地下46話
幼さに秘められた才気を感じるのは、こうしたふとした時にこそだとナナシは思う。
未だに道極まっておらず、他者の才など見抜ける程ではないと自嘲するナナシであるが、しかし才というものは隠し通せるものではない。
暗闇の中に燦然と輝く一つ星の様に、何でもない日常風景の中にこそそれは顕れ、見るものを魅了する光を放つのだ。
否……何でもない、などとは口が裂けても言えまい。このような過酷な環境と兄妹を襲った悲劇を知っては。
肌を焼く程の日中とは裏腹に、砂漠の夜は凍える程に寒い。廃材を集めては焚き火をしても、身を寄せ合わせねばまだ幼子には寒かろう。
ギンジョウは傷が癒えた今でも、精神的な気疲れもあってか、ナナシにすがり付いて眠ることが多かった。こうして胸に顔を埋めて眠りに付いた時、時折体が震えるのは、夜の寒さのせいではないはずだ。
そしてシュゾウにあっては、こちらは逆に眠りが酷く浅い。一夜の間に、何十回と浅い睡眠と覚醒を繰り返していた。今は薄らと目を開いている。また眠りから覚めてしまったのだろう。
ちらちらと燻る火を眺める瞳の中に、何が映されているのだろうか。ナナシはまっすぐにシュゾウの目を覗くことが出来ずにいる。
火種だ。この少年の中には、あの日あの時の火が、ずっと燻り続けているのだ。この焚き火のように。
何の拍子に一気に燃え上がるか解らない危うさが、シュゾウにはあった。その火は少年自身を炭になるまで燃やし、それには飽き足らず、周囲まで飛び火し灰燼と化すのではないか。そんな、見るものに破滅の予感を抱かせる。
乾いた薪が音を上げ、火の粉が宙に一粒飛んだ。
シュゾウの眼が、その軌跡を追っていた。
追っていたというのは御幣がある。ナナシの気のせいでなければ、火の粉を追って視線を動かしたのではなく、あらかじめ火の粉が舞う方向へと視線を“置いて”いた。
先読みしていたのだ。
空気の対流や乾燥の具合、この場にいる三人の呼吸によっても、ランダムに火の粉は軌道を変える。
例えば動体視力が良い者であれば、それを忙しく目で追っていけるだろう。端的に言うならば、後の先……動くものよりも早くに、後出しで眼球を動かして対象を捕捉していける。
ある程度の先読みもそこには含まれるだろうが、シュゾウの場合は、これを全て予測で補っていた。
猫虎族特有の優れた動体視力に全く頼っていないのである。
本人にしてみれば無自覚での行いなのだろう。呆として宙を眺めているだけ、という認識のはずだ。
だがその視線が向かう先に、火の粉が飛び込んでくる。視線によって火を操っているかのようだ。
これはシュゾウが五感の全てを駆使し、火の粉の軌道を読んでいることの証明である。ナナシには出来得ない芸当だ。
ナナシにも相対する者の思考や動きを、ある程度は読むことは可能ではある。
だが、こうした非生物、意思無き物のランダム性を読み解くとなると不可能だ。
天然自然を読み解く器は、ナナシには無い。
故に、才。シュゾウが持って生まれた、才気である。
「先生、それ……いいんですか?」
ナナシの手元へとその視線は移されていた。
気づかぬ間のことであった。背筋が粟立つような感覚。虚を突かれたのである。
才気に嫉妬するような上等な人間ではないが、曲がりなりにも武術に携わる者として、羨ましく思うのは仕方が無い。
ナナシは「ああ」とだけ短く答えた。
「いいんだよ、もう必要ないものだから」
「でも、それ、何かの地図なんでしょう? 書き込みがびっしりしてありましたし」
言いながらも、宙に舞って紅く閃いては消えていく、紙切れの行く先をシュゾウは呆として見ていた。
ナナシは二枚目の紙切れを焚き火へと放り込んだ。火に炙られて、カラープリントのインクが焼け焦げていく。それは地図だった。
そこいらの量販店で売っているような、何の変哲もない安物の地図だ。
灰になって空に溶けていく直前に、地図には何か、五芒星のような書き込みと、赤黒い染みでびっしりと埋め尽くされていたのをシュゾウは見た。
地図の縮尺から考えて、大陸全土を巡るようにして五芒の“星”は記されていたようだ。
「もう行った場所だから、用はないんだ」
「どんな所だったんですか? そこ」
「さてな」
「そこで、何かあったんですか?」
「何も無かったさ」
「先生……」
何時もは他者を気遣って、あるいは警戒して、不必要に内面へと踏み込まないシュゾウが、何故今回は問わずにはいられなかったのか。
シュゾウ自身もそれは解らなかった。
師の顔を見ることが出来ずに、弟子の顔を見ることが出来ずに、二人はじっと揺れる炎の舌先を濁った眼に映し続ける。
「何も……無かったさ。無いようにしたんだ。終らせた。だから終ったんだ。もう終ったことなんだよ」
「誰か……そこで亡くしたんですか? 知り合いの方、とか」
「なぜそう思う?」
「思い出しているような、思い出したくなくて苦しくて、でも思い浮かべずにはいられないような、そんな感じがしたから……僕もそうやって、色々思い出しますから。村のこと。きっと妹も」
「そうかい……居たのは知り合いじゃないが、ああ、同郷の人達だ。ここじゃない、別の場所のな」
ナナシは諦めたかのようにして、鼻から細く息を吐き出した。
「近くに」
言って、シュゾウを引き寄せる。
寒く、凍えたからだ。何故かはナナシも解らない。
シュゾウがナナシを師と選んだのは、こうした似た部分を感じ取ったからなのだろう。自分自身のことが全く解っていない、盲目的な部分を。
一枚の大きな毛布に、三人で包まった。
毛布から顔だけ出している二人の兄妹。
三つの影が一つの塊となって揺れていた。
「戦争中……俺はずっと、大陸を放浪していた」
ナナシの独白はそうして始まった。
「獣のような三年間だった。言葉を忘れて、呻くか喚くかしか出来ずに、泥を貪りながら這い回っていた。
体を虐めて、それで気絶する以外には眠りもせずに……そうやって、大陸中に指定された迷宮探索を続けていた」
「五芒星……ですか?」
「見ていたか。そうだ。迷宮内を奔る魔力のラインは通常はその内部だけに循環し、これが迷宮内の自動組み換えやアイテムの生産、迷宮の自浄作用として機能する。
言わば、一個の生物の体内のようだ。迷宮とは自己完結した“存在”だ。だが、これに人工的に手を加えると、その内部だけに作用するはずの機能が、外部へと流出を始める。
それに龍脈の流れを操作し、誘導してやることで、遠くに離れた迷宮同士が“呼応”し始めるんだ。一つに繋がる。奴らは大陸そのものを魔法陣にしたんだ。誰にも気付かれずに」
「奴ら……」
問いかけて、シュゾウはうっと喉を詰らせた。
周囲に濃厚な殺気が溢れ返る。ナナシの全身に剥き身の薄暗い感情が纏わり付いていくのを感じる。
「ううん」とナナシの胸元でむずがる声がした。ギンジョウが寝苦しそうにして、額をナナシの胸板に擦り付けていた。
息が凍える程の気配が霧散していく。
「魔法陣の効果は喚び寄せと封印だった。召喚陣と力を絞る制御陣、二つの性質を併せ持ったものだった。この大陸魔法陣の効果によって、神なる星が喚び出された。そして、俺達も……」
力なく頭を振って、ナナシは続ける。
「俺は強迫的に、命じられたままに、迷宮を破壊していった。恐ろしかったからだ。そうしなければならないと思い込んだ。逃げるために、俺は壊して、殺したんだ。
結果がこれだ。神意汚染は激しさを増し、環境の激化は止まらず、地殻変動は未だに続いている。俺が加速させた。
一つ迷宮を破棄する度に封印が解け、“星”に新たな機能が追加されていくからだ。殻は中身が孵るまでは防壁だが、その後は邪魔なものでしかない。用済みとなった楔が抜けて、より強力な神となっていった。
大陸の地脈を、世界のバランスを崩す程に。
解っていながら、俺は止まらなかった。狂った叫び声を上げながら、腕を掻き毟って、 同じ場所から来た人達を……無理矢理にこの世界へと堕とされた、同胞達を……全て……。
迷宮を潰す度に、そこは血の海になった。なぜお前なんだと、皆が言った。なぜ自分じゃなかったんだと。俺は答えられなかった。俺もそう思っていたから。
なぜ、俺だったんだろう。誰でもよかったのなら、俺じゃなければきっと、もっとマシな事になってたはずだ。俺じゃなければ、死なずに済んだ者も多かったはずだ。
この世界の人達もだ。俺じゃなければ、救ってやるって考えられる奴だったなら、もっとマシだったはずだ。俺は駄目だった。
“あんな”のがあるなんて、耐えられなかったんだ。だから、全部……全部、叩き潰してやろうと思った」
それは何時か、ナナシがこの世界で初めての仲間と出会った時に叫んだ台詞と等しいものだった。
だが、それに込められた意味は真逆のもの。
立ち向かうためではなく、目を逸らすために消し去るという。
ナナシの負の側面。闘うことなく、逃避しただけだ。
「それで、この様だ」
口元に自嘲が浮かんだ。
シュゾウはじっと、揺れる火の舌先を眺め続けていた。
「俺が殺されなかったのは、生かすだけの理由があったからだ。何かをしなければならないのだと、そのために時間を与えられたのだと、そう思ってる」
火に枝が放り込まれた。
血の染みこんだ地図は、全てが灰になり、空に溶けていた。
「誰に、ですか?」
「女だ」
細く長く、そして深く、ナナシは鼻から空気を搾り出すようにして、何をかの感情に収まりを付けているかのようだった。
「おかしな話だ。何十人と正規軍の貴族共を殺してやったのに、俺の顔も、名前も知られちゃいない。誰かが手回ししてたのさ。“やりやすい”ようにな」
「その人が助けてくれたんですか?」
「そんな甘い話じゃないさ。お互いに、もうそいつしかいないから寄り掛っているだけだ」
「僕と……」
「うん?」
「僕と、妹のような関係でしょうか」
「……かもな」
次にナナシの口元に浮かんだのは苦笑だった。
そこに否定の意味が含まれていることをシュゾウは感じたが、深く問うことはしなかった。
大人達がよく話題にしていた、男と女の関係というものなのだろう。
それが美しく綺麗なものばかりではないことを、幼いながらもシュゾウは知っていた。
「もう寝ろ」
太く節くれだった、傷だらけの手がシュゾウの肩を抱き寄せた。
妹と同じようにして師に体を預けると、すぐさま睡魔が押し寄せてくる。
「怖いんです」
「何が怖い」
「眠るのが。夢を見るから」
「悪い夢は、起きたらすぐに忘れもんだ。眠ってしまえ。明日もまた早い」
「悪い夢じゃないから、忘れられないんだ……」
瞼が落ちて来る。
シュゾウは炎の揺らめきを瞼の裏にして、力なく意識を手放した。
「幸せだった頃の夢を、見るくらいなら――――――」
静かに寝息を立て始めたシュゾウの肩が冷えぬよう、ナナシは毛布を掛け直す。
眠りに落ちる前の独り事。自分の心を押し殺した少年の本心の吐露。それに返す言葉をナナシは持ち得ていない。
ただ、目の下に深く刻まれた浅黒い隈が、その答えである。
■ □ ■
これもまた因縁か、とナナシは再び呟いた。今度は兄妹達に気づかれぬよう、胸中で溜息を吐きながら。
崩れかけた工房で一夜を明かしたナナシ達は、廃線となった線路を数時間掛けて逆に辿り、また別の朽ちた街にまで足を伸ばしていた。
まだ無計画な迷宮の掘削が行われておらず、急激な魔力衰退による砂漠化が始まる以前には、ここも第二の貿易中継街として商店を賑わしていたことだろう。
かつては豪商貴族の娘が別荘を建てて住んでいたような街だったが、砂に削られた街並みからは、かつての華やかさは微塵も感じられなかった。
この街もまた、ナナシにとり思い出深い街である。しかし、どれだけ記憶を探ってもこの砂まみれの街道は、そのどれにも該当することはなかった。
「ううっ、また砂がじゃりってなった」
「ほら、口を開けるなって、もう……先生、こんな所に反戦組織は、本当にいるんでしょうか?」
「いるさ、必ずな。悔しいが、奴らの探査魔法の効力は絶対だ」
「自分の手を汚さずに、呪文を唱えるだけでオートで人が殺せるなんて……クソッ」
シュゾウの言葉に憎しみが灯る。
労力は最小に、効果は最大に。そして、作業は簡略に。
人の活動のあらゆる全ては、そこに集約される。それは戦争も例外ではなかった。
スイッチ戦争である。
この世界の場合は、魔術戦争というべきか。
戦争もまた、人の手が入らないオートメイション化されつつあった。陣を作成し呪文を唱え、魔力を流せばそれだけで大魔法に等しい効果が発揮されるのである。
それも全ては、加護が強化されたからだ。
多大な戦功が上げられた反作用に、元々軽かった人の命が、ことさらに軽くなった。
シュゾウとギンジョウのように、そんな血みどろの戦争に巻き込まれた戦災孤児もまた、掃いて捨てる程いるのだろう。
そして捨てられる運命にあることを、変えることは出来ない。
「言うなよ、シュウ。力を恨むな。擦り切れちまうぞ」
「……早く彼らを見つけだして、狙われてるってこと、教えてあげないと」
「そうだな」
これでもナナシ達が訪れてきた村と比べれば、まだましな方だ。街道には人の死体は転がってはいないし、路上生活を余儀なくされた子供達は一人もいない。
何より選民思想に染まった貴族連中の姿が見えないことが大きい。
この街が反戦組織の根城となっているからなのだろう。
反政府ゲリラがいる、というのが、ナナシ達がこの数ヶ月で掴んだ情報である。
“子連れ”となったこの数ヶ月、子供達の前で極力は殺しを避けていたナナシだったが、どうにもならない時もある。進むルート上でかち合った正規軍と、何度か交戦を繰り返していた。当然、殲滅……皆殺しである。
『地下街』へと立ち寄る以前に訪れた廃村。そこでいつも通りに、目に余る外道な行いに耽っていた者達を処理した際、残された書類から反政府組織の一斉狩り出しの情報を掴んだのだった。
調査団だったのだろう。捜索中であり信憑性の薄い情報だったが、どうやら当りを引いたようだ。十中八九は当りであると思ってはいた。探査魔術を用いての捜索は、現在においてはほぼ外れることがない。
見回せば、かろうじて街の体裁を保っていられるのは、人の手が入っているからだろう。涙ぐましい努力の跡が窺える。
だが、それも直に終わる。
軍の作戦行動は秘密裏に進められる。一斉狩り出しの情報を、この街に潜んでいるであろう反政府組織達は知らない。
貴族派の兵士達が攻め入ったとして、警告を無視し潜み続けていたとしても、あるいは警告なしで、街ごと焼き払われ消し去られるのがオチだ。
常のナナシであったなら、ここは見捨てる場面であった。
しかし、その情報を発見したのがシュゾウであったことがいけなかった。
正規軍に対して、解りやすい行動で表すことはないが激しい情念を燃やすシュゾウが手に負えず、ナナシは仕方なく、と言った体でこの街にまで足を運んだ次第である。
間違っても、義憤ではない。人助けや救済といった、正義感からくるものでもない。
情けないが、ナナシはシュゾウの激しさに引き摺られる形ででしかないのだ。
そうでなければ、こんな場所に来るものか……来れる訳がない。
内心、もう間に合わないと諦観を抱いていたが故に、野営をしながらの余裕を持っての旅だった。
だが、様子を見るに、間に合ってしまったようだ。
潰されていてくれたら、楽だったものを。
ナナシの内側にある冷静な部分がそう囁いた。決して子供達の前では、特にシュゾウの前では言えぬ台詞だった。
面倒な事になりそうだ、とナナシは息を吐く。
「なにか動いた! 先生!」
真っ先に気づいたのはギンジョウである。
未だ二桁に届かない年齢だが、感覚の鋭敏さは侮れないものがある。
シュゾウに才気を見出したナナシではあるが、ギンジョウには底知れぬものを感じていた。
ナナシの観察眼を持ってしても、この幼子の底を計れないのだ。
つまり、それの意味する所は。
「お前達はここにいろ」
「いえ、僕たちも行きます。足手まといにはなりませんから!」
「……いいだろう。俺の側から離れるな」
「はい!」
「うん!」
二つ分の返事を耳にしつつ、ナナシはその声に反応した何者かの気配、息遣いと場所を察知した。
虎視耽々と国家転覆を狙う、気概有る反乱家達だろうか……否、違う。
こちらを伺う警戒心の他に、確かな敵愾心と、薄暗い情念を感じる。
恨みや、妬みのような類の、粘り付いた感情だ。
感じる視線の数や気配からして、相手は一人。
これが反乱組織の一員とするならば、敵愾心を感じるのは解る。だが嫉妬、あるいはそれに準ずる粘ついた感情となれば、話は別だ。
個人的に用件のある手合いだとしか思えない。一体何者であるというのか。
こちらから仕掛けるべきか。それとも出方を待つべきか。
一発放り込んでから考えるかと、ナナシは決めた。
タールのように重く粘着く気配が鬱陶しくて仕方がないからだ。
「シィィッ!」
不動からの急動。
予備動作無し、腰と腕の振りだけで、襤褸布の隙間から刃物の輝きが飛び出した。
仕込み杖である。投げられた刀剣が、一直線に飛翔する。
「ひ、ひいいっ!?」
砕けた壁の隙間を縫うようにして、仕込み杖がするりと入り込んで行った家屋の中から聞こえたのは、男の悲鳴と物音。
すごい、と感嘆の溜息を漏らしたシュゾウ達を余所に、ナナシは怪訝そうに片眉を上げた。
この声には、聞き覚えがある。まさか。
間髪入れず家屋に踏み行ると、そこにはナナシの想像通りの人物が、震えて腰を抜かしていた。
「ああ……やっぱりこれも、因縁なのかね」
「う、あああう、ひぃ、こ、殺さないで……殺さないで!」
「ああ、殺さないさ。殺さないさ……それ以上のことは、するかもしれないけどよ」
「お、お前、何なんだよ、な、何なんだよお前――――――!」
「そりゃあこっちの台詞だ。何でお前がここに居るんだ。ええ?」
ひっと小さく声を上げて、ギンジョウは兄の服の裾を掴んだ。
ナナシが戦う姿をもう幾度も見た二人だったが、どこか超然とした雰囲気すらあったこの男が、ここまで感情を露わに獰猛な笑みを浮かべるのは初めてだった。
自分達には入り込めぬ、それこそ因縁染みたものを両者の間に感じる。
「――――――堕天使さんよ!」
堕天使と呼ばれた男の襟首を持ち上げて、ナナシは詰問する。
「久しぶりだなあ、おい。あの時とはまるで立場が逆じゃないか。俺みたいなクズにぞんざいに扱われる気分はどうだい?」
「ひ、ひさしぶり? だ、誰?」
「俺のことを覚えてないのか……?」
「お前のことなんか知るもんか! 離せよ! は、離して……! お願い……!」
「知らない……だって?」
ナナシの顔色が変わった。
殺気、あるいは怒気に、空間が満たされる。
あわや、と覚悟したシュゾウがギンジョウの目を塞ごうとしたが、だが激情にまかせた凶行が行われることはなかった。
一度だけ大きく息を吸って深呼吸をすると、直ぐにシュゾウ達のよく知るナナシに戻っていた。
ちくしょう、とナナシの食いしばった歯の隙間から、小さな呟きが漏れた。
「俺の一方通行かよ……」
二人の過去に、いったい何があったのか。
これも、因縁というやつなのだろうか。
解ったのは、この二人の間に、ただならぬ事態があったということ。
そしてそれについて、ナナシが噛み合わない一方的な感情を抱いているということだけ。
堕天使は、ナナシのことを覚えていなかったのである。
ナナシは諦めたように肩を落とした。
項垂れるナナシへと、慰めるようにしてギンジョウが寄り添った。
大の大人が少女に支えられるというのは、異様な光景でもあった。だがナナシには、その小さな手を振り払うことは出来なかった。
なすがままに少女の手を受け入れた。
「クソッ!」
恨みがましくねめつける気配。
男は小さく聞こえぬように吐き捨てたが、その視線はナナシ達に釘付けで、逸らそうとはしない。
じっと、ぎらぎらとする目で、忌々しそうに、羨ましそうに、ナナシとギンジョウを睨みつけていた。
ナナシはギンジョウを背に庇うと、再び男と対峙する。
「ああ、そうか。見覚えがないのも当然か。兜被ってたもんな、俺。そっちもまあ――――――」
「クソっ、クソっ! 俺は選ばれたはずだろ……それがどうしてこんな所で! 何でだよ! どうして俺ばっかりが……!」
感情はすれ違い、会話すらも噛み合わない。
「随分とみすぼらしくなったもんで。見違えたぜ」
ナナシが冗談めかして笑うと、男の睨み返す視線が強くなる。こちらの言葉を理解はしていたらしい。
そんな露骨に顔に出すくらい腹立たしいのなら、殴りかかって来たらいいものを。
少なくとも以前に出会った時の、あの無駄に尊大な男であったなら、自己完結した理論でもって襲いかかって来るか、適当に難癖付けてこちらを誘導し、正当防衛だからなどと言ってハメようとしただろう。
ナナシは何故か、無性に空しく、物悲しくなった。
何もかもが記憶からはかけ離れた街。そこに居た男もまた、ナナシの記憶には当てはまらない姿だった。
男の外見自体は、そうは変わってはいない。
銀色の髪。青と赤の瞳。そして怖気を振るう程の美貌……やつれていても、美形は美形だ。
自分と同じような襤褸布を身につけているのは、あのきらびやかな防具が加護を失ったためか。薄汚れてはいても、この男の美しさは鬱陶しいくらいに保たれていた。
しかしその態度、仕草が、ナナシの琴線にいちいち触る程、卑屈になっていた。
「なんだよ、クソっ、ずるいじゃないか! なんでお前みたいな奴が良い思いばっかりするんだ!
おかしいじゃないか! 俺の方がずっと強くて、努力してきたのに、なんで……俺がこんな目にあわなきゃならないんだ!
俺は選ばれたんだ。俺には使命があるんだ。俺は運命に抗うためにここに、この世界に来たんだ! 俺はお前達とは違う、違うんだよ! それが、どうして……」
「そうだな。その通りだよ。俺とお前とは違うよ。違うんだ……」
それが、どのような意図で返されたのか。
堕天使そっくりの男は、その美貌を歪めながらも、理解した様子だった。
わめき散らすだけ自我が戻ったのかもしれない。
「どうして……どうして俺が! 俺がぁぁ……」
「本当、どうしてなんだろうなぁ……なんでお前じゃなかったんだろうなぁ……」
ナナシも、ある種の尊敬をこの男に感じていたのは事実である。
この男の人格がどうあれ、押し寄せる現実を超克する超常の力の持ち主であったことは、確かなのだ。
あの時の自分に、この男ほどの力と自尊心があったなら……後悔は尽きない。
だが、今やこの男は思い通りにならない現実に、文句を垂れるだけの存在へと成り果てていた。
いや、それは語弊があるのかもしれない。
男は“戻った”のだ。
何をしようともせず悪態を吐き、自分の権利を主張するだけ。神の都合により、与えられていたに過ぎない力であるのに。借り受けていただけの力が消え失せたというだけ。
それなのに、厚顔無恥にも無責任だなどと口にする。己自身の力には、一つも責任を持ってはいないのに。
責任を取れなど際限無く要求を突き付ける気質、絶対安全圏からの物言い。他者に責任の所在を押し付け、自らを省みようともしない。
ナナシもずっと昔に、ネットでよく見たことがある、“それ”だ。
“それ”が今の男だった。
その姿を見て笑うのも、同じことだ。
それは鏡合わせの、自分の姿でもあった。
「なあ、どうしてこうなったか、知りたいか?」
「あ……え?」
「お前が……俺達がどうしてこんな目にあうのか。そいつが誰のせいなのか、知っている。教えてやろうか?」
「お、教えてくれ! 誰のせいなんだ!」
一も二もなく、男は飛びついた。
自分を苦しめる何者かがいる。それを知るだけで、幾分か楽になれるものだ。
この苦しみには意味があるのだと、自分を慰めることができるのだから。
そして、その相手に怒りをぶつけることも。
「落ち着けよ。こっちの話が先だ。情報交換がしたいんだ。そうだな、まずはお互い自己紹介、からとか? お前がどうしてここまで流れて来たか、教えてくれよ」
「ふ、ふざけるな! 早く教えろよ! おい!」
「ふざけちゃいないさ。俺はお前がどんなやつか、何をして生きてきたのかを知りたいんだ。個人的な理由でね。お前も、俺がどんな人間か、何をして生きてきたのか知りたいだろう?」
「そんなもん知るかよ! さっさと教えろよ! いや、教えてくれ! 教えてください!」
わめき声を上げる男に、だろうな、とナナシは苦笑した。
ただ相槌を打っただけである。
その目に冷ややかな光が宿っていたのに気づいた者は、二人の兄妹だけだった。
「余裕がないのは解るけど、もうちょっとこう、しゃっきりしようぜ。そこそこの修羅場は潜って来たんだろ?
文句ばっか垂れて、いざ自分が利益を受ける側になったら手のひら返して。そうやって、口開けてるだけで何かもらえるだなんて思ってるから、俺達は――――――」
腐っていったんだ、と。
ナナシはこれを男には聞こえないよう、舌先だけで転がした。
シュゾウのピンと立った猫の耳には筒抜けだったが、口を挟むような野暮はしない。ギンジョウは理解できていないようで、首を傾げているだけだった。何か聞きた気にナナシの裾を握ろうとするギンジョウだったが、それはシュゾウが止めた。
こういう時は知らぬ振りで通すべきだと思えるくらいには、シュゾウも成長していた。
「まあ、聞いとけよ。もしかしたら、お前の望む世界になるかもしれない。これからの話しだ」
恥ずかしい話しだが、と付け加えておく。ナナシもそれを言うのは、心底恥ずべきことだと思った。
ごくり、と喉が鳴る音が聞こえた。
解りやすいリアクションだ。身に付けて染み付いたのか、だがこれだからこそどこか好感が持てる男であった。
「さ、腹割って話そうや。なあ?」
数年来の因縁の相手。
様々な意味合いで、様々な衝撃を与えてくれた相手を理解する場を、ナナシはここに得た。
一瞥しただけで直ぐに解ってしまう程度の、浅い底しかなかった男だとしても、大いに意味あることである。
この時の堕天使には、この先の道をナナシ達と共にすることになろうとは、予想だにしていなかったに違いない。
ナナシにしてみれば解りきった展開であり、初めからそのつもりであったのだろうが――――――。
ともかく、である。
『アウレイア』、『堕天使』、そして『ナナシ』。
後の世において歴史に名を残すことになる三名が、三者三様の想いを抱き、今ここに邂逅を果たしたのである。