地下33階
咆哮と共に撒き散らされた生暖かい飛沫が、ナナシの顔へと降り注いだ――――――。
「――――――あ」
“鈍色狼”の鋭い牙が喉元に喰らい付く、その瞬間をナナシは重い時の中、全てを詳細に認識していた。
大きく開かれた顎。
吹き付ける獣の臭気。
頬を湿らせる粘着質な涎の感触。
その全てを、ナナシは薄ぼんやりとして為すがままに見ていた。抗う気力を失い、諦観に手足を凍らせて。
噴き出した朱があった。
何か、致命的なものが失われていく感覚があった。
それは、自らの動脈から溢れた鮮血が、噴水のように顔面に降りかかったものだ――――――そう思った。
「――――――ああ」
確かにそれは、己の喉元の辺りから大量に噴き出した血だった。
だがそれは、ナナシのものではない。
己のものでは、ない。
「――――――あああ」
今もナナシに降り注ぐ鮮血。
それは、鈍色狼のもの――――――。
「あ、あああっ、あああああああっ!」
ナナシの右腕の杭が、その喉元を打ち貫いたことによるものだった。
「ど、どうして……どうして!?」
嘘だ、と叫ぶことは出来なかった。
例えナナシの見たもの全てが、生きてきたこの世界が幻だったとしても、振るわれた拳に感じる重さだけは絶対の真実であることを、知っている。
こんなはずではなかった。こんなことが起こりえる筈がないのだ。
だって、自分は、これで死んでもいいと、そう思っていたのだから。
だからこれは間違いなのだと、ナナシは自らの意思を離れ独りでに動き出した右腕を、力尽くで引き戻そうとした。
「何で、何で勝手に動くんだ……」
ボルトが軋む。間接がロックされ、動かない。人工筋肉が硬直する。
「ツェリスカ!」
鎧は、それを許しはしなかった。
それは主の意思を離れた、明確な機械の反逆であった。
ツェリスカは、殺意を遂行するAIは、主の声に応えることなく。
どすん、どすん、どすん、どすん――――――と。
機械的に射出される杭。
堅い毛皮を打つ感覚が、ナナシの拳に伝わる。
何度も、何度も、何度も。
鈍色狼の喉を突き刺す度に、ナナシの顔へと血が降り注ぐ。
「言う事聞けよ! 止めろ……止めろって! お願いだから止めてくれぇ! 止めてくれよぉぉ! ツェリスカァァ!」
ナナシの懇願は聞き入れられることはない。
圧搾魔力への着火によって作動する機構は、撃鉄を落とされたが最後、もはや止める術はない。
奥歯を噛みしめながら、ナナシは自らの右腕を睨みつけた。
制御が戻らないのであれば、壊すまで。
即断即行。むしろ、動かない方が都合がいい。
ナナシは“自らの腕に対し”、間接破壊を仕掛けようとした。
こんな腕、千切って捨ててくれる、と。
だがそれは、横合いから伸びた腕によって、妨げられる。
獣の体毛に塗れた腕によって。
「鈍色……お前!」
鈍色狼が、ナナシの右腕を“しかと”握りしめていた。
自らの喉元に押しつけるように。
ナナシが自分の腕を自分で壊してしまわないように。
そして、ナナシが後ろに下がってしまわぬように。
ナナシは射出態勢に入った杭の、最後の一本を掴んで引き戻そうとしたが、手の内から杭はすり抜けていった。
実にあっけなく。
どすん、と。
打ちだされた杭が、赤く染まった毛皮に吸い込まれていく。
ずたずたに引き裂かれた喉の奥を、貫いて。
――――――その刹那。
鈍色狼の蒼い瞳が、ナナシの姿を捉えていた。じっと、こちらを見ていた。
あの時の少女と変わらぬやさしさを湛えた、深く、蒼い瞳だった。
細められた瞳がナナシには、鈍色狼が微笑んでいるかのように、見えた。
「にび――――――」
ナナシの言葉は最後まで紡がれることはなく、放たれた杭は、標的に喰らい付くまで止まらない。
そこに慈悲などなく、ただ撃ち、貫く、それだけだ。あまりもの手応えの軽さ。それは、命が失われる感触だった。
装填された五本の杭。
その最後の一本が鈍色狼の喉を破り、下顎から切っ先を押し込む形で貫通して……力なく開けられた口を、そのままに固定していた。
ギアが戻り、杭が引き戻される。
「いろ」、とナナシが口を閉じるよりも早く。
鈍色狼は鮮血を撒き散らしながら、ゆっくりとその巨体を、ナナシの上へと横たわらせた。
「――――――わん」
わたしはあなたにあえて、しあわせでした――――――。
それは聞こえるはずのない声だった。紡がれるはずのない声だった。
だが、確かに響いたその声が――――――後々までナナシを苦しめ、狂気へと奔らせることとなる。
少女の祈りが、届くことはなかった。
□ ■ □
どこをどう走ったのか。
とにかく、上へ上へと足を進めたことだけは確かだ。
今どこを走っているのだろうか、解らない。
解らない。
解らない。
どうしてこんなことになったのか、解らない。
「鈍色! しっかりしろ鈍色!」
鈍色狼を背負い、迷宮をひた走るナナシ。
内蔵が外に飛び出す程の重傷の身で、こんな巨体を背負い、急勾配を踏み越えていくのは、もはや精神論だけでは説明がつかない現象だ。
明らかに、何らかの力が働いていた。鎧の力が。
まるでかさぶたの様に、薄い鉄の皮膜がナナシの傷を覆っていたが、それは今はどうでもいいことだ。
両肩にずしりと圧し掛かる頼りない命の重さに、ナナシは全身の血が引いていく。
嫌だ。と胸の内で叫びながら。
どうしてこんなことになったのか、解らない。
解りたくもない。
だから走っているのだ。
ここから離れれば、きっと逃れられるだろうと。
いつものように、逃げて、逃げて。
なのに、なぜ。
「もうすぐだ! もうすぐクリフとアルマが、きっと助けに来てくれるから! もうすぐだぞ、鈍色!」
途切れ途切れに首筋に感じていた、小さく頼りない呼吸は、いつの間にか――――――。
ナナシは背を振り返ることが出来なかった。
振り向いてしまえば、何か、重大な瞬間を目にしてしまいそうで、恐ろしくて。
鈍色には、こうして背中に張り付かれることも多かった。背に感じる胸の感触は、薄くごわついていて、肉付きの悪さに笑ったこともあった。今は分厚い毛皮の感触に、頬が引く付いている。
あの静かに暖かく跳ねていた鈍色の胸の鼓動は、もう。
ナナシは振り返ることが、出来なかった。
決して、振り返ってはいけないと、そう思った。
「ナナシ様! 返事をして下さい、ナナシ様!」
「いるのか! ナナシ! どこにいるんだ、返事をしろ!」
数刻前ならば、歓声を持って迎えられただろう。クリブスとアルマの声が通路の奥から響く。
あれほど待ち侘びたというのに、仲間の声が救いにはまるで思えなかった。
「ああ……あああ……あうう……」
ここだ、とナナシは声を上げようとしたが、代りに喉から発せられたのは、意味を為さない音。
「此処にいたのかナナシ! 急いで脱出するぞ。奴等、ここから先を埋めるつもりだ。この先に、よほど見られては不味いものがあるらし……待て」
ナナシの姿を認め、駆け寄るクリブスの足が止まる。
「ナナシ、鈍色は一緒じゃないのか? いや……君が背負っている“それ”は、一体何だ?」
「に、鈍色が、鈍色が……」
「ナナシ様……御免!」
顔面蒼白としたナナシの様子に、アルマは何をか察したらしい。
一瞬顔を歪めたが、ナナシを正気に戻すために、平手を大きく振りかぶった。
ぱしいん、と顔を真横を向くほどの衝撃に、目を白黒とさせたナナシだったが、息を呑むと再び足を動かし始める。
地鳴りが始まっていた。壁面にいくつも亀裂が奔り、崩壊の兆しを見せている。
駆けながら、クリブスはナナシに詰め寄った。
「何があったんだナナシ。説明しろ!」
「わ、わからないよ! あんなもの、わかる訳がない! 俺のせいじゃない……俺のせいじゃない! でも俺がやったんだ! 俺がやったことなんだ!」
「何を言って……」
「リーダー」
そう言って、アルマはクリブスの肩に手を置いた。
それ以上は聞くな、と。
立て続けに危機を経験したクリブスも冷静ではなかったが、尋常ではない様子のナナシを追求することは出来なかった。
「ナナシ様、こんなにひどい怪我を……さあ、私が先導します。早く地上に出て、お医者に掛かりましょう」
「そ、そうだ。医者だ。早く医者に、医者に鈍色を診せないと……!」
「鈍色、だって? まさか――――――!?」
そして、クリブスも気付いた。
ナナシが背負うこの巨獣が、鈍色だということに。
「に、鈍色、鈍色が、喉、喉を、俺が……」
「落ち着けナナシ! 落ち着くんだ、きっと大丈夫だ、大丈夫だから! 走れ! 足を止めるな!」
「ナナシ様……! 崩落が始りました! さあ早く、急いで!」
その後、どこをどう走ったのか。
とにかく、上へ上へと足を進めたことだけは確かだった。
そうして、ぽつりとナナシが漏らした言葉。
「鈍色が、さっきからずっと、息をしてないんだ。息して、ないんだよ――――――」
それを最後に、クリブス班の面々は、口を開くことはなかった。
□ ■ □
最下層部分が崩落していく振動を足裏に感じながら、明るい場所に出て。
クリブスが示す通りのルートを巡回していた、ナワジの運転する車両に乗り込んで。
気付けば近隣の街、迷宮が出現したことで急遽新設された冒険者専門病院へと、担ぎ込まれて。
ハンフリィ家の名の下に、信頼できる医師により極秘裏に処置を施す、という説明を受け鈍色狼の巨体をストレッチャーに寝かせた。
そこまでを、ナナシは曖昧な頭でこなしていた。
次に、ナナシの治療の番となった時、ナナシは虚ろな目で、担当医に言った。
「脱がせて、脱がせてください……」
俺の鎧を、脱がせてください。
そうくり返すナナシに、そも治療のために鎧を脱がさなくてはならず、医者は助手を呼んで二人掛かりでなんとか機関鎧を分解していった。
自ら鎧を脱げばいいのだが、今のナナシにはそんな気力は残ってはいない。
負傷部分は損壊が酷かったからか、医療関係者といえど簡単に取り外すことが出来たため、治療には問題はなかった。
露出したナナシの身体は、最後の防御である学園指定の防御制服は大きく裂かれていたものの、肌はきれいなもの。
小さな裂傷は目立ちはしたが、おおよそ軽傷で済ませてしまえる程度で、特に大がかりな治療は必要ないと判断された――――――それが有り得ぬことであると、知っているのはナナシのみであった。だが、口を開くことはない。
どこか痛む所はあるかね、と医者が問うと、ありません、とナナシは虚ろに答えを返す。
では何かして欲しいことはあるかね。医者は問う。精神に以上を来たし始めていることを見抜いての問いだった。
精神面での治療の一環としてのその問いに、ナナシはこう答えた。
「“それ”を、俺の目につかない所へやってください」
「では、君の仲間に預けておこうか?」
「もっと、もっと遠くへ……お願いします」
「棄てて欲しいと、そういうことかね?」
「……お願い、します」
「これは、君の大事な物なんじゃないのかい?」
「俺は、こいつを大事に思っていたけれど……こいつは、俺を……」
ナナシは総身を震わせる。
両腕で肩を抱く。
鎧を脱いで、裸になって感じるこの世界は、こんなにも寒かったのだろうか。
「俺を……裏切ったんだ……!」
たった一言。
その言葉には、絶望の憎悪と、呪いが込められていた。
「……解った。遺品の回収業者に頼んでおこう。それでいいね?」
ナナシはもう口を開くことはなかった。
項垂れたまま、床に視線を落とし、微動だにしない。
医師達は、ナナシをそのままにしておいた。ナナシの状態は、医師達も多く経験したケース。仲間を失くした冒険者の姿だった。
ただ、ナナシは言葉とは裏腹に、抱えた兜を決して手放そうとはしなかった。
それに言及するほど医師達は無遠慮でも無能でもない。クリブスの紹介といえど貴族の息が掛かっていて、“まとも”な医療機関に駆けこめたのは、間違いなく幸運なことであった。
身の安全という観点のみで観れば、の話ではあるが。
ナナシが顔を上げたのは、「鈍色の処置が終わった」と、暗い顔をしたクリブスが診察室に訪れた時。
クリブスを押しのけて処置室まで駆け付ければ、丁度アルマが執刀医の説明を受けていた場面だった。
そして、廊下に嫌に響くそれは――――――「残念ですが」という言葉に続く、最悪の結果だった。
「手は尽くしましたが……本当に残念です。神意がお降りになる症例は少なからず見て来たつもりでしたが、ここまでのものは初めてだ。あそこまで変質していては、もう」
「そうですか……ありがとうございました先生。あの子もきっと、先生に感謝していると思います」
「いいえ、己の無力を恥じるばかりです」
「どうかこのことは、ご内密に」
「もちろんですよ。これは、外に漏らしてはいけない類のものだ。決して、誰の眼にも触れさせてはならない」
「そうするしか、ないのですね」
「禁忌の処置は、法で決まっていますから。それに、こう言ってはなんですが、楽になれてよかったのかもしれない。生きていれば、腑分けされるのは間違いなかったのだから」
「そう、ですか……後の処理は、よろしくお願いいたします」
説明を受けていたアルマは、ナナシが壁に背を打ちつける音に、はっと気付き、振り向いた。
ずるずると壁伝いに滑り落ちるナナシの身体を慌てて支えるアルマ。ナナシは自分の足で立つことが出来なかった。
何とかナナシを長椅子に座らせたが、ナナシは急に飛び起きると、アルマの肩をきつく掴んで詰問する。
「あ、アルマ、鈍色は、鈍色はどうなったんだ!?」
「ナナシ様……彼女は……」
「なあ、さっきお医者の先生と話してたのは、嘘だろう? 嘘だと言ってくれよ……なあ!」
「……ナナシ様」
「またしばらくしたら、元気にわんわんって尻尾振りながら、あいつは俺に抱きついて来るんだろ――――――? な? そうだろ?」
必死になって、笑みを作るナナシ。
痛々しく見ていられぬと視線を逸らすアルマだったが、侍従として、主の求めに答えぬ訳にはいかない。
言葉を選びながら、しかしどれだけ選んだとしてもナナシの心は切り刻まれることを予期しながら、アルマは口を開いた。
「鈍色は……あの子はもう、戻っては来ません」
「よせよ……お前また変なこと言って、俺を笑わせようとしてるんだろ? お前の冗談は笑えないって、いつも言ってるじゃないか……はは、ははは」
「ナナシ様」
「う、うう、嘘だ! うそだ、うそだ――――――」
「ナナシ様、貴方ももう、解っているはずです。神意を降ろされた存在は、二度と元のカタチに戻ることはないと。あの子はもう――――――」
もう――――――死んでしまったのです。
そう、アルマは静かに告げた。
「条約により、禁忌に触れた存在は……彼女の遺体は冷凍されて、学園に運び込まれる手はずとなっています。それから後のことは、恐らくは研究機関へと運ばれ、そこで――――――」
アルマの言葉を最後まで聞く気力は、ナナシには無かった。
本当はもう、解っていたことだ。
『神降し』を施されたが最後、その存在は、そこで終わってしまうことなど。
鈍色にならば殺されてもいいと思ったなどと、なんという詭弁だろうか。
自分はただ、変わり果てた鈍色の行き着く末を、見たくなかっただけなのだ。
神降しをされた者を救うには、その存在の抹殺しか、方法はないのだから。
その役目を負うことなど、ナナシには絶対に出来なかった。
ただツェリスカが、ナナシの代りに、ナナシを守るために、ナナシの意に反してでもその役目を買って出ただけだ。
ツェリスカは自分のことを裏切ったのだ、とナナシは言った。
当然のことだった。
ツェリスカは、間違ってもナナシを大事になど思ってはいない。ただ、ナナシを絶対としているのだ。
絶対であるが故に、ナナシの心を慮るという余地がそこに挟まれることがない。
主の意を解さずに、絶対的行動を執る、呪われた鎧。
それがツェリスカの本性である。
「ああ、あああ、あううう……」
ナナシの口から、呻き声が漏れる。
崩れ落ちるナナシをアルマが抱きとめたが、やはり、ナナシは立ち上がることは出来なかった。
何度も聞いた、しかし聞き慣れることはない冒険者の慟哭に医者が顔を背け、アルマが抱き抱える腕の力を強くする。
「う、うう、うあああ……っ」
ナナシを、どっと押し寄せた後悔が圧し潰す。
あの哀れな少女に、もっと、もっと何か出来たのではないか――――――そんな思いが浮かんでは消えていく。
もっと、一緒に遊んでやればよかった。
もっと、美味いものを食べさせてやればよかった。
もっと、頭を撫でてやればよかった。
もっと、一緒に眠ってやればよかった。
もっと――――――もっと――――――。
「う、う、あ、あ、あああ――――――ぁぁぁ」
リノリウムの廊下に、ナナシの嗚咽は絶えることなく響き続けた。
診察中から、それでもずっと手放さなかった兜が地に落ち、粉々に砕けて散った。
もっと、もっと、あの時ああしてやれば。
ナナシの後悔の叫びが木霊する。
もっと、もっと――――――。
もっと、恐れずに――――――愛してやればよかった。
□ ■ □
こうして冒険者学園の名簿からまた一人、生徒の名が削除される事となった。
削除該当者は、鈍色・ナナシノ。
それは数字として数えられるだけの、別段取るに足らない日常の一幕として、常の通りに処理された。
唯一つ特別であったことは、対象者が禁忌存在となり、その遺体が闇に葬られたということだけである――――――。
第一部・学園編……了