地下32階 プロローグ3:断想―鈍色―
少女には絶望しかないはずだった。
母からありったけの愛情と憎悪とを一身に受け育った少女には、自分の行きつく先など、解りきった事だった。
きっと“兄弟達”のように、器にされて、処分されて、打ち捨てられるだけ。それでお終いだ。
夢や希望という言葉は母から教えられ知っていた。ただ、それを尊いものだと言う母の眼は暗く濁っていた。美しい言葉ではあったが、その言葉が意味する所を芯から信じてはいなかったのだろう。
だからそんなものは無意味で、無価値なものでしかなかった。
淡い期待を持つことすら、許されてはいなかった。
許されてはいない……はずだった。
ある日の事だ。
母が死んでしばらくの時が過ぎた、ある日の事。
少女の寝床のほど近くに、何やら重い鉄の塊が落ちてきた。
何事かと驚いた少女だったが、よくよく見ればその鉄の塊は、人であった。
苦労して“殻”を剥げば、それはこれといった特徴もない、若い男だった。全身を強く打っているようで、このまま放っておけば死んでしまうだろう。苦しそうに呻いていた。
いつも通りの光景だった。
いつも通りに、無為に命が散っていく。
それは未踏の迷宮を見つけたと意気込んで死地に踏み出す冒険者であったり、何処からか攫われて来た罪無き人々であったり――――――今を生きている人々が、意味無く死んでいく光景だ。
自分はそんな、彼らの命の輝きが消えていくのを見詰るだけ。その眩しい輝きが失われていくのを、じっと見ているだけの、ただ死んでいないだけの自分。
どうしてこんなにも自分の命は、灰色なのだろう――――――彼らはどうして、その命尽きる瞬間まで、きらきらと輝いていて美しいのだろう。
この今にも死んでしまいそうな男も、また。
男は朦朧としながら、その手は地を掻いていた。進もうとしているのだ。それは生き汚く足掻いているだけかもしれない。
この男は、諦めてはいない。ここではない、何処かへ行こうとする意思を持っている。
男の眼が薄らと開かれた。
頭を強く打って、泥のように濁った眼がこちらを向く。それは、意識が無いからこそ、純粋に男の本質そのものを映していて、抜き身の刃のような、危うげな輝きを放っていた。
視線が絡む。男に意思は無い。焦点の合わぬ目が、ただこちらを向いているだけだ。だというのに。
少女には、地を這う芋虫のような男の姿が、他の何物にも変え難い尊い姿に見えていた。
そして少女は気付けばこの男の傷を手当てし、共に隙間の中で暮らしていた。
迷宮という閉所の中、司祭達から隠れ、死骸を漁る日々に疲れていたのかもしれない。綺麗なものを側に置いて、眺めていたかっただけなのかもしれない。
始まりは、ただの己の慰みのためだったのだ。
――――――だが。
楽しくなかったと言えば、嘘になる。
暖かくなかったと言えば、嘘になる。
男と肌を合わせて眠る日々は、少女の凍てついた心に、安らぎと“揺らぎ”をもたらした。
こんな日が、ずっと続けばいい……いつしか少女は、知らずそう思ってしまう程に、男に心を預けていた。
だからこの名無しの少女にとって、己が身を呈し男を逃がすのは、当然のことであった。
「うう……っ」
囲まれ、数の暴力で嬲られて。
とうとう少女は崩れ落ちた。
外法神官の2、3人――――――明らかに人外である者を人と数えるかはともかく――――――は斬り倒したが、しかし彼らの使役する“兄弟達”を斬ることは、少女にはどうしても出来なかった。
望んで産まれたわけではなかろうに。こうして身を貶められ司祭達に操られるのが運命であるというのならば、自らの生さえ呪っただろう、兄弟達。
片親が偽神である自分達は、魂の一部が、すでに神を受け入れる神籬として成ってしまっているのだ。
神意の制御機構となること。それが少女達に科せられた運命だった。
愚かしくも意のままに操れる神を造ろうなどと、それで神意に至ろうとするなどと、神を何だと思っているのだろうか。
……決まっている。
“力”であると、ただそれだけだ。
この世は力が全てであるという思想は、実にシンプルで解かり易かった。
力なき存在は罪であり、その罪が購われるには、力ある者に従うしかないとのだと言う。
であるならば、この身は罪に塗れているだろう。神に捧げられるべく供物が逃げ出した挙句、在るべき力も示せずにいるのだから。
頭を蹴り飛ばされ、額に血が溢れ出す。
もう後4、5人はいけたかもしれない、と少女は省みた。
残るは……止めよう、数を数える意味などない。
血が抜け、虚ろな頭のまま、神官達の繊毛が生えた節足でもって、無理矢理両脇を抱え上げられる。
体格差で両足が空に浮く。
蹴り飛ばしてやる程の気力もない。為すがまま、脚を抱え込まれた。べた付く粘液が足裏に塗りたくられる不快感。足の指一本一本を、丹念に舐め上げられている。
足の指をしゃぶりながら、神官は懐から何をかを取り出した。
二つの鉄辺を組み合わせた道具、鋏だ。
大きく開いた鋏を、踵の上辺り、健を挟み込むようにして――――――じょきり。
「ん、ぐ、う、う、う、う!」
もう片方の足からも、鉄が触れる冷たい感触と、嫌な音が身体の内側から響いた。
動けぬよう脚の腱を切るという念の押しようは、決して素材を逃がさぬようにする彼らのノウハウだろう。
悲鳴を上げることはしない。ただ、静かに目の前の化け物を睨みつけるだけだ。
生臭い臭気を顔面に吹きかけられ、額に手が、あるいは足が翳された。その手は蟲の足を合わせたような形をしていた。
いよいよか、と少女は思った。
これから兄弟達と同じ運命を辿ることになるのだ。
思えば、母があれだけの愛憎を自分に向けていたのは、この結末を解かっていたからかもしれない。
だが、後悔はない。
後悔する程のものもない。
自分には、何もないのだから。
あるのは諦めだけ。
この髪の色のように、灰色の自分には……。
――――――いや、ただ心配事が、一つだけあった。
あの人は、無事に逃げられただろうか。
自分の生の全てを表しているかのようなこの灰色髪を、何と言ったのだろうか、どこか異国の言葉で表した、あの男は。
何と言ったかは、覚えていない。
ただ、それを口にした男は、堅く絡んだ髪を手で梳いてくれた。
その手の優しさだけは、覚えている。
もし――――――もしも、だ。もしも、この髪の色を、綺麗だと思ってくれていたのなら――――――。
男は無事に、ここから抜け出せたのだろうか。いや、そうでなくては困る。きっと、大丈夫だろう。あの鎧からは、強い力を感じた。自分が助けずとも、あの鎧が男を生かしていたはずだ。
自ら死地に飛び込むような馬鹿な真似をしない限り、あの鎧が必ず男を生かす。その確信があった。そしてそれは、恐らく事実だろう。
少女に残ったのは、ほんの少しの寂しさと大きな満足感。
きっと自分が助けた男は、これから先、外の世界で自らを強く輝かせるのだろう。
そうか、と少女はこの時、胸に落ちるものがあった。
母が教えた夢や希望とは、未来を信じるということは、こういうことか。
あの男はこれから先、自らの道を歩んでいく。そう思うだけで、自分は満足だ。ああ、この想いが夢というものか。希望というものなのか。
少女は希望を胸に、男が去っていった方角へと顔を向け――――――そして、見た。
見てしまった。
「うう――――――おおおおお!」
雄叫びを上げ、駆ける、鉄の塊を纏った男の姿を。
「ぬううおおあああッ! うぐあああ――――――ッ!」
自分と同じ『名無し』であると名乗ったその男は、無意味な音を口から迸らせながら、立ち塞がる異形の兄弟達をものともせず、猛然と突っ込んでくる。
足元で摩擦によって火花が散らされているのが、男の踏み込みの苛烈さを物語る。少女が口を開くよりも前に、男は兄弟達と相対し、拳を大きく振り被った。
瞬間、右腕に備え付けられた三連リボルバーが炸裂。
圧搾魔力によって射出された杭が、拳の軌跡をなぞり、標的に突き刺さる。
遅れて少女の耳朶に、兄弟達の断末魔――――――救われたような、安らぎの声が届いた。
「はっ、はーっ、ハァッ……! ぐっ、げほぉ……ッ!」
呼気を整える男に、少女が初めに感じたのは怒りだった。
何故戻って来たのか、と。
せっかく、自分が囮になって逃がしてやったのに、と。
「う、うううーっ! がるるるるっ!」
せっかく、せっかく……。
絶望の中、ほんの少しの満足感を抱いて死んでいけたのに――――――。
希望の放つ輝きを知ることが出来たというのに――――――。
「ぐるるるぁぁああ!」
少女は、男に牙を剥いて吠え立てた。
早くここから立ち去れ、今ならまだ間に合うのだと。
「うるさい黙れぇええええ――――――ッ!」
「わ、う、うう――――――!?」
しかし、自分以上の怒声でもって、それは掻き消された。
訳がわからない、と少女は口を閉じるしかなかった。
「“僕”は、“俺”はもう嫌だ! もう嫌だ! 嫌なんだ! こんなものを見るのは、こんなものが在るのはもうたくさんだ!」
何故か男は怒り狂っていた。
口にする言葉は支離滅裂で。
握られた拳からは、ボルトが軋む音が聞こえていた。
「怖くて怖くてたまらない……だから!」
「うう……」
「俺が全部消してやる! 全部、全部叩き潰してやる! だから……だから!」
恐ろしくて、見ることすら辛いから。
だから消すのだ、と男は口にした。それも、力尽くで。逃避に全力を尽くすと、男は言ったのである。
ただし、逃げる方向は真っ直ぐ前へと。
全力で真正面に逃げ、壁を打ち抜いてその向こう側へと行くのだと、男は宣言したのである。
兜の奥、淡く翠に輝くガラスの双眸が、少女を貫く。
「言え……言えよ……言ってくれ……言えぇぇ……」
それは怨嗟の声にも似ていた。
懇願の言葉であるというのに、隠しようの無い怒りと憎しみに満ち満ちていた。
「助けてくれと、言ええええええ――――――ッ!」
「――――――!」
男の叫びが、少女を激しく揺さぶった。
少女の芯を、貫いた。
「う……あ……わぅ……」
ああ、と音にならない言葉が口から漏れ、気がつけば両目からあふれた何かが、頬を濡らしていた。
冷たい。
でも、熱い。
熱くて熱くて、たまらない。
後から後から、堰を切ったかのようにして溢れ出してくる。
止まらない、熱い何かが、下あごから次々に滴り落ちていく。
額の血が目に入ったのかと思ったが、それは違った。
それは涙だった。
母が死んだ時にも終ぞ流すことはなかった――――――。
「うう、あ――――――」
自分は今、泣いている、のか。
目から涙が出ることなど、異物が入った時以外にはなかったことだった。
何故、涙が出るのだろう。
「俺はその言葉を決して裏切らない! だから言え、こから出たいと! 外の世界へ行きたいと! 助けてくれと! 言え、言うんだ! 言え! 言えよ! 言えって! 言ってくれ! 言え!」
もはや少女の涙は止まるところを知らず、流れ続けた。
男の名を少女は胸中で呟いた。
――――――ナナシ。
すると、不思議と胸の内が陽光に照らされたかのように暖かくなる……陽の暖かさなど、眩しさなど、知らぬというのに。
ナナシ、とその名を呼べば呼ぶほど、少女の中に生まれた暖かさは増し、それは閃光となっていった。
ナナシの全身から輝きがあふれ出し、その光は少女を内側から焼き、奥底へと沈んでいた澱を焦がしていく。
やめて、と少女は叫びたくなった。
やめて、やめて、わたしのこころを、てらさないで。
だがもう、手遅れだった。
光を当てられた心には、もう何処にも、厳重に押し込めていた“願い”を隠す場所などない。
自覚した瞬間、今までずっと、産まれてからこれまで抑えられてきた感情が波のように押し寄せ、少女の心の堰堤を一気に破壊していった。
生きていたい。
ここから出たい。
ナナシともう一度触れ合いたい。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない――――――!
「うううああああああああ――――――!」
願いが、溢れた。
「ああああああああ――――――ッ!」
腱から血が吹き出るのも構わず、身を震わせて少女は叫んだ。
暴れる少女を押さえつけようと、司祭達に杖で殴りつけられたが、少女は口を閉じなかった。
「わんッ!」
戦いの咆哮でも、唸り声でもない。
狼の声帯から発せられた音は、しかし人の叫びだった。
それは救いを求める、少女の声だった。
自らの力を頼りにたった一人で生き抜いてきた少女は、産まれて初めて自らの全てを他者に――――――ナナシに託し、願ったのだ。
「わかった」
先までの取り乱し様が嘘のように、ナナシは静かにそう応えた。
ただ、ガラスの双眸が、力強くぎらぎらとして周囲を睨みつけていた。その無機質の瞳には、灼熱の怒りが灯されていた。
己の行動に理由付けが必要な類の人間であったナナシにとり、少女の叫びは安堵をもたらすものだった。
自らの行動理念が恥ずべきものであるという自覚くらいは、ナナシにもある。元が恥という感情を重んじる文化で育ったために、それも一入だ。
ナナシは納得のいく理由によって、己の行動を正当化しなければならなかった。
それはもはや偽善ではなく、独善だ。
少女の叫びを、己が振るう拳の“理由”にしたのだ。
だが、とナナシは思う。
もはや、決めたのだ。
進むナナシの前に、少女の兄弟達が立ちはだかる。
兄弟達は互いに喰い合い肉を絡ませ交わりながら、巨大な狼の出来損ないへと転じていく。
肉の狼が、肉片を撒き散らしながら大口を開けた。威嚇、雄叫びと共に吐き出された涎と固形物とが、ナナシへと降り注いだ。
戦いの狼煙であるその咆哮は、まるで少女とは逆の願いを訴えているように聞こえてならなかった。
楽にしてくれ、と。
願いは真逆の、しかし少女と同じく救いを求める叫びに。
ナナシはその悲痛な響きに耳を塞ぎたい気持ちになった。
重すぎるのだ。
背負って歩くことが出来ないのだから、叩き壊すのだというのに。
ついこの前まで何の危険も知らず、ただ平々凡々と生きていただけのガキに、何故そんなにも多くを望むのか。
ナナシにはさっぱりわからなかった。
だが、己が為すべき事は変わらない。拳を握ったのなら、あとはたった一つのことしか為す事は出来ない。
そう、ただ突き進み――――――逃げ切る――――――のみ。
「左腕開放」
『アラート。該当する武装はマスターの身体に多大な影響を』
「左腕、開放!」
『――――――了解しました。左腕封印解除、リブート……OS切り替え完了。最終武装システム、“神撃”を起動します』
ツェリスカが提示するステータスをチェックしながら、ナナシは呟く。
「お前達もそんな姿になりたくなどなかっただろう。許してくれとは言わない。せめてこの一撃で終わらせてやる。だからもう、泣くなよ、な?」
その時ナナシがどんな顔をしていたか。
隙間なく兜に包まれた表情は、誰も窺い知ることは出来ない。
ツェリスカと銘打たれた鎧のみが、それを知る。
ナナシは弓を引くように、左腕を引き絞った。それは彼が得意とする右腕での正拳突きとは似て非なる、非対象的な構えだった。
左腕の封が解け、ボルトが弾け飛ぶ。肘から、巨大な一本の杭――――――のようなものが露出する。
恐らくは、個人で携帯可能な近接武器としては、最高峰の破壊力を誇る武装だろう。こればかりは高レベル帯の防御力でもっても、無事では済まない。
杭の射出速度とその形状によって、例え加護により物理法則を超えた装甲であっても、喰い破る威力が保持されているのだ。
例外は魔法的防御のみだが、それはナナシの特性によって、無効化される。
事実上、防御力無視の絶対攻撃である。
ツェリスカの製造コンセプトとは、神意の打倒であるが故に。
物理を以って、神理を打ち砕くのだ。
『システム起動完了。魔力ライン全段直結。オーヴァー』
魔力ラインを全段直結する、ということ。
それは、機関鎧の駆動に必要最低限の動力のみを残し、動作補助、生命維持装置はもちろんAIすらも一時活動を停止するということだ。
全てを真に、己の力のみで為さなくてはならないということだ。
求められるのは、何の補正もなく敵の攻撃を掻い潜り、確実に一撃を加える技量。
得られるのは、大火力の最高打撃。
代償は、装着者の安全。
本来スキルによってのみ顕現される防御力無視の一撃を、ナナシの特異性を基盤に、人間の身体能力と機械機構のみで再現しようというのだ。
更には、ツェリスカはその身に呪いを宿す特別製。当然のように、装着者の無事は度外視されている。
『トリガーを装着者に移譲……全工程完了。撃てます』
音声コードと共に、ツェリスカの機能が一時停止――――――する直前。
『――――――ご武運を、マスター』
装着者を案じるプログラム外の言語は、ナナシの胸に落ちる前に、静かに消えていった。
ナナシは足を肩幅以上に大きく開き腰を落す。
無名戦術の基本型は、足幅を狭めやや前傾姿勢に体幹を傾けた構えを執る。拳は腰に、片手は顔前に突き出し掌に。相手の出方に対応する後の先を執ることを主体とする構え、これを静の構え【磨石】と呼ぶ。
そしてナナシが執ったこの構えこそ、無名戦術の極致。両手を弓を引き絞るが如くに大きく前後へと開き、防御を捨て、身を空にする。ずっしりと腰を落とし、全身のバネを用いて対象へと突進する、先の先を制するための構え。これを動の構え【落蓋】と呼ぶ。
無名戦術静の構えから、動の構えへ。
ナナシが右腕を前に、左腕を大きく後ろへと振りかぶると、間接の動きに連動して杭が完全に露出する。
否――――――それは、杭ではない。
先端が鋭角に削られ、中心を刳り抜かれたそれは――――――それは、巨大な“注射針”だ。
「行くぞ! 今行くぞ! しっかり見てろ、俺を見るんだ――――――!」
「わん! わんわん! わん――――――っ!」
全段を直結された魔力ラインが、左腕に集中する。
全身のボルトが弾け飛び、人工筋肉が悲鳴を上げ、間接が火花を散らす。
ガラスの双眸が砕け、血の涙を垂れ流す。それは歓喜の涙だった。
今ここに、ナナシの意思と、鎧の使命とが一体となった。
二つは真に一心同体となったのだ。
ここに在るのは、ナナシという一個の存在を越えた生命体。
完全装鋼士、ナナシである。
「“神撃”フィストバンカー……」
それは、『レベル』の区切に左右されることのない、自然の摂理を超克する“行き過ぎた”機械技術。
それは、機械仕掛けの力を人の『業』でもって制御する、無名戦術の基本にして深奥――――――【武装纏成】の極致。
それは、人が己の意思で以って、神を打倒する奇跡の具現。
それは、一人の少女の灰色の人生に向けた、手向けの花。
「メテオ・ブレイカァアアアア――――――ッ!」
そして――――――少女は見た。
男の拳が、神が定めた運命を砕く、その瞬間を。
□ ■ □
襤褸のようになりながらも千切れることだけは避けられた左腕を庇い、ナナシは無事な右腕で少女を背負いながら、線路を辿って歩いていた。
処分場に積まれていた回復薬を山ほど振り掛けた少女の脚と、ナナシの左腕は、何とか小康状態といった所だ。
二三日はどうとでもなるだろう。
ゆっくり、ゆっくりと二人は線路の上を行く。
向う先は、セリアージュの屋敷。
徒歩であるのは無一文であるからだ。
冷静になって考えてみれば、かなりの無鉄砲な事を仕出かしたものだ。帰りの電車賃も無くなるくらいに、迷宮に入れ込んでいた。まるでギャンブル狂いだ。まるで、ではなく正しく同じである。
これはお嬢様も怒る道理だな、とナナシは自省した。
一人前に自棄になって、不幸を背負った気でいて、馬鹿馬鹿しい。
何をするでなく、何かを成したわけでなく。そんな自分が、自らの無力を嘆くなど、早すぎるではないか。
未だ立ち塞がる運命に、全力で立ち向かってはいないというのに。
「俺達は、さ」
「くうん?」
「これから、だよな?」
「わんっ!」
嬉しそうに、本当に嬉しそうに少女は笑った。
薄明かりの下であっても、眩しい程に輝いて見える少女の笑顔。
背中をくすぐる揺れる尻尾の感触に、つられてナナシも笑みを浮かべた。
これからどうするの、と楽しみでしかたないという風に頬をすりよせる少女に、ナナシはそうだな、と少し考えてから言った。
「とりあえずは、お嬢様に頭を下げないと。許してもらえるかは解らないけど、なだめすかしておだてて、お嬢様のちょろさに甘えよう」
「……わん」
「あの、ちょっと? 爪が喰い込んで痛いんですけど?」
月明かりの下、ナナシと少女は身を寄せ合いながらゆっくりと、線路の上を歩いて行く。
「月、きれいだなあ」
「わん」
「あっちよりも大きいんだな、こっちの月は……今まで気付かなかったよ」
「わふん?」
「いや……それよりもほら、あれ見てみろよ。流れ星だ」
ナナシが視線で指す方向には、天を瞬きの様に流れていく星が。
大気の反射の加減かは解らないが、こちらの世界では流れ星は、あちらのものよりもずっと美しく見えた。
流星群の巡る時期なのだろうか。いくつもの流れ星が瞬き、消えていく。
ナナシにはそれが、あの迷宮で命を落とした者の魂が、天に還っていくように見えた。
ナナシの背で、少女がひゅうと息を吸う音が聞こえた。
「ふぅぅううおおおおおおおお――――――ん!」
少女もナナシと同じ想いだったのかもしれない。
まるで、死者への手向けのような、弔うかのような。
あるいは、産声を上げるかのような。
そんな遠吠えを、天に向けて上げた。
ナナシは少女の決別の声を聞きながら、黙々と歩み続ける。
あれから――――――ナナシが少女を助けだして直後に、生き残った司祭が証拠の隠滅を図ったのか、空洞は崩落を始めた。
急いで脱出した二人だったが、少女は母の亡骸に別れを告げる間もなく、急に外の世界に放り出されてしまったのだ。
だが、少女のこれまでの人生を慮れば、これで良かったのかもしれない。
急に厳しすぎる世界に放り出されたナナシにとって、少女の境遇は共感するものが多かった。
「なあ」
「くうん?」
また黙々と歩き、少しばかり経った頃、ナナシは唐突に口を開いた。
これまでずっと、考えていたことがあった。
「よければだけど……俺と一緒に、冒険者にならないか? 冒険者の“学園”に行って、一から勉強しよう」
「わんっ!」
「即答か。少しは考えてくれるとこっちも有り難いんだけれど、まあ、いいか。ありがとう」
「わふ!」
背負うことが重すぎるとは思ったものの、こんなにも軽い少女一人くらいなら、腕が痺れるまで抱えてやろう。
目が覚めたような、不思議な気持ちで天を仰ぐ。
空には、ナナシの知るよりも大きな月が、柔らかな光を注いでいた。
「じゃあお前の名前、考えないとなあ」
「わん、わんわん!」
「うん?」
少女は自らの長い髪を掴み、ナナシの目の前に差し出した。
何を言わんとしているのか、解らずにナナシは首を傾げた。
「ええと……?」
「うー!」
解らないのか、と不満気に喉を鳴らす少女。
ナナシには少女が何を言いたいのか、解らなかった。
解らなかったが、少女の髪を見て、自然と一つの言葉が口を突いた。
「にび……いろ?」
「わんっ!」
嬉しそうに、本当に嬉しそうに少女はナナシの首筋に鼻を埋めた。
「それでいいのか?」
「わん!」
「そっか。じゃあ、いいか。なあ……鈍色」
「わんっ! わんわん!」
「鈍色」
「わん!」
「鈍色」
「わんわん!」
何とはなしに、少女の名を呼び続ける。
線路を逆に辿るのは、結構な距離があったはずだが、ナナシは苦には思わなかった。
夜。
空には大きな月と、輝く星。
暗がりの中、果てしなく続く草原には、道標は線路しかない。
まるで、自分の心境のようだ、とナナシは思った。
右も左も解らぬままに、ジョゼットの教えに従うしかない。
何処に辿り着くのか、解りはしない。
だが、それでもいいか、とすんなりと頷けてしまう自分が居た。
行く先が見えぬなどと、そんなもの、行って辿りつけば解ることだ。未来などそう簡単に見得るものではない。
命は一つしかないのだから、逃げることは恥ずべきことではない。
ただ、縋ることはいけない。
甘えは、棄てなければ。
――――――鍛えなければならない。学ばなければならない。
ナナシは心底そう思った。
自らを壊すためではなく、磨くために。
罪悪感に浸るためではなく、自分にとって何が必要で必要でないのか、取捨選択し、それに沿う材質の研ぎ石でもって研磨しなければ。
いいや、それでは足りない。
打つのだ。
かつて、ジョゼットがしていたように、ただ一心に打つのだ。
鋼を鍛えるように。
一打毎により堅く生れ変るような、そんな拳を――――――。
「鈍色」
「わんっ!」
鈍色、と。
少女の名を呼び続けながら、ナナシは帰路を行く。
例え行き先が真っ暗闇だったとしても、こうして背に負った少女の温かさと重みだけは、確かだった。
□ ■ □
――――――わすれないよ。
ずっと、ずっとおぼえてる。
わたしがわたしになったときのこと――――――。
あのときも、こんなふうにわたしをおんぶしてくれたね。
「鈍色! しっかりしろ鈍色! 鈍色!」
あなたは、わたしのなまえをなんどもよんでくれて。
わたしのなまえは、にびいろ。
ひかりのいろ。
てつのはなつ、かがやきのいろ。あなたのそばに、いつもあるいろ。
はいいろだったわたしのいのちは、あなたのそばで、ひかりかがやくものになった。
あなたのおかげで、きらきらと、きれいにかがやいて。
「もうすぐだ! もうすぐクリフとアルマが、きっと助けに来てくれるから! だから目を閉じるな、鈍色!
どうしてこんな……ああ、神様……どうして……ちょっと前まであんな馬鹿やってたじゃないか! 馬鹿なことやってるやつは、そう簡単に死ぬ訳ないって! だからまた、明日も騒いで、笑って、馬鹿騒ぎして、そのはずだろ!
なあ、頼むよ……お願いだから、頼むよ、お願いだから返事してくれよぉ……!」
あなたが、わたしになまえをよんでくれたとき、わたしはわたしになったんだよ。
あのときのそら、ながれぼし、きれいだったね。
またいっしょに、みたいなあ。
「ああ……あああ……」
うれしかった。
わたしはほんとうに、うれしかったんだよ。
だから、ね?
なかないで。
「あううう……」
やさしいひと。
そういうと、あなたはちがうよっていうかもしれないけど。
でもね、あなたはきっと、いろんなものをせおってしまう。
ひざがおれそうにおもいのに、せおったもののために、おれないように、くるしさからにげているんだね。じぶんのこころからも。
ほら、ね?
すっごく、すっごく、やさしいよ。
やさしくって、あったかくって、だいすき。
だから、ね?
なかないで。
わたしはこうかいなんて、していないんだから。
「う、う、あ、あ、あああっ、あああぁぁ――――――」
わたしはあなたにあえて、しあわせでした――――――。