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完全装鋼士 : レベル0  作者: ノシ棒
第2章 ―続・喪失編:運命―
35/64

地下30階 プロローグ1:断想―鈍色―

――――――わすれないよ。

ずっと、ずっとおぼえてる。

わたしがわたしになったときのこと。

あなたとであった、あのひのことを――――――。



□ ■ □



おおよそ五年程前の話だ。

『地下街』から逃げ落ちたナナシが、メディシス家に囲われていた頃。

その頃のナナシは、ジョゼットの死を己のせいだと責め、自棄に陥っていた。

ジョゼットの遺言――――――冒険者と成り元の世界へと帰還を果たすため、自分自身を虐め抜くことで、己を保っていた。鍛錬がナナシの逃げ場となるのはこの時からだった。

『地下街』の封印が解かれた日、命辛々メディシス家へと駆け込んだナナシは、そのまま意識を失った。

目を覚まし、事の顛末をセリアージュから聞けば、やはりジョゼットの遺骸は見つからなかったらしい。

魔物に喰われたのではなく、軍部による“浄化作戦”によって、地表部分を全て消却されたのだ。残ったのはもう、廃墟の、その瓦礫だけだという。

こんな時に限って、手遅れになってから動きが早い軍部に苛立ちが積もる。

ジョゼットの遺体だけでも戻ることを、期待はしていなかったものの実際に耳にするとその威力は凄まじく、ますますナナシの心に焦りを産むこととなった。

その日もまた、重い鉄を打つ音が、メディシス邸の中を不気味に延々と響いていた。


「見つけた。またここに居たのね、ナナシ」


「……ああ」


ここ連日、メディシス邸の中庭から聞こえる異音。

それは、ナナシが何処からか持ち込んで来た鉄板を殴り続けている音だった。

本来ならば巻き藁でも用いるべきである。拳が壊れたら、武芸者としての生命は終わってしまいかねないからだ。

現にナナシの拳は腫れあがり、割れ、ほとんどの指が有らぬ方向へと折れ曲がっていた。

それを無理矢理に布で縛って形作った拳の形は、歪なもの。声を掛けられてだらりと脱力させた手は赤く染まり、拳頭からは白い骨が覗いている。

熱心に鍛錬を積んだ結果などでは、断じてない。

武芸を少しでも齧った者にとっては、有り得ない醜態だ。己の体を鍛えるでなく、ただ破壊するなど、武芸者としてあるまじき行いである。

それを理解していながら、ナナシはこんな愚行を続けている。

武芸者達が巻き藁を突くのは、それが人の体の感触に良く似ているからだ。では、ナナシが鉄板を打つのは、何故か。

決まっている。それが魔物を打つ感触に、一番近しいからだ。

ナナシが自分の拳が壊れるのも厭わず、こんな無謀な鍛練を積んでいるのは、想定する仮想敵が魔物や魔獣であるからだ。

その様な理由もあった。しかし理由の大半は、自傷のためであったが。


「またこんなにして……手を出しなさい」


「……ああ、うん」


しかしこの世界には、魔術という人知の及ばぬ術があった。

まさに神から与えられし御技である。

治癒魔術はナナシには何故か異常に効き目が薄く、掛ける度にその効果は半減し続けていたが、それでも数時間も掛け続ければ砕けた拳程度は完治させてしまう程。

一般的な魔術師でもその程度の効果は見込めるのだという。こと外科治療に関しては、ナナシの世界よりもこちらの世界の方が、数段以上も上であった。何せ無理矢理にでも傷を塞いでしまうので、手術痕によるショック症状など皆無に等しいのである。

セリアージュのような膨大な魔力の持ち主が、全力で治癒に魔力を傾ければ、魔力を巡らせ難い体質のナナシでも数分で傷は癒えていく。

血にドレスが汚れるのも構わずに、セリアージュはナナシの拳をその小さな掌でそっと包みこんだ。

魔力が迸り、古龍の血の顕現である、翠色の魔力角がセリアージュの頭部へと形成される。

角と同色の翠色の魔力光が収まると、そこには元通り癒されたナナシの拳が。

数度拳を開いては握りしめ、感触を確かめたナナシは再び鉄板へと向き合った。

腰溜めに構えられた拳。その目指す先にある鉄板は、何度も打たれて落ち窪み、赤黒い血がこびり付いていた。

再び鉄を打つ音が響き始める。

明らかに自身の損傷を度外視したナナシの異常な鍛錬に、セリアージュは唇を噛みしめた。

メディシス邸に来てからというもの、ナナシはセリアージュと話すよりもこの鉄板に向う時間のほうが、ずっと長かった。

それに寂しいという感情を思うほど、セリアージュは子供ではない。

ただ、ナナシがこのままでは体よりも先に心が朽ちてしまうのではないかと、不安で仕方が無かった。


「ナナシ、ご近所に迷惑よ。もう止めなさい」


鳴り止まぬ鉄を打つ音。


「止めなさい、ナナシ……止めて! もう止めなさい! 貴方のせいじゃないわ! あれは仕方のなかった事だと、皆そう言ってる!

 なのにどうして? 自分を責めても、いなくなってしまった人はもう帰ってはこないわ!」


「……それでも、俺は」


「過ぎてしまったことを振り返るのはもう止めて……お願いだから、もう、止めてよ……」


「――――――」


奥歯がみしりと音をたてる。それは今、一番言われたくはない言葉だった。

後ろからセリアージュに抱き止められ、ナナシは拳を降ろした。

背中に二か所、暖かな湿り気を感じる。彼女の涙で、服が濡れていく。

大人しくなったナナシに、やっと考え直してくれたのか、とセリアージュは頬を綻ばせた。


「お嬢様」


「あ……うん、はい。な、何かしら?」


ナナシが自分を呼んでくれたのは、確か三日振りだったはず。

治癒魔法を掛けるために触れ合っているというのに、口を開けば出てくるのは気の抜けた呻きだけ。

こんなにも近くて、しかし遠い距離に、未だ十代前半だったセリアージュの幼い心は、自分で思うよりもずっと軋んだ音を上げていた。

一言、声を掛けられただけだというのに、思わず頬が緩むほどに嬉しかった。

自分自身の精神状態を客観的に把握してしまえる聡明さを備えていたことが、セリアージュに苦笑を誘った。

しかし、次にナナシが吐いた言葉に、セリアージュは足元から世界が崩れて行ってしまうような、そんな感覚を覚えた。


「邪魔だから、離れてくれないか」


「あ、あ……え?」


「聞こえなかったのか……邪魔だから、退いてくれと、そう言ったんだ」


「――――――ッ!」


ナナシが行っていたのは、来るべく迷宮探索に向けての自己鍛錬ではも、ちろんない。

本当は、ナナシは内心居ても立ってもいられず、迷宮へと飛び出して行きたい気持ちで埋め尽くされていた。

しかし“未踏破の迷宮”など、そうそう発見などされはしない。されたとしても、すぐさまそんな場所に飛び込んでいけば、盗掘者として処理されてしまうかもしれない。あらゆる意味で、覚悟が必要で、これはそのための儀式であるとも言えた。

果たして自分は、無為に時を過ごしているだけなのではないか。そうナナシが焦りを抱いたのは、当然の帰結かもしれない。

焦りは怒りを産み、その怒りは自分自身へと向けられることとなる。

周囲に怒りが向かなかったのは、単にナナシが内罰的な性格をしていたからだ。

だがここに来て、それも限界に達していた。


「どうして……!」


「お嬢様」


「わたくしでは貴方の支えにはなれないの? わたくしでは……わたくしは、貴方を……!」


「――――――退けよ」


ぐ、とセリアージュの喉が詰まる音が、背後から聞こえた。


「勝手にッ……勝手にすればいいんだわ! そうやって自分を傷つけて、何処へでも行って、そのまま死んでしまえばいいのよ! 馬鹿ッ!」


言葉が投げつけられる。セリアージュの温もりが、ナナシの背中から離れていった。

視界の端には、目元を袖で擦り上げながら曲がり角に消えていく、セリアージュの後姿が見えた。

ナナシは溜息をついて鉄板に向うと、拳を振り上げ――――――そのまま、腕を降ろした。


「本当に、馬鹿だよなあ……何をやってるんだか、俺は」


自分よりも一回りは年下の女の子に、当たってしまった。

まだ12歳だというのに老成した雰囲気を放つセリアージュだが、それは『竜眼』の能力のためだ。

未来を見せるその瞳は、主観時間だけで言えば、ナナシよりも長い“時”をセリアージュは体験していることになる。

しかし心の強さは見た目と同じ……否、それ以下かもしれない。

こんな場所に押し込められて、ずっと暮らして来たのだ。“見得て”いたものは運命の行く末だけで、本当の意味で人と触れ合った経験など、ほとんど無かったはず。


「ちくしょ……」


拳に奔る鈍痛に、ナナシは苦しげに目を伏せた。

ようやく気付いたその痛みは、己の心が上げる叫びに等しかった。こんなに痛かったのかと、自分でも驚く程に。

拳を振るっている時は、無心でいられた。

だから、拳を振るっていなければ、自分自身と向き合うしかないではないか。

ジョゼットが生きていた頃と、何も変わらない。己は変わってはいない。それがたまらなく嫌になる。

逃避こそが、ナナシが鍛練へと向かう原動力だった。


「駄目だな……外の空気でも、吸ってくるか……」


疲れたように息を吐くと、ナナシは裏門へと足を向けた。

途中、セリアージュの父親と、婚約者に遭遇しないよう気を付けて。

言うまでも無く、自分は歓迎されぬ客だった。

当然だ。メディシス家の龍姫が囲い込んだ、どこの馬の骨とも知れない男。そんな噂が貴族間に囁かれれば、メディシス家にとり痛手になるに決まっている。

特にセリアージュは女児なれば、言わずもがな。

龍眼の特性から、キズモノになったなどと、噂の一つも囁かれるなどという事態となることは許されないのだ。

解っているのかいないのか、セリアージュはそんな父の思惑を無視し、ナナシの世話を焼いていた。

きっかけは解らないが、それでも自分に向けられる好意にまるで気付かないほど、ナナシは鈍感でもなかった。

ただ、背後関係と自分の事情が絡んでくるために、その好意を避け続けてきた。

それは未だ精神的に幼い彼女にとって、残酷な仕打ちだったかもしれない。

しかし受け入れることなど、出来そうもない。背負うことになるであろう責任が、重過ぎる。

女を支えてやる覚悟もない情けのない男だと言われても仕方がないだろう。

ナナシは“こちら”で誰かと共に生きる等という考えを持つことが出来なかった。

特に、今は。

人の出入りが少ない裏門は、ナナシの心境を現わしたように、錆ついて重かった。



□ ■ □



露店から値切りの声が飛び交う賑やかな路を慣れた様子ですり抜けながら、何とはなしにナナシは街を歩く。

流石、竜眼の恩恵により豪商としても名高いメディシス家の御膝元であってか、街路の活気は耳に入るだけで高揚するものがある。

スリや強引に物を売りつけようとする悪質な露天商を見て嘲笑うのも、気分転換に一役買ったかもしれない。いささか薄暗い楽しみ方ではあるが、これもまた商いの楽しみ方だろう。

たかだか数週間の間、訪れていなかっただけだというのに、これほどの懐かしさを感じるのはなぜだろうか。

自分が思っている以上に、この場に“根付いて”いたのかもしれない。ここが、第二の故郷だと思ってしまう程に。

それがナナシには嬉しくもあり、また辛かった。


「ナナちゃん! ナナちゃんじゃないかい!」


「あ……おばさん」


店の軒先から声を掛けられ、ナナシが首をもたげた先には、“兎の頭”をしたふくよかな女性が。

人身獣頭の『ベタリアン』。兎の頭を持った壮年の女店主が、エプロンで手を拭きつつ、真っ赤な目を優しげに細めながら近付いて来る所だった。


「お久しぶりです、おばさん」


「本当に、久しぶりだねえナナちゃん。ちゃんとご飯は食べてるの? 随分と汚れてるけど、毎日お風呂に入らなきゃ駄目よ?」


「うん、大丈夫だよおばさん。解ってる。解ってるから」


「でもねえ、あたしゃ心配だよ……ただでさえ、あんな事があったんだから」


「うん……」


「辛かったねえナナちゃん。ほら、おいで」


ナナシの返答を聞く前に、兎頭の女店主はそのふくよかな懐の内に、ナナシを抱き寄せた。


「わっ、と、おばさん」


「よしよし、よく頑張ったね。あんたは偉いよ。本当に偉い。こうやって、ちゃんと生きて帰ってきたんだから」


ナナシは最初は面食らっていたが、抱擁に身を任せた。もちろん羞恥はあったが、それよりも懐かしさの方が勝っていた。

ジョゼットの使い走りをしていた時は、この店は馴染みの店の一つであり、こうして店主夫婦と言葉を交わしよく抱きしめられていた。

ベタリアンと純人種という珍しい組み合わせの夫婦に、何故か気に入られていたナナシは、随分と世話になった記憶がある。

記憶だ。それはもう、ナナシの中では過去のものとなっていた。


「あたしの馬鹿息子は、あたしが“こんな”だから冒険者になるって家を飛び出して、おっ死んじまったからね。生きているのが一番、生きているだけでいいんだよ」


「おばさん……」


「ナナちゃん。頼むからナナちゃんは危ない事をしないでおくれよ。どうかおばちゃんを安心させておくれ」


感じる暖かさに思わず首を縦に振りそうになる。

ナナシは言明を避け、ただ黙りこむしかなかった。

ナナシを抱きとめる彼女は、ぎゅうと一層強く抱き締める力を込めた。

それは、答えが返ってこない理由を察してのことか。


「そうだ! ねえナナちゃん、久しぶりに家で晩御飯食べていきなよ! おばちゃん、腕によりを掛けてナナちゃんの教えてくれたに、に……ええと」


「にくじゃが?」


「そうそう! にくじゃが作るからさ!」


「本当に? ありがとうおばさん。楽しみだな」


まだ心の底から笑う事はできないが、ナナシは凝り固まっていた物が解れていくような、そんな気がした。

これでいいかもしれない。ナナシはそう思った。

傷は少しずつ、時が癒していくだろう。痛みに慣れ、忘れ去ることが出来るだろう。

幸い、この夫婦には気に入られているのだ。

あのまま屋敷に居座りお嬢様を悲しませるよりも、この店で下積みをして、商人として働いた方がずっといいのではないだろうか。

兎頭の婦人を抱き返そうと、ナナシは腕を広げた。しかし、その腕が背に回される事はなかった。

未だ未熟とはいえ、鍛えられた感覚が殺気を捉える。


「てめぇ、俺達を舐めてんのか! 何だこの値段はよお!」


「困りますお客様! おやめ下さい!」


激しく物が壊れる音と、男性達の争う声。


「おじさん……! すみません、様子を見て来ます!」


「駄目よ、ナナちゃん、待ちなさい! ナナちゃん!」


ナナシが店に飛び込むと、案の定、引きずり倒された陳列棚と胸倉を捻り上げられた店主の姿が。


「おじさん! 何やってるんだお前ら!」


「ナナシ君、来ては駄目だ、戻りなさい!」


「ああん? 何だあコイツは、急に首突っ込んで来やがって。ガキはすっこんでな。ほれ、向こう行ってろ」


あっちへ行けと手を振る三人組の男は、それぞれが仰々しい武装をしていた。冒険者だ。

荒々しい言葉遣いが、ナナシに嫌が応にもジョゼットの影を思い起こさせる。しかしその下卑たにやつきは、冒険者に憧れを抱いていたナナシの神経を、大いに逆撫でした。

相手との戦力差を考えるよりも前に、ナナシは拳を構えていた。


「止めなさいナナシ君! 手を降ろすんだ!」


「すみません、おじさん……それは出来ません。お前ら! さっさとその手を離して、謝罪しろ! さもないと」


「さもないと、どうなるんだ? ん? まさか痛い目に会わせてやるなんて、笑えることを言ってくれるのかなあ、ガキィ」


「……お前達、次第だ」


「ワッハッハッハ! おい、聞いたか野郎共!」


一斉に笑い声を上げる冒険者達。同時に、後ろに控えていた二人が、これ見よがしに武器をちらつかせた。

顔を青ざめさせる店主に申し訳ないと思うが、それは仕方のない反応だった。この場に居る誰もが、ナナシの力を信じてなどいなかった。ナナシ自身でさえ。

通常、一般人が冒険者に敵う事など有り得ない。それは、レベルという概念がこの世界にはあるからだ。

魔物を倒すことで信仰を示し続けている冒険者は、一般人の何倍もの加護の恩恵を受けていることになる。

レベル差が5も開いていれば、それはよほど特殊なスキルが無ければ覆せるような差ではなかった。

レベルとは戦力換算の意も含む。もちろん一般人のレベルはせいぜい1か2程度のものだ。そしてナナシのレベルは0。放神という、神の加護を手放した忌むべき者達と似て非なるレベル。

装備から見ても相手は低位の冒険者だろうが、敵う筈が無いのである。


「ハッハッハ、ハァーぁ、あーあ……おいおい坊主よう、そう睨んでくれるなよ。これじゃあ俺達が悪者みたいじゃあねえかよ、え?

 俺達はただ、ここのオヤジが人様の足元を見てふっ掛けて来やがったもんだから、抗議をしてただけなんだぜ? 正当な権利だろうがよ」


「馬鹿なことを! この人達は採算を無視して赤字覚悟の値で商売してるんだ。こんな良い店、他にあるもんか!」


「駄目よナナちゃん! あたし達の事はいいから、下がって!」


次いで飛び込んで来た女店主の“顔”を見て、冒険者達の笑みが凍りついた。


「ベタリアンじゃねえか!」


変わりに浮かんだのは、嫌悪の表情。


「おい、行くぞ野郎ども」


「へ、へい。でも良いんですかい兄貴? ここで道具を巻き上げていかないと、今度の迷宮が厳しくなっちまうんじゃ」


「グダグダ言うんじゃねえ! “人もどき”の触った品なんざ使えるかよ、汚らわしい!」


瞬間、ナナシの怒りが沸点を越える。

声を上げて位置を悟らせるようなことなどしない。死角から飛び掛かり、おおよそ人間では回避できないはずの速度を持って、足刀を右側頭部へと打ちこんだ。

一般人だと油断している冒険者達は、反応が遅れるはず。そしてナナシの目論見通り、半ば蹴り抜くつもりで打った致命の一撃は、回避される事がなかった。

ただ、それ以上の速力で、掴み取られていただけだった。

男一人を片手で軽々と逆さ吊りにした男は、そのまま床へとナナシを打ち据える。


「うぐぅあ……ッ!」


息が詰まりむせ返るナナシを無視し、こんな汚れた場所には一秒たりともいられぬと、男たちは唾を吐いて去って行った。

後に残されたのは痛みに蹲ったナナシと、労わるようにその背を撫でる夫婦だけ。


「ナナちゃん! あんた、なんて馬鹿な真似をしたんだい! ちょっとでも間違いが起きてたら、死んでたんだよ!」


「すみません……でも、おばさんの事を悪く言われるのが、我慢できなくて」


「いいんだよあたし達のことなんざ、放っておいても! 言われてもしかたないことなんだ。あたしはベタリアンなんだから。あんたが怒ることはなかったんだよ、あたしのせいで、こんな」


「おばさん」


ナナシは制止の言葉を口にした。

兎の婦人がはっと息を呑む。

ナナシの瞳を正面から、間近で覗き込んだ兎の婦人は、その奥に、何か深い、暖かな海のような暗がりが広がっているのを見た。底知れぬ闇のような……しかし恐怖は感じない。

ナナシはうまく言葉にならない何をかを伝えようと、顔を顰め、口を何度か開閉してはみたが、結局言葉は見つかることがなかった。

何とか声になったのは、ただ一言だけ。


「それは――――――それは、違うと思います」


「ナナちゃん……! あんたって子は、本当に……! 本当に……!」


その一言がどれだけ真摯に心と向かい合って発せられたものか、兎の婦人は確かに感じ取った。

またきつく抱きしめられてナナシは呻いていたが、不思議と口元には微笑が浮かんでいた。


「ナナシ君……ありがとうな。身体の方は大丈夫かい?」


「はい、受け身を取ったので」


大丈夫ですと、そうは応えたが、ナナシは内心大きなショックを受けていた。

あれだけ無理をして鍛えても、一矢報いる所か、相手にされもしないなんて。

だが、それは初めから解りきっていたこと。解ってはいたが、現実を突き付けられれば衝撃は大きい。

しかし、新たな発見もあった。

死角からの攻撃を視認して、行動に移るまで。足を掴んだ動作は視界に残像すら映らないほどのスピードだったが、実際にこちらの姿を確認してからの始動時間は、むしろ自分の方が速かったのではないか。

相手の手の内の十手先、二十手先を見通せば、あるいは"届かせる”ことが出来るかもしれない。またあるいは、一撃が放たれる前に発せられる精神の“起こり”とでも言うべきものを、察知することが出来たのなら。

絶対的速度で敵わぬならば、相対的速度で勝負すればいいのではないか。

胸の内に、微かな手応えが。ナナシは何かを掴んだような顔で、頷いた。


「そっか……“心の速さ”はレベルが高くなっても、冒険者でも変わらないんだ……」


「どうかしたのかい? やはり、どこか痛むのかな」


「いえ、何でもありません。さあ、片付けて、警官の所に行きましょう」


「無駄だよ、今は軍部も自警団もパンク状態だからね。街もこんな状態だしね」


「何でまた。そういえば、今日はいつにもまして人の行き来が多かったような」


通りに眼をむければ、普段の倍以上の人間が往来をひしめいている。

見れば、冒険者が多いようだが、これはいったい何なのだろうか。

『地下街』に挑みに来た、とは考え難い。あそこはもはや封鎖域とされてしまったため、もはや誰も足を踏み入れる事が出来ない状態になっていた。

自分を除いて、だが。


「その……これは聞いた話なんだけれど、どうやら先日再活動を始めた『地下街』は、未完成の迷宮だったんだそうだ。そこに神を祀る前に、何らかの事情で迷宮が塞がれてしまったらしい。あそこは、信仰の空白地帯だったんだよ」


「それとどう関係が?」


「つまりねナナちゃん、近場にいる神様たちがみいんなあそこを狙って動き始めたってことさ。『地下街』が目覚めたのをきっかけに、未踏の迷宮があちこちに出現し始めたって話だよ。

 町がお祭り騒ぎしてるのは、そんな訳さ。こっちはいい迷惑だよ全く、礼儀ってのを知らない奴が多くて、困るったらありゃしない」


そうですか、と応えながらナナシは抱擁を解き、純人とは異なる真紅の目をじっと見つめた。

深い海の底のような黒い瞳に、先までとは違う、暖かさではない、不気味な何かが灯っていた。


「ねえ、おばさん」


「な、なんだい?」


「その話、詳しく教えてもらえませんか――――――?」


言うべきではなかった、と。

亡くしてしまった息子の面影をナナシへと重ねていた兎頭の婦人は、悲しげにその真紅の目を伏せた。



□ ■ □



若輩であることも要因の一つだろうが、自分のコミュニケーション能力がここまで乏しかったとは。

腫れあがった顔を保冷材で冷やしながら、ナナシは大きく溜息を吐いた。骨が砕けなかっただけ、まだましか。

疲労に肩を落としながら、ナナシは十日単位で契約した安宿のベッドに身を投げ出す。打ちっぱなしの木のベッドが、軋みを上げた。

メディシス家を出る直前にセリアージュに姿を見咎められ、詰め寄られたが、ナナシの決意が固い事を知ると、顔を蒼白にし何も言わず俯いて、セリアージュは立ちつくしてしまっていた。

落された視線には、何の光も映されてはいなかったように思える。

今まで散々邪険にしてきたのだ。これはもう、愛想を尽かされてしまっただろう。申し訳なく思うが、もう終ってしまったことなのだ。どうにもならない。今はもう、先に進むしかない。

近隣にて新たに発見されつつある『未踏の迷宮』群。

逃げるようにメディシス家を飛び出したナナシは、単身この迷宮の一つに挑んでいた。

しかし未踏とは仮称されているものの、市街地にまで噂されるまで知られてしまった迷宮には、ナナシが到着した頃にはすでに周辺を冒険者達で溢れ返らせていた。

そこでナナシは乱闘騒ぎを起こしたわけである。

もちろん、相手は冒険者。暴力沙汰など冒険者がたむろする場所では茶飯事であるため、誰も問題になどはしなかったが、しかし見世物的な意味で人目を引いていた。

それはナナシが全身に機関鎧を装備した、装鋼士であったが故。

何の力のない、張りぼての、メッキの力で身を飾った一般人が、愚かにも意気込んでいると、からかわれたのだ。

そこで直ぐにカッとなって手を出してしまったナナシも大概に愚かであるが、しかし管理外の迷宮に一般人レベルの者が足を踏み入れるなど、狂気染みた行為であるのは確かだ。

分不相応に一攫千金を夢見てしまった馬鹿か、家出貴族の度を越えた道楽か……そう思われるのは無理も無く、当然のことだ。

初めにナナシに声を掛けた冒険者も、その言は善意から来るものであっただろう。しかし発言の内容が、機関鎧を軽視するものであったことがナナシを激昂させた。

急に殴りかかられた冒険者にとっては、善意に悪意を返された理不尽な応答であったことだろう。事がナナシ本人の無力さについてならば、聞き流す事ができた。

だが冒険者達は、この機関鎧を――――――ツェリスカを、そんな玩具は役に立たぬと言って、ナナシを留めようとしたのだ。であるならば、ナナシはツェリスカが玩具などではなく、歴とした兵装であることを証明せねばならなかった。暴力に訴えたのである。

その結果がこれだ。


「未熟すぎだろ俺。ほんと、どうしようもないガキだな……いつっ!」


腫れは大分引いたが、目と頬周りの青痣は残るだろう。

機関鎧を着ていることを指摘するのならば、もう少し手加減をしてほしいものだ。ここにお嬢様はいないのだから、無理はできない。

勢い込んでやって来たはいいものの、しかし何の収穫も見込めそうにないことに、ナナシは落胆と少しの喜びを感じていた。

まだ帰る事は出来ないと、そう喜んだのだ。それは紛れもない事実であった。

何故そんな思いを抱いてしまったのか、ナナシには自分でも解らなかった。ジョゼットが死に、セリアージュとも袂を分かち、もう何の繋がりも亡くしてしまったはずだった。

街の人達に好かれてはいたが、それが引き止める強い理由にはならない。

だがナナシの本心はどこかでこの世界に留まることを望んでいた。ほんの少し、一欠けらだけでも、望んでいたのだ。

無意識では、否、意識上でも理解していたのに。そんな思いを抱くのは無駄だと、在ってはならない事だと。

自分はこの世界の住人ではない。何の原因かも解らず、ある日突然この世界に放り出されたのだ。持っていたものは、コンビニ袋に包まれたおでんだけ。

ならば、またある日突然、何の原因かも解らず元の世界に戻されるかもしれない。

この世界に“根付く”ことなど、出来はしないのだ。


「わかってるけどさ」


独り言ちて、ナナシはゆっくりと身を起こした。

今日も、これから探索をしに行かねば。緩めた鎧の拘束を締め直し、道具を点検する。

ナナシ自身の体重も含め100kg超の増減により、安宿のベッドのスプリングが致命的な音を立ててその役目を終えた。

探索を初めて三日。収穫は無し。

だが、初めての探索は、ナナシの心を高揚させた。

どこからともなく現れる魔物。襲撃を恐れ、影に怯えながら進む暗がりの道。他の冒険者の断末魔の叫び。拳が砕いた肉の感触。舞い散る血飛沫。

これが冒険者か、とナナシは思った。

これが冒険者の送る日々、迷宮探索か、と。

目に映るものはどれも変わらぬ岩肌で、醜い魔物と、ゴミのような産出品でしかないというのに、見るものその全てが新鮮で心が躍る。

どうしてこんなにも、胸が熱くなるのだろうか。

ナナシは不思議でならなかった。

楽しい――――――心の底から、自然とそう思った。想ってしまった。

命が掛かったやり取りを楽しんでしまうとは何事だろうか。もっと鋭く、ストイックにならなければ。

そうでなければ“許されない”ではないか。

ナナシは何故自分がそのような結論を抱くようになったのかも自覚することなく、この後の探索の準備を始める。

ジョゼットから教わった生き抜く術。あれは迷宮で、特殊な力を用いることなく生き抜くための術であった。

ナナシが冥府の底よりも暗く残酷な迷宮という場所に、三日も篭ってまだ生きていたのは、ジョゼットの教えのため。ジョゼットが与えた技術が、ナナシを今日も生かしていた。

誰も知らぬ迷宮の先に、元の世界への帰還の道があると信じ、ナナシは再び迷宮へと脚を踏み入れる。たった独りで、誰とも言葉を交わすこともなく。

しかし三日も経てばもうほとんどの箇所に人の手が入っていた。無駄だと解っている事に時間を割くのは、徒労でしかないだろう。それでも行かねば。

そうしなければジョゼットに、セリアージュに申し訳が立たない。せめて冒険者として一人立ち出来るよう、ここは経験を積むべきだ。

意味のない自己理論を捏ねながら、ナナシは宿泊室の扉を開けた。

ふと感じたのは、身体に掛かる鎧の重さ。

果たして、ツェリスカはこんなにも重かったのだろうか。

自らの背負った重荷の重量だけを肩に感じるナナシは、はっきりと言って、甘過ぎたとしか言いようがない。

そんな、過去に引きずられて責め立てられて迷宮に挑んだものが、何かを掴むなどと……迷宮はそんなやさしい場所ではない。

ナナシのように感傷的な冒険者が直ぐに死んでいくことを、ナナシはまだ知らずにいた。

だが、直ぐにそれを知ることとなる。

迷宮の入り口は露店や、パーティの誘いを待つ冒険者達がたむろしていた。

彼らに侮蔑の視線と言葉を投げかけられながら、ナナシは迷宮の暗闇へと足を一歩踏み出した。


「どいつも、こいつも……俺も……」


遠ざかっていく悪意に悪態を返す。

いつか見返してやろうか。舐めた口を利いた奴は、殴ってやろうか。

そんな暗い情念を燃やすには、余裕が出来て来たのだろう。この三日は、一歩歩むだけでも必死であったというのに。

だがそれは進歩ではない。

ナナシが次の一歩を踏み出した瞬間――――――底が抜けた。

比喩ではない。床が消えてなくなったのだ。

穴だ。


「ひ――――――ッ!」


悲鳴と共に、ナナシの姿は穴の底へと消えていく。

愚か者を飲み込んだ落とし穴は満足そうにして、その口をゆっくりと閉じていった。



□ ■ □



見上げれば、暗がりに浮かぶ二つの青い月。

その背後にはいつか見たような鍾乳石が、どこからか挿し込む灯りに淡く光を放っていた。

見下ろす月が、一瞬隠れる。

それは月ではなかった。それは美しい、双つの蒼い瞳だった。

蒼色の瞳が、息が掛かる程の距離から、じっとナナシを見詰めていた。


「う、ぐ……!」


体が痛む。痛みに歪む顔を覗き込まれている。

頬を撫でる髪の感触がした。

ほとんど光源が存在しないというのに、降り掛かる髪は不思議な輝きを孕み、鈍い鉄の色に輝いていた。

湿った外気の感覚に、ナナシは兜を脱がされていることを知る。

さて、自分は介抱されていたのだろうか。あるいは、捕らえられているのだろうか。

起き上がろうとするが肩を押さえつけられ、横に倒されながら、ナナシはここに至るまでの経緯を整理する。

あてもなく迷宮内を彷徨っていたナナシは、低層でとある冒険者の一団を発見した。構成員のほとんどが負傷をしていたようで、背後からは魔物の群れが迫っていた。逃走戦だ。

一人では無理だ、君も逃げろ。そう叫ばれる声を無視し、ナナシは頼まれてもいないのに殿を買って出た。

ナナシは、低位の冒険者には歯が立たなかった魔物に自分は勝てるだろうと、根拠のない自信を抱いていた。

機関鎧を着込んでいるからという自惚れがあったのかもしれないし、様々な出来事への自暴自棄があったのかもしれない。

勇んで魔物達に躍りかかったナナシだったが、しかし相手の数が問題だった。元々ツェリスカは市街地戦を主眼に置いて開発された箇体である。足を止めないよう立ち回ることが主な運用法として求められることは当然であり、迷宮のような閉所で、しかも大量の魔物を捌かねばならないとなれば、ナナシも『地下街』のようにはいかなかった。

戦いの最中、ジョゼットの言葉が頭を過ぎる。


――――――戦いの最中に“背中が怖く”なったなら、その感覚、よく覚えておけよ。そいつは“冒険者の自覚”だ。仲間さえいたら、ってよ。まあ冒険者にならないってんなら、意味はないがよ。


ジョゼットさんの言う通りでしたよ。

ナナシは背中に感じる恐怖に、胸中でジョゼットに告げた。思えば、ジョゼットは初めから自分を冒険者とするべく教育していた節がある。

まるでナナシが辿る道を見通していたかのような教えは、過去に己が歩んで来た道であったからだろうか。

背中に迫る殺気が、紙一重で避けた剣風が、恐ろしくて恐ろしくてたまらなかった。


「仲間さえいたら――――――!」


大腿部裏側へとクリーンヒット。

たまらず地に手を着いたナナシは、しぼりだすように無念の声を上げた。

どれだけレベルが低かろうが、自分よりは圧倒的強者である冒険者達が徒党を組む理由を、ナナシは理解していなかった。

しかし今、正にこの時になって理解している、させられている。閉所での密集戦は、お互いにカバーし合うことが生命線となるのだ。

自分が学んだのは、武術である。暗殺術ではない。構え、待ち、打つ、これが一動作なのである。そこに殺すという要素が加わってはいなかった。教わる時に、意図的に除外されたようにも思える。

壁や天井を足場と変えることは出来る。だが、敵を“殺す”ことに特化するには未だ到達してはいない。いずれはそれも可能となる練度には到達するだろうが、今は未だ、未熟が過ぎた。

自らの至らなさを理解したナナシがとれる行動は、逃走しかなかった。

孤独に在らねばならないという思いと、探索には仲間が絶対的に必要であるという事実に、体捌きに齟齬が生じる。

気付いた時には、踏みだした足は空を泳いでいた。

解り易過ぎて解除もされず、誰も見向きもしなかった落とし穴。そこにナナシは掛かったのだ。

間抜けめ、と自分を罵倒するよりも早くに、内蔵が浮き上がるような浮遊感。

次の瞬間、足元に口を開いた大穴に、真っ逆さまにナナシは飲まれていった。


「――――――」


「――――――あ」


「――――――」


「おまえ、は……」


記憶が途切れる直前までを、蒼い瞳と見つめ合いながら思い出す。

こちらをじっと見つめる眼。

それは祈りを込めたような、警戒と敵意と慈愛とを込めたような、矛盾する感情が同在し、しかし静かな光を湛えて優しかった。

天井の材質に比べ背中に柔らかい感触を感じたことから、介抱されていたのだろう。身体の痛みは次第に引いていき、迷宮に踏み入る前からの顔の腫れも収まっていた。

ナナシが意識を取り戻した事を確認し、蒼い瞳が離れていく。

ようやく瞳の主の全貌を掴んだナナシは、驚きの声を上げた。


「お前は、一体……」


痩せ細った身体。

襤褸切れを被っただけの衣服。

全身を覆うように伸び尽くした髪は、鈍い鉄のような色に輝いている。

襤褸切れから露出した下腹部に視線が行く。男のものは存在していない。

それは少女だった。

ただし、その少女は純人ではなかった。

背後に揺らめいて見えるのは、延びきった髪ではない。同じ色をした尻尾だ。

何よりも目立つのは、頭部に垂直に生える一対の耳。犬狼族の証。

イヌ科の耳を持った少女の顔は、髪に隠れて解らない。

しかしきっと無表情なのだろうとナナシは思った。ただ、蒼い瞳だけが爛と光りを放ち、こちらをじっと観察していた。

ナナシの問いに応えるように、少女は口を開いた。


「わん」


何の感情も見えない、無機質な声。

予想通りの声色と、予想外の返答に、ナナシは口端を引きつらせる。

これがナナシと、ある一人の少女の出会いである――――――。

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