地下34階
病院の一室。
自分の指示により宛がわれた個室で、クリブスはそよぐカーテンをさっと開いた。
爽やかな風が病室に舞い込む。
しかし、なおタールのようにへばり付いた沈鬱な空気が室内を圧迫していた。息が、詰る。
クリブスは重力に逆らうよう、誤魔化すように、努めて明るい声を上げた。
「おはよう。今日もいい天気だぞ」
「――――――」
ベッド脇には、藍色の花が小さな花瓶に飾られている。姿は見えないが、あの従順な侍従の仕事だろうとクリブスは当たりを付けた。
この重心が傾いで、虚ろな目で一点を見つめ続けている男は、意外にも花を好んでいた。学校時間外でのアルバイトで、花屋に勤しんでいる姿をクリブスは何度も見かけたことがある。
藍色というのもこの男が元居た場所に縁深いらしく、また男も大輪の彩りを携えた花よりも、こうした地味な色合いの花を好いていたように思える。
花の色の話をすれば、あの犬耳を生やした娘はとたんに不機嫌になっていたな、とクリブスは回顧する。自らの名を表す色を持った花が、存在しないからであるという。
何もかもが懐かしく思うのは、それが過去の光景となったからだ。決して戻らぬ、過去へと。
あれから……鈍色が死んでから、数ヶ月。
たかだか数ヶ月前の出来事であるのに、もはや何もかもが失われ、感じる全てが懐かしく思えてくる。
何十年と昔のようにも思えてしまうのは、過ごしてきた日々の濃さ故か。
仲間が一人減り、パーティとしての既定人数を満たせず、クリブス班が解散となってしまった今も、未踏の迷宮に足を踏み入れたことに対して驚くべきことに――――――否、予想通り、自分達には何の罰則も与えられることはなかった。
これが数ヶ月前の自分ならば、やはり貴族と冒険者間の派閥闘争で、“なあなあ”に済まされてしまったのだろうと楽観視することも出来ただろう。
しかし、断片的に掴んだ情報を鑑みると、泳がされているだけのようで、恐ろしくてならない。
この男が一体何を見て、どんな経験をしたのか。
それを思うだけで、鬱屈とした気持ちになる。
仲間が一人、禁忌存在と成り果てたのだ。
尋常な事態ではなかったはずだ。
口外禁止令が布かれ、仲間内でもこの話をすることはタブーとなったが――――――そも、この男が口も利けぬ状態となっているのだが――――――積極的に調べようとは思わない。
踏み込めば破滅が待ち構えていることは、想像に容易い。
クリブスは罪悪感と共に、疑念と焦燥を呑み下す。
不安を誤魔化すようにして「きれいな花だな」と、男に向けて似合わない台詞を言ってみたものの、しかし返事は返ってこない。
元より、返答があることを期待してはいなかったが。
「――――――う、ああ、う……」
あの日から、今日まで。
崩れ落ちてしまったこの男は、まるで糸を切られた人形のように、生きることを拒否してしまっていた。
立つことも、話すことも、見ることも、聞くことも、食べることも、排泄することも――――――自らの全てを、放棄してしまっていた。
眠ることだって怪しいものだ。
クリブスに出来るのは、ただこうやって事務処理の合間に顔を出して、声を掛けていくことだけだ。
歯がゆさに嘴を噛みしめるが、しかしどうにもならない。
自ら生きることを諦めてしまった者には、どれほどの言葉を尽くそうとも、届くはずもないのだから。
だからクリブスは、今日も一方的に語りかける。
返答があることを期待してはいない。
「……ナナシ」
だが。期待してはいない……なんてことが、ある訳がない。
いつかこの男が、初めて出会った時のように、自信無さ気に笑いながら「よう」と手を上げてくれるのを、クリブスは待っていた。
しかし、それも今日で最後となる。
それが無念でならなかった。
「昨日、通達があった。どうやらチャンスを得たらしい。僕の卒業課題の代替として、臨時のパーティに配属される事が決まったんだ。冒険者は止めさせられるとばかり思っていたが、お咎めなしだったからな」
「――――――」
「また新しい迷宮が見つかったそうだ。学園の地下迷宮から派生したものらしい。お笑いだな、僕達の足元に手付かずの迷宮が眠っていた……学園は迷宮を独占できるチャンスを得た訳だ。戦力を遊ばせておくにはいかないということだ」
一方的に、クリブスは続ける。
返答はない。
「配属されるパーティは、ハンフリィ家の息が掛かった所らしい。単独で迷宮探索をすることが無謀だと言う事を、ようやく理解してくれたようだ。僕が言う台詞ではないが。
家の意図が差し挟まれるのはいた仕方なし。もちろん、次の班でも僕がパーティリーダーさ。ほら、やはり僕は優秀だからね……ははは」
「――――――」
「……ここは鳥頭の癖に、と言う場面じゃないのか? 職務怠慢だぞ、ナナシ」
乾いた笑いを漏らした後に、クリブスは深く溜息を吐いた。
「本当は」と、らしからぬ弱気を隠せない前置きで、クリブスは胸中を吐露した。
「本当は……君達ともっと冒険がしたかったな」
重い言葉だった。
これまで終ぞ言うことのなかった、クリブスの本心、願いであった。
ナナシ達と出会ってから、沢山の事があった。本当に、沢山のことが。
その光景は、いつも瞼の裏に思い出せる。
風船のように魂の軽い、重厚な鎧を身を纏った男。
伴侶に寄り添うようにして生きる、腹黒い犬耳の少女。
正体不明の罪悪感を抱えて人に尽くす、何故かメイドに転職した者。
豪放に見えて思慮深く繊細な、姉御肌の整備士。
未来を見通すが故に未来に絶望していた、龍の娘。
女の姿が多いのはご愛嬌、ナナシの人徳……女難の為すところ。
自分でも驚いたのが、この中の一人が欠けた今、衝撃を受けはしたが、己の内に「よくあることだ。それ程でもないな」と冷静に考えてしまえる部分があった事だ。
仲間が死に、ナナシの用に圧し折れてしまう冒険者は数多い。
クリブスの温情で回復するまで個室を与えられているが、本当ならば即外部に叩き出され、そのまま浮浪者となるのが通例である。
ナナシが自らの足で立てるまで、そこまで付き合うことは出来ないな、ともクリブスは思っている。
これはクリブスが本質的に冷静な性質であったと考えるべきだろう。冷酷であるという訳ではない。
クリブスもまた貴族の末席に連なる者。ベタリアンの社会的地位向上を最終目的と定めるならば、手段は選ぶとしても、家の決定に逆らう訳にはいかないのだ。
新たな資源採掘所――――――迷宮が発掘され、しかも家の決定で査察――――――探索に赴けと命が下ったのなら、従うしかない。
これまでのパーティを忘れ、新たなメンバーとやっていかなければ。
そう、これまでのパーティーメンバーと築いた絆は、ここで置いていかねば。
それでなくともナナシはこのタイミングでのリタイアだ。復帰するとしても、この男ともう歩を共にすることは二度とないだろう。
次の迷宮探索が成功に終われば、自分の進路も確実に決まることだろう。政界進出だ。冒険者達とは次第に距離を置いて、そして関わりを絶たなくてはならない。
だから、もしかしたらこの男と顔を合わせるのは、これが最後となるかもしれない。
しばらく無言が続いた後、クリブスは退室せんと立ち上がった。
「最後に、こんな物ですまないが、受け取ってくれ」
言って、クリブスがベッド脇に立てかけたのは、クリブスが装備していた細長い直杖。
燃える羽の紋が押されたそれは、“仕込み”杖。クリブスの振るう仕込み二刀の、長刀である。
「僕だと思え、などとは言わないが……君に持っていて欲しいんだ。そして、どうか忘れないで欲しい。僕は、君のことを――――――」
そうクリブスは語り掛け、男へと手を差し伸べて触れようとしたが、その手は空を掴んで引き戻された。
「いや……やめておこう。これではまるで遺言だ」
「――――――」
縁起でもないと頭を振る。
死ぬつもりはないし、生きてさえいれば、また会うこともあろう。
未来は閉ざされてはいないのだ。
希望を持つことは自由であり、またそれを抱いていなければ、抱き締めていなければ、叶うものも叶うまい。
「どうしてかな。あの時……あの銀髪の男と対峙した時、もう言うべき事は言ってしまったからか、どうにも言葉が浮かんでこない。でも、これだけは君に言っておきたい事がある」
「――――――」
「冒険者なんて、いつ倒れて消えてしまうかも解らない存在だ。でも、過ごした時の何もかもが無駄だったなんて、無意味だったなんて、そんなことは絶対にない。
命が潰えて、消えてしまったとしても、それでも残るんだ。それは曖昧であやふやで、言葉には出来ないものだけれど……瞬く星のように、瞬きをしたら消えてしまうものでしかないけれど。
確かにそこにあったと、僕はそう信じてる。僕達が過ごした時は、何物にも代え難い、尊いものであったと。
ああ、駄目だな……言葉がみつからない。僕は何を言っているのか……」
返答は無い。
「なあ、ナナシ……君も言っていたじゃあないか。楽しかったと。君も本当は、解っているんだろう? なあ……」
返答は無い……だが、クリブスは僅かに男の指が動いたように見えた。
それだけで十分だった。
「そろそろ、行くよ」
表情の変わらぬ羽毛と嘴に彩られた貌は、しかし優しさに溢れていた。
「僕は僕の道を行く。新しい冒険の旅へ……その道の先で、君とまた会えることを祈っている」
冒険者は後ろを振り返ってはいけないのだと、この男は口癖のように言っていた。
まったくその通りだと思う。
例え仲間達が倒れてしまったとしても、己の道はまだ途絶えてはいない。
ならば、進まねば。クリブスは病室の扉に手を掛ける。
「――――――おれ、も」
返答が、あったような気がした。
「俺、も……もっと、みんな……一緒……冒険、した、かった――――――」
「――――――言うのが遅いんだよ。馬鹿め」
別れの言葉は、微笑みと共に。
クリブスは苦笑を浮かべながら、一瞥もせずに病室を後にした。きっと大丈夫だと、確信を抱いて。
足取りは軽く、心は悲しいくらいに晴れ渡っていた。
この男の、諦観で開いてしまった拳。
それが、いつかきっと再び、堅く、固く握られることを信じながら。
クリブスは、自らの道を進むことを決意した。
□ ■ □
――――――結論を述べる。
これがナナシとクリブスが交わした最後の言葉となった。
二人はこの日を最後にして、二度と相見えることはなかった。
『偽星・不死鳥』の降臨により最深度神威汚染が発生し、近隣諸国をも巻き込んだ大戦勃発まで、三ヶ月を切った日の出来事である。
ナナシ・ナナシノという名はこれより、偽星・不死鳥の降臨と時を同じくして歴史の波に消える。
その名が再び台頭するのは、五年の後。
ナナシ・ナナシノという存在が、大陸史上最悪のテロリストとして歴史に刻まれるその時まで、まだしばらくの時間を要することとなる。