地下36階
ここに、壊れた男がいる。
手は傷で埋め尽くされていて、内蔵は位置が変わってしまっていて、足は丸ごと筋肉が駄目になってしまっている。
治癒効果のある魔方陣を病室内に張り巡らせた集中治療で、ようやく身体を保っているような状態だ。
しかも、魔方陣は毎日書き直さねばならないような状態だ。それは、男の負傷が酷いせいではなく、その特性に因るものである。
一端掘り込めば数ヶ月は効果が続くはずの治癒魔法陣であるが、男の持つ特性により、その効能はよくて半日しか続かない。
入院初期は命の危機にその特性が強く反応したのか、数時間毎に魔方陣を書き直さねば、そのまま死んでしまうかもしれないくらいに危険な状態が続いていた。
だが、身体の傷はこの際どうでもいい。
何らかの力か、それともこれも特性の一つなのか、あるいは誰も知らぬ機能のようなものが働いているのか、男の傷は日々驚異的な速度で回復していた。
問題は、心の傷だ。
「おはよう、ナナシ。今日もいい天気よ」
セリアージュはその男の名を呼んだ。
カーテンを明ければ、穏やかな風と光が個室の中へと差し込んで来る。
クリブスの家の威光か、あるいは禁忌存在に近づいたからか。どちらにしろ個室を与えられたことは運がよかった、とセリアージュは思った。
手付かずの迷宮に忍び込む、などという無謀を冒しに行くクリブス班を駅にて見送った彼女は、彼らが帰ってくるまでの間中、ずっと神にその無事を祈っていた。
龍神は未来を司る神。彼らの旅路に幸あれと。
だが、帰ってきたのは傷ついた彼らと、そして――――――。
クリブス班は迷宮探索を終え、学園都市へと帰還した。一人を欠いて。
初め、事の詳細をクリブスから聞いた時は、セリアージュは彼らの滞在していた街に転移魔術を行使してでも駆け付けようとした。
だが、セリアージュの足を止めたのは、クリブスの重い言葉であった。それはこの世界の人間にとって、全身を鉛へと化させる程の、重い、重い言葉であった。
鈍色が禁忌存在になった。
そうクリブスは、セリアージュへと通信口で告げた。
からからに乾いた声だった。セリアージュもまた、その声が耳から入って、頭の中で何度もぐるぐると回って反響していた。
禁忌存在……即ち、神意に触れ、神へと近付いた存在。
神へと近付き、そして、人のカタチを失った存在。
異形の、存在。
神の為り損ないは世界を犯す。その存在は秘匿されなければならない。
しばらくは遺体は凍結され、そして研究のために――――――。
これは法で決められた処置であり、そこに介入する権限はセリアージュにはない。
迷宮から出土する武具、道具は神意が込められているほど上質のものであり、そして新たな技術を抽出するための研究資材となる。
つまりは、人もまた、神意が込められればモノとなるのだ。
聖女や勇者が国に“使われる”のもまた、同じようにして。
この時点でセリアージュは、鈍色の遺体を確保することを諦めた。
もっと国家の中枢に喰い込めば話は別だが、そんな機会は無く、またセリアージュには権力を得ることが許されていない。
彼女は次代の命を産むことが使命であると、メディシス家に定められているからだ。
そもそも、鈍色はもう、肉の塊になってしまった。
それはもう、遺体でしかない。鈍色は死んでしまったのだ。
法で資源と定められた遺体を非合法に確保したとしても、感傷でしかない。
科学と魔導の発展のためと、司法解剖を求められれば、それを止める権利など後見人であってもセリアージュには無いのである。
例えセリアージュが高い地位に就いたとして、権力を行使し鈍色を手元に置けたとしたとしても、冷たく凍らされた肉を前にしてはそれを解さぬよう、凍らせ続けるしかない。
発動し始めている龍眼を、セリアージュは意思の力でもって抑え込んだ。
地位など、権力など、己は求めていない。そんな未来など、見たくはない。
メディシス家の女が力を手にするには、血塗られた道を行く他にないのだから。
「ほら、涎を拭いて。お水、飲みましょう。はい」
「……う、う」
セリアージュにとって、ナナシという男との思い出は、いつも悦びと後悔とに彩られていた。
それは彼女の未来を読む力が及ばぬ人間と接せられる悦びであり、そして無力さに嘆く後悔だ。
こんな力などなければ、と彼女は恨み言を吐いて生きてきた。
だというのに、もっと力があれば、と彼女はその男の前で打ちひしがれる。
今も、また。
セリアージュはナナシを世話する仄暗い悦びと、後悔に浸っている。
「……うう、あぐ、う、ご……」
「あらあら、おトイレかしら? もう、言わなきゃだめよ? ほら足を上げて」
重傷を負い、とうとう多量出血で倒れたナナシを、セリアージュは看病し続けていた。
血が流れ過ぎて脳に何らかの影響を及ぼしてしまったのか、倒れた後のナナシは、人が変わってしまったかのように無気力となり、こうしてただ無為に時を過ごすだけのものと成り果ててしまっていた。
初めはクリブスと共にナナシの世話をしていたが、今ではもうクリブスはこの病院に近づかなくなっていた。聞くところによれば、新たなパーティーのリーダーに据えられたらしい。
それを薄情だとセリアージュは責めるつもりはない。
恐らくは家からの命だ。
自分もメディシス家から……年に数度しか顔を合わすことの無い父から命じられれば、逆らうことは出来ない。
また、あれだけ従者だ何だと口にしていたアルマもナナシに会おうとはせず、汚れ物をセリアージュから受け取って、新しい着替えを手渡すのみ。
こちらは認められぬと、セリアージュはアルマにきつく詰め寄って問うたことがある。
主だと言っていたのは口先だけか、なぜナナシの側にいようとしない、と。
するとアルマは唇を噛み締めて。
「私にそんな資格など、無いのです」と、一言だけ答えた。
血で紅を差す程に抑えられた感情。セリアージュは己と同じ想いを彼女が抱いていることを知り、怒りの矛先を収めた。
ただ、その想いが何に拠るものかは知る由もない。
同じ男を想う心に、セリアージュは口を閉ざした。そして、後年になって同情は判断を鈍らせることを思い知ることとなる。
セリアージュの後悔がまた一つ、積まれていたことを未だ彼女は知らない。
「あなたも何か、先輩として声を掛けてあげたらどう? ナワジ先輩」
返答はない。
チラと視線を向ければ、出入り口の程近くに、俯いて立ち尽くしたナワジの姿が。
此処最近、クリブスの代わりにナワジはセリアージュに付き添って、病院まで足を運び何もせず帰っていく事を繰り返している。
美しかった金の髪はくすんで、尻尾の毛並みは荒れ、眼の下には真っ黒な隈が出来ている。
豪放であった彼女の雰囲気は見る影もなく消えていて、今にも儚く折れてしまいそうだ。
それでも彼女の醸し出す美しさは損なわれていないのだから、身に流れる種族の血は色濃いものだと自覚させられる。
「無理だよ……こいつのこんな顔、見てられねえよ……」
「だったら見舞いになんて来なければいいのに」
「でも、オレ、何もしてやれなくて……抱きしめてやりたいのに、こいつ、そしたら壊れちまいそうで……」
「そうね……今は誰にも、触れられたくはないでしょうね」
「オレ、どしたら……何も、できな……うう……うえぇぇ……」
ボロボロと涙を零して、壁を背に座り込むナワジ。
セリアージュは切なくその姿を見やって、優しく腕を持ってナワジを抱き起こす。
抱き留めてやれば、幼子のようにセリアージュの胸の内で、ナワジは泣きじゃくり始めた。
「ナナシ、貴方のために、泣いている女がいるわ」
それは何かに急かされたような、祈るような口調だった。
頭を振る。
言うべきではなかった。
セリアージュは虚空を、誰かを睨み付けるようにして……あの憎たらしい無表情の娘の姿を空に浮かべた。
「貴女は、確かにあの人を守った。誓いを果たしたのね……でも」
奥歯がギシリと鳴る。
セリアージュが恨むべき相手は、ただ一人。
よくある話だ。
仲間が死に、精神的に圧し折れてしまう冒険者がいるなどと。
一見して無傷であったため放置していたら、目立たぬ場所や内蔵からの出血で、脳機能がやられてしまう冒険者がいるなどと。
もはや復帰は絶望的であると医者に告げられる冒険者がいるなどと。
よくある話だ。よくある話なのだ。これら全てが重なったとしても、よくある話なのだ。
よくある話で済ませてしまわなければ……残された者は何処にも、一歩も進めない。
だから、なんでもないと思わなければ。だから、過ぎ去った時を、戻らぬ時を思い出してはいけないのだ。だから、冒険者は倒れた仲間を振り返ってはいけないと教えられるのだ。
だから、だから、だから――――――。
「自分を守れなければ、意味はないのよ……!」
だから――――――などと、納得出来るはずが、ない。
それでも。
「鈍色……!」
どれだけ想っていても、どれだけ大切にしていたとしても、還らぬのならば、捨て去らなければ。
重荷を負っては、歩んではいけないのだから。
忘れなければならない。
忘れなければならないのだ。
セリアージュは虚空に浮かぶ少女の残像を、眼をきつく閉じて掻き消した。
蛍光灯の光が、暗闇に閉ざされる。
そう、捨て去って、忘れて、そうして生きていかねば。
そうでなければ、倒れた者達は何のために死んだのか。
死者に報いる唯一の方法が、生きることなのだ。より良く生きることが出来ぬのならば、死者の残影は捨て去るべきものでしかない。
例えそれが、ただ死んでいないだけの者だとしても。
セリアージュは、ナナシの病室を訪ねるのは今日で最後とすると、そう決めていた。
ナワジを理由に、罪悪感を誤魔化して部屋を出る。
別れの言葉を言うことは出来なかった。
□ ■ □
ナナシの呻き声だけが、病室を這いずっている。
あれだけ逞しかった腕は、脚は、見るからに痩せ細り、以前の力強さは微塵も感じさせることはない。
だが、時折思い出したかのように手足が痙攣している。
それは、刻まれた経験を肉体が反芻しているからなのだろうか。それとも、ただの反射でしかないのか。
もしも、ナナシの身体が、それを覚えているのなら。戦いの記憶を、覚えているのなら。これが記憶の奥底に潜む本能に刻まれた、本質というべきものの発露であるのだとしたら。
こんなにも拳が打ち震えるのは――――――。
「いやあ、いじましいと言いますか、微笑ましいと言いますか。あのお嬢様、いいですねえ。女性陣の中では一番ポイント高いですよねえ」
いつから其処に居たのだろうか。
病室の片隅に、くたびれたスーツを着た男が、クツクツと笑いながら椅子に座っていた。
足を組んで口元を隠す姿は嫌に堂に入っていて完璧で、人臭さがまるでなく、演技掛かっている。
「ま、付き合うんなら狐の……ほら、胸がこう、どーんとデカイあの方がいいですよね。粗野に見えて意外と家庭的っぽさそうですし、尽くしてくれる系、みたいな」
「う、うう、ううう……」
「それともやはり、あの方が良かったですか? あの狼の耳をした……名前は、なんでしたっけねえ。いやすみませんね、忘れてしまって。ほら、やっぱり」
立ち上がって、男はナナシへと近付く。
そっと肩に手を置いて、耳元へと口を近づけた。
「生贄にしたものの名前なんて、一々覚えていられませんからねえ」
「う、うううがあああああ――――――ッ!」
その瞬間。
ナナシの拳が、血を噴き出した。
瞳に爛々とした危うい輝きが灯り始める。
暴れ始める両の手を軋む程に押さえ込み、その輝きを真っ直ぐに覗き込んで、男は満足そうにして頷いた。
「私の顔、覚えていらっしゃいますか? もう一度、自己紹介が必要で?」
「ハッ、ハアッ、ハァァッ、フゥウウウウウッ!」
「クァッカッカッカ! 元気そうでなにより! それではそれでは、改めましてご挨拶を!」
するりと距離を取った男に追い縋ろうとして、ナナシはベッドからべたりと落ちた。
医師から植物状態にあると診断された者として、有り得ぬ動き、有り得ぬ回復だ。
無表情を通り越し、顔面の筋肉が垂れ下がっていたというのに、今のナナシの口端は、極度に釣り上がっていた。
獣の貌だ。
「私、月刊冒険者の冒険情報担当、ジョン・スミスと申しますです、はい。なあんてね! クァッカッカッカ――――――!」
けたたましく嗤い声を上げる男。
病院でこれだけの大声を上げているというのに、誰も様子を身に来る者はいない。
それどころか、全く人の気配がしないのは何故か。
何故、あらゆる景色が全て灰色に染まっているのか。
何もかも、何一つとして解らない。
壊れた脳では、心では、何も理解することが出来ない。
ナナシが解ることは唯一つのことだけだ。
この男は、敵だ。
「ああ……良い眼ですよ……嬉しいですねえ、こんなに嬉しいことはない。貴方を正気に引き戻したのは、信頼する仲間の言葉でも、愛しい女の献身でもない。この私、ジョン・スミスなのですからねえ!」
仲間の声にも、暖かな思い出にも、何も反応を返すことのなかったナナシの脳が、しかし敵を前にしてそのシナプスの全てを活性化させたのだ。
スミスと名乗った男は、厚ぼったい眼鏡を外し、眼を拭ってまで感激をしているようだった。
ナナシは唸るのみ。しかし、その瞳には憎悪と、そして知性とが徐々に宿りつつある。
「お……おぅ、あ……」
「はい、ゆっくり、深呼吸しながら」
「お、ま……え……!」
「クク、ククク! さあ、もうちょっとですよ! そら、頑張れ、頑張れ!」
「おおおおおまああああええええええがああああああ!」
魂を全て絞り出すかのような絶叫。
ナナシは立ち上がり、そして壁を蹴って跳ね上がっては、男へと躍り掛かった。
男は嬉しそうにして「戻ったようですね」と、顔面を狙う蹴撃を軽く叩き落して頷いた。
筋力の落ちていたナナシは、そのままリノリウムの床に顔面から突っ込んだ。鼻骨に罅が入り、鼻血がだくだくと流れ落ちる。
起き上がらんとするナナシの傍らへと、男は静かに屈みこみ、そして慈愛に満ちた微笑みを投げ掛けながら語る。
「クク、ククク……さあ、おねむのお時間は終わりですよ。行きましょうか」
言葉と態度に反して荒々しく、ナナシの襟首を掴んで引き摺る男。
そのまま扉を開け、病室の外へ。
引き摺られるままに、ナナシは呻き声を上げながら男を睨み付けるしかなかった。
階段を下りていく。痛い。痛みが感覚を鋭くさせていく。
ここはどこなのだ。病院なのか。この男はいったい。皆はどこへ。
ナナシは唐突の事態に、錆付いた思考では追い付けずにいる。
脳が久方ぶりに、考える、という作業を思い出したかのようだった。そして、それは事実だった。この男が現れるまで、ナナシの脳機能は停止状態にあった。
男が放つ殺気に、本能を司る部分が爆発的にスパークし、その火花を脳にまで潜りこんだ微小機械が増幅するまでは。
視界がクリアに、感覚が戻っていく。戻らないのは、体力のみ。男に引き摺られるまま、ナナシは何処かへ連れられていく。
行く先は全く解らない。
解るのは、向かう先に待つものは、きっと、地獄であるということだけだった。




