地下43階
ファンタジー式マジカルけん☆ぽー
相手は死ぬ。
ご感想、ご意見頂けると嬉しいです。
無駄な時間であったと吐き捨ててしまいたかったが、少年の手前、態度に出さないだけの思慮はある。
子供のする焦りからの行動には、時間的な感覚が伴わないことが多い。そんな事をしている場合ではないと怒鳴りつけ、頬の一つでも張って引き摺ればそれで終わりだったはずだ。
だというのに、それをしなかった。正直な所を言うならば、なし崩し的に同行を許した事に、舌打ちの一つでも零してしまえば、少年に負けたような気がして出来なかったからだ。
少年の拳を握る幼い姿が、何時かの、誰かに重なっていたように感じたからでは、ない。
「真っ直ぐ森を抜ける。遅れるな」
「はい」
純人族と猫虎族では、例え加護が失せたとしても、その肉体的機能には歴然の差が存在する。
それが大人と子供であったとしても、身体能力は天地程に離れているはずなのだ。
だが、息が上がっているのは少年の方であった。
背後に迫る熱から逃れるようにして、全速力で駆け抜ける。
喉の奥が張り付くのは、炎によるものか、恐怖によるものか。
少年は先を行く男と、その背に負ぶわれた妹の姿だけを見詰めていた。
背後を振り返ってはならないと、それだけを胸の内で唱えながら。
「魔物の気配か……」
先行する男は、しかし立ち止まって手で制した。
「道を変える。向こう側へ抜けるんだ。先に行け!」
「いえ! 僕も、ここに残ります!」
「恐ろしいものを見ることになるぞ」
「怖くなんかありません」
「そうかい。俺は怖いよ、本当に……叩き潰してやりたいぐらいに」
気配が近付く。魔物の気配が。
妹をしっかり抱えておけ、とだけ言って男は少年へと眠り続ける少女を渡す。
少年が妹の身体を抱えた瞬間だった。
気配を感じた。重くのしかかるような、穢れた気配、瘴気を。
近付く瘴気に、未だ何か言いた気だった少年は真っ青になって歯を鳴らし始めた。
その気配は、あまりにも異質だった。何か、人としての生理に訴えるような、生暖かなものが背筋を這うような感覚だ。
眠っている妹を庇う様に自分の身体で隠したのは、男の言いつけを守ったからだろうか。
あるいは、こんなものが存在するということを妹に知らせる訳にはいかない、という、兄としての本能が成した判断だったかもしれない。
ずるり、ぬちゃり、ぐちょり……と。
粘着質な音を立てながら現れたのは、ゼリー状の触手の塊……変異型のスライムだった。
「ああっ、あっ、あっ、あああっあああ――――――!」
その掲げた触手の先端に、若い女性を絡み付かせた――――――。
「うぁぁぁ、ぬいてっ、ぬいでぬいでぬいでぇぇ! ひっ、やだ……いやぁぁああ――――――」
“中心”から、皮下にまで触手に貫かれた女性。
ゼリー状の半透明の触手が、悲痛の叫びに開けられた口の、その内部で蠢いている。
こんな仕打ちをされた者は、少年達の村には一人として居なかったはずだ。
女性達は皆、“苗床”として連れていかれたか、殺されてしまっていたからだ。
であるならば、こうして彼女が残されたその意図は……戯れでしかない。
連れ去られて、道すがら嬲られて、捨てられた。そういうことだ。
男が討ったのは、遊び足りぬと残った小物か。
これだけ近くに居るというのに這いずるだけで、一向にスライムが攻勢に出ないのが、それを裏付けた。つまり、見世物にされたということだ。これは観客達に向けた、ショーなのだ。貴族達が楽しむための。
遊びで彼女は犯され、塵のように捨てられたのだ。
人としての尊厳を全て奪われて。
「あ、あああっ! お、お、お姉さん……!」
それを見た、見てしまった少年が、絶望の叫びを上げた。
知り合いであったのだろうか。
あんなに小さな村だったのだ。見知らぬ他人など、一人もいないはず。
焼け焦げて炭化した村人達を見る度に、瞳に宿っていく感情を察するべきだったかと、男は後悔した。
少年の行く末がもはや、決まってしまったも同然のように感じた。
少年の未来がより“まし”になるように、自分はこの兄妹を導けるだろうか。
かつての自分が、命を賭して教えられたように。
行く末どころか足元もあやふやで、暗くて何も見えていない自分にそんな資格があるかは解らない。
こんな敗残者には……鬱屈な気持ちで思う。
どちらにせよ、今は考える事ではないだろう。
「かっ、はっ、ひぃぁ、あああああ゛あ゛は。あはっ、あははは! なにこれ……なにこれぇ! きもちいい……きもぢいぃよおぉ!」
女性の悲痛な叫びが響く。
「なんでぇ……なんで、あたし、こんなの、初めてなのに、どうしてぇ……あああどこがきもちいいのかわかんにゃいよぉぅ!」
「お……おねえ、さ」
「もう見るな」
少年は眼を閉じなかった。
睨み付けるようにして、それを見続けていた。
「あああっ、たっ、たたっ、たたたたすけっ、たすっ、たすたすたすけけけけ……」
「俺には、君を助けることは出来ない。だから」
申し訳なさそうに、男は言った。
「だから――――――どうして欲しい?」
蠢く触手の群れに向けて。
男もまた、顔を背けなかった。
「ここっ、ここころろろ、ころころころししし、ててててっててっててて! ころ、ししっ、ここっころろろころしてててえええててええ!」
「解った」
この卑怯者め、と。男は、自らをそう罵りながら頷いた。
己の手を汚す理由を、彼女に求めたのだ。
「目を閉じられないなら、いい。なら、よく、見ているんだ」
求められたが故の行いで、自分に非はないのだと。そう少年に思ってもらいたかった。
これは男の精神衛生上の問題でしかなかった。
どうあれ、男が為すべきことは変わらないのだから。
「無名戦術地対空の構え――――――『降ろし金』」
男が執ったのは、片膝を付く程に体を縮めた異様な構え。
片手の指先は、地を擦っている。
身を屈めることで中空からの攻撃の距離を稼ぎ、そして“バネ”を作ることを目的とした構え。
自身を砲弾と砲身に例える、不動の構えであった。
「直に楽にしてやる」
言って、男は踏み切った。
胸板が地を擦る程に、男は低空を“跳ぶ”。スライムへと近付き、擦っていた指を地に立て、急制動。
折りたたんでいたもう一方の脚でもって、今一度強烈な踏み込みで、空へと跳び上がった。
第一加速に続き、第二加速……まるで、多段ミサイルのような動き。
一直線に、囚われた女性の下へと男は翔け上がった。
「無名戦術最新奥義――――――」
男の踵が跳ね上がる。
「『天衣無縫』!」
繰り出されたのは、腰を軸に、斜めの回転を掛けられた回し蹴り……否。それは蹴撃では無かった。
足裏全体を上空のスライム塊の横腹に押し付けるようにして、男は弧を描く回し蹴りを繰り出した。
衝撃がスライムの表面を波打たせ、内部へと浸透していく……蹴り足の動きに沿うようにして、女性の体が触手の群れより放たれた。圧を掛け、一定方向へと体液を噴出させたのだ。
女性の身体は何本かの触手に貫かれたまま、緑色の体液と共に空へと浮かぶ。
男が繰り出したのは、地対空の構えから放たれる、空中に浮遊する対象への攻撃手段である。
その技の実態は、足裏全体を使って空中の対象へと“接地し、掴む”ことにより、地へと“引きずり降ろす”ことにあった。
脚部を戦力を効率的に運ぶための装置として見做す無名戦術には、純粋な蹴り技というものが少ない。
運用手段として用いられる脚運びは、とうとう、敵の立ち居地を“移送させて”しまうまでに至ったのである。
無名戦術の足技は、“対象の強制移動”こそを目的とする、“繋ぎ”のために存在していた。
跳躍した後、摩擦面の大きい足裏を相手に接触させ、そのまま反転し地面へと叩き付ける。蹴り技ではなく、組技に分類される足裏を使ったつかみ技。
対飛行型魔物用奥義。地対空の構え、降ろし金より放たれる地対空変型蹴撃。
奥義の参……『天衣無縫』である。
もっともスライムの特性と己の立ち位置を比べれば、この状況に適した技は他にいくつも存在していた。
しかし、男はこの技こそが今、最も相応しいとした。
天衣無縫――――――その名は、縫い留めることが出来ぬ天女の衣を差し、純真でいて自由な様を現わす。
囚われていた彼女への、せめてもの手向けだった。
「無名戦術最新奥義――――――」
落ちる女性を視界に収めながら、男は腰溜めに両手を握り込んだ。
片手の指を全て、上から覆い被せるような握り。
狙いは、掲げ上げていた自身の一部を失い、防衛本能に打ち震えるスライムの核へと。
「『百載無窮』」
女性を解放した時とは全く異なる、聞くもの全てを震え上がらせるような、底冷えのする声だった。
感情の無いはずのスライムでさえ、恐れに身を縮ませる程の。
男の片腕が霞んで消えた。
もう一方の片腕は、腰に。
まるで、刀剣を抜き放ったが如くに……残心。
正しくそれは、居合い抜き。
自身の掌を刀剣に見立てた、変型手刀。
対軟体型魔物用奥義。握り込んだ手から放たれる、手刀による居合い。
奥義の拾……『百載無窮』である。
その速度と摩擦によって、自らの掌を、スライムを代表する液状や軟体型の魔物を切り刻む魔剣と化すべく奥義であった。
男の手の内で、白刃が幾重にも煌く。
もはやそれは、無手による剣術だ。曲芸じみた剣技に、男が地に脚を付けるのと同時、変異スライムは細切れに寸断されていた。
男はぼちゃぼちゃと音を立てて崩れるスライムにはもはや一瞥もくれず、ふわりと女性の身体を受け止めた。
胸の内に抱き止めた女性の頬を、優しく撫でる。
「これは、夢だ」
「ゆ……め?」
「そう、夢だよ」
皮下、それも内蔵に達するまでに触手に潜り込まれていた彼女は……もはや手遅れだった。
身体中穴だらけだ。穴の奥に、黒い内蔵がちらと見えた。
こんな状態になっても意識を保っていたのは……保たされていたのは、あのスライムの体液に依る効能だ。
男は知っている。あのスライムの体液、その色合いと臭いが、“回復薬”と等しいものであることを。
スライムの体液に依って生かされていた女性は、そこから解き放たれれば絶命するしかない。
身体中に空けられた穴からは、何も零れ出してはこない。血の一滴さえ。吸われ尽くしてしまったのだろう。
男の言葉に反応を返すことが出来るのは、“余興”の名残か。
「これは、悪い夢なんだ」
「あ、ゆめ、なんだ……そっか、あ、は……よかったぁ……」
「次に眼を覚ました時には、全部忘れているから。何時もの毎日が始まるから。だから、安心してお休み」
「うん――――――」
彼女の意識が永遠に失われる、その数瞬前。
男が掛けた言葉に、女性は安堵の吐息を吐いて眼を閉じた。
ゆっくりと落とされた瞼は、二度と開くことはない。
そっと女性を横たえた男は、何をかを想うように天を仰いだ。
穴だらけになってしまった女性の遺体。
しかし少年が見た女性のその顔に、苦しみは欠片も宿ってはいなかった。
「ありがとうございます」
知らず、少年が口にしたのは、その一言だった。
男が短く嘆息した音が聞こえた。
「止めろ」
言って、男は女性の手を胸の上で組ませていた。
埋葬する時間は無い。
このままこの女性は、森へと還っていくだろう。
村人達と同じ場所へ。
「知り合いだったのか?」
「はい。隣に住んでいたお姉さんで、よく僕達の面倒を見てくれて、パンを焼いてくれて、優しくしてくれて、手を繋いで頭を撫でてくれて、それで……それで……」
少年の口から止め処なく言葉が溢れる。
今の今までは、夢の中の世界にいたような、そんな気分であった部分もある。強い衝撃を受け、現実を受け入れる心が麻痺していたのかもしれない。
男の強烈な強さに目が眩み、その強さを得ようとした焦りが原動力だった。
じわじわと心に、自分達の身に起きた事実が浸透していく。
ああ、そうか。
みんなみんな、死んでしまったのか。
みんなみんな、殺されてしまったのか。
少年の精神がゆっくりと、現実を認めていく。
言葉を噛み殺すようにして、少年は奥歯を噛み、ただ妹を抱き締めた。
「お姉さんは、救われたのだと思います」
「命を奪ってか。そんなものが救いな訳があるか」
「違います。きっと皆、あなたに救われたんだ。あなたが、あなただけが、僕達のために泣いてくれるから」
「泣くか、馬鹿が」
男の顔は、少年からは見えない。
あれだけ大きかった背中が、今は小さく見えた。
「それに、お姉さんは間違いなく救われていたんです。だって、ほら、こんなに――――――」
そう言って少年は、透明な瞳で女性の眠る横顔を見遣った。
言葉に従って顔を上げたのは、しかし、男ではなかった。
「あっ……!」
いつの間にか、少年の妹が目を薄らと開け、腕の中で顎を上げていた。
その少女は少年と同じように、透明な瞳でじっと女性の顔を見詰めていた。
ふらりとして、少年の腕から立ち上がる少女。足取りは覚束ないものであったが、誰もそれを止めようとはしなかった。
男でさえ、少女の纏う幽玄の空気に呑まれてしまったかのようにして、立ち尽くしていた。
少女は女性の側に屈みこむと、指先に粘液が付着するのも構わずに、女性の額に掛かる髪を柔らかく除けてやっていた。
「おねえちゃん、きれいだね」
そう呟いて。静かに微笑む少女の姿が、少年には父が死んだ時に、二人で逃げろと微笑んだ、母のそれと重なって見えた。
電池が切れた玩具のように、少女はそのままふらりと倒れ込んだ。
小さな身体を支えながら、男は驚いたように妹に目を向けていた。
どう言葉にしたらいいものか。
何か、信仰染みたものを見たような気がした。人が見せる純粋な美しさを。
沈黙と静寂が、事切れた女性を包んでいた。
□ ■ □
掌に感じるのは、子供特有の高い体温だった。
男が少女の額に手を当て体温を計っていると、自身が注目されたことを察したのか、少女は無意識に頬を男へと摺り寄せた。
持ち直したか、と男は安堵の息を吐いた。少年も同じようだった。
実際、少女の出血はかなり危ない状態にあったのだから、回復するかどうかは賭けであった。一度立ち上がったことが、奇跡にも思えた。
少年が叫んだように、少女もまた、死ぬつもりでいたのだ。生きる、という気力が失せていたことも懸念の一つ。意思の力は何よりも強いことを、男は知っていた。
例えそれが、負の方向性であったとしても。
ただ、それは懸念に過ぎなかったようだ。少年が男に何かを見たのと同じように、少女もまた、男へと何か、希望や期待のような、そんな感情を向けていた。
少女の生命力は、少女の意思によって繋ぎ止められた。
頭に斜めに包帯を巻いた少年は、しばらく安堵の表情を噛み殺してから、男へと口を開いた。真っ直ぐに男を見詰めて。
「先生、とお呼びしても……いいですか?」
「……好きにしろ」
諦めたように息を吐いて、男はまた視線を逸らす。
少年達との邂逅から一日が経っていた。
弟子にしてくれ、などと世迷いごとを述べてから、ふつりと喋らなくなったと思いきや、口を開けばこれだ。
一度頷いたことだ。そう何度も、確認するように言わなくてもいいというのに。そこまで俺を信じられないか。
その言葉が喉元にまで出かかったが、負け惜しみのようで舌に乗せることなど出来ない。
少年の物言いは、これでは懇願ではなく、脅迫だ。
男がどれだけ無視を決め込んでいても、願として引かなかった少年は、とうとう兄妹共々、宛ての無い男の旅に同行することとなってしまった。
自らが足枷となることで、あるいは自らの身を危険に晒すことで、首を縦に振らせようとしたのだ。男の負い目すら見抜き、刺激した。そして少年は男に粘り勝った。
それは男の性質を、正確に見抜いていなければ出来ない振る舞いだった。そして事実、そうなのだろう。
してやられた、という訳だ。
鼻から細く空気を吹きながら、男は焚き火へと枯れ枝を放り投げた。
炙られた枝が、ぱちりと乾いた音を経てた。
少年の肩が跳ねる。
「怖いか」
ちらちらと舐めるように踊る火を凝視する少年へと、男は突き放すようにして言った。
一昼夜も歩き詰めて、夜。旅の道連れが出来て初めての野外キャンプに火を起こせば、途端に少年は脂汗を流し始めた。
無理もあるまい、と男は思う。
少年達の生まれ育った村は、魔術の火によって炭となった。
黒く固い塊となった両親の姿を見た少年は、静かに涙を落としていた。
少年の心情としては村人達の遺体をそのままにも出来ず、かといって穴を掘って埋める時間も無く……故に、男は森へと火を放った。
もう一度、少年達の生まれ育った村を、燃やしたのである。
痕跡を消すため、という思惑もあった。“魔術の不始末”に偽装しようとも。
そして、それを少年に手伝わせた。
自分の手によって炎に包まれた村を背に、少年は何を思ったのだろうか。
男には解らない。
だが、少年は振り返らなかった。
決して振り返ることはしなかった。
「いいえ」
自らへと言い聞かせるように瞳を閉じてから、首を振る少年。
集めた枝へと手を伸ばすと、それを焚き火の中へと放り投げた。
「それでいい」
頷いて、男も枝を放る。
「虚勢を張れ。自分に言い聞かせるんだ。何でも無い風を装え。恐ろしさを……恐怖を消すには二つしかない」
枝が音を経てる。
「逃げるか、立ち向かうかだ」
「立ち、向かう……」
「俺は逃げたがな」
逃げた、とは。
少年が疑問を顔に浮かべるよりも早く、男は火の側へと手を延ばしていた。
熱くはないのだろうか。少年はぎょっとした顔で男の手を見る。
男の手には、枝に突き刺した肉が握られていた。
魔物から削ぎ落とした肉を、火にくべておいたものである。
その魔物が何を食っていたかは、考えまい。
「結局は、扱う人間次第だ、こんなものは」
「わっ」
湯気を立てる肉を少年へと放る。
少年は熱さに手の中で肉を跳ねさせた。
落ち着いたところで男が顎で、食え、と命じた。
肉にかぶりつく少年。
一日振りの食事だった。
「……おいしい」
「悪くないだろう」
「はい……はい……」
いつしか少年の目に、涙が溢れていた。
生きている。
美味しい。
それだけしか考えられなかった。
何度袖で拭っても、後から後から、涙は零れて止まらなかった。
「よく噛んで食え」
言いながら、男は火にくべていた鉄缶を取り上げた。
蓋を開けて傾ければ、中からはとろりとした液体が。
皿へと注いだそれを木のヘラで一匙すくい、むずがっていた少女の鼻先へと揺らす。
「……んっ」
「臭いに吊られて起きたか」
「ギン!」
呻く妹の側へと少年は近付き、その手を握り締める。
少女はぼんやりと薄目を開けて、口を開いた。
「いたいよ、おにいちゃん」
「ギン……よかった……よかった……!」
「おにいちゃん、泣いてるの?」
「うん……うん……!」
よかったと繰り返して少年は何度も妹の名を呼んだ。
二人を見る男の眼は、どこか温かく、優し気に細められていた。
「妹の身体を起こしてやれ」
「はい」
「わかるか? 飯だ。さあ、身体を起こせ」
「ん、んんっ」
「ゆっくりでいい。そう、そうだ」
一日動かしていない、しかも血の抜けた身体は、少女には重過ぎるものだ。
だが男は兄の手を借りさせながらも、横たわることを許さない。
非道にも思える命令は、しかし、明日からずっと厳しい日々が待っているが故だ。甘えたことは言ってはいられない。
何とか身を起こした少女は、ぼんやりとした意識のまま男の顔を眺めていた。
「せん、せい」
そして、ふわりとして微笑む。
両手を男へと差し伸べて。
腹も減っているだろうに、少女は、この男を求めたのだ。
男の鉄面皮がひく付いた。
「お前もか」
「せん、せ……?」
「夢現で聞いていたのか……もう、いい。お前も好きに呼べ」
「せんせい」
「ほら、口を開けろ。飲み込め」
「あ、む」
男が差し出した匙を、ひな鳥のようにして啄ばむ少女。
ほとんど汁同然となった粥をゆるりと嚥下していく。
桜色になった頬で、少女はまた微笑んだ。
「せんせい」
舌足らずな少女の言葉。
不安そうにこちらを見やる少女には、恐怖心や不安の色が見えない。
むしろ冷静になった兄の方が衝撃を受け、震えていた程だ。だからよけいに意固地になっていたのだろうが。
「せんせい……」
返事を返さない男に不安になったのだろうか、少女の目に涙が溜まっていく。
少年が非難めいた視線を男に向けていた。
「なんだ」
「でし、に、してください」
男と少年は顔を見合わせた。
「ギンジョウ・アウレイア、です」
ぺこりと頭を下げる少女。
少年と同じ、豊かな黒髪の頂上には、二つの猫の耳が。
どうしたものかと猫耳を見下ろして悩む男の視界の端に、少年が映る。
これ見よがしに、少年は血の滲む頭の包帯を撫でていた。
「あー、耳が痛いなー」
片方だけになった耳が、ぱたぱたと動いている。
「わかった……わかった! 弟子でもなんでもしてやる!」
くそうと吐き捨てて、男はもう一匙、少女の口へと運んだ。
その言葉に、少女はなんの味付けもされていない粥を、美味そうに飲み干すのだった。
少女にあるのは、ただ男に見捨てられるのではないか、という恐れだけ。
生まれて初めて感じたであろう死の危機に、幼い心が防衛のため、麻痺を起したのだろうか。
無理もない。つい昨日まで、本当に半死半生の状態だったのだ。
男は、この世で最も重いものの一つを背負うことになった。
「食ったらもう寝ろ」
「どこにも、いかない? みんなみたいに……」
「ああ……どこにも行かないから」
「ん……」
少年へと顎先で指し示し、少女の身体を横たわらせる。
すぐに少女の口元から、安定した寝息が聞こえ始めた。
「よかった……本当に、先生、ありがとうございました」
「止めろ。礼を言うな」
「それでも、言います。僕達を助けてくれて、ありがとうございました」
首を一度振るだけの応えだった。
「お前達が助かったのは、運が良かっただけだと理解しているな」
「はい」
「なら、気を付けるんだな。これから先、傷はもう治せない」
残量が無いからな、と男は裂けた掌を掲げて言った。
どうやら少女を救った男の血は、癒しの力を失ったようだった。
「あれは、回復薬か何かの効果ですか?」
「裏技みたいなもんだ。もう使えん」
少年は全てを理解出来なかったが、男が言うには、あの癒しの力は回数制限があるらしい。
どうも、スキルや魔術的な要素ではなく、機械的な、機能としての癒しの力であるようだ。
何年も無補給でよく持ったものだ、という男の口振りによれば、外部から供給される類の力であったか。
男の体内に仕込まれた何かが作用して、傷を癒したのである。少女を救った際に、とうとう“残量”が尽きたのだろう。
「いいか、覚えておけ。師匠として一つ教えてやる」
「は、はい! 先生!」
男が自ら師匠と名乗った。
初めての教えを授かることに、少年は期待に目を輝かせる。
「俺は回復薬が嫌いだ。大嫌いなんだ。使うことは無い。絶対にだ」
「は、はあ……」
「俺の前で回復薬の“か”の字も口にするんじゃない。解ったな」
「いや……無理ですよ、それ」
ふんと鼻息一つで返答し、火の具合を確かめる男。
「あの、僕も、見張りを」
「ガキが生意気を言うな。さっさと寝ろ」
「でも……」
「任せられるようになったらな。明日から鍛えてやる」
「あ……はい!」
それきり炎を見詰めたまま、こちらを一瞥もしなくなった男の横顔を見詰めながら、いつしか少年の瞼は重くなっていった。
妹の横へと身体を休ませる。手を握れば、弱々しく、しかし温かな体温が伝わってきた。
一呼吸すれば、すぐに睡魔が意識を奪い去っていく。
火の爆ぜる音がする。
肉の焼ける臭いが漂ってくる。
脳裏に浮かぶのは、紅い光景ばかり。
この先ずっと、命尽きるまで、自分はこんな夜を過ごすのだろう。
眠りに安らぎはない。悪夢が確約されているのならば、苦痛でしかない。
埋めなければならない。少年はそう思った。
生きていくために。生き抜くために。そして、立ち向かうために。
力で……自らの内側を、全て埋めなくては。
不死鳥が顕現し、この大陸の力という概念がまるごと変わってしまった。
もはや誰でも扱える魔術は、スキルは存在せず、貴族連に属する者のみがそれを扱う。
一歩この大陸に足を踏み入れれば、それは万人に強制されるルールとなるのだ。
不死鳥の顕現に伴って活性化した迷宮を手に入れんと、保護だのなんだのと難癖を付けて介入せんとした海外諸国は、魔術師団の団長……王妃、となる女に殲滅させられた。
それが狂気の始まりだった。
領土も武力も、この国よりも圧倒的に大きかった周辺国を相手に、一方的に叩きのめしたのだ。
元から増長を繰り返してきた貴族達が、自らの力を万能と思い込み、そして暴走するまではそう時間は掛からなかった。
体のいい侵略戦争を仕掛けんとした諸外国は手痛い反撃を受け、この大陸から即時撤退することとなった。即時、である。盛り上がった貴族達のモチベーションは、納まりが着かない程に高まっていた。
そして、力を叩き付けるべき相手がいなくなり、狂気の矛先は大陸の内側へと向く。
奴等の大義名分はこうだった。
有事である。大陸統一のために、分断されていた大陸内国家群を一つにまとめる。ひいては、新たなる国の守護神として不死鳥を頂点とする。崇めよ。そして、その証拠を。
身分証明を金で発行する制度を執っていた小国が集まり、新体制を作ると述べたのだ。
元々は、この大陸が歴史的に冒険者が多く存在する冒険者大陸であり、根無し草も多かった彼らのために、金さえ払えば身分保障をするという制度である。
貴族からしてみれば、憎々しくてたまらなかったのだろう。そこで利用することにした。
金を……身分保障をせぬ者は、国神を仰がぬ邪教徒であるとしたのだ。
近代化のあおりを受け、損得の価値観が蔓延し、都市部では加護を与えてくれる不死鳥への鞍替えがスムーズに行われたという。
だが、小村落ではそうとはならなかった。
民族的に一つの神を仰ぎ続けた者達も居るだろう。信仰を変えるというのは、これまでの歴史を捨てるに等しい。彼らはそれが出来なかったのだ。
兄妹の産まれである猫虎族もそうだった。
すると、そんな彼らを見て貴族達は言ったのだ。
そら、見たことか。あれは新国家体制に逆らう反体制派。自らの神のために何でもする気狂い達。
すなわち、テロリストだ、と。
国際条例には……もはや有名無実化したが、戦場に立つものである事が解る格好をしていなければならない、とされている。
民間人に偽装した兵の扱いについては、これを通常の犯罪者として遇する、とも。
ここで法の落とし穴がある。
無力を装い、接近して後に突如として殺しに掛かってくる者は、発見次第に即殺対応するのが常である。何を仕込んでいるか解らないからだ。
決して捕虜として扱われることはない……捕縛されたとしても、何か隠し持っているぞ、襲って来た、などと口裏を合わせられれば、それで終いだ。
それが男であるか、女であるか、老人であるか、子供であるかなど関係が無い。一纏めにテロリスト、と呼ばれて消されてしまう。
生き残ったとしても、いずれは捕まり、取調べと称して何処かに運ばれて“何がしか”に使われる。
記録も残されず、最後まで人権が全く無視されているのは、流石は命の安い世界であるなと笑うしかない。
だが、そんな世界の中で、異質な存在がいた。
それは、生気の失せた、みすぼらしい身なりをした男だった。
自分達を助けたその男は、貴族と魔獣とをものともせずに倒していた。
決して覆らないはずの力の差を、ルールをひっくり返したのだ。
その瞬間、うだつの上がらない雰囲気を纏うこの男が、力の象徴となった。
近付かねばならない。
そうすれば、きっと救われる。
少年はそう信じている。
半ば強迫的な思い込みだった。信じていなければ生きられぬという。
「俺が、師匠か……」
小さく、男の呟きが聞こえたような気がした。
そういえば。少年は、ふと思った。
この男の名は、何と言うのだろう。
「先生……」
「ああ」
「先生の、名前は……」
意識が完全に閉ざされる瞬間に、少年は男の答えを聞いた。
『名無し』――――――と。