地下44階
狂っているな、というのが率直な感想である。
焼けた両親の遺体の横で師事を懇願し、断られるや躍り掛かった男児。普通に考えて、それはおかしい。
感情の振れ幅が切れたのか、残酷な場面を見ても取り乱す事無くあるがままに受け入れた女児。人死にに泣きもしない幼子など、気持ちが悪い。
そして極めつけが虐殺と救済を同時に行う、エゴの塊のような男。まるで幽霊のような風体と顔色は、何故廃人にならないのかが不思議なほど。
迷いをそのままに、曖昧なままただ物事だけを進めるなどと、それは人間に備わった狂ったエゴである。
問題を棚上げし、頭に浮かんだ物事だけを衝動的にこなすのは、人間だけが行う傲慢だ。
感情と行動に矛盾を起こしている。
荒い画面の向こう側に存在する三人は、全てがこの矛盾を内包する者達。
つまりは、狂人の集まりであった。
「私も、人の事は言えないわね」
ノイズ混じりの録画映像を映し続ける卓上モニタを、薄桜色のマニキュアを塗った細指が、するりと撫でた。
美しく長い爪がよく手入れされた、白く、長い、女の指だ。
指先が、モニタに映し出された白髪混じりの男の顔、その輪郭を確かめるようにして動く。
瞬間、画像の中の男がこちらを睨み付けた。
男は何かを投擲するようにして腕を振りかぶる。寸瞬後、モニタの画像がノイズ一色となった。石でも投げ付けたのだろう。
人間が知覚出来るような距離からの撮影では、なかったはずだが。
男は気配の無いはずの機械式録画機材の正確な位置を察知し、破壊したのだ。
女の細指が、静電気に弾かれたようにして、モニタから離れた。
少しの間、指先を宙に彷徨わせていたが、女は「そう」とだけ言って震える手を下ろした。
「録画映像だと、解っていたけれど」
その言葉の後は続かず。
これは過去の映像記録であって、実際に女がリアルタイムで男達を見ていたわけではない。男が録画機を破壊して以降、この三人の足取りが不明となってからしばらく経っている。
だが、女は確かに、男と“眼が合った”のだ。そう感じた。時間を越えて、“眼が合った”のだ。お互いを、認識したのだ。
男もきっとそうであろう、という確信が、女にはあった。
距離も時間も意思も、何もかもを越えた邂逅。想いが通じた、と女は感じた。
想いのその中身が何であれ、確かに通じたのだと。
薄暗い部屋の中、モニタがノイズだけを吐き出し続けている。
机の上で組まれた手に隠された口元は、苦笑に歪んでいた。
女は椅子に深く身を沈めると、しばしの間、瞳を閉じる。直に睡魔が女へと訪れた。
小さく、しかし機能的な執務室に、時計の音だけが刻まれていく。
決まって悪夢を見るならば、女の得たまどろみは、救いにはならない。
■ □ ■
王都にほど近い都市に設けられた施設内、その一室は、カスキア合衆国統括軍主席幕僚長のものである。
品の良い調度品が飾られた執務室だが、見れば、脱ぎ散らかした服や、女性物の下着までが散乱している。
それ以上にそこかしこにうず高く積み上げられた書類が、備えられた機能美と上品さを全てを台無しにしていた。
書類に埋もれた室内からは、微かに呼吸音が聞こえている。
一体、誰が、何処にいるのだろうか。
部屋の片隅で、影が“ぬるり”と蠢いた。
「失礼致します」
そう言って、唐突に現れた一人のメイドが頭を下げた。
まるで初めからそこに居たように、気配もなく。
扉が開閉された音もなかった。そうであれば、直ぐに気付くだろう。ほんの少しの衝撃でも、この詰まれた書類の山は雪崩を起こすだろうから。
「ん……ああ、もうそんな時間なの……」
聞こえる、もう一人の女性の声。
欠伸を噛み殺したような吐息が聞こえると、書類の山が一斉に崩れて落ちた。
「あ、あー……やっちゃった」
「そこ、危ないですよ」
きゃあ、と甲高い声と共に、部屋の中が散々に散らかっていく様に、メイドは“腰から上を影から生やしたまま”溜息を吐いた。
そのメイドの身体は、影から生えていた。
メイドの所作が紙束へのトドメとならなかったのは単純に、メイドが影を用いてこの部屋に踏み入ったというだけのことであった。
「ああ、もう! 誰よこんなところに書類を置いたのは!」
「お嬢様ご自身でございます」
「解かってるわよ。ちょっと言ってみただけよ。いいじゃないの、たまには愚痴を言っても」
「私には、口を開けばいつも愚痴ばかり仰っていたように記憶していますが」
「いいから、早く助けなさい」
「仰せのままに」
メイドは影から完全に抜け出ると、女性の声を頼りに紙束を掻き分ける。
しばらくして書類の海に、金色が見えた。
碌に手入れされていずとも艶やかな金色を誇る、この部屋の主の頭髪である。
どうやらこの部屋の女主人は、書類に埋もれたままうたた寝をしていたようだった。
自業自得ですよ、と言いながら、メイドは主人を掘り当てた。
「少しは整理整頓ぐらいした方が良いのでは?」
「いいのよ、別に。どうせ後から後から増え続けるんだから」
「これなど国王様からの直々の召集令状でしょう? 粗末に扱っていいのですか?」
「だから、いいのよ、別に。どうせどうでもいい用事で私を呼び出そうってだけなんだから。
望んだ仕事でもなく、あげくにやたら忙しいってのに、男っていつも勝手よね。女の都合なんかお構いなしで、自分を押し付けるばっかり」
力任せに書類の山を突き落として、机の上のスペースを確保すると、ようやく一息つけたと女は深く椅子に腰掛けた。
腰にまで達する豪奢な金髪がよく似合う女だった。
ゆらゆらと揺れる龍尾が、この女が龍人族であることを指している。
「ほんと、勝手なんだから」
頬杖を吐きながら憂鬱そうに目を伏せる女性。
その視線の先には、何を映しているのか。
メイドは問わなかった。
聞かずとも解かることであり、一々聞くまでもないことだから。
「しかし幕僚長としてのお立場では、招集に応じないわけにはいきませんよ。カスキア合衆国国王直々の招集なのですからね」
「解っているわ。それにしても笑っちゃうわね。合衆国で国王なんて」
「――――――国王をカスキア大陸諸国と国民統合の“象徴”と規定する。
その地位は、主権者たるカスキア国民の総意に基づくものとされ、国会の議決する王室典範に基づき、世襲によって受け継がれる――――――。
象徴とはいい言葉です。言うなれば、神の代理ですね」
「だから問題なのよ。
象徴とするならば、国事行為を行うことに限定されるとか、国政に関する権能を有さないとか、ちゃんと法律に付け加えておきなさいっての。じゃないと本当に神様になっちゃうじゃない。
確かに、つい最近まで海の向こう側を相手に戦争してたんだから、大陸統一された今こそ主導者が――――――人心をまとめ上げる何かが必要であることは理解できるわ。
旧カスキア大陸の諸国は全部が王制だったんですもの。輸入された共和制よりも、若くて力ある王が居れば、それで全部がこと足りる。
“あんなの”が頭の上に浮かんでるんだし、具体的な形として神の代弁者が欲しかったのよ。国王なんて存在が居たら、解り易くてそりゃあいいわよね」
合衆国カスキア、とは言うものの、それは対外向けの名でしかない。
というのも、民主制で首長が決まった訳ではなく、連合国内で最も力のあった王族……つまり、元ヴァンダリア諸王国の王族より、一人が選出されて、合衆国国王となったからである。
法律には律儀にも、統合の象徴としての役職だとあった。
ここに地球人、特に日本人がいたならば、自らの国の君主を思い出したことだろう。
しかし日本国のシステムが成り立つのは、君主が真の意味で象徴であり、政治機能を有さないからである。
問題であるのが、合衆国カスキアにおいて国王は、当たり前のように国王としての機能を有していることにあった。
大陸統一への一連の戦争は、元々が貴族によって引き起こされたもの。
世界に名だたる貴族となるために、貴族を超えた貴族、神に選ばれた民となるための戦だった。
貴族の都合の良い国へとなることは当然のことである。
はたして、誰にとっての合“衆”国であることか。
この世界は、市民権の売買などが当たり前のように行われて来た世界だ。
まず国民として認知されるために……否、されなかった者がどのような扱いを受けるかなど、市民権を持たないものが多い、ギルド所属の冒険者がどのような末路を辿ったか。
それを考えれば解るだろう。
言うなればカスキア合衆国とは、合“衆”国の名が示すべく共和制民主制ではなく、ただ周辺諸国が力で捻じ伏せられただけという合体集合させられた国。
カスキア合“集”国ということだ。
「カリスマだかなんだか知らないけど、国家という枠組みの統合に利潤関係を用いなかったってのは、まあ評価出来なくもないけどね」
「思想での統合は正しかったと?」
「さあ? 思想じゃなくて、教義でしょうけど」
あくびを噛み殺して女はつまらなさそうに言った。
「一個人の魅力でそこまで出来るんだから、もうあれは兵器と同じよ。
でも信望者は作れても、制御できるわけじゃない。自由意識はあるのよ。
そいつらが選民なんかし始めちゃあ、同じことでしょうよ。政治機能を持たせちゃったもんだから、やりたい放題しちゃってるじゃない」
「国王という責務から、より良い国にしていきたいと尽力する姿勢は評価できますが。見事に裏目に出ていますね。
自らの地盤を固めるために周囲に仕事を任せる。良いことですが、任せた相手がああでは」
「人は基本的に善である、性善説を信じているのか、人間がそこまで腐った真似をしないと思い込んでいるのか……思い至っていないのか」
「あの方が育った国は、よほど良い国だったのでしょう。隣人を疑わずともよい、穏やかで平和な国……」
「自分達以外の人間が虫に見えてる奴らが国の中心で働いているなんて、信じられないんでしょ」
あの方、とは誰を指すか、メイドは明言しなかった。
金髪の女は吐き捨てるようにして手を振った。
メイドが暗に挙げた人物を、頭の内から払うかのような仕草だった。
「自分の前では従順で心優しい者であっても、それはお互いに同じ人種だと思っているから、それだけよ」
「他の種族を取り込む、ということがどのような手段によって為されているのか、想像がつかないのでしょうか」
「結局は“鞍替え”出来なかったのは少数派ですもの。消されたって、どこにも漏れやしないわ。
力があるからって、何でもかんでも思い通りになってると思ったら大間違いなのよ。
上手くいっているなら、上手くいっているなりの理由があるということ。こと政の世界では、誰か一人の力で事が動くことなんてないのよ。
政策が打ち出されたなら、それを敷かねばならない。ではどうやって?
王の言葉は絶対よ。絶対に“させなければならない”の。何をしてでもね。
それを言った本人の意図がどうあれ、配下はどんな手段を用いても完遂しようとするでしょうよ」
「武力行使のための大義をたてるため、その手段にされている、というわけですか」
「目的のための手段なのか、手段のための目的なのか、もう解らないわね。暴走してるわ」
「あーあ」と投げ出された足。
「こりゃあもうだめね、この国」という諦観の声にメイドは瞑目した。
「それに外交もねえ。国同士の関係には、擦り合せっていうのがあるのよ」
「国家というのは何より面子を大事にしますから。相手側が悪辣なゲスであったことは否定しませんが、公式な場でしたり顔で相手の揚げ足を取って指摘して。
そのせいで躍起になられて戦火が拡大し、罪もない人々がどれだけ命を落としたか」
「神に見放された者はどれだけ死んだ所で問題なし、だなんて大真面目に思ってる奴らが腐るほど居る所だからね、王城は。
頭がまともでも、そんなのが手足だったら、ねえ。
外国との戦争期間はたったの数ヶ月。自分の国の国民にどれだけの犠牲が出たか……いいえ、国民として数えられていないものがどれだけ死んだか。
より良い国にしていこうと前しか見えない国王様には、解らないでしょうよ。あるいは、意図的に伏せられているのかも」
「王たるべく、ですか」
「それでわたくしは女王様たるべく、というわけね。ぞっとするわ」
海外大国との戦争を乗り切り、大陸統一を果たした結果誕生したのが、一人の若き王。
この部屋の主人と近い将来に婚姻を結び、伴侶となるべく存在である。
「国王の絶対条件は“ことなかれ”主義であることだって、今なら切実に思うわ。うんうん頷いてりゃあいいのよ。後は有能な部下達が色々と考えてくれるんだから」
「お嬢様もブレインとして気に入られて登用された訳ではありませんものね」
「だから頭が痛いのよ……どれだけ言っても私がなびかないもんだから、こんなに物を送りつけて。宝石なんて好きじゃないっての。
力技を使っちゃってもう、みっともないったら。おかげで部屋が片付かないじゃない」
「それはお嬢様の怠慢では」
「こんなに働いている幕僚長が今までいたかしら?」
「そうやってお嬢様が高嶺の花であり続けるのだから、摘み取りたくなるのですよ」
「この前登城した時なんか、もう露骨に夜自室で会いたいーだなんて言ってくるのよ。嫌になるわ」
「それは災難でしたね」
「……そんな顔で言っても説得力がないわよ。何? そんなに私にくっ付いて欲しいの?」
「これは失敬。ではお詫びにこんな話は如何でしょう」
メイドは肩をすくめて言った。
鋭く細められた目蓋から、黒金の色が漏れる。
天魔族の瞳のそれが。
「『名無しの男』の足取りが掴めました」
室内の空気が変わった。
寒く、凍えるような空気へと。
「焼け落ちた猫虎族の村からしばらく姿を見失っていましたが、発見いたしました」
「聞かせてもらうわ」
だらしなさを臆面もなく曝け出していた女は、一瞬にして凛とした佇まいへと変貌していた。
主席幕僚長として少しも恥ずかしくない座姿だった。
「そう、そう……ふ、ふ、ふ」
そうして、メイドの報告を聞く女。
次第に肩を震わせながら、笑い声を洩らしていく。
一つ一つ区切るように漏れる笑みに込められた熱は、何なのだろうか。
「以上で報告を終わります」
「そう。まったく、もう、相変わらずなのね。映像だけじゃあ、やっぱり解らないわ」
「ご健勝のようで、何よりです」
「少しは自重して欲しいものだけど。ほんと、昔から変わらないんだから」
一しきりしきり愉快そうに笑う女性。
しかし、しだいにその笑みが別の色を帯びていくのをメイドは見た。
「ええ、本当にね……」
目元は長く波打つ金髪で隠れ、よく見えない。
しかし、時折隙間から覗く眼球は、ぎらぎらとした輝きを放っていた。
女の腰から生えた龍尾が妖しく蠢き、形のいい薄い唇からは、赤い舌がちらちらと出入りする。
頭部からは翠色の魔力による非実体の角が生え、あたりに魔力波を撒き散らした。
「楽しみね……本当に楽しみ……」
薄暗く笑う女の声は、背筋を刺し貫くような淫靡さと、魂を凍らせる恐ろしさとが混在する響きを放っていた。
「共に学んで、共に生きた。お互いを想いあっていた……じゃあ、次は? 一緒に何をしようかしら……ねえ」
メイドは何も答えない。
ただ静かに、目を伏せるのみ。
「しっかし、まあ」
張り詰めた空気が霧散する。
足を投げ出して椅子に腰掛ける女の姿は、だらしなくいたがしかし気品を感じさせるものがある。
「ほんと、昔から変わらないんだから。犬耳はともかく、今度は猫耳だなんてね。
巨乳貧乳なんでもござれ、男装にメイドにオールジャンル、終いにゃ兄妹一緒にか。
妹だけならまだ解るわよ解りたくもないけれど。でもその兄にまでなんて。あんな小さな男の子にまでなんて、なんでもありなの? どんぶり? どんぶりなのね?
ショタでも構わず食っちまうぜとでも言いたいのかあいつは――――――!」
「お嬢様、落ち着いて落ち着いて。どうどう、どうどう」
「ふふ、ふふふ!」
女の苛立ちに魔力の嵐が吹き荒れる。
もはや部屋の中は壊滅的な状態である。掃除の算段をしつつメイドは呆れながら、飛び交う本や家具を片端から受け止め脇に抱えた。
気持ちは解らないでもないが、もう二十代になったのだから、落ち着きを持って欲しいものであるとメイドは胸中で溜息を吐いた。
「ふんだ……もういいわよ。どうせ私は過去の女、忘れ去られていくだけなんだわ」
「まあまあ、今後は人妻の魅力で迫ればいいではありませんか」
「止めてよね、本当。貴女、私のこと嫌いなんでしょ。はっきり言いなさいよもう。
あーあ……でもそれしかないかあ。王様あんなだから、ストッパー役がいないと際限なく行き尽いちゃうだろうし」
「裸の王様は、それはそれで幸せなのかもしれませんね」
「知らない方が幸せだっていうののいい例よね。それしか選択肢がないっていう風に周りの環境を整えてやるだなんて、上手いやり方だわ。
確か……『プランB』だったかしら。ぞっとするわね」
「はい。“呼び込み”自体は今は凍結されたようですが、リサイクルプランとして環境設定だけは稼働中らしいですね」
「そう。転生した人たちも可哀そうに。自分たちの人生の全部が奴らの掌の上だなんて、知らずに生きて、死んでいくんだから。
誰と誰が“グル”かなんて解ったもんじゃないわ。ほんともう、天変地異とか起きて滅びないかしら、この国」
「ご自分のお立場にご自覚を。失言ですよ」
「だから、別にいいじゃないの。貴女しかいないんだし。それに人払いは済んでいるんでしょ? じゃないとこんな話題なんて口に出来ないわ」
「ですね」
「うううー、何で押し倒してくれなかったのかなあ、あの根性無しめ。そうすればこんなに頭を悩ませることなんてなかったのに」
そう言って、女は流れる金髪を掻き毟る。
見る間にぼさぼさになっていく金髪に埋もれる今の彼女の姿を見たものは、彼女が良家の出であるなどとは、信じられないことだろう。
「ですが、意外でした」
心底解らないといった風に、メイドは首を傾げた。
「お嬢様でしたら、全てを振り切ってでもあの御方に付いていくのだと、そう言うとばかり思っていましたから」
「それはこっちのセリフよ。まあ、貴女の場合は罪悪感だとか、そんなでしょうけど」
「……では、お嬢様はどうして?」
「あら、私こう見えても大貴族の出なんですのよ? 私が消えることで涙を呑むことになる民達のことを慮れば、無責任な行いなど出来ないわ」
「そこにお嬢様自身のご意思は……」
「それにね」と、女はメイドの言葉を遮った。
「私は戦争に行ったのよ。たった数カ月でしかなかったけれどね。戦争に行ったのよ。愚かにも、それが力無い人々を救うのであると信じて。その結果が、これよ」
放り棄てるように机の上に投げ出したのは、メイドが持ち込んだ報告書。
名無しの男の戦果が示されたレポートだった。
当然、男が現在留まっている地の情報も。
そこには愚かな思想に染まった貴族たちの凶行が、余すことなく記されていた。
彼らの目指す場所は、戦火の昇る場所。
つまり、男達の足取りを追うことは、謂われなき迫害が行われる地を追うことでもあった。
戦時中、外に向けられていた貴族連合の牙は、その相手があまりにも歯ごたえがなかったと知るや否や、内に向けられたのである。
その責任の一端は、自分にもあると女は思っている。
こちらはスキルに魔術と使い放題であったのに、あちらは急に力を失い右往左往とするしかない烏合の衆。
海外からの遠征軍が上陸して来る端から、適当に魔術を放るだけで“入れ食い”だった。
そして勤勉でありすぎた自分は多大な武功を上げ、望まぬ席に着かされることになったのだが、栓無きことである。
短すぎる戦争の終わった後は、きれいさっぱりと、戦の臭いは大陸から消えた。そう見せかけられた。
実際はといえば、もう、泥沼である。
現政府に異を唱える反乱軍が組織され、そこかしこで展開されるゲリラ戦。
表立って問題化されないのは、規模はともかくとしてその戦力が、あまりにも貧弱だからである。
当然だ。まずは数がそもそも揃っていない。新たな神を仰ぐことを拒否した少数民族か、国民の権利を買えない貧民層の者達で構成されているからだ。
最たる理由は、神性が顕現された今、あまりにも濃い神意が、それに反する神性の悉くを封じ込めてしまったことにある。神意汚染である。
つまり、この大陸では、顕現した神性に連なる神を信奉する者……貴族とそれに従う者意外に、スキルや魔法、そしてレベルの恩恵を受けられる者が存在しなくないということだ。
初めに、その成り立ちから貴族とは反目しあっていた冒険者連合が、国家転覆を狙う不穏分子という名目で滅ぼされた。
冒険者の資格を返上し平民層へと下った者達は、もはや戦う力は封じられている。無力化されるか、消されるか。こうして冒険者は消え去った。
次に、同じ名目で小さな山村や集落が。
神威を失っているということは、それだけで反乱の意有りだなどと、大義を振りかざして攻め滅ぼされた。
大都市の復興にばかり目がいっていた女が、小さな村々の惨状に気付いた時にはもう、手遅れだった。
「民族浄化――――――」
クーデター、内紛を静定するためだと嘯いて行われていたのは、目を覆うほどに悲惨な殺戮。
殺されたものは怒り、敵わぬと解っていても武器を取り……その堂々巡りだ。彼らはもう、殺され尽くすまで、止まらないだろう。
確かに、唯一の信仰でまとめあげられた国は、この先数百年に及ぶ繁栄を約束されるだろう。
だがしかし、である。
様々な神々が実在するこの世界では、信仰の多様化が保障されることによって、成り立っていたのではなかったか。
ならば、信仰を強制し価値観を統一しようとする国など存在する意味は、価値はあるのだろうか。
最近では神性を失った魔物達に“刷り込み”を行うことにより、戦力として扱う技術が実用段階に入りつつあると聞く。
人間が死なない、クリーンな戦力になるのだと。名無しの男が出くわしたのは、その実地実験だった。
そうまでして、自らの絶対性を保持したいのか。
自問は続く。
女は自らの手を見つめながら、自嘲の笑みを浮かべて言った。
「私は自ら望んでこの手を血で汚したのよ。もうあの人の下に身を寄せる資格なんて無い……果たさなければならない義務や責務で、がんじがらめだわ」
「しかし、直接手を下したわけでは」
「同じことよ。同じことなのよ」
「お嬢様……」
「ふん。だから言ってやるわよ。貴女はなぜ、こんな所にいるのかしら? 従者を名乗るなら、さっさと主人の下に行きなさい」
「……」
メイドは目を伏せ、何も答えなかった。
答えられなかった、というのが正しい。
「意地悪な質問をしたわね。ごめんなさい」
「いえ……」
「知られちゃったんですもの。仕方がないわ。今更どんな顔をして会いに行けばいいか、わからないわよね。でもね、あの人はきっと、そんなこと微塵も気にしてなんかいないわよ」
「そう……でしょうか」
「信じなさいよ、自分の主人のこと。ベタリアン批判する貴族をぶん殴っちゃえるような奴なのよ。馬鹿よね」
「そう、ですね。そんなこともありましたね。それでも踏み出せないのは、私が臆病なせい……為すべきことをしっかりと見据えているお嬢様は、強いですね」
「いやいや。そうでもないわよ?」
閉じた片目をとんとんと指で叩く。
「見えてるからね」
確信を持った頬笑みは、メイドに強い困惑を与えるものだった。
「解っているから、そこに向かうだけだと知っているから……なのかもしれないわよ?」
「いえ、しかし、それは……あの御方の予見は出来ないはずでは」
「そうね。わたくしにはあの人が関わる未来を予見することは出来ない。でも、自分の未来を見ることは容易い。
こんな簡単な事、今まで忘れてたなんてね。“信者獲得”だったかしら? 厄介よね。自覚してたのなら有効に使えばいいのに、律儀なんだから」
「自分の未来とは、どういう事なのですか?」
「笑わないでね? わたくし、いつも無意識にあの人の姿を追っていたの。目で追っちゃってたのよね。
そして将来、その側に立つ自分の姿を期待して、見ようとして、何も“見得ない”ことに落ち込んで……我ながら乙女してたと思うわ。
スタンドアローンであったあの人の未来は見得ない、だからその側に立つ自分の姿も見得ないんだ、なんて、思ったりしてたの。
そう、龍眼は正しい予見を見せていた。あれは正しい未来の姿だった。私の――――――」
指を立てながら、「つまり」と続ける女。
「極力余分な要因を排除して、“自分だけ”を見たらよかったのよ。あの人の姿を視界に含まない、結果だけを。“見方”を変えればいいと、それだけのことだったの。
影響は受けるし、本来の能力である未来決定に至るまでは不可能だけれど、それでも数ある可能性を探る事は出来るわ。
後は取捨選択、ただの情報処理。イメージと知識とで補完してやればいいだけよ」
例えば、何らかの要因で死んでしまう、という未来があるとする。
死因は、車両による衝突事故の発生であったとしよう。
また、ここでは衝突する車を特異点であるともしよう。
さて、交通事故死、これを予見したとする。
では次に、何時どの車が、何処で自分を殺すのかを予見せねばならなくなる。
ここで車を基点としてしまえば、それに関する未来を見ることは出来ない。その車は特異点であるからだ。
その車がどのルートを走るのか、どれだけのスピードを出していて、そもそも車種は、色は……何も見ることは出来ないのだ。
しかし、自らを基点とするならば、どうだろうか。
この場合、一連の結末を……即ち、自らの轢死体を見ることになるのだが、そうすると「タイヤ痕がある。ああ車に轢かれたのだな」という予想くらいは付くというものだ。
ここで問題は最初に戻る。
即ち、車両による衝突事故死を予見した、という結果を得るのである。
そして死因が車両によるものだと推察できる。観測不能の特異点が判明する。ここで前提となる問題が確定するのだ。
“見方”の違いによって、順序が逆となるということだ。
問題提起の実証、というものが行われるのである。
前提そのものが揺らぐことになる……これが特異点の特徴とも言えるだろう。
特異点を観測せんとするならば、まず、自己を基点にして見るべきであったのだ。
しかし特異点の関わる未来なのだから、殊更にあやふやなものとなることは否めない。
車を避けたり、実は生きていたなどという未来となる事も否定できない。未来が変わることだった、有り得るのだ。故に、特異点であるのだから。
ならば回数をこなし、確率係数を正確にしていけばいいだけのことだ。繰りかえす事により、誤差は収束していく。
観測によって決定されるものが、確率というものだ。
無限の可能性と確率によって形作られるのが未来であるならば、幾度も同じ景色が“見得”たのなら、それは確実に訪れるものとなるだろう。
対象が特異点であったとしても、自らを基点に予知を行えば、結果を見ることくらいは可能だと女性は言ったのである。
ならば後は、その結果に至るまでの道程を、観測により得られたデータの偏りで補完してやればいいだけのことだ。
「そして、それらを総合的に判断し、一番可能性が高かろうものが――――――」
「未来、というわけですか」
「そうよ。一番そうなるって可能性が高いだけ、だけどね」
女の瞳が、碧色の淡い光を放っていた。
報告書を爪弾いて、嬉しそうに笑いながら。
「ふうん、でも、そう……もうこんな所まで来てるんだ。あーあ、じゃあこの未来は確定かしら」
「それはどのような未来で?」
「んー、どうやら私」
ふわ、と女はあくびを噛み殺して言った。
「殺されるみたいよ?」
極めて何でもない風に、解りきったことだと。
「は……な――――――ッ!?」
「それが、何度見ても同じなの。じゃあもうこれは、かなり確実性の高い未来ってことじゃない。ねえ?」
「お、お嬢様! お戯れは……!」
「“あの人と私”の未来を見ようとすると、ノイズが奔って解らなくなるんだけど、それでもある一定の時期から先はもう、何も見えないの。ずっと前から、ううん、初めて会った時からそうだった」
「それは……お二人の未来が、決まっていないということで……!」
「何も“見得なかった”のよ」
それは、続きがないからなのだ、と女は語った。
その声に、悲観はない。
諦観もなかった。
「王城、噴水、赤い血、薔薇のイメージ……冷たい鉄の感触が、頭の中に入ってくる。そこで終わり。終わりなのよ」
「下手人は、一体誰が……」
「心にも無いことを言うわね。王城にまで侵入するような賊、反逆者には当然、加護なんてありはしないわ。
そして精鋭揃いの親衛隊の目を掻い潜れるくらいの実力者となれば……ほら、言わずとも――――――見得ずとも、答えは出ているようなものでしょう?」
「“予見違えた”ということは、ないのですか……?」
「そんな顔しないで、ね? 『アルマ』。いつも通りのすまし顔でいなさいな。大したことじゃあないんだから」
「『セリアージュ』お嬢様!」
声を荒げ女の言葉を遮るメイドだったが、女は薄らと笑って首を振るだけだった。
「あの人の姿は見えないけれど、自分の結末くらいは見得るのよ。これ以上にないくらいの“結末”がね。ええ、初めから解っていたことだもの。大したことじゃあないのよ」
初めて出会ったその時から、解っていたのだと言う。
あの男が、自分を自由にしてくれるのは。
窓の外に視線を移す女性に、メイドは絶句するしかなかった。
メイドの顔が悲痛に歪むのは、彼女の身を案じてのことか。
それとも、再び愛した者を手に掛けなくてはならなくなる、彼女の主を想ってのことか。
空に意識を彷徨わせる女には、解らない。
翠の魔力光に輝く瞳が、窓ガラスの中に揺らめいていた。
「早く私の下へ来なさい。ねえ……私を殺す、“名無しさん”――――――」
何の穢れもない無垢な童女のようにして、あるいは、恋しい人を想い焦がれる乙女のようにして。
嬉しそうに、待ち遠しそうに、女は微笑んだ。