地下29階
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切実に。
かぁん、かぁん――――――と、鉄を打つ音が聞こえる。
解かっている、これは夢だ。そうナナシは自答する。
夢だと解かっているのだから、ナナシは取り乱さず、老人のその後姿を静かに見詰めていられた。
何時ものように。
あの時のように。
「それでいい」
赤熱した鉄を、鉄の槌が打つ。
幾度と無く槌を振り下ろしながら、撃鉄の間断を縫うように老人は口を開いた。
依然として老人の顔は熱された鉄に向けられたままだったが、ナナシはそれが独り言ではなく、自分へと応えたものであると理解していた。
それが老人とナナシの独特なコミュニケーションの取り方。
初めて出会った時から繰り返されて来た、彼らなりの対話の仕方だった。
「ふん、まあ、何とかやっているようだな。お前にしちゃあ上出来だ」
かぁん、かぁん――――――と、鉄を打つ音。
老人は振り向かない。
ナナシには老人の背を窺い見るしかなかった。どうしても、顔を見ることが――――――顔を思い出すことが出来ない。
夢の中ぐらい、自分の都合の良いようになればいいものを。
「それでいい」
再び老人は告げた。
「お前が思っている以上に、命ってのは安いのさ……この世界では特にな。あっちでもこっちでも、無意味に人が死ぬ。
だから死んだ奴のことなんざ、とっとと忘れるに限る。でないと、俺みたいになっちまうぜ。お前は俺の真似ばっかりしてたからな……とは言ったものの、忘れられないから俺が此処に居るわけか。
ったく、仕方のねえ奴だ。でもまあ、お前はそれでいいんだろうよ」
「冒険者ってえのはもっとドライなものなんだが」と呆れたような、それでいて嬉しそうな声。
「いいか、お前が周りの奴らから慕われてる理由はそこにあるってこと、忘れるなよ。
冒険者は倒れた者へ振り向いてはいけない。そう言ったがよ、撤回するぜ。躓きながらでもいい、お前はそうやって進んでいけ。
目的も目標も、思想も夢も信念も無くったって構わねえさ。惰性だらだら続けたって構わない。
止まるな。何があっても進め。歩き続けろ。それでも無理なら、立ち止まってもいいさ、足を止めたっていい。ただ、前へ進む意思だけは失くすな。
そうして自分が何処まで行けるか、確かめてみな。いいな、それが振り向かない生き方って奴だ。冒険者の生き方だ」
変わらず老人の顔はようとして知れない。
「そうして『これは』と言える“何か”を見つけろ……なに? 抽象的過ぎて解んねえって? こまけぇこたあいいんだよ! とにかく、何か探してその手に掴んでこい。それがお前の冒険だ、いいな!」
「はい」とナナシは答えようとした。
しかし声は出なかった。発声器官が丸ごと失われたような、そんな不思議な感覚。無いということが伝わる、矛盾を孕んだ感覚。
それは、此処が夢の中であるからか。
「“なんとなく”でここまで来ちまうような場違いな奴だからな、お前は。当然壁にぶち当たる事もあるだろうよ。
そしたらお前は潰れちまうに決まってら。そこで止まって、終わりにしちまうだろうな。弱っちいからよ、お前は。だからよ……理不尽に打ち勝つ術を教えてやる」
老人は顔を向けぬまま、右腕を頭上高く掲げた。
何時しか鉄を打つ音は止んでいた。
独特な手の形。指を完全には握らず、折り曲げた状態で維持することにより、掌底から手刀、拳撃や武器戦闘まで幅広く対応出来るよう工夫した、奇異な型。
浅く握られた掌は、対人戦にはおおよそ向いていない非合理的なもの。
それはもはや何万と繰り返したか解からない、無名戦術の基本型だった。
「ゲンコツを握んな」
そう言って、老人は折り曲げられていた指を一気に握り込んだ。
「レベルもスキルも、魔法も加護も、全部が全部、神様から与えられたものだ。
神によって管理統制された力は暴走することがない、非常にクリーンな戦力……そう認知されているが、どうだろうな。俺が放神してから考えるようになったのは、加護システムの脆さ、危うさだった。
貸し与えられたにすぎない力は、いつか上位権限によって制御操作されてしまうんじゃないかとな……放神した男のやっかみだとは言ってくれるなよ。
所詮、貰った力だ。貰い物を誇るなんぞみっともないぜ。
お前の力だって同じ、紛い物だ。大層な鎧に身を包んで強くなったような気でいるかもしれんが、そいつを脱いだらお前は丸裸だ。無力な小僧でしかない」
老人は語る。顔を見せぬままに。
思い返せば、老人とは一年程度の付き合いだった。
いくら影響が大きかったとはいえ、その後何度も命の危機に晒されるような“濃い”日常を過ごしていれば、記憶が擦り切れていくのも仕方の無いことではないだろうか。
否、ナナシにとり、この老人の表象は鉄を打つ後姿だったというだけだ。
冒険者は倒れた者を振り返ってはいけないと、よく聞かされていたのを覚えている。それは老人の後悔からの言葉だったのかもしれないが、中々どうして、自分はそれを体現しているではないか。
ただ、振り返らず一歩を踏み出すのに、時間が掛かるだけで。
「でもな……こいつだけはお前を裏切らない。こいつを握った時間だけは……そうだろ?」
握り込まれた拳から、骨と筋が軋む力強い音が、聞こえたような気がした。
老人の顔も声も忘れかけているというのに、その拳の美しさだけは絶対に忘れることがない。
不思議とナナシはそう断言出来た。
「弱い自分にほとほと嫌気がさした時、理不尽に打ちのめされて立ち上がれなくなった時、そんな時にはよ、拳を握るんだ。
どれだけ自分が弱くても、握られた拳の堅さだけは絶対だ。そいつで脆い自分を消しちまえ。そうすりゃあよ、堅い拳だけが残るだろ。後はよ……解かるな?」
ゆっくりと拳を解いて、老人は天を仰いだ。
乾いた笑いが漏れたような気がした。
「恥かしいことに、俺には出来なかったことだ。お前は、頼むから、諦めて手を解かないでくれよ。お前は俺の真似ばかりしてたからよ……お前は俺に、似てるからよ……」
「心配してくれたのですか」とナナシは口を開いたつもりだったが、音が発せられることは無かった。
しかし老人には伝わったようで、頭上で手をひらひらと振って否定していた。
「馬鹿かお前、心配とかそんなんじゃねえよ。出来の悪い弟子の事が、心残りだっただけだ」
老人の中では、それは同じ事ではないらしい。
チ、と舌打ちを一つ零して短く刈られた白髪を豪快に掻いていた。
「とにかく、俺の言いたいことはそれだけだからよ」
さあもう心残りは無くなったぞ、と老人は言った。
ただし、お前がしっかりしたならな、と。
「まあ、ここでの話なんざ覚えちゃいられねえだろうが、いいさ。ただコイツだけは忘れてくれるなよ、ほら」
唐突に老人が投げ渡したのは、先ほどまで鎚で打たれ、紅く熱されていた鉄塊。
いつの間にか、あらゆる工程を無視して整形されていた。
これも、忘れるはずの無い形。
己の半身とも呼べるもの。
「お前の行く道は孤独じゃねえさ。共に歩むものがいる」
――――――ツェリスカ。
「これでもう会うこともあるめえ。もし次があるとするなら、それはお前がこの世界から去る時だろうな……じゃあ、そん時まで、あばよ」
実に呆気なく、老人は立ち上がり、手を振って歩き出した。
懐かしい背中が、暗がりに消えていく。
ナナシは手を伸ばし何かを言おうとしたが、しかし声は出なかった。
何をかを言えたとしても、待ってくれと言おうとしたのか、ありがとうと言おうとしたのか、自分でも解からなかった。
「ああ、そうか」
その背中が消える瞬間に、老人ははたと立ち止まった。
虚空に視線を落とし、申し訳なさそうに背中を丸めて。
「悪いなあ“お嬢ちゃん”。茶の一杯も出してやれずによ。だが“席は空けといた”からよ、これからは、お前さんがこいつを守ってやってくれや」
何を言っているのか、そう疑問に思う前に、ナナシの背後から聞きなれた声が響く。
「――――――わんっ!」
鈍色の、力強く頷いた様な、そんな声。
何故お前がここに――――――?
やはり問う声は出ず、ナナシの意識は急速に白んでいった。
□ ■ □
目覚めて初めに見た光景は、大小様々の鍾乳石が連なる岩肌の空。
ぼんやりとそれを眺めていると、初めてこの世界にやって来た時の事を思い出す。
あの時は確か、呆っと現実逃避していたところを最下級の魔物であるスライムとゴブリンに襲われて、命辛々逃げ出した覚えがある。
そして血みどろになって廃墟を彷徨っていた所を、恩人に拾われ、鍛えられた。
恩人の顔は……うす雲が掛かったようにして思い出せない。
日に日にそうなっていったような、気がする。少しずつ、あの人のことを忘れていったのだ。
自分が薄情なのかと、嫌気が差す。
もう5年以上も前になる。どうりで、ぼんやりとしか顔を思い出せないはずだ。
それは倒れた者を振り向いてはならないという、遺された教えを守っていることになるのだろうか。
だが、今でも瞼の裏に思い出すのは、黙々とただ鉄を打っている、巌のような背中。
あれだけは忘れることはないだろう。これからも、だ。
気絶していた間、何やら懐かしい夢をみていたようだったが、さて。
「……なんだっけ?」
思い出せないのならば、大した内容でもあるまい。懐古の情に浸るのは、ここまででいいだろう
ナナシは痛みを訴える頭を抱えて起き上がった。
指の間から、パラパラと兜の破片が零れて落ちる。
モニターは全壊、有視界モードに固定されているということは、今ツェリスカの頭部は落としたゆで卵の殻のようになっているのだろう。
「まったく……堕天使の野郎が、やりすぎだぞ、くそっ……」
フレームが歪まないよう慎重に兜を脱ぎ、額を擦れば爪の間には乾いた血がこびり付く。
気絶した後にも攻撃を受けたのだろう。それも、執拗に頭部へと。綺麗な顔をしてえげつない事をする。
ナナシは体を為さなくなった兜を腰へとマウントさせ、周囲を観察した。
自分が居る場所は、約五メートル四方の空間。申し訳程度に設置された蟲が這い回るベッドと汚物が固まって山となっている便座に、頑強そうな鉄格子。
朽ち果てた牢獄の中、だろうか。部屋の広さと、大型の獣を繋ぎ止めるためのような太い鎖が不気味だった。
仲間の姿は見当たらない。
ナナシ一人だけが、この朽ちた牢獄に放り込まれていた。
それにしてはナナシの武装解除がされていない所を見ると、これは一体どういうことか。
「舐められているか、あるいは――――――」
ナナシは扉に近づくと、とりあえずといった風に力を込めてみる。
「――――――何か思惑があって、誘われているか」
鉄格子は錆付いた音を立てながら、何の抵抗も無く開いていった。
錆が剥がれる音が、通路の向こう側へと吸い込まれていく。
反響音に耳を澄ませば、どうやら分かれ道は無く、しばらくは一本道が続いているようだ。
薄暗い通路がナナシを引きずり込むように、真っ黒な口を広げている。
「行くしかない……か」
ここ以外の房も無く仲間の姿も見当たらないというならば、この場に自分を運んだ下手人の狙いが何であれ、じっとしてはいられない。
痛む頭と、血が失せてふら付く足で、ナナシは壁に手を付きながら通路を行く。
堕天使が何を思って自分達を別々に分けたのかは解からないが、どうせ碌でもない理由だろう。
いや、堕天使は関与していないかもしれない。もしかしたら、国軍に引き渡された後なのかも。
どちらにしても仲間達の、特に女性陣の無事が確認できない事は、ナナシに冒険者に付きまとう“悲劇”の一つを想像させることは容易かった。
その想像は自然と、ナナシの先に進む足を急がせることとなる。
「これは」
しばらくそうして先に進んでいると、仄かに漂う異臭が鼻腔を撫でた。
嫌に嗅ぎ慣れたこの臭いは、腐った血の臭い。死臭だった。
更に通路を奥へと進めば、まるで飽きられて捨てられた人形のように、襤褸切れを纏った人間が折り重なって打ち捨てられている。
そのどれもが体の一部を欠損していて、または内蔵を引き摺り出されていて、まともな人のかたちをしてはいなかった。
突如として経ち上がった強烈な腐臭に、ナナシは思わず鼻を覆う。
国軍が迷宮の脅威度を判定する際、囚人や住民権の更新料を払えなかった一般人達を迷宮へと突入させて、戻ってきた人数によってランク付けをするのだという、黒い噂を聞いたことがある。
それは噂ではない、事実だった。
この場に折り重ねられた彼等が“引越し”の際に片付けずに捨て置かれたのは、迷宮の早期機能回復のために、魔物達への養分として再利用する算段か。
魔物の餌として生涯を終えることになった彼等の無念さたるや、今にも怨嗟の声が聞こえてくるようだった。
「う、ううう、あ……」
聞こえた呻き声に、ナナシはハッと息を呑む。
魑魅魍魎の呪詛ではない。間違いなく、生者の苦悶の声だった。
死体の山に埋もれた女が、ナナシへと手を伸ばしていた。
「おい、大丈夫か! しっかりしろ!」
「あうう……」
ナナシは急ぎうつ伏せになり震えていた半裸の女性を抱き起こす。
女性は苦しげな呻きを上げ、ナナシにしがみ付いて来た。
眼は虚ろで、白く濁っていた。意識は混濁していて、こちらの呼びかけが聞こえてはいないようだ。
薄く開かれた口からは意味を成さない言葉と――――――肉の触手しか、飛び出しはしなかった。
「お、う、おおおっ!」
背中に回された手に細腕からは想像も付かない程の力で圧迫され、爪が豆腐を突き刺すように装甲に喰い込んでいく。
女の眼窩や鼻腔から飛び出した触手が、ナナシのそれらへと潜り込もうと絡み付いて来る。
「あ、あ、ああああぎぎぎい、ぎぎぎぎい、うぎいいいい――――――!」
「う、ぐ……フィスト……バンカー!」
内圧で口腔が裂け、首から上が、触手に塗れた肉腫に呑まれていく女。
ツェリスカが警告を発するよりも早く、ナナシの拳は女であった磯巾着の化け物を砕いていた。
殴打の音と共に飛び散った血や肉片に、人を殺した、という罪悪感は抱かなかった。
これはもはや、人ではなかったからだ。
人でないというのなら――――――これは一体、何なのだろうか。
魔物か、それとも魔獣か、化け物か。
否、それらよりもずっと性質の悪い存在だ。
この哀れな化け物に関する記憶が、知識が、ナナシには在った。
「『神降し』だと……? 馬鹿な!」
『神降し』――――――。
それは、神の数だけ存在する多宗教において、共通の、そして絶対の禁忌とされる儀式である。
口に出すことすら憚られるその単語は、実際に過去の個人的な探索でそれを目撃したナナシでさえ、その現象が何だったのか具体的な概要を知るまでに、長い時間が掛かった程だ。
学園に入学してから後、女教師が言葉を濁しつつ説明した、迷宮内で目にするであろう恐ろしい事例……女を苗床にする魔獣や、人を洗脳し社会へと侵攻する魔物、そして、禁忌についての話しで、ナナシは初めて「あれはそういうことだったのか」と知ったのである。
そして鈍色と共に口を閉じ、記憶を封じた。決して思い出さぬように誓ったのである。
神降ろしとは、禁忌中の禁忌であるが故に。
人道を踏み外した、秘められた忌むべき儀式であるが故に。
神が実在するのだから、その神を顕現させようと考えるのは当然のことだろう。歴史上、それは何度も試されてきた試みである。しかし、それらは一度も成功すること無く終わっていた。
魔力の塊であるともされる神を顕現させるには、収めるべき“器”が必要となる。例えば、神がその身を変えたとされる伝説級の剣や盾がそれだ。
シンボルとしてならば、それで十分だろう。十分とは言うが、そのような神具を作成するのも途方もない対価が必要とされるのは言うまでもない。
だが、そこで収まらないのが人の常である。彼等は自らを導く、意思ある神を望んだのだ。
そうして用意された器は……当然の帰結と言うべきか、人間の身体であった。
コミュニケーションを取れる神の器は、同じく意思を持つ生物、人間でしかありえなかったのだ。
しかし、あまりにも強大な神の存在を収めるに足る器など、世界中どこにも存在しなかったのだ。
神意を“丸ごと”押し込められた肉体は、内圧に負け、異形と化してしまうのである。それは、美麗として名高い神や、どのような儀式体系であっても例外はなかった。
それ以上にこの儀式の性質の悪い所は、この異形が存在として“完成”してしまっていることにある。
異形は不完全ながらも、神に通じているからだ。
つまり、一度変異してしまえば、奇跡が起こらぬ限りもはや二度と元には戻らない。
そして神として人の祈りを得られないために、別の強い感情に乗せられた魔力――――――恐怖を、人を捕食することで得ようと行動する。
もはや倒すしか、対処法がないのである。
しかし紛い物とはいえ、神は神。神の化身のなり損ない、仮神とでも言うべきか。
肉の器を持った仮神であるが故に……否、“倒せる”神としてその存在を堕としてしまうからこそ、神降しが禁忌とされるのだ。神を貶める禁忌として。
ここで思い出されるのがナナシの異能である。
ナナシの異能とは、あらゆる神意の影響をシャットダウンする能力なのだが、しかしこの能力には穴があった。
一つは、鎧越しとなる程までに極近距離にて接触しなければならないこと。これは触れなければ効果が無いという認識で、問題はない。
そしてもう一つの穴。それはこの能力の効果が、あくまでも神意の遮断であるということだった。
無効化でも消去でも否定でもない。遮断なのである。
異能の効果範囲が極至近距離である理由も、自分自身を神意の絶縁体として、遮断しているからだ。
結界や封印、または憑依といった、神との“やくそく”に依って成り立っている術式――――――神意との常時交信により維持されている魔術について、この異能は絶大な効力を発揮する。
しかし神降しによって変えられてしまった者には、その限りではなかった。
一部とはいえ、そこには本物の『神』が込められ、そしてかたち自体が変わってしまうのだ。遮断するだけの能力では、元のかたちへと整形することは出来ない。
もはやそれは魔術によって引き起こされる奇跡ではない、神の御技である。器となった者の意識がどうなるかは多種様々であるようだが、多くの場合、魔物や魔獣と同義の存在と成り果てる。
力だけが封じられた化け物へと。
異世界の存在である“ナナシ達”は、この世界にとり、言わば絶縁体のようなもの。
その異能を名付けるならば、『神意遮断』と言うのが妥当である。
ただ遮断するだけの異能だ。
ナナシの能力は神意に対して万能のカウンター能力ではないのである。神と呼ばれるサーバからの通信を阻害する程度の効力しかなかった。
存在自体が、この世界にとり異物であるがために。機能を破壊するウイルスとしての役割は、“ナナシ達”は持ち得なかったのである。
神意を消去し、それによって歪められた存在を元の容へと成型し直すなど、神と同等の存在……神にしか出来ぬ芸当ではないか。
「ちくしょ……!」
拳にこびり付いた血と、頭部が潰れ、痩せた躯となった女性を見つめ、ナナシは音が鳴るほど奥歯を噛み締めた。
この場に打ち捨てられているのは、器に“すら”なれず、息絶えた者達ということか。
折り重なる彼等の中には、女が居た、男が居た、大人が居た、老人が居た……そして、子供までも。
誰しもが、幼稚園のスモッグを着ていたり、コーヒーの染みの付いたエプロンを着ていた。日常のままの格好をしていた。彼等は須らく、一般人であったということだ。
なるほど器の適正にはレベルなど関係がない。どれだけ降ろす神との親和性が高いか、という一点のみが重視されるのだ。
であるならば、この人たちは皆、どこからか攫われて来て、それで犠牲になったのだろう。生贄にされてしまったのだろう。
身の内に神を“降ろされてしまった”犠牲者達に関しては、ナナシは何ら救う術を持ち得てはいない。
先の女性のように、まだ息のある者達がいるようだった。苦しそうな息遣いと、時折助けを求める小さな声が聞こえた。
後ろ髪を引かれる思いで、ナナシは聞こえる呻き声を無視し、走り抜けた。
振り向いてはいけないと、教わった言葉を呪文のように唱えながら。
事実、足を止めれば、生き残ってしまった神の残滓達が、ナナシの肉と叫びを求めて襲いかかってくるだろう。
これは仕方がないのだと、そう言い訳をして自らの心を正当化する作業に努めなければ、ナナシは今にも彼等に駆けよってしまいそうなほど、自失していた。
――――――だから、『その』可能性にナナシは気付かなかった。
否、気付いていながらも、無意識に無視しようとしていたのかもしれない。
しばらく走り続けていると、急に開けた空間が現れ、ナナシの足を止めた。
これまでと同じ、天井から鍾乳石の垂れ下がる岩造りの広場だったが、そこに含まれている鉱石の純度が異なっていた。
金剛石の様なきらめきを放つ突起もあれば、水晶の様に向こう側が透けて見えるほど透明な物もある。
どこからか漏れる一筋の光が突起によって屈折され、多くのそれらに乱反射され幾何学模様を作り出していた。
光の網が形作るそれは、一見美しく幻想的にも見える。
しかし、ナナシには吐き気を催す光景にしか見えなかった。
その光の布陣は……魔法陣。
間違いが無い、“あの時”見たものと同一の代物だ。
ならば、この場が儀式の中核で――――――そして、儀式はもう、既に。
「……あれは! 鈍色!」
空間の中央、小高く積まれた石台の上に、ぐったりと横たわる鈍色の姿を見付け、ナナシは駆け寄った。
そっと身体を起こして口元に耳を近づければ、くぐもった呼吸音が。
息がある。心臓の鼓動も健在だ。
どうやら臓器に損傷を受けているようだが、命に別状はなさそうだ。
ナナシは内心胸を撫で下ろし、鈍色を優しく抱き寄せた。
「もう大丈夫だからな。今すぐ皆を見付けて、ここから出て……」
「ううう、うううううーっ!」
「鈍色?」
ナナシの腕の中で、突然に鈍色はもがき苦しみ始めた。
訝しむように覗きこむと、薄らと鈍色の青い瞳が開かれていた。
よかった、とナナシは喜ぶ事はできなかった。
鈍色の青い瞳が放つ、怪しく濡れた光を、真正面から受けてしまったのだから。
「うぐぅううーっ! がうぅゥウウーッ!」
「鈍色、どうした鈍色!」
ナナシは暴れる鈍色を落ち着かせようと、額に手を伸ばした。
いつものように、耳と耳の間を撫ぜたなら、鈍色は柔らかく蕩けるような笑みを浮かべてくれるだろうと、そう期待して。
その時だった。
『敵性存在確認! 回避してください!』
ツェリスカから叫ばれた、警告音が鼓膜へと突き刺さる。
「どうし――――――」
どうしたのか、と詳細を尋ねるよりも早く――――――鈍色の爪が、空に白い軌跡を描いていた。
途端、視界が傾ぐ。
不意の違和感に、ナナシはとっさに手を着こうとしたが、しかし身体の均衡を取り戻す事が出来ずに転倒した。
「え――――――? あ……?」
自らの意に反して、膝が地を舐める。
反射的に放してしまった腕の内から、鈍色が離れてしまった。
伸ばした手は、しかしその鈍色自身に払われ、宙を泳ぐ。
今度こそ真っ直ぐに、鈍色とナナシの視線が交差した。
鈍色は瞳に涙を一杯に溜めて、自分の犯してしまった罪を認めたくないようにして、首を振って後退った。
「おい、どうしたんだよ鈍色?」
「あううぅ……っ!」
「ほら、こっち来いって。そんな顔しなくても、怒ってなんかないからさ。な?」
「うううーッ、ううう!」
「はは……おかしいな。何か、俺、急に、寒くなって……」
所在の無くなった手を、何とはなしに脇腹に当てる。
しかし、何時の間にか生じていた亀裂から、何処までも指先が入り込んでいくのが恐ろしく、ナナシは直ぐに手を離した。
離した手は、鮮血に染まっていた。
まるで摘まんでいたホースの先を放したように、堰を切ったように血溜まりが石畳の上に広がっていく。
鈍色、と彼女の名を呼ぼうとしたナナシの口から代わりに迸ったのは、熱い粘着質な塊であった。血の痰だった。
ナナシから遠ざかるように、鈍色は後退っていく。
胸のパネルが展開する。ノイズの走るツェリスカの空間投影モニタ、そこに絶えず警告されるレッドアラート。
生命維持機能全開稼働、とツェリスカが出力していた。生命維持機能、致命傷を受けた際に、全機能を傷の処置に回す機能だ。なぜそんなものが急に起動したのだろうか。
ナナシは理解出来ずに……努めて理解しないようにした。
鈍色の、薄暗い鈍り色をした体毛に包まれた“狼の腕”。その先端に輝く鋭い爪が、ナナシの血の雫で赤く滑っていた。
「うぐッ……が、グゥ……ッ!」
痛みを通り越し、遅れて伝達された灼熱に、ナナシはたまらず声を上げた。
悲鳴を上げて悶え転がらなかったのは、単に鈍色を気遣ってのこと。
脳が痛みを熱として処理していくのに並行し、ようやくナナシは自身の負傷を認識した。
――――――何だ? 俺は、鈍色に斬られたのか?
信じられぬ。信じたくはない。
しかしツェリスカの出力する診断が、ただ事実を訴える。
右肋骨から左脇腹に掛けての深い裂傷。
重傷である。
ツェリスカが限界速度で処置を行うことを告げたが、ナナシにはそんなことはどうでもよかった。
「がるるぁああアア――――――ッ!」
苦しむ鈍色を、ナナシはただ唖然と見ることしか出来なかった。
――――――そこから先のことを、ナナシは後になっても断片的にしか思い出せずにいる。
鈍色の、“狼の腕”に生える体毛が蠢いたかと思えば、一瞬の内に肩口まで這い上がり、半身を包み込んだ。
頬が耳に留まらず、喉下にまで裂け、鋭くとがった牙が覗く。
皮膚が伸び、裂け、顔面の輪郭が歪み、生暖かい吐息と共に獣の臭気が立ち昇る。
ガラスが軋むような、水を含ませた粘土をぐちぐちと捏ねるような、湿った水気を含む肉の音を立てながら、鈍色は変異を続けていく。
「あ、ああ……嘘だ……そんな……」
ナナシは変わっていく鈍色を呆と見上げながら、自らが作った血溜まりに沈み込んだ。
鎧によって阻まれているが、腹圧で内蔵が飛び出しているらしい。
異物感と自身の中身、大便の臭いで喉が詰まる。
鈍色の――――――否。
“鈍色だった者”の爪は、深くナナシの脇腹を斬り裂いていた。
「神降し……」
唖然とつぶやいたナナシの言葉が、全てを現わしていた。
鈍色の制服を内側から裂いて現れたのは、“鈍色の毛をした、美しい狼”。
一級封鎖域地表迷宮『地下街』の周辺都市にて、その迷宮が未だ都市機能を有していた頃よりもはるか昔から、魔狼として恐れられていた旧き神の一柱である。
完璧な器となるべく産み落とされた鈍色は、違わず完全に神の躯を体現していた。
もはや可憐な少女の顔はなく、ただ流入した神――――――餓狼ヴァナルガンド、魔狼フェンリルの凶貌が、そこにあった。
二本の足で立ち上がる様は、人身獣頭のベタリアンを思わせる。
ベタリアンは古代神に近しい存在であり、そうであるが故に忌み嫌われているという。それはただの迷信だとばかり思っていた。
だが、この光景を見れば頷かざるを得ないかもしれない。
古代神、即ち獣神には、それが善性であれ悪性であれ、人の理など通用しない。
思わず頭を垂れてしまいそうになる圧迫感と悪寒は、なるほど、獣そのものだ。
すべての狼の頂点に立つ、神狼。
それは、あらゆる肉を持つ生命の、捕食者たる存在である。
「グ、ル、ル、ル、ル――――――」
もはや鈍色の声とは似ても似つかぬ、狼の唸り声が聞こえる。
唯一つ、蒼い、澄んだ瞳だけが鈍色と同じように、じっとナナシを見据えていた。
そこに親愛の情はない。
それは喰らうべき獲物を見る瞳だった。
「鈍色」
声は、もう届かないのか。
“鈍色狼”は、獲物に飛び掛からんと、身体を深く沈み込ませた。
爪が地を掻いているのが、傾いだ視界に映る。
ナナシは不思議と抵抗しようという気が起きなかった。むしろ、このまま鈍色に喰われてもいいとさえ思っていた。
それに、この距離だ。こんな負傷をしてしまっていては、碌に身体も動かせまい。
ここで終わりか。
ついさっきまで、わいわいと馬鹿騒ぎをしながら、遠足気分で迷宮探索をしていたというのに。こんなものか。
これで終わりなのか……いや、それも良いかもしれない。
これが、冒険者の運命で、末路なのだ。
陽気に迷宮に足を踏み入れ、理不尽な悲劇に終わる。
正しい冒険者の姿ではないか。受け入れよう。
気掛かりなのは、一体何者の思惑によって鈍色が変じさせられたのかということと、これから先、彼女がどうなってしまうのかという事。
いいや、決まりきった事だろう。この場に通じていたすぐそこの通路が、丸ごと全部ゴミ捨て場とされていたのだから。
鈍色がそこに打ち捨てられることとなろうとも、先に自分が待っていてやることが出来るなら、寂しくはないだろう。そんな残酷な光景を見ずにすむのなら、それは自分へと最後に残された救いではないだろうか。
最後に、仲間の安否を切に案じる。
願わくば、残る二人には無事でいてほしい。そして出来る事ならば、この鈍色狼とあの二人が出会うことがないよう、祈る。
否……自分が神に祈った所で、意味はないだろうが。
それでもナナシは、どうか、と思う他なかった。
あの餓えに涎を垂らす鋭い牙は、過去の回顧も許さずに、自分の頭蓋を砕くだろうから。
「グゥアアアァアア――――――ッ!!」
牙を剥き出し、顎門を大きく開けた鈍色狼が跳ぶ。
撒き散らされた生暖かい飛沫が、ナナシの顔面へと降り注いだ。