地下38階
何だ、これは。
ナナシは自問する。
眼前には屍の山。積まれているのは、同胞達。
自らが築き上げた死山血河の地獄絵図を前にして、ナナシは恥も外聞も捨て嗚咽を零した。咽び泣いた。
何なのだ、これは。
げえげえとえずく喉から滴る胃液はとうに枯れて、血痰が下顎を伝わり糸を引く。
人的資源とはよく言ったものだ。文字通り、資源として彼等は使われ、使い尽くされて、破棄されていったのだ。
これまで、ずっと。誰も知らない世界、誰も知らない場所で、誰も知らないままに。
「お疲れでしょう? はい、どうぞ。回復薬ですよ」
そっと差し出されたのは、小瓶に入った緑色の薬水……回復薬。
スミスが作り物の笑みを張り付かせて、ナナシへと手渡す。
受け取れるものか。ナナシは手を振るって払い飛ばした。
地に落ちた薬瓶が割れ、中身が零れ広がった。
「ああ、もったいない」
「回復薬……だった」
「はい、そうですね」
「回復薬だったんだ!」
「ええ、その通りですよ」
「あの人達は、回復薬の原料だった!」
掲げられたナナシの両拳は、緑色の粘液に覆われていた。
それは回復薬の輝きだった。
人の血の色とはかけ離れたものだった。
この両手は、血の赤に塗れていなければならないというのに、何故。
「完全食品って知ってます?」
ナナシの悲痛な叫びを眉根すら動かさず、スミスは見当違いな問いを放つ。
「人体に必要な栄養素を豊富に含んだ食品のことですが……これって、回復薬にも言えることだと思いません?
治癒魔法と違ってこれ、回復薬、物理的に作用するでしょう? だから貴方にだって効き目がある……でもね、おかしいと思いませんでしたか?
まさか本当に、説明書きを信じていたなんてことは、ねえ、ないでしょう。
多種多様な加護持ちの冒険者に対しても、おおよそ同等の効果が見込める回復薬……加護の限りなく薄い、培養された下等な微生物が傷を塞いでくれる、なんて、ねえ。
そんな都合の良い生物がいるなんて、それはないでしょう。
例え微生物でもね、ほら、歌でもあるでしょう、僕らは皆生きているーってね。神様の支配下にあるんですよ、この世界の全ては。
そうやって生きているんです、この世界の命は。存在しませんよ、そんな生命体はね。あるとしたらそれは、貴方達のような存在以外にはないんです」
割れたガラス瓶から零れた薬液が、ぶるりと震えたように見えた。
スミスは知っているのだろう。躊躇無く、薬液を踏み躙る。
「もう解ったでしょう。貴方が愛用していた回復薬の正体はね、地球人が加工されたものだったのですよ」
それがいかなる技術によって作られたものか。
解らないし、解りたくもない。
ただ、スミスの言葉は道理でもあった。
人の傷を塞ぐには……欠けた人の肉を塞ぐには、同じ、人の肉を用いるのが効率的なのだ、と。
人の細胞は、人の細胞で埋めるに限る。
「原材料は地球人で、加工先は、自動的にうごめく肉の塊。そう、スライムですよ」
意思のない、どろりとした、ただ活動するだけの肉の塊――――――スライム。
幾度となくナナシが引き裂いてきたその魔物が、この小瓶に詰め込まれていたのだと、スミスは語る。
それは、地球人達がどろどろになるまで溶かされて煮詰められた果ての、姿であった。
「名目上は多様な加護持ちの冒険者へ向けた、誰が使っても一定の効果があるなんていう一般ポーションの類はね、本来は貴方のような存在を飼うために作られたものだったのですよ」
サイクルとリサイクルなのだ、とスミスは語った。
「ここは迷宮であり、儀式場であり、そして工場でもある。迷宮で作られるのは、当然にして魔物だけではない。迷宮の資源として使われたのなら、迷宮から産まれるもの……魔物や、道具に加工されていくのですよ」
もはや最後まで聞かずとも、ナナシは全て理解していた。
この場に浚われ、“加工中”であった地球人達。
千には満たなかったが、それでも数百人はいただろう。
手で、足で。
拳で、肘で、膝で、踵で。
手刀で、足刀で、頭突きで、肩当で。
この世界でナナシが身に付けた、ありとあらゆる技で以って、ナナシは彼らを生の苦しみから解き放ったのだ。
否……おためごかしは止めよう。
率直に説明しよう。
この場に召喚され、連れ去られた地球人達、数百余名。
その全てを、ナナシは殺害せしめたのだ。
それも半刻も経たずに、迅速に、正確に。
「回復薬だけじゃあありませんよ。学園内の表層に点在する、学生用の迷宮。そこに生息する魔物達はね、ここから出荷されたものも混じっているんですよ。
“みせかけ”なんですよ、この学園の迷宮は。構造変化を封じてしまえば、迷宮機能は死んでしまう。この地下迷宮が学園都市の基盤なんです。上の方でちょこっと入れ替わるくらいじゃ、意味が無いんですよ。
出土する物品の粗悪さ、頻度の低さは学生用の低レベル向けだから、なんていって誤魔化してはいましたがね。魔物はそうはいかない。数が減るし、質も下がる。そうなれば訓練の体を為さなくなってしまうでしょう?
だからですよ。だからここで作って、放逐していたんですよ。
在る程度の加護を除去する、地球人の特性を備えた魔物……それは体感的に、手ごわい、強いと感じるのでしょうね。魔物の質としては、スライムと同じく、そう大したものではないというのに。
そう、貴方達は、元は人だったものを殺して、力を身に付けていったのです。
人間の魔物への改造技術というのは、貴方達地球人を調べる上で得た技術でした。
産まれついた世界が異なるというだけで、神の支配を受けない地球人。我々との差は、どこにあるか。とりあえず身体を弄って調べてみよう! こうして出来たのものの一つが、回復薬という訳です。
学園都市の魔物達が、学生用なんて言われるくらいに弱いのはね、元が地球人だからなのですよ。
原型が無くなるくらいに溶かして、煮込んで、捏ねて……魂まで変容させてしまったからなのですよ。
ちゃあんと、その特性を理解して継ぎ接ぎしてやれば、逆に異常に強力な魔物が出来上がるのですがね。
ほら、貴方も以前戦ったことのある、あの『キマイラ』ですよ。覚えていますか? あれ、私が作ったんですよね」
スミスの会話の癖なのか、大量の情報が流し込まれる。
だが、ナナシは覚えていた。
あの粘ついた、情欲に塗れた獣の視線。
魔物特有の邪悪さによるものかと思っていた。だが、違った。あれは、人のもの……人の“いやらしさ”そのものではなかっただろうか。
元が人間であったのなら、当然のことだ。
「貴方たちは加護の無い、ある意味、至高の存在だ。
でもね、こうやって“何か”で覆って、境界を曖昧にして……丁度、箱の中の猫のようにするとですね、その限りじゃなくなるんですよ。
別の存在へと変貌してしまう。させることが出来てしまうんです。
これが私達が貴方達を処分すると決めた、最たる理由ですよ。
神とは例え虚数上であったとしても……むしろその領域でさえ不変のものでなくてはならないというのに、完璧であるように見えた貴方達のスタンドアローン性は、容易く形を変えるものでしかなかった……とね。
ですが私は、“彼ら”とは違う結論を出した」
“彼ら”、と吐き捨てるようにして言ったスミスの心境は、どのようなものであったのだろうか。
ナナシには、その“彼ら”もスミスも、違いが無いようにしか思えない。
同じ外道だ。こいつらは。
「私はね、それは育っていないだけだと……“世界”に立ち向かう意思が芽吹いていないだけだと、そう考えたのです。
折れてしまったが故に、この世界に飲まれて消えてしまっただけだとね。
確かに貴方達は不完全で、曖昧な存在だったのかもしれない。でも、だからといって、不要であると、無意味なものであるとは思えない。
だって、こんなにも……地球人が戦う姿は、こんなにも美しいのだから」
言って、跪くナナシの頬に手を添えるスミスの頬は上気していて、まるで愛しい人を見るかのような顔でいて。
ナナシはこみ上げる吐き気をこらえられず、不幸にも嘔吐するものもないままに、どうしようもなくスミスを見上げるしかなかった。
泣き出す寸前の幼子のように……かつてナナシを救った老人へと、初めて出会った時のようにして。
「やはり、私の考えは間違っていなかった……貴方は成長しつつある。急激に、人の、地球人の括りを超えてね。
それは素晴らしいことだ。本当に、素晴らしいことなんですよ。我々ではこうはいかない。無限の可能性を貴方達は秘めているんだ。
見違えるようですよ。ここに足を踏み入れる前の貴方と、今の貴方とでは」
「やめろ……やめて……もう、やめてくれ……」
「本当に、強くなりましたね」
万感の想いを込められて紡がれる言葉は、しかし確かにナナシの胸を打った。
強かに、心臓が凍りつく程に、打ち据えた。
ナナシには自覚があった。
つい今しがたの話だ。暗がりから、物音と共に、形容し難い何かに変貌しつつある、地球製のシャツとズボンを着た男が現れた。ズボンの裾からは、太い節足が何本もはみ出していた。この場に居合わせた、最後の地球人の成れの果てだった。
ナナシはそれを、特に意図しないままに、さっくりと始末した。
正確にナナシの動きを表すならば、それは筆舌に尽くし難い、非常に高度な技術で行われていた。
気配も無く立ち上がったナナシは、その魔物へと加工途上にある男へと徐に近付いて、幾本もある足の根元を踏みつけていた。
足を地に縫い止めて、機動力を削いだのである。次いで繰り出したのは、両手諸手突き。
未だ人間の部分を残していた胴体、肋骨の下に指先を差し込むと、そのまま、肋骨の全てを観音開きに、肺ごと引き剥がした。
二つの空洞の中心に、浅黒い心臓が脈動しているのが見えた。ナナシはそれを無造作に掴んで引き千切り、返す拳で、顎から上を粉砕してのけたのだ。
一瞬の交差であった。
全てが終わってから、ナナシ自身が己の所業を認識した程である。
明らかに、ナナシの身の内で、何かが起きていた。
これまで学んだ全てが実を結び、爆発的な勢いで、開花しつつあった。
何だ、これは。
ナナシは再び自問する。
何なのだ、これは。
「何だ……何でだ……!」
人殺しなど出来ない、そう思っていたはずだった。
せめて苦しまぬようにと、そう思っていたはずだった。
だというのに、己は何をしたというのだ。何だ、これは。何なのだ、これは。
何故、この両腕は、技を模索したというのだ。
「何で俺は、こんな、人殺しが上手く……俺は……!」
そう、試したのだ。
いかに上手く拳が振るえるかを……いかに上手く、人を殺せるかを。
技に操られるが如く……あたかも技自体が、それを望んでいたかの如く。
ナナシは人を殺す作業に、後ろ暗い悦びを見出していたのだ。
一人殺せば、ほんの少し。二人殺せば、より大きく。
冴え渡る、技の切れよ。
即ち、己の力を、強さを高めるために、ナナシは同胞を喰ったのである。
それは決してあってはならぬことだった。
ナナシを救った老人が、それだけはしてはならぬと、禁忌として叩き込んだことであったというのに。
魔物を、神を打倒するために編み出された武術である『無名戦術』を、人間を打ち殺す用途のために使ってはならない。それが無名戦術の理念であったはずだ。
だというのに、ナナシは空虚な思考で、同胞を救うためだという大儀という名の欺瞞で拳を振るった。
どうしてそれが心底慈悲によるものであると言えようか。
どれだけ言葉を尽くしても、言い逃れることは出来ない。
初めから、ナナシは理解していた。無名戦術とは、人の命で砥がれる刃であると。
そして今、正しくその通りであったのだ。
鎧を身に着けていた自分が目の前に居たとして、その命を刈り取るまで、5秒と掛からないだろう。
仲間達を冒険をしていた自分が、いかに“遊んでいた”のかがよく解る。
生身であるというのに、完全に武装したかつての自分を、嬲り殺せる自信がある。否、それは確信だ。
ナナシは無名戦術を、殺人拳として昇華させてしまったのである。
己の本能が赴くままに。
武への欲望に喘ぐままに。
技に支配され、衝動に突き動かされ……老人の切なる祈りを、“業”へと堕としてしまったのだ。
「何でだ、俺は! 何で――――――!」
「何でって、それは、あなた自身がよく解っていることでしょう」
「黙れ!」
「自分を否定なさるのはよくないことですよ」
「やめろ、聞きたくない! もうやめてくれぇ……!」
「認めてしまいなさい……楽しかったのだと!」
すまないなどと、言えようものか。
ごめんなさいなどと、口に出来ようものか。
スミスの言は、事実であった。
救うだけならば、殺すだけならば、速やかに一突きで終わらせるべきだったというのに。
ナナシは無名戦術のあらゆる術理を用いたのである。
己の拳の研鑽に、同胞達を用いたのだ。
ならばもはやこれは、救いではない。殺戮だ。
ナナシは殺戮を楽しんだのだ。
己が研ぎ澄まされていく、その感覚に夢中になって。
ナナシは、己の魂が奮えるのは何時も、誰かの死に触れる、その瞬間だったと気付いた。気付いてしまったのだ。
「誇りなさい、砥がれたあなたのその業を。でなければ、彼等はなんのためにここに喚ばれ、死んでいったのか……。あなたはここで身に付けた、その“最新の七つの奥義”を、極めなくてはならない」
同胞達の血を啜って。
そして、無名戦術創始ジョゼット・ワッフェンが、術理のみ遺して逝った無名戦術の基本にして最奥。
未完成であったはずの名も無き術理が、ここに開眼したのである。
奥義の一。対人型及び、対魔物汎用奥義。正拳。
奥義の弐。対多脚型魔物用奥義。垂直蹴撃。
奥義の参。対飛行型魔物用奥義。地対空変型蹴撃。
奥義の四。対軟体型魔物用奥義。手刀。
奥義の五。対鋼体型魔物用奥義。多重肘鉄。
奥義の六。対不定形魔物用奥義。掌底。
奥義の七。対巨大型魔物用奥義。捨身正拳。
以上、七つの術理を以って、無名戦術の奥義とする――――――。
「貴方の鎧は、弱さを隠すためのものだった。ですが、自分の正体さえ隠して、見失ってしまうようではね……“装う”ためには、その下に何があるかを良く知っておかねば。
一度全て脱ぎ去って、裸になっておくべきでしたねえ。まあ、今回が良い機会ですし、頑張ってくださいね」
手をぱんぱんと払って、仕切りなおしだとでも言う風にして、スミスはナナシを促す。
立ち上がれないナナシの腕を掴んで引き上げると、奥へと誘う。
一体どれだけの時間、引き摺られて行ったのだろうか。
大人しくナナシはスミスに身を預け、足を引き摺っては歩みを続けていた。
反攻に出なかったのは、罠であるかと判断する脳機能が低下していた、からかもしれない。何故かはナナシ自身にも解らぬことだった。
何がしか言葉を返す気力すら、もはやナナシには残されていなかった。
程なくして、スミスの足が止まる。目的地へと到着したようだ。
「さあ、ボス戦ですよ」
ぐったりとスミスに寄りかかって、ナナシは見上げた。
それは壁……否、扉だった。
何の飾り気も無い、機械的で無機質な横開きの、見上げる程に巨大な扉。
巨大ではあるが、よくある機材搬入用の出入り口にしか見え無い。学園都市では、研究所等に良く設置されている、同一規格のものだ。
その奥には、大規模な実験器具か建設機材が保管されているのが通常ではある。
だが、この場にあって、この奥にそんな人道的なものがあるなどとは、欠片も信じれるはずがない。
何かが、居る。
隠しようのない、存在の圧力を、命の息吹を感じた。
圧倒的な、存在の。
錆付いた音。
扉が開く。