
盛大な茶番劇だった。そこに真実など求めてはならない。
幻を追えば、取り残されるしかないのだから。
青年の口から酷く乾いた笑みが零れた。
「だったらそれで、いいや。それだけで」
学内のスピーカーからチャイムが鳴ると同時、青年はビニール袋を捨てて立ちあがる。
覚束ない足取りで、講義を受けに向うのだ。
学ぶことは素晴らしい。
無知な自分に、答えへと導くための知識を与えてくれるから。
学んでさえいればいつか何かに繋がるだろう、という根拠のない慰めを。
「終わったよ。全部終わった。なあ、見てるか」
そして、青年は誰かの名を呼ぼうとし、口ごもった。
震える顎からはどれだけ強く念じても、何か、言葉が出ることはなかった。
「誰だったっけ……」
きっと青年は、これから先の人生の全てを自問することに消費していくのだろう。
そしてその全てに答えを出せず、今のように途方に暮れて、無理矢理納得するしかなくなるのだろう。
続く生の中で、その長さに絶望してしまうかもしれない。
ただ不思議と、どれだけその後ろ姿が弱々しく見えたとしても、青年が人に残された最後の選択肢は、決して選ばないことだけは信じられた。
ふらふらと、ゆらゆらと身体を揺らしながら、まるで幽鬼のような現実感のない足取りで青年は行く。
杖を突く青年の後姿が、人ごみに紛れて消えていった。
エピローグと銘打ってありますが、幕間の扱いです。
紛らわしくて申し訳ありません。まだ続きます。