地下3階
あらかた“掃除”も終わり、ナナシ達は作成した結界の中に腰を下ろした。
ここいらで遅めの夕食を取ることにする。
野営の準備中にはぐれててしまっていた二人の腹は、大きな声で空腹を訴えていた。
歪んだバケツのような鉄兜を脱ぎ、ほし肉と乾パンに齧りつく。
満腹になるにはまるで足りない量だが、探索中では貴重な栄養源だ。荷物を運ぶと同時、戦闘までこなさなければならないのだから、諸々の道具とも合わせ、自然と持ち込める量は制限される。
冒険者が堅く乾いた食糧を好む傾向があるのも、よく噛むことで、少しでも餓えを満たそうとする意図があるからだ。
味など二の次である。
「美味いか?」
「わんっ」
「そうかい。よく噛んで食えよ」
「あぐあぐあぐ」
ナナシのすぐ傍で、寄り添うようにほし肉をかじる鈍色の尻尾が揺れて、リズミカルに地面を叩く。
ナナシは鈍色へと尻尾で結界の線を消さないように注意を促す。
砕いた魔石を固め洗礼を施したチョークで陣を描くことにより、魔物除けの魔法陣とする簡易結界である。神職ではない鈍色の描いた陣では、あまり大きな効果は見込めない。
あちらが擦れている、ここがズレていると、あれこれと鈍色に指示を出して書かせた結界である。
そんなに口を出すならば自分でやればいいものを、とは鈍色は思わない。もちろん、口に出すことも。
――――――ナナシでは、触れた瞬間に結界は消し飛んでしまうからだ。
神の加護を受け付けないナナシにとって、結界関連の技術は鬼門なのである。使うのも、使われるのも、危険が過ぎた。どんな反動が返ってくるのか判ったものではない。
ナナシの指先で弄ばれるチョークが一本、砕けて散った。全く自然に、何の力も込められもせずに。在り得ざる現象がここに起きていた。
炎や氷といった、物理現象として顕現する魔術や道具は例外ではある。だが、どちらにしてもこの剣と魔法の世界で生きるには、一切の加護が無いというのは無謀が過ぎた。
不便なものだ、とナナシは手帳型のステータスカウンターに視線を落とした。
全生徒へと支給される液晶タブレット端末である。
様々な神の加護を持つ生徒が集う学園では、それら多種の加護が干渉しないよう、加護をろ過した魔力を動力に用いた、科学技術が用いられている。
この端末もその技術の一つであり、予定や自己状態の確認等に主に使われていた。
落としても罅一つ入らない液晶画面に大きく映し出されるのは、【ナナシ・ナナシノ―レベル:0】の表示。
常と同じ表示に、ナナシの口元に苦笑が浮かぶ。
普通の冒険者ならば、先の戦闘で二つはレベルが上がったはずだ。だがナナシのレベルは、相変わらず変化を見せることはなかった。
やっぱりな、とナナシは諦めのため息を吐いた。
これでも当初よりはずっとマシになった方だ。
こちらに来てすぐの頃は、ほとんど誰にも認識されないぐらいに存在感が希薄であったのだから。
この世界の住人より付けられた名――――――『ナナシ』の名を得て、ようやく人間らしい暮らしが出来るようになった程である。
名付け親には感謝してもしきれない。
自分に生きる術を与えてくれた人なのだから。
「ジョゼットさんには感謝しないとな」
しかし、その人はもう、居ない。
この世界でナナシは文字通り、真の意味での天涯孤独となってしまった。
ナナシは単身で何の後ろ盾も地力もなく、迷宮に挑まねばならぬ事態に陥ったのだ。
「一人か……」
口にすれば、たまらなく胸を締め付けられる。
ナナシは柔らかくなったほし肉を飲み込んだ。苦味が広がる。
「うー、うーっ!」
不服そうに鈍色がナナシの身体を揺らした。
人語を発することのできない彼女だが、今は彼女の言わんとしていることが正しく理解できた。
自分のことを忘れるな――――――。
そう彼女の眼が、耳が、尻尾が、ナナシに語りかけている。
「……そうだな。俺は一人じゃないよな」
「わんっ!」
「俺にはこんなに頼れる仲間がいるもんな」
「わん、わんっ!」
言って、ナナシは鈍色の頭を力強く撫で回した。
鈍色の尻尾が何度も地面を叩く。
自分は焦っていたのかもしれない。
仲間からはぐれたからか、それとも危険を冒してまで迷宮に潜り探し続けている“目的”の手がかりが、未だにその一端すらも掴めないからか。あるいは数年前のことを思い出したからか。それは解らない。
しかしナナシは己の非を素直に認め、頭を下げた。自分一人では迷宮探索など出来る筈もないというのに、よくない考えを持ってしまっていた。
世には一人で全てをまかなえてしまう、常識を超越した冒険者もいるが、自分はそうではないのだ。
戦闘だけではない。こうして食糧を得ることも、一人では困難なのだから。
単独で迷宮に挑むなどと、そんなことを欠片でさえも思ってはいけない。
一人であるならば、仲間を見つければいいだけの話ではないか。仲間と共にあればいいだけの放しではないか。
幸い、自分には頼れる仲間が三人……否、四人もいるのだ。こんなにも心強いことはない。
パーティーを組むということの意味と、大切さ。
ナナシはそれを再確認した。
「マイナス思考は良くないな。新ダンジョンで疲れたのかね。こりゃあ、クリフのことを笑えないな」
「むふー、んわん!」
「はいはい、喋る暇があるなら手を動かせってね。お客さーん、どこかかゆい所はありませんかー?」
「くぅん、はふはふ、はふはふっ」
「ほんとに犬っころ見たいな奴だなあ、お前は。ははは」
「はふはふ、はふはふ!」
鈍色の尻尾がナナシの手の動き合わせ、地面を叩く。
叩く。
擦る。
ナナシの胸中に暖かな時が流れていた。
「ははは、は……は……は」
「はぁはぁはぁ……は……ふ」
「……」
「……」
ふと気付けば、二人の間には沈黙が。
鈍色の尻尾は、魔物除けの結界の一部を見事に消し去ってしまっていた。
ナナシは一度天を仰ぎ見て、迷宮内の岩肌を目にした後に、ゆっくりと周囲を見渡した。
幾つもの濁った眼球と目が合った。
腹をすかせた魔物たちの群れが、涎をたらしながらナナシ達を見つめていた。
こりゃあ無理だ、とナナシは爽やかに笑いながら立ち上がった。
「わ、わんっ……」
「慌てるな鈍色、大丈夫だ。冷静になれ、冷静にな……」
流石に二戦連続で魔物の群れを相手取ることは出来ない。
鈍色も理解しているのだろう。耳を伏せ尻尾を丸め、弱気な姿勢を見せている。
「大丈夫だ。俺にいい考えがある」
「わおー!」
「あれだけ注意したのに結界を潰してくれやがった事のお仕置きは後でするとして」
「わ、ふ!?」
「集中しろ、策を教えてやる。俺の合図で、全力で走るんだ」
ナナシは兜を被りながら、じりと踵を動かし、歩を進める。
首元のケーブルが延び、兜へと自動接続。ガラスのバイザーに光が灯る。コンディション・イエロー。全力戦闘には、半刻程度の休止が必要だ。
だがナナシには策がある。
この策の前には、敵の数が如何ほどあろうとも、何の問題もない。
不敵な笑みを浮かべながら、じりじりとナナシは間合いを詰めていく。
ナナシから放たれる圧力を感じ取ったのだろう。魔物達は牙を向き武器を構え、臨戦態勢に入っていく。
鈍色もハンドアックスを構え、唸り声を上げ始めた。
かかった。
ナナシの口端が釣り上がる。
「行くぞ!」
「わんっ!」
「戦略的撤退!」
「わ……ふわー!?」
踏み込み後、即転進。
鈍色の襟首を引っつかんだナナシは勢いもって振り返り、脱兎の如く駆け出した。
全力逃走である。
ナナシの手に吊られるように、鈍色は目を白黒とさせながら宙に体を浮かせていた。
後方では、魔物達の気概を削がれ転倒する気配と音が。
ちらと振り返れば、感じた通り、魔物達は総崩れになっていた。
「わっはっは! 作戦成功だな!」
「わん……」
ナナシは大声を上げて笑った。走り去るナナシの笑い声が、迷宮に木霊する。
この場にクリブスがいたら、君はすぐに調子に乗る馬鹿だ、と小言の一つでも言われただろうか。
だがこの数の魔物達をまともに相手するのは骨だった。
クリブス達と合流するまで、消耗は最低限に抑えなければ。
「ほれ、自分の足でちゃきちゃき走る!」
「わうーっ!」
「あんな数まともに相手してられるかっての!」
逃げることがなんだというのだ。いち早くクリブスと合流せねばならない。生きて帰ってくるまでが遠足なのだ。
迷宮深部に到達したとしても、生還せねば、単位はもらえない。そうなると留年である。それは避けたかった。
クリブスの方は心配せずともいいだろう。あの優秀な兵士が付いているのだから、安心だ。
迷宮が組み換わってしまった後なので、お互いを見つけられる偶然を期待することは出来ない。
階下に降りる階段を見つけるよう、探索を進めていった方が良いだろう。
この迷宮は地下へと潜っていくタイプの構造を持っている。下へ下へと潜り続ければ、いつかは合流できるという寸法だ。
恐らく、クリブス達もそうしているはず。
ナナシと鈍色はガチャガチャと鎧を揺らし、ふわふわと尻尾を揺らしながら、迷宮を駆けて行く。
非難がましい鈍色の視線。文句を言いたそうな鈍色の頭に、そういえばお仕置きがまだだったな、とゴツンと拳骨を落とし、ナナシはにやりとして笑った。
「いいんだよ。こんな所で死ぬ訳にはいかないからな」
「うぐぐ……わん」
鈍色は額を押さえながら、不承不承と言った風にして頷く。
どうせ、死ぬ時はあっさりと、唐突にして理不尽に、押し付けられるようにして死ぬのだろう。
冒険者は皆、死の影を身近に置いて生きている。
学園に入学して出来た数少ない友は、皆死んでしまっていた。
ある者は魔物に殺され、またある者は罠に掛かって、またある者は魔物に犯され心が死んだ。
そんなものだ。冒険者というものは。
そんな道を我々は選んでしまったのだ。
ならば、楽しめる時に楽しんだ方が、得だろう。
鈍色は隣を駆ける鉄仮面の、その奥に隠れた優しい相貌を想い浮かべながら、わんと一声上げて、笑った。
仮面に隠されたナナシに良く似た笑みだった。