地下31階 プロローグ2:断想―鈍色―
一辺が四メートル四方の空洞の中。手を伸ばせば、半径数十センチの距離でのこと。
ナナシはほとほと困り果てていた。
何をと言えば、犬耳の少女の扱いについてである。
距離を詰め様と近付けば離れ、離れれば近付き、声を掛ければ「わん」と返すだけ。
警戒されているだけならば無視すればいいだけの話だが、しかしこうして甲斐甲斐しく手当てを受けているとなると、礼を言わずにもいられない。ただそれだけでは話の種は尽きる。
在り体に言えば、気まずくて仕方がなかった。
「なあ」
「わん」
「それ以外に何か話せないのか?」
「わん」
「もっと会話をする努力しようや」
「わん」
またこれだ。
心的距離を縮めようとナナシが努力するだけ、少女は身を引いていく。
一方的に手当てをされるだけの関係。
どうしろというのだ。
「わん、とかだけじゃなくてさあ……」
「わん」
「……いち足すいちは?」
「わふん」
「くっ……!」
鼻で笑われた。
明らかに外したのは自分であるので、言い繕う事は出来なかった。言い訳しても、虚しいだけである。
迷宮の中、構造変化の隙間を縫うように存在する小さな空洞に身を横たえて、何日が経っただろうか。
こうやって適度に距離を取られつつ、一方的に世話を焼かれながら、ナナシと少女は奇妙な共同生活を送っている。
無様に落とし穴に落ちて岩肌を転がり落ちたナナシは、偶然にもこの言葉の話せぬ少女に拾われ、迷宮の隙間に運び込まれていた。
ナナシは全身を強打しており、まともに動けるようになるまでには今少しの時間が必要だった。そして少女はナナシが回復するまでの間、ナナシの世話を自ら進んで買って出たのである。
何故かは解らない。人恋しかったのかもしれないし、何かの思惑があってのことかもしれない。ただしかし、少女を疑う気持ちは、不思議と浮かんでは来なかった。
機関鎧を物珍しそうに眺める少女が可愛らしかった……というのも一つの理由だろう。
これだけ世話をしてもらった少女に猜疑心を抱くのが、申し訳ないという罪悪感もある。
ナナシの身体を清める時の少女の手付きは堂に入っていて、ストレスを感じることもなかった。
夜は一つの毛布の中に、二人で包まって眠っている。
ナナシの身体が冷えないよう、長い髪を巻き付けて、自らの体温で温めて。
文字通りの裸の付き合いにナナシは顔を赤らめたが、次第に馬鹿らしくなってきて、“意識して意識する”のを止めた。邪念の無い相手に、ましてや恩人にそんな目を向ける程、ナナシは恥知らずではない。
これがハニートラップだったなら目もあてられないが、何か利用しようとする意図は感じられないのだから、困惑するのみである。
こちらから近付くのは許さないのに、自分から近付くのは良いのか、少女はナナシの胸の上で寝息を立てている。
髪をナナシの身体に巻き付けて。裸の胸を裸の胸に押し付けて。
ナナシが冷えぬよう――――――ナナシを逃がさぬよう。
「何て言うか、所有されてるって感じ、かな。まあいいけどさ」
「わふ……ん」
「どんな夢見てるんだか、このわんこは」
時間にすれば数日という短い間のことでしかなかったが、しかし少女を理解するには十分な時間だった。
それは、少女を理解するのに数日程度しか必要なかったと換言出来るかもしれない。少女はあまりにも“我”が希薄だったのだ。
長い髪に隠れている表情は変わらず、声に抑揚も無い。
口を開けばただ一言「わん」とだけ。これは声帯に問題があるらしい。
多様な外見を持つベタリアンの一例として、外見は人に近いが内側、臓器が人からかけ離れている例が稀にだがある。
恐らくは少女の場合は、声帯部分周辺の構造が人とは異なっているために、発声が不可能であるのだろう。
双方向の会話は出来ないが、しかし少女はこちらの言葉は理解しているようで、それで十分だった。複雑な意思疎通が必要になれば、筆談という手もある。驚いたことに、野生児にしか見えないこの少女は文字を理解していた。
誰に字を教わったのかとナナシが問うと、少女は部屋の隅を指差した。
本や道具に囲まれて、隠すように――――――否、労わるように毛布に包まれていたのは、人一人分の骨。
「わん」と言って少女が地面に書き記したのは、『母』の一文字。
「そっか、この人がお前のお母さんなんだな」
「わん」
死体の肉が腐り落ちて白骨化するまで、何年もの月日が必要だろうことに気付かぬ程、ナナシは無知ではない。
恐るべきは、母親の死体と共にこの狭い空間で、何年も少女が生活していたということ。
異常な光景と事実に、しかしナナシの心は小波一つたつことはなく、静かに凪いでいた。
それは母と書いた少女の指先に、確かに暖かな感情が宿っていると、そう感じたからだ。
「……優しかったか?」
「わん」
「そっか」
少女が何者であるか、この場は何であるか、この女性の死因は何か、聞くべきことは山ほどあったはず。
しかし、母の遺骨を見やる少女の優し気な眼に、ナナシは不思議と疑問を挟むことはなかった。
それは、向こうの世界に居る自身の母の面影を思い出していたからか。
異世界に生きるようになり、ナナシはあらゆる物事に対し、「そういうこともあるだろう」とほとんどを許容する広い心を持つようになっていた。
神経質に根掘り葉掘り聞くことが、どうにも格好悪いと思ってしまうのは、自分に技を仕込んだ老人の影響なのだろう。
人は解らないことを恐れるというが、その恐怖もまた楽しめるのが冒険者であるのだと。行く先など見えぬ方がよかろう。
「わん」
「そっか、うん、うん……」
母を語る少女は饒舌――――――饒筆だった。
聞けば――――――見れば、自分を産んだこの女性は、冒険者であったらしい。
攫われて、化物と交わされて、孕まされて。
足の健を断たれながらもからがら逃げだして、この隙間に隠れ、そして自分を産んだ。
逃げ出せぬと覚悟し、諦めて、ここで細々と暮らすことにした。己が死んでもなお独りで生きていけるよう、自分に教育を施しながら。
そして数年前に病に掛かり、看病の甲斐なく死んでしまったのだ、と。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。攫われたって、お前」
「わん」
よく解らないといった風に小首を傾げる少女に、ナナシは頭を掻いた。
「ここで産まれたって、どれだけの間、ここで暮らしてたんだ?」
「わん」
少女が捧げ持ったのは、国家資格を持つ冒険者が常に所持しておくよう定められている、手帳型のステータスカウンター。
とうに電源の落ちたその表面に、誕生日、と彫られていた。
深く彫り込まれた年月日。その情報を信じるならば。
「お前、俺と同い年だったのか……」
「わん」
もう20年近くもの間、少女――――――と表すべきかはともかく、彼女はこの空洞で生活を続けていたことになる。産まれた時から、ずっとだ。
これには流石にナナシも考え込まざるを得ない。
母親の遺骨が登場した時点で、もはや尋常ではないのだが。一体どうやって彼女は日々の糧を得て、生き抜いて来たのだろう。
「おい、どこ行くんだ?」
「わん」
「ごはん」と宙に細指で描きつつ、狭い穴に身を屈めて何処かへ向かう少女。
「俺も行くよ」
「……わん」
少女が十数年間どうやって生延びて来たのか、生活物資の出所が気になったナナシは、少女について行くことにした。
もちろん負傷しているナナシが動き回ることに、少女はいい顔をしなかった。それがナナシには解った。
いい顔をしなかった、それは、無表情などではないということだ。ほとんど能面のようなその顔も、良く見ればちゃんと動きがある。ただ感情を表に出すのが苦手なだけなのだろう。
出来るだけ身軽な方が良いだろう。少女もほとんど裸同然であるのだし、そこまで危険はないはず……ナナシはそう、楽観的に考えた。
鎧を脱いで、少女の後を追い穴へと潜る。
顔や目や口ほど以上に物を言う尻尾が、剥き出しで突き出された尻の上で楽し気に揺れている。
「なんだ、可愛い所あるじゃないか」
「うー! わん!」
「はいはい、無駄口厳禁っと」
僅かにむくれる少女にナナシは苦笑した。
その苦笑が痛みを覚えるくらいに凍り付く羽目になるとは知らず、ただ穏やかに。
□ ■ □
すぐさま伸びた少女の手によって、綻びそうな口元が決壊するのは辛うじて防がれた。
口内に溜まった胃の内容物を、時間を掛けてまた呑み下す。
音と臭いで位置を特定されてしまうわけにはいかない。
再び吐き戻さないよう、視線を釘付けにされながらも、ナナシは意識から眼下の光景を排除した。
「そんな、馬鹿な、これは、こんな事が……」
「わん」
「こんな事が、在ってもいいのか!?」
「……わん」
在るんだから、仕方がないと。
そう言いた気に、少女は「わん」と鳴いた。
ナナシは感情のまま反論の弁を叫びたかったが、間に入る訳でもなく事態を見守るのみの自分が、口を開く資格はない。
こうしている間にも、また一人――――――。
飛び出せばすぐに手が届く距離で、人が死んだ。
“化け物にされて”殺された。
「う、うう……!」
「わん」
人が死ぬ場面を見るのは、これが初めてだった。
死ぬというよりも、殺される場面と言うべきか。師である老人の時は、その瞬間を目にすることはなかったのだから。
しかし、平和と言っていいほどに治安の良かった国で産まれたナナシにとり、その瞬間を直接目にすることは、胃の中身を吐き散らすほどの衝撃だった。
冒険者になれば死ぬかもしれない。その覚悟は、済んでいたはずだった。自分以外の誰かが死ぬ事もあるだろう。あの老人のように、自分のせいで死なせてしまう事も。覚悟……していたはずだった。
だが、現実の光景はナナシの脆い覚悟など一笑に伏すかのように圧し折り、吹き飛ばした。
思う。自分は、理解していたような気になっていただけだ。
身体を鍛え知識を得て、そして実際に迷宮に潜り、少しばかり上手くいったものだからいい気になっていただけなのだ。
ナナシは震える膝を押さえつけた。
それは、崩れ落ちて音を立てるのを防ぐためだった。恐怖のためだった。
恐ろしくて恐ろしくて、たまらなかった。
見つかれば、自分もあんな風にされてしまうだろう。あんな、化け物に。
「じゅる、じゅるじゅる、じゅる」
ナナシの耳にはその声が、鼻水を啜り続けているような、粘着質な水の音に聞こえた。
全身を、顔面はもとより頭頂部から爪先まで、真っ白な布でカーテンのように覆い隠した衣装。白装束には、見たことのない文様が描かれている。
歩く度に、べちゃべちゃと水の音がする。手、のように見える部分には長杖が握られていた。
神官だ。
奉る神も、その役割も解らない。例え見目が悪かろうと、その装束の下に“何をかが隠されていようと”、儀式を取り仕切る振る舞いは神官に相違ない。
だが、何故なのだろう。ナナシは、清浄の色であるはずの純白が、その装束が、身震いする程に恐ろしいと感じていた。
「なんだ、あれは、何なんだ……!」
意識の外で、しかし釘付けにされた視界の中、また一人。飛び出せばすぐに手が届く距離で、化け物にされていく。
目から鼻から飛び出した肉の触手に呑まれ、一瞬の内に触手塗れの化け物へと転じさせられていく人々。
男もいたし女もいた。老人もいたし子供もいた。怪我にんもいたし病人もいた。
彼等は皆、普通の、割烹着や学生服を着ていた。冒険者ではなかった。彼等は『一般人』だった。
未踏の迷宮の出現に湧く一方で、行方不明者が多数認められていることは、噂程度には知っていた。
どうせ一攫千金に目が眩んで迷宮に消えたか、新たな迷宮に群がるならず者達に人攫いにあったかのどちらかだろうと言われていた。あるいはゴシップニュースでしかない気のせいだと。他の者と同じくナナシもそう思っていた。
自らの意思で踏み入り倒れたならば、それは自己責任である。
だがこれは、どうだ。なんなのだ、これは。こんなのは、ないだろう。
これは、この、光景は。
「あああ止めて食べないで私のお腹から出て行ってよお! あああ嫌ぁ! 嫌嫌嫌嫌嫌――――――!!」
「ひぃい、あ、あ、あああっ、溶け、溶けっ、溶けあっ、あっ、あっ、あっ、あっあっあっああ……」
「ああああん! ママァ! ママああああ! 痛いよう! 痛い! 痛い、痛い痛い痛い痛い痛い――――――ぃぃ」
ナナシは耳を塞いだが、彼等の悲痛な叫びが消えることはなかった。
少女もナナシも音を立てることを気にしていたが、それは杞憂かもしれない。先程からずっと、彼等の上げる断末魔の合唱が、終わらないのだから。
彼等は荒事とはなんの縁もない、一般人だった。彼等の上げる叫びは、もしかしたら、自分が上げるかもしれなかった叫びに違いない。
ならば、彼等を救う事は、自分を救う事ではないのか。
動け――――――と。
ナナシは自らの両足に命じた。
しかし、足は地に縫い付けられたように固く、動かなかった。
白状するならば、ナナシはもう、目の前の邪悪に対峙する気概を失くしてしまっていた。
ただただ気付かれないよう祈ることが、恐怖に呑まれたナナシに出来る全てだった。ナナシは自らの意思でもって、彼等を見捨てたのだ。
ナナシには、許しを請うことなど出来なかった。それはやってはいけないことだと、そう思った。彼らを見捨てたのだから。
どう見ても、組織的に行われている“かどわかし”である。自分が飛び出していった所で、どうにもなるまい。
だから仕方が無いのだと、ナナシは念仏を唱えるように、何度も胸中でくり返した。
仕方が無い。これは、仕方が無い事なのだ。飛び出して行ったところで、どうにもならない。無駄死にするだけだ。
……つまるところ。
ナナシは恐ろしかったのだ。
死ぬことが、ではない。殺されることが、でもない。
それら二つは、吹けば飛ぶくらいに脆かったとしても、覚悟していたこと。どうしようもないほど、ナナシを震え上がらせるものではなかった。
ナナシはただ、こんな場所で“化け物にされて殺されたくは無い”、と。人として死ぬことも許されないなんて、と。そう思ってしまったのだ。
こんな、異世界で――――――自分が自分でなくなってしまったなら、何の意味があったというのだ。
「わん」
少女が小さく鳴いた。
少女が目指す場所はここでは無かったらしい。
引きずられるように少女に連れられて行くナナシは、瞬きもせず、この光景を見続けていた。
次々と囚人のように運ばれる、泣き叫んで助けを乞う人々。
そんな彼等に作業的に手を翳す、純白のローブに総身を包んだ神官達。
悲鳴を上げる人々は、内側から裂けて、端から順に、化け物へと転じていく。
その経過を事務的に記録していく、純白の神官に付き従う黒ずんだ斑点ばかりが目立つ白衣を着た医師団。
吐き気がした。その光景を見続けることに罪悪感を覚えるのならば、瞼を閉じればいいものを。
ナナシには何故か、それらから目を逸らすことが出来なかった。
何故かは解らない。
何故かは解らないが、ナナシの両の手は、震えながらも閉じられていった。
硬く、堅く。
気付けば血が滴る程に、拳が結ばれていた。
やはり、それが何故かは、ナナシには解らなかった。
□ ■ □
夢の中であってもあの光景が目に焼き付いて離れない。
耳の置くでは悲痛な叫びがずっと木霊している。
頬に掛かるこそばゆい感触に、ナナシはゆっくりと目を覚ました。
手に取って確かめれば、指の間を落ちていく。それは長い鉄色をした髪だった。
長い間――――――否、産まれてこの方碌な手入れなどされてはいない髪は、お世辞にも良い手触りだとは言えない。臭いも同じくである。
しかし不快とまではいかないのは、“隅に包まれている”母親の、娘がせめて女であれるよう教えた最低限の身だしなみの結果なのかもしれない。
光源など壁に掛けられた光ゴケを入れたランプ以外にないというのに、ナナシには手から零れる髪が、鈍く輝いて見えた。
「鈍色――――――」
呟きが漏れる。
胸の上に感じる温もりが、ナナシの呟きに首をもたげた。眠ってはいなかったのだろう。
蒼い眼がじっとナナシを見つめ、飛び出した犬耳がぱたりと上下する。
聞き慣れない言葉に、少女は首を傾げた。
「……わん?」
「鉄の光の色……お前の髪の色だよ。俺の産まれた国じゃあ、鈍色っていうんだ。こっちじゃあ別の呼び方をするみたいだけど」
「わん」
一鳴きして、少女は自らの髪を手に取った。
淡い光に透かして角度を変えながら、返す返す楽しそうに、嬉しそうに、毛先を弄んでいる。
顔には出ていないが、脚をくすぐる尻尾が物語っている。
こそばゆさに笑いを堪えながら、ふと思った疑問をナナシは少女に問うた。
努めて先の光景を忘れるよう、平静を装って。
『装う』ことこそが、自らの性質であれば。
「なあ、今更だけどお前の名前、教えてくれないか?」
「……」
しばらく考え込んだ後、少女は「わん」と言って首を振った。
ナナシが予想していた通りの応えだった。
「名前、無いのか?」
「わん」
少女が語るには――――――描たるには、母から名を授かることは無かったという。
彼女を産んだ母親は、当然少女の喉の造りを知っていた。言葉が、自分が付けた名が、その口から紡がれることは無いと理解していた。
初めから自分の死を逃れ得ぬとしていた彼女は、娘をこんな場所に一人残すことを忍びなく思っていたのだ。狂いながらも、母として。
眠りについていた迷宮だ。入るのは容易くとも、出ることはもう叶わない。
自分が死した後、娘の名が呼ばれる事はもう無いだろう、と。それはあまりにも残酷ではないか、と。
望んで産んだでもない娘。
しかし紛れもなく彼女は、娘を愛していた。そして同時に、憎んでもいた。
だから、初めから名付けなければ良い――――――と。そう彼女は決めたのだ。
いつか此処から出た時に、娘が名を得られるように。
娘が生きて、ここから出られるように。
ここで潰える己の命全霊を賭して、そう願いを込めて。
描き終えた少女に「そうか」と、ナナシは頷いた。
「俺と同じだな」
「……?」
「俺も“名無し”なんだ」
ナナシが名を問わなかったのは、名無し同士、通ずるものがあったからなのかもしれない。
少女が自分を連れて来たのも、同じ理由かもしれない。一人で生きるには、ここは少し、寒い。
何年も迷宮内で命を繋げるなど、彼女の母親をして、予想外であったに違いない。“あの光景”がここでの日常ならば、彼女がこうして生きている事自体が奇跡だ。
願いを込めるということは、それが叶い難いものであると知っているということだ。彼女の母は、己の身に降りかかった不幸を理解していた。
あるいは娘に語って聞かせたことは全て嘘で、こんな境遇に陥った自らを慰めるために良い母を演じて、最後に恨みをぶつけただけなのかもしれない。
しかし、そうは思いたくはなかった。
「わん」
そう応えた少女の口元には、微笑が浮かんでいたように見えた。それはナナシの見間違いだったのかもしれないが、そう見えた。
ナナシは少女と抱き合うままに、まどろみに身を任せた。触れ合う肌から、お互いの熱が交換されていく。
少女の熱と柔らかさに意識を集中させる。少女と共に運んだ食料や物資に関しては、務めて思い返さないようにした。それは、無駄な努力でしかなかったが。
ナナシが見た『実験場』の奥にあったのは――――――『繁殖場』、そして『処理場』だった。
ずらり、と並べられた、足の無い女性達。
鎧を着ていようが、腰に剣を下げていようが、化け物には関係がなかった。
手足が斬り落とされていようが、目鼻が抉られていようが、胎さえ無事ならば、どうあっても孕めるのだから。
実験場にて造り出された化け物はそこで、強い母体――――――冒険者と掛け合わされ、より優れた個体を産み出すための種馬とさせられていた。行為は全て、機械的自動的に行わされていた。
ナナシには理解できないことだったが、どうやらあれは何らかの魔術的儀式を行った結果であり、そして化け物となってしまうこと自体が、失敗であるらしい。
『処理場』は読んで字の如く。
犠牲者達の所持品を放棄する場所のことで、少女はそこに忍び込んで食糧を調達し、生きて来たという。処理場には服は元より、水や食料など、手付かずのまま打ち捨てられていた。
他にも『失敗作』が多数打ち捨てられていたのには、これは流石に直視することは出来なかった。
捻くれて、繋ぎあわされて、プレスされ、ブロックにされて。一括りにされて捨て易くした人の残骸など。
「わん」
「いや……なんでもないよ。おやすみ」
“何か”を込められて化け物にさせられてしまった人々。
ならば、より良い器でもって儀式を行おうとするのは、当然の事。
この少女も、そうして産み出されたのか。
やり切れない思いを消化出来ず、ナナシは無理矢理に眼を閉じた。
少女にとっての日常の光景が瞼の裏に浮かんで来る。
全く動じた様子もない少女に、これは普通なのだと、これが迷宮の厳しさでどこにでもある光景なのだと、己に言い聞かせながら。
異教徒の闇の秘術に一般人が犠牲になるなど、よく聞く話ではないか。
これも同じだ。きっとそうだ。だから自分が何をかをする必要などないし、黙って静かに時を過ごすのが賢いやり方なのだ。
だから自分には関係ないことなのだと、ナナシは幾度となく唱えながら眠りに着く。
そろそろ体調も回復した頃だ。
これからどうするかは、まだ決めていない。
□ ■ □
ここから立ち去ろう。
そう決めたのは、七日目の朝。
二度目の調達の日のことであった。
異教徒による非人道的な行いに、義憤を抱きはしている。
しかし、こんな明らかに組織的に行われている凶事をどうこうとすることなど、ナナシには出来る訳がなかった。
ナナシの答えは、逃げること。全てを見なかったことにして、口を閉ざすことだった。
少女を一人残すことには迷いが残るが、ナナシには人一人の面倒を見る余裕などない。自分の事だけで精一杯だ。
ただ、彼女がここから出たいというのなら、自分の出来る全てをしようとは思っていた。お嬢様に頼み込んでもいい。
だが、それから先の保障が出来ない。
彼女が普通の生活を送れるようになるなどとは、ナナシは毛ほども信じてはいなかった。
「なあ、もしここから出られるとしたら、どうする?」
そうナナシは、先を行く少女の背に向けて言った。
ずるい聞き方だ、と思った。
「わ――――――ん。わん」
少女は、しばらく考え込んだ後、困ったように応えた。どちらともとれる答えだった。
だろうな、とナナシは相槌を打った。
この時になればナナシには少女の想いが、言葉は通じずともおおよそ理解出来るようになっていた。
どれだけ劣悪な場所だとしても、ここが地獄であったとしても、ここ以外に自分の故郷はないのだ。彼女はそう言っていた。簡単に捨てることなど出来ない。
少女にとって、ここは母の眠る場所。ここ以外に、母との思い出などありはしないのだ。
ナナシにとってのジョゼットと、『地下街』がそうであったように。
一歩、踏み出すには多くのものが足りない。
ナナシとて、必要に駆られて仕方なく歩き始めただけだ。それを少女に強要することは出来ない。
答えを聞くタイミングを逃したまま、ナナシは少女を追って実験場の死角へと身を潜ませた。
「……誰もいない、な」
「……わん」
凄惨な場を知っているからこそ、この静寂が異様に不気味に感じる。
実験場には誰もいなかった。
誰も、というには弊害がある。人を人とも思わない人でなし共を人として数えてはいないだけだ。
そこではあの惨劇の主催者であった司祭達が、奥へ奥へと魔法陣投影機といった呪的機材を引き込む作業をしていた。
撤去作業だろうか。
「“つける”ぞ」
言って、少女の返答も待たず飛び出したのは軽率だったのかもしれない。
少女が慌てて後を追う気配。
そして、ナナシと少女の二人は、見た。見てしまった。
実験場の先、繁殖上のさらに先、処理場の奥にその空間はあった。
構造上、今こうして集められているのが、拉致被害者の全てだろう。
それほど大人数と言う訳ではない。せいぜいが、30人程度だ。だが処理場が埋め尽くされる程に、新たに積まれていた死体の数を鑑みるに、この迷宮に収容されていた残りの被害者は、みな処分されたとみて間違いはないだろう。
新たに産まれた“もの”の姿も少なくはなかった。母子共に棄てられている姿を少女がどんな思いで見たか、ナナシには解らない。母子と呼ぶには程遠い、宿主と寄生虫の関係のそれに等しい在り方は、幾度目とも数えることも飽きる程の吐き気を催すものであった。
それは、後始末だった。それは、隠蔽工作だった。
完全に処分し、消滅させんとしているのだ。最後に一度、“締めの仕事”をしてから。
あれだけの大勢の人々が、一所に集められ、そして一斉に化け物へと転じさせられる儀式魔術が発動する。している。
魔法陣上に魔力が回転し、人々の苦悶の声が響いた。
「や、やめ――――――!」
はっとしてナナシは口を抑えた。
思わずナナシは声を上げた。上げてしまった。
ここに来て、これか。
どうして、今更になって。
そんな資格などありはしないのに、大人しくしていればいいものを。ナナシの冷静な思考の一部が囁く。
「じゅるじゅる、じゅるじゅるじゅる」
穢れた水音が一斉に沸き立った。
見つかった、と思う間もなく数多の視線にナナシは貫かれた。
死の神官達が金切り声を上げて、ナナシを指差した。その一人の顔を覆う布がひらりと地に落ちた。ローブの下に隠されていた顔は、やはりどうみても“人でなし”にしか見えなかった。口元から蛸足と虫の脚とが交互に出入りしているともなれば、流石に人間と言うには難しい。
異形の重圧に身を曝されたナナシは、おぞましさに呻いた。
爪先から舐め取られるような嫌悪感と恐怖とで、身が凍る。
「ガルルルルゥアアアアアアッッ!」
咆哮――――――。
ナナシに迫っていた司祭の一人、否、一匹が、躍り出た影によって上と下とで真っ二つに両断された。
「わん」
と一鳴きして。
振り返った影は、少女だった。
少女の手には、体格に不釣り合いな程巨大な斧が握られていた。処理場から見付けてきた物だろうか、自分よりも大きな鉄の塊を、軽々と振り回している。
巻き起こした旋風で、間合いの外にいたはずの二匹の司祭をなぎ倒し、死角を突こうとしていた一匹を返す刃で叩き潰した。
「わん」
「う、うう……」
「わんッ!」
動けぬナナシの胸を、どん、と少女は強く突いた。
少女にとっては軽く押しただけなのかもしれないが、それだけでナナシの身体は戦闘域から脱した。
司祭達が、元は罪もない人々であった化け物を伴い、押し寄せて来る。
無様に地に腰を付けるナナシへと、少女はまた、わんと鳴いて、化け物の群れに向き合った。
少女ははっきりと、柔らかく微笑んでいた。
それはナナシの見間違いではなかった。
口の端を持ち上げて、まなじりを下げ、ふんわりと微笑みの形に頬を溶かしていた。
後ろ手に示した少女の指は、真っ直ぐにナナシに語っていた。
逃げろ、と。
「う、う――――――うわああああ、わああああ!」
もう限界だった。
それまでナナシが抑圧してきたものが決壊し、一気に溢れだした。
初めてこの世界に放り出された時のような悲鳴を上げて、ナナシは逃げ出した。
背後からは、少女の咆哮が響いていた。
「無理だ! もう無理だ! “僕”には無理だよ、ジョゼットさん!」
涙と涎と鼻水を垂らしながら、ナナシは走った。
躓いて、転んで、泥濡れになっても叫びは止まらなかった。
「あんな、あんな恐ろしいものを――――――」
来た道を引き返し、少女と過ごした空洞に向うナナシ。
転がるようにして逃げ込んだそこには、目指していたものが、静かに佇んでいた。ただそこに、しんとして在った。
変わらぬ重厚な鉄の輝きは、嬉々としてナナシを迎え入れているようにも見えた。
「あんな恐ろしいものを――――――“そのままにしておくなんて”!」
もう何度目にもなる――――――たかが数回の――――――鉄の重みを腕に感じながら、ナナシは喚いた。
それはこの世界への宣戦布告。
「全部、全部……叩き潰してやる!」
初めは経験を積むためだなどと、思い上がっていた。
迷宮探索に、チュートリアルなどない。
ナナシの抱いた覚悟など、そんなものはまるで無意味だったのかもしれない。一人立ちなど、出来よう筈もなかった。
何故ならば。
『ナナシ』とは、一人と一機で、一己の冒険者であるが故に。
ならば、我々は一体とならなければ。
それをどれだけ身に纏っていたとしても、意味などない。どれだけ使いこなしたとしても、意味などない。
なれば――――――呼べ、と。
我が名を呼べ――――――と。
手の内に在る鉄塊が、重く語りかけてくるように、ナナシは感じた。
ただの武器としてではなく……否、ただの武器でもいい。
我が存在を認めてくれ、と。
そう語りかけてくるように。
だから、とナナシは応えた。
「俺に力を貸してくれ――――――ツェリスカ!」
主にその名を呼ばれた鉄の塊が、歓喜に打ち震えるように、強化ガラスの双眸に翠の光を燈した。
□ ■ □
――――――さて。
人は追い詰められた時、本性を露わにするという。
この時分のナナシは、行われていた儀式が『神降し』であるだとか、産み出されていた化け物が神の為り損ないであるだとか、そんな事は全く理解などしていなかった。
ナナシがこの光景の裏で行われていた闇の秘術の知識を得たのは、学園に入ってから。精霊族の女教師が口を滑らせた、という体で雑談として口にした意味ある講義を聞いて後である。
よって、この時に下したナナシの判断は、理性に依って下されたものであるとは考え難い。己の本性を曝け出し、ただそれに従ったに過ぎないのだ。
ナナシが執った選択。
その彼の根幹と、彼の半身である“それ”に下された使命とが合致していたのは、運命の奇という他は無い。
ナナシの本性――――――それは、逃避であった。
それも、自らの葛藤から“なんとしても”逃げ出すという類の逃避だった。
実に現代日本人らしいパーソナリティだと言えよう。
だが何もかもから逃げてばかりいれば、この世界で生き抜くことなど出来ない。当然だ。
事実、ナナシも無意識に自らを守ろうとしていたのか、“耐えられる”よう自己鍛練に励んできた。
それはまるで、鋼を鍛えるかの如く。
鍛錬がナナシの身体的精神的耐久を越えなければ、問題はない性癖であったはずなのだ。逃避癖で済まされる程度だったはずなのだ。
ナナシはまったくの自覚はなかったが、彼が受けた、己に施していた鍛錬は、常人ならば体が十度は壊れ、精神に異常を喫するほどの異様なものであった。
気丈なセリアージュが取り乱す程に。
狂気に奔った老人の鍛錬術は、ナナシの根幹に深く喰い込み、一体化していたのである。逃避のための手段として。
はっきりと言うならば、これを異常だと捉えられぬ精神構造を持っていることが、ナナシの異常である。
耐えられるのであれば、壊れることはない。であれば、立ち向かう事も出来よう。何をかを迷う以前に、当然のように立ちふさがる壁を、また当然のように打ち崩していけるはずだった。
しかしナナシが直面した事態は、容赦なくナナシを圧し折った。
まだ弱く、実戦経験も浅かったナナシには、どうにもならない理不尽を叩きつけられたとしても、抗う術など何も無かったのだ。
力も、術も足りはしない。
ならば……己の存在を賭すしか無い。
己を賭して、前へ、前へと、進んでいくしかない。
それはつまり、前進することによる逃避法。
これもまたナナシにとり当然の帰結であり、それは決意も怒りも、何も伴わない純粋な本能に依る行動だった。
逃げて逃げて、逃げ切るために、全力を尽くすこと。
ならばそれはもはや逃避と表すには誤りがあるだろう。
それはもはや、『闘避』か、『逃争』とでも言うべきだ。歪んだ精神の安寧を求める防衛機構が産み出す、闘争本能の発露である。
身も蓋もなく、自棄になったと言ってもいい。我武者羅に叩き潰し消し去ってしまうことをナナシは選択したのだ。
苦痛から逃れるということ。極まればそれは、要因そのものを消し去るということなのだから。
即ち、この時ナナシが執った選択は――――――眼前の事象、その他一切の敵勢力の、殲滅である。




