地下39話
ゴミ山を掘り返す女がいる。
腐汁で服が汚れ、金髪が灰にくすんで、生ゴミの臭いが体中に染み付いてもなお、その女は手を止めることはない。
爪は割れ、掌は裂け、涙を流しながらも、その女は何かを探すことを止めはしなかった。
「ない……ないよ……ない……」
自分は祈ることしか出来ない女であると、そう、その女は己を断じていた。
自分達のこの両手は何かを作り出すためにあるのだ、と祖母は言った。
確かに、何かを作ることは出来る。
整備士とは、そういうものだ。
だが、それだけだ。ただ、それだけだ。
作り出した物が何をかを為すかまでは、預かり知らぬ所なのだ。
それが価値有る物となるか否かは、誰にも解らない。
己が動き、一助となることも出来ない。
だから、信じて、祈るしかない。
「見つからない……見つからないよ……」
女は男と過ごした日々を、心より愛していた。
「ごめん、先輩。また壊しちゃった」などと、困ったように笑う男の顔が、瞼の裏に焼きついて取れない。
「まったく、馬鹿だな、君は」と溜息を吐きつつ肩を竦める鳥頭。「まあまあ」と男を慰めるメイド。「また無駄乳のところに居るのね!」と地団駄を踏む令嬢。
そして、彼に寄り添うようにして側に立つ、狼の耳の少女。
彼らと共に笑いあう日々は、まるで宝石のようで、何物にも代え難い時であったと気付いたのは、全てが失われた後だった。
鳥頭は新たな道を歩み出した。
メイドは自責の念に潰れ姿を消した。
令嬢は全てを過去として己の運命に従うと決めた。
そして、男は再起不能になった。
全て、狼の少女が死んだからだ。
どのような形であれ、あれから全てが始まった。
これは終わりではない。始まりなのだという確信が女にはあった。
倒れた者、その場に踏み止まる者、先へと進む者。
皆、ある意味己の身に起きた変化を受け入れ、与えられた役割を為している。
では……自分は、どうだろう。
何をするのか。何をすべきか。何が出来るのか。
女は考えた。
そして、結論を出した。
「あ……あああっ……あああああっ!」
この両手は何かを作り出すためにある。
祖母の言葉である。そして、己の言葉でもあった。
信じるしかない己が、初めに信じた言葉である。
それは女の、信念だった。
所詮己はただの整備士。何かを作るしか能が無い。
ならば、作ろう。
作り出してみせよう。
結論を出したその日から、女は捜し続けている。
自分の助けを待つ者を。
「あった……あったよ! ああ! あったんだ! ああ! ああ!」
掲げ上げたそれは、ひしゃげた鉄兜――――――。
女は涙を零して、砕けた鉄兜を胸に掻き抱いた。
兜の側には、プレス機に掛けられて形を失った、鉄塊が。
意味を成さないゴミ屑へと変えられた鉄塊を前に、女は微塵も絶望を抱いてはいなかった。
なぜなら、この胸の内に抱いたは、鉄。
ただの鉄塊であれば、それほど都合がよいものはない。
整備士とは、鉄を以って作り上げる者達であるが故に。
この手で、もう一度。
私は、希望を作るのだ。
「ツェリスカ!」
女は希望の名を叫んだ。
これは灯火であると。いずれ篝火となると信じて。
必死になって掘り起こした希望の火が、きっと皆の心の内を照らすのだと。
自分が、再び産み出してみせようと。
そう、信じて。女は鉄兜を抱きしめる。
眼には涙、口元には笑みが。胸には希望を、想いは未来へと。
「う、お……なんだ、地面が、揺れ――――――」
その希望の火は一日と待たず、絶望の産声に、無慈悲に掻き消されるとも知らず。
□ ■ □
その瞬間のナナシの心中を、どう説明したらよいだろうか。
自分の間抜けな声が上げるのを、どこか笑えるような気持ちでナナシは聞いていた。
ひいひいと、独りでに腹の底から、声が上がっていく。身体が、本能が、魂が、叫び声を上げているようだ。
本当に、笑ってしまうしかない。
こんな光景が、現実に在るなどと。
『――――――ほ、う』
『あれあれえ? ゴミがいるぞー? 掃除当番だれだよーもー』
『おやまあ、臭いと思うたら、今度は鼠が入り込んでおったか。鳥といい、今日はほんに、獣の多い日よな』
脳に直接響く、三つの声色。
枯れ果てた老人の声であった。
明朗快活な子供の声であった。
妖艶な女の声であった。
聞くものの魂に値を付け、踏み躙る、強者の声。
あたかも、神の啓示の如くにナナシへと届いた。
背筋が凍る。
美醜が同じ数直線の上での話しならば、極まった醜悪さは、至高の美しさと等価であると言えないだろうか。
恐怖だろうと感嘆であろうと、胸を打つのならば同じこと。
それは畏怖と呼べるものだった。
はつはつと、呼吸が乱れていく。
視界から入る情報を認識せぬよう、ナナシは冷静にならぬように務めて混乱し続けた。虚しい努力だった。
こんなものを理解してしまえば、まともでいられるはずが無い。
真っ二つに割られて、その間を何かチューブのようなもので繋がれ、“それ”と接続させられているのか。レールに吊るされている胎児が見えた。
迷宮で魔物に犯された女の末路は、“ここ”であったのだろう。ベルトコンベアで運ばれる末端部位の掛けた妊婦達が見えた。
台座の材料は、やはり地球人達だった。人間を粘土にして捏ね上げたような、モニュメントが見えた。
その頂上には、三つの、肥大化した脳が――――――。
理解してはいけない。
認識してはいけない。
歯を鳴らして俯いた視線の先に、見慣れた法衣と、散った羽と、繋いだこともある手が千切れて飛んでいるのが、見えたとしても。
「うううわああああ――――――ッ!」
戦の咆哮ではなかった。
それは悲壮に塗れた、ある種の覚悟を孕んだ雄叫びだった。
ナナシは拳を振り上げて、“それ《・・》”へと踊り掛かった。
ナナシの反応は、もはや反射的なもの。本能に基づく行動理念。過剰な防衛反応による反転行動。逃争闘避の本質。
耐えられぬ程に恐ろしい存在から逃げるために――――――それを殲滅する、という。
「えぎゃっ」
唐突な幕切れであった。
勇ましい叫びとは真逆の、いっそ呆気ない音が、腹の底から湧き上がっていた。
何が何だかわからない、といった唖然とした表情を、ナナシは一瞬浮かべた。
寸瞬後、どっと脂汗が額に噴き出す。
「ひ、い、い、い――――――」
『ふうん?』
丁度、虫を、子供がピンセットに突き刺して遊ぶような、そんな様相だった。
珍しいものを見たという風にして、針に突き刺した虫をためつすがめつ、掲げ見る。
肉の針。鋭く尖った触手。
先端には、ナナシが。
つぷり、と簡単に、そして軽やかに、地から競り上がった肉の針が、飛ぶナナシを貫いたのである。
ナナシは中空へと、触手の一本で縫い上げられていた。
「あぎゃっ、いいいいっ、いたっ、いだあああ――――――」
『――――――喧しい、蟲めが』
「んんんああああ――――――ッ」
もう悲鳴を上げるどころではない。
上もなく下もなく、左右もなく、中空で揺さ振られるナナシ。
体験したことの無い痛みが、灼熱が、腹を焼く。
慣性に触手が腹の中で暴れ、血反吐を撒き散らしながらナナシは泣き叫んだ。
『ほ、ほ、ほ。まあまあ、可愛らしいものよのう。して、スミスよ』
「――――――ハ、ここに」
“それ《・・》”の呼び声に、恭しくスミスは胸に手を当て、一礼を返す。
ナナシの惨状を静観し続けるその男の顔には、作り物の笑みが。
しかしその瞳には、形容し難い、危うい輝きが灯っていた。
愉悦の輝きである。
スミスはナナシの悲鳴を耳に、大の男が泣き叫ぶ痴態を眼を輝かせて眺めている。
『この羽虫はなんぞえ?』
「プランBの、生き残りでございます」
さらりと応えたスミスの言に、空間が、軋みを上げる。
たった一言ではあったが、何をかが、“それ《・・》”の琴線に触れたのであろう。
ナナシを貫く触手が、ぐりぐりと傷口を抉る動きに変わっている。
悲鳴が迸ったが、その口にも触手を喉奥にまで突き入れられ、無理矢理に黙らされた。
触手が腹の中で蠢いている。
『――――――検体の処分は、貴様に一任したはず、だが?』
「クックック……失敬。いやはや、いやはや、半生を掛けた仕事でしたので、どうにも私にも思い入れがあったようでして、はい。
全て始末することも出来ず、こうして最後の一人を、皆様方の前に連れて来た所存でして」
『へえ、僕達に始末させようっていうんだ? それってごうまーん』
「いえいえ、滅相もございません。その逆でございます」
『ほう? 逆、とな? であらば、もしやその鼠……“生かせ”と申すつもりかえ?』
「正に」
スミスが応えた瞬間に、触手が跳ね上がる。
ナナシの身を抉る触手の動きが、一層激しくなっていく。
「このジョン・スミス、我が一命を賭して皆様方に申し上げたい」
『……ねえ、君さあ。ちょっと勘違いしてるんじゃない? あんまり生意気言ってると、擦り潰しちゃうよ?』
『ほほ、まあよいではないか。話だけでも聞いてやろうぞ』
『えー……でもさあ、こういう風に調子乗られると、むっかつかない?』
『――――――傲慢の償いは、させる、べきよ、なあ』
『弱者の喚きに苛立つは、強者の宿命なりや。ここは一つ、寛大に受け止めてやろうではないか。受け止めたその後に、存分に嬲ってやればよいのよ。我らが腕の内でのう』
『ん、それもそっか。はっはー、言ってごらんよスミスくうん。小汚い虫を生かすに足る理由をさ。笑えなけりゃ……解ってるよね?』
「それは、もう。重々承知しております。ですが、ご安心を。きっと皆様方の満足する答えとなるでしょう」
『――――――よかろう、言うて、みよ、ジョン・スミスよ』
背筋を伸ばしたスミスの姿は、晴れやかとしていて、そして誇りに満ち満ちていた。
熟成された汚泥の詰った空間において、スミスという男が放つ、人としての輝きが素晴らしく価値あるものに見える。
有り得る訳のない幻影であり、幻想だ。この男に尊さなど在る訳がない。だが、だというのに、この男から迸る自信と輝きは何なのだろうか。
「我らが悲願、第三世界の創造を……是が非でも、彼に見届けさせたいのです」
触手の動きが止まる。
“それ”がまじまじとスミスを、瞳無き千の視線で以って嘗め回す。
この男が一体、何を言っているのかと。
そして至る。この眼の暗い輝きは、我らが手駒の狂信者共の眼、それに等しいものだと。
毒されたか、害されたか、情に絆されたか。何が理由かは解らぬ。
プランBの統括としての役割を負ったスミスだ。『信者獲得』の影響は、誰よりも受けているはず。
良く仕えてくれたものだから、ついつい忘れがちであるが、信者獲得の影響は無視出来ぬものだ。
スミスは特殊な加護神を持つ故に、最たる手駒として用いていたが、さて、それでも主人を見ぬ犬は腹立たしいことだ。
『……さて、それは我らに叛意を翻したのだと、そうとらえてもよいのかえ? のう、スミスよ』
「私に信者獲得の影響が及んでいることは承知しております。これは、それを断ち切るため……“第三プラン”の遂行のために、必要な儀式なのです。私にとっての、ですが」
『――――――それは、貴様の忠義の、証明には、ならんぞ』
「それも、承知しておりますれば。私には働きぶりでお見せするしか術がありません。ですので――――――」
『ですので、なんだい?』
「お嬲りになってください。存分に。心壊れるまで」
言って、掌で指し示す先には、白眼を剥いて痙攣するナナシ。
『――――――ふ』
『ほほ、ほほほ』
『ははっ、あっはっは!』
愉快そうにして、“それ”はぶるりと身を震わせた。
了承の返答だった。
『――――――貴様の、口車に、乗ってやろう』
『よかろうて、よかろうて! ほほほ、ほほ!』
『あはははは! まー君が糞生意気なご意見述べてくれちゃった償いはその内してもらうとしてー、それじゃあ、早速――――――』
枯れ果てた老人の声が。
明朗快活な子供の声が。
妖艶な女の声が。
一つとなって、ナナシへと殺到した。
『嬲ろうか』
――――――この後、己の身に降り掛かった理不尽を、ナナシは朧気にしか覚えていない。
□ ■ □
地球人の処理の仕方を教えてあげる、と言われた。
息絶えた彼らは“一塊”にして、よくこねて、団子にされていた。
その中に一緒になって放りこまれて、ぐるぐると回された。人間洗濯機だ、などと嘲笑う声が聞こえた。
余すところ無く肉塗れになった。腹がはち切れるくらいに、肉を喰わされて、血を飲まされた。
おいしいと無理矢理言わされ、にこにこと笑って幸せですと答えさせられた。
『お前達は、“これ”がしたかったんでしょ? 解るよ! だって“これ”、すっごく楽しいもんね!』
これ、とは何を指すのか。
嫌でも解った。身体に教え込まれた。
『ほーら、こうやってさ、圧倒的な力で弱っちーい奴等をめっちゃくちゃにするやつさ! いやあ、楽しいなあ! 確か、反則スキルだっけ? それとも能力? そういうのっていいよね!』
『ほほ、地球人ときたら、こちらが下手に出てやればやれ力をよこせだの、特典を付けろだのと、ああ浅ましや浅ましや』
『なんだっけ、あのテンプレ。確か、えーっと、間違いで死なせちゃいました。だから特典付けて転生させてあげるよ。かーらーの、ふざけんなって殴りかかってくるか罵倒されるか、だったっけ?』
『被害者には、受けた被害以上の見返りを相手が明け渡して当然、などと、何故考えられるのか解らんのう。そんなもの踏み倒すに決まっておろうに』
『――――――奪われたのならば、奪われ続けるのみ。殺されたのならば、殺され続けるのみ』
『まっ、クズは死んでも治らないってことさ! お前達は生まれてから死ぬまで、死んでからもずーっとゴミクズのままなの、いい加減理解しなよ?』
『与えられし力を誇る、あの滑稽さよ。存分に笑わせてもらったぞえ。金のメッキを貼り付けられた石ころが、我こそは金塊なりやと叫ぶ、これ以上の喜劇はあるまいて』
『あー、あれうけるよね! 本当もう、超うけるー! あっはっは! 魔力だとかスキルだとか超能力だとか、全部僕達がくれてやったものなのに、はしゃいじゃって!
くじが当たって金を手に入れたから、急に成金趣味になりました、みたいなさあ。みっともないったら! 力を身に付けたから、自分の価値が上がったなんて、馬っ鹿だよね!』
優しく肩を抱かれて、記録映像を見せ付けられた。
地球人達の殺し方のハウトゥムービーを何十本と鑑賞させられた。
手足を捻り折られてから、同胞達……回復薬で、元通りに癒される。
繰り返される破壊と再生。
身体を壊されていく感覚と、復元されていく感覚を、同時に神経へと流し込まれていく。
それらは全て、魔術的球形の力場の中で行われた。
『三次元魔法陣』……魔術球とでも言うべきか。
本来、魔法陣とは縦横XY軸上に描かれる。
単一の魔術的効果を持続させる技法、発動媒体の一種でしかない。
だが、この『魔術球』は、根本からして異なる代物だ。
まず、奥行きであるZ軸が加わったことで、その情報量が単純に増大した。無尽蔵に
平面が無限に集まったものが球体である。
全周360度、2πラジアン。これに一定方向にではない乱回転が加わり、動体エネルギーが加算されることで、魔術効果は計測不可能な領域に達していた。
無限角度魔法陣の不確定回転による魔術効果の発動……即ち、神の領域へと。
これは、『力』そのものだ。力という概念が顕現したものだ。
ナナシは、力の檻へと囚われ、嬲られ続けている。
嘲笑が木霊する。
空気が軋む。
軋む音は、身の内からも聞こえた。
心が壊れていく音だった。
「助け……助けて……助けてください、お願いします、助けて、助けてください! 何でもします! 何でもしますから! だから助けて、お願いします、助けてくださいぃ……」
小便を垂れ流し、脱糞までして、泣き叫んでは懇願する。
積み上げて来た自分自身とでも言うべきものが、崩れ去っていくのを感じた。
何も、無くなっていく。
あれだけ研ぎ澄まされたと思っていた、思い込んでいた業も、圧倒的存在の前では何の意味も無かった。
無力ではない。無意味なのだ。
このナナシという存在に、意味など無かったのだ。
『――――――つまらぬ、反応よな』
『お前達は皆、そのような台詞ばかりじゃのう。もっと気の利かせた事は言えんのか』
『結局最後は壊れたラジヲになっちゃうんだからさ、もっといじめようよ。
ほら、ごらんよ。解るかい? これ、この大陸の地図ね。それでこの光ってるとこ、ダンジョン。地球人達が集められるのって、ここだけじゃないんだよ。ほら、こんな型に集めて、血を絞って、大地そのものを魔方陣にするのさ』
『おお、良き事を考えた。これに始末をさせようぞ』
『お! それいいね! もう儀式もほとんど終わったし、残った在庫どうやって処分しようかなって思ってたんだよね。いやあ、丁度いいや、ナイスアイデア!』
『そう褒めるでない。どれ、子鼠よ、聞こえておるな? お前はこれからあの場に赴いて、仲間の鼠共を皆殺しにするのじゃぞ? よいかえ?』
『そんな言い方駄目だよ! 残酷すぎるよ! いいかい、君はこれから、仲間を助けにいくんだよ。彼らはここよりもずっと残酷な目にあっている。もう助からない。君が救ってあげるんだ。いいね?』
『――――――ク、ハ。救う、救う、か』
『あっはっは! そうだよ、君が地球人達の救世主になるんだよ! あっはっは!』
『ほほ、ほほほほほ! ほんにのう! 救ってやるがよいぞ! 存分にのう! ほほほほほ!』
延々と、飽きるまで嬲られ続け、何もかもが壊れていく。歪んでいく。
「ううわあああああーっ! あああーっ! もういやだああーっ! 誰か、誰か助け……ひいいいっいいいーっ!」
馬鹿正直がいい、と言ってくれた鳥頭がいた。
笑ったお顔が一番です、と称してくれたメイドがいた。
真面目なんだから、と呆れて顔を赤くする令嬢がいた。
優しいままのあなたで、と願った狼の少女がいた。
彼らの、彼女達の言葉が、暴力の前に砕け散る。
大切な、大事な思い出など、何の意味も無い。
“これ”の前には――――――あるいは、“これ”に等しい、個我でなければ――――――。
「もう帰る、帰る! 帰らせて……お願いだから、帰らせてくれよおおーっ! うわああーっ!」
真っ当に生きてきた男に、汚泥の不浄を耐え切れなどと、望める訳も無く。
当然の如く、心折られて、それでお終いだった。
沈鬱な心の底からの懇願と泣き果てた顔は、地球人の、異世界への敗北宣言。
地球人を代表して、この男が異世界に降伏を……眼前の存在に膝を折ったのだ。
満足そうにして、“それ”は囁いた。
『――――――遊びは、そこまでにせよ』
『おお、とうとう始まるか。終わりの始まりが、始まりの終わりが!』
『ふっふふふ、あっははは! ようやく、ようやく始まるんだ! 長かった、本当に長かったよ! 窮屈で息が詰って、死にそうだった! でもそれも、今日まで!』
地が波打つ。
大地が揺れる。
龍脈が活性化し、大陸プレートが刺激され、大地が隆起を始める兆候だ。
ただの地震ではない。一定のリズムでそれは刻まれている。
心臓の脈動のように。
地の底から、何かが産まれ出でようとしているかのように。
『時は来たれり! 神は来ませり! 我ら至れり! おおお……祝福の時ぞ!』
三つの声が一つとなって、ナナシを蹂躙する。
眼を閉じて、自らの殻に閉じこもろうと試みても、無理矢理に眼を開かされて見せ付けられる。
『ごらんよ! 来るよ……神が来る! 特等席で見せてあげるからさあ、目を瞑るなんて勿体無いことしないで、ほら、目に焼きつけるんだよ!』
『そう、これが我らの始まり。これが我らの至るべき姿。これが正しく、神の御姿よ!』
『――――――見届けよ。貴様達、地球人の血が、神を呼び寄せた、のだから』
その瞬間を。
神の光臨する、瞬間を。
ただただ圧倒的な神意に、個我が押し流されていく。
放たれる威……ただそれだけで、魂が陵辱されていく。
「帰りたい、帰りたい、帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい……地球に帰りたいよう……」
身体を震わせ、頭を抱えて、指を噛んで、後悔と絶望に犯される。
戦おうなどと、思ったことが間違いだったのか。
陵辱は続く。
この男の魂から、生きようとする意志が放つ輝きが、消え失せるまで。
□ ■ □
神意顕現。
『偽星・不死鳥』――――――降臨。
□ ■ □
焼けた荒野を、覚束ない足取りで歩く男の姿があった。
赤黒い襤褸切れを纏ってはいたが、身体に傷は見当たらない。
だが、眼は虚ろで焦点は合わず、体の芯はぶれて真っ直ぐには進めていない。
よほどの恐怖を体験したのだろう。色濃かった黒髪は、白髪塗れの灰色へと変貌してしまっていた。
身体ではなく、精神に受けたダメージは如何ほどのものか。
表情の消え去った顔面が、全てを物語っている。
男は幽鬼のように、揺らついて背後を振り返った。
「――――――」
それは、してはならぬと決めた誓いであったはずだ。
誓いを破れば、報いが訪れるのは当然のこと。
そこには後悔と絶望が広がっていた。
ごっそりと大地が抉られ、巨大な孔が口を開けていた。
例え路地裏であろうと、高度な建築様式が行き届いていた学園都市の在りし日の姿は、もはやそこには無い。
ただ在るのは、焼けた土と、抉れた大地と、瓦礫を巻き上げて汚れた空気と、遠くに聞こえる怒号と悲鳴と血臭と……何か巨大なものが地下より出現し、そのほとんどが崩壊した都市の残骸のみ。
空が暗い。天が覆われているのだ。巨大な岩――――――神の器に。
「――――――くひっ、ふへひっ」
男の口元が歪む。
「えひっ、えひっ、ふひゃっ、へひっ……」
壊れた笑い声が、にたつく口から漏れていた。
精神に異常を来した、壊れた者の笑みだった。
「ひっ、ひっ、ひ……ふ、は」
地には人の嘆きが、天には神の賛歌が響いている。
背後の都市にも、男の胸の内にも、何も残ってはいない。
仲間達との思い出、身に付けた技、胸を震わせた想い……全て無意味なものだった。
自分はただの材料であり、実験体でしかなかった。
ただの消耗品だったのだ。
彼女達が慕ってくれるのは、自分を見ていてくれたからではなかった。解っていたことだった。突き付けられて、もしもと思った淡い希望は愚かしい願望でしかなかったと思い知った。
全ては幻だったのだ。
そして、もう、再び立つ気力も消え失せた。
「は、はは、はっ、ははは、ひひっ、えひっ、はひっ、はっ、ははっ、あーっはっはっは……」
男は壊れた微笑みを零しながら、ゆらゆらと歩き始めた。
そのまま、何処へなりとも去って行く。
崩れた歩調と煤けた背中で、幽鬼の様に。
まるで、標の無い荒野に踏み出す、冒険者のように――――――。
第一部・学園編―――第2章幕間……了
第二部・神撃編―――第3章……幕