地下28階
挿絵とかは活動報告にてのせていくことにします。
とりあえず今回から。
しかし貼り付け作業難しいっすねえ・・・
拳が下腹に突き刺さる。
体全体が重力に逆らい上昇。全身がばらばらになったような浮遊感。
ナナシは迷宮内の通路を二転三転と転がり、内壁に衝突。胃が全て裏返るような嫌な感覚と灼熱の痛みが煮え滾り、全身を支配していく。
そんな中、思考だけは冷静でいて「内蔵の幾つかが傷ついたな」、「骨は無事だな」、「この拳の握り方じゃ手を痛めるだろうに」、などとつらつらと取り止めのない感想などを連ねていた。
「げぼお」と声帯が間抜けな音を勝手に上げ、食道を灼熱が焼いていく。胃を下から打ち上げられて逆流した胃酸が、食いしばった歯の隙間から、引き絞った唇の合間から漏れ出て、兜の内部を吐瀉物で充満させた。
すぐさま汚物排泄機構が働き、ポンプが吐瀉物を両頬の排気口より排出させていく。ただ、臭いだけは残ったままだった。鉄の臭いとすえた酸味のする悪臭が籠もり、自らの内側から生じたものだというのに酷いものだ。
びたびたと水気の含んだ音を立てながら、湯気が昇る黄色いペーストを迷宮の岩肌にぶちまけて、ナナシはよろめきつつも立ち上がった。
ナナシに一撃で重いダメージを与えた銀髪の男は、追撃を行おうとはしなかった。
顔を抑えて驚愕の表情を浮かべている。
げえげえと嘔吐を繰り返しながら、酸欠に朦朧となる頭に渇を入れつつ、ナナシは無理矢理に咥内に広がる酸味を飲み下して呼気を整える。
無名戦術ヶ動の構え。
「殴られるのは初めてか?」
男のすらりと通った形の良い鼻梁からは、一筋の血が流れていた。
ナナシの仕業である。
戦いの火蓋が切って落とされた瞬間に、腹を思い切り抉り上げられ吹き飛ばされた。
だが、交差の一瞬、ナナシは男の顔面を弾くようにして殴り付けていたのである。相手の初手を読んでいたのだ。
顔面の中心からじわりと広がる痛みに、男の顔が怒りに歪み朱が差していく。
「そうだよな」とナナシは僅かに肩を揺らした。
笑っていた。
いっそ解り易過ぎるまでの挑発の仕草だった。
「解るよ。顔を殴られるのは我慢ならないよな。自分の方が圧倒的に格上でも、ワンパンで台無しさ。屈辱だよな」
その時のナナシの脳裏には、かつてこの世界に来たばかりの頃の自分が浮かんでいた。
殴りつけられながら物事を教えられていた自分。悔しさで一杯だった。何とかしてこの老人に目に物を言わせてやろうと思っていた。厳しい訓練には、意地で喰らい付いていただけだった。
顔面を殴られたのは、産まれて初めての経験だった。
顔の中心で弾けた衝撃に、初めは何が起きたのか解らなかった。何が起きたのか理解した後に、痛みが。遅れて、感情が追いついて来た。
正直に告白すれば、ナナシは屈辱を感じた。恩人に対して、一瞬、殺意を抱いたのだ。
顔を殴られよろめいている所に投げ掛けられる、あの侮蔑の視線には、耐え難いものがあった。それは事実である。ただ大恩ある相手であったために、怒りを表にしなかっただけだ。
それが憎しみへと繋がらなかったのは、単にその老人が自分を助け、力を与えようとしていることを悟っていたからだ。
だが相手が自分に悪意を持った、敵であったのならばどうだっただろうか。
冷静でいられる自信はない。
そして、それは男も同じであるという確信が何故かナナシにはあった。
“俺達”はそういう舐めた真似をされるのが、一番嫌いな人種のはずだ、と。
何故ならば。
「ああ、解るさ。自分が上じゃないと、安心出来ないんだ。解るさ、だって俺とお前は、同じだから」
武芸者特有の感覚として、相対した時、お互いの心根が通じ合うという共感現象が発生するという。
だが、ナナシはこの銀髪の男へと、拳を交わすよりも前から奇妙な共感を抱いていた。
殴打は確認作業に過ぎなかった。
「――――――ハ、一撃入れた程度で何を言うかと思えば……お前たちのような盗掘者と俺が同じだって? 笑わせる。俺は国家冒険者として誇りを持って」
「よせよ、ラベルを読むのは止めようや。お前も同じはずだ。俺と同じ感覚を抱いているはずだ。俺と同じはずだ」
銀髪の男へと抱く、この焦がれるような感覚は――――――そう。
「お前も俺と同じ……地球人のはずだ」
懐かしさだ。
一瞬言い淀んだのは、若干の恐れから。
伺うようにして放った言葉に、銀髪の男が一瞬、息を呑んだ。怒りで赤らめていた顔が蒼白になっていく。
男の様子にナナシは確信を抱く。
こいつは、地球人だ。
「地球、日本、アメリカ……なんだっていいさ、聞き覚えがあるはずだ。知っているはずだ」
「お前、何を、何を言って」
「止めろ、誤魔化すな! 頼むから……!」
あれ、とナナシは思った。
おいおい、俺、何を言ってるんだ。
口を閉じようとしても、唇が震えて、上手くいかない。
ナナシの声には懇願の色が滲んでいた。
この男が一体地球の何人であったかは解らない。もしかしたら、ナナシと同じ日本人であったかもしれない。
容姿、髪色、眼球は明らかにこちらの世界基準の整い過ぎたものだ。整形でもしたのだろうか。何にしろ、どうでもよいことだ。
重要なのは、この男が地球人であったことだ。
この世界にやって来た者は……墜とされた者は、自分だけではなかったのだ。
ならばきっと、他にも居るのだろう。そのはずだ。
地球人達が、この世界に。
「否定しないでくれ! 俺達は異物だ、そうだろう! お前もずっとそう思って生きてきたはずだ! 俺はそうだった!」
「……だまれ」
「生き方は変えられない。どこにいたって、異世界に来たって、俺は俺のままだった。卑屈で真っ直ぐ前を向けない、俯いて愚痴を言うばかりの、何かのせいにして自分を慰めるだけの、俺のままだった。お前も同じはずだ! そうだろう!?」
この時点でナナシはもう、自分が何を口走っているのか、訳が解らなくなっていた。
兜に隠されて悟られることはなかったが、眼には涙さえ滲んでいた。
それは嘔吐の苦しさからではない。訳の解らぬ焦りが、胸中に渦を巻いていた。
クリブスとアルマが血反吐を吐きながら吹き飛ばされたのが、一瞬見えたからなのかもしれない。何かに急かされるようにして、ナナシの心臓が激しく動悸していく。
精神的優位を保つための舌戦のはずが、口を開けば、溜まった鬱憤が堰を切ったかのようにして溢れ出る。
驚愕であった。ナナシの自分自身、頭の冷静な部分が困惑するくらいに。こんなはずではなかった。
技の応酬に、戦いに血を沸かせているはずだった。
なんだこれは。
こんな、恥かしい心のぶつけ合いなどしたい訳ではなかった。
だが止められない。
「どうしたら……どうやってお前は生きてきたんだ? どうしたらこの世界の人達に恥じないような、前を向いて歩ける人間になれる?」
「……だまれ」
何を言っているのだろうか、俺は。
敵の前で自分語りなど、正気か。
「お前のように容姿を変えたらいいのか? それともすごい力を身に付けたら、欲しがることしかしない卑しい心根が変わるのか? どうしたら……」
「だまれって……」
そうだ。
貰うことばかりに期待して、自分から得ようとは思わなかった。
環境に不満を漏らして、自分の足で別の場所に行こうとは思わなかった。
何かをどうにかするには力が必要であることは、子供でも解ることだ。
でも、その力を得るには、どうしたらよいか。知らずにいた。知ろうともしなかった。
力は誰かに貰うもので、自らで得るものなどと思ったことはなかった。
自らの力で、力を得るという、矛盾を抱えようとはしなかったはずだ。
誰とも関わりを持とうとはせず、だというのに誰かが自分を気に掛けてくれるとばかり思っているからだ。そしてその思い上がりは実現してしまったのだから救えない。
今もそうだ。
状況に流されるまま、どうしたらよいのか解らない。
地球人がいた。
だから何だ。
よからぬ陰謀に巻き込まれようとしている。
それで、どうしたらいいのだ。
さっぱり解らない。
大河を流れる木葉の如く、このまま沈んで、ヘドロになって朽ちていくだけなのか。
「どうしたら俺は、俺達は違う自分になれるんだ――――――!?」
「黙れぇぇぇああああ!」
返答は拳だった。ナナシもそれに応えた。それしかなかった。
ナナシとこの男が、同じものであったからだ。
地球人だからどうこうという訳ではない。
こいつは俺だ、とナナシは思った。男もそう思っていた。
鏡に映された虚像。
お互いがお互いの、こうなりたいという自分の姿であったのだ。こうありたいと思う、自分自身の姿であったのだ。
あらゆる全てが完璧な人間になりたいという変身願望が、ナナシにはあった。
自らの足で立ちその手で切り開いていく飾り気のない自分自身の強さを、男は望んでいた。
合わせ鏡に延々と己の像が続いていくように。
男とナナシはお互いを前にして、自身の心の澱み、コンプレックスを爆発させた。
□ ■ □
「ハッ、ハアッ、はあっ、はっ……!」
乱れた呼吸を整えながら、展開した機関鎧を通常形態へと移行させる。
足元には、力尽きて倒れ伏した敵が。
強敵だった、と認める他なかった。
認める事自体が、屈辱だった。
「何だったんだ、コイツは……! このッ、この! クソクソクソ、クソが!」
声を荒げながら“オッドアイの男”は、先ほどまで相対していた全身鎧の男を踏み付ける。
寡黙な少女に押さえられるまで何度も踏みつけた兜は、散々にひび割れていた。
「……駄目、落ち着い、て!」
「クソッ! クソクソクソ、クソッ!」
吐き捨てるようにして繰り返し、爪を噛むのは男の前世からの癖。
自分が戻っていることにも気付かず、男は少女の手を振り解く。
踏み付けた兜が割れて、内側から力なく閉じられた生身の瞼が現れた。
平凡な容姿の男だった。
片側の眉と頬までが露出したが、これがもう一対あったとて、別段見目が良いとは思わないだろう。
だが、何故だろうか。
この男の顔が、朝目覚めて一番に鏡で見る自分の顔に、そっくりに見える。
「お前、何だ、何なんだよ! 偉そうに! 俺より全然弱いじゃないか!」
脆い。こんな脆弱な、紙のような装甲の相手に何故ああまで手こずったのか。
納得行かなかった。
認めたくなどなかった。
この男が、自分よりも“強者”であるということなど。
この男が、自分よりも戦いが格段に上手かったことなど。
自分の方が、レベルも圧倒的に上なのに。
何故か男よりも早く動けず、力も、防御力も上手く機能しなかった。
あり得ないことだ。
素早さというステータスは、時空間を歪め、対象の活動する時間軸より上の次元での活動を可能とするものだ。だというのに……。
いや、それならば同じステージに上がったというだけだ。
全身鎧と、両腕のみにブレードを装着した篭手型の機関鎧を装着しているという違いはある。
奴は打撃を主とした戦法を用いていたが、こちらは剣戟に重きを置いていた。獲物の違いによる戦い方の差もあったのだろう。
全身に動作補助の役目をも持つ機関鎧を装着しているということは、身体能力が劣っているということだ。
純粋に武器として機関鎧を選択した自分とは、技量のステータス値を上げ続けた自分とは、天と地程の差があるはずではないのか。
確かに、武器としての扱いの上手さは自分の方が上だったはずだ。
だが、男の体裁きは、技は……何と言い表すべきか、生きていたのだ。
生々しい実感を持って、その一挙手一投足が本物であると叫んでいた。
同じ機関鎧という武装を用いているというのに、どうして。
「なんでだよ、チクショウ! 俺は最強の力を手に入れたはずだろ! それを、こんな、なんで、こんな奴に!」
認める訳にはいかない。
こんな――――――努力すれば届くなどと。
自分でも、頑張ればこれくらいは出来るようになったなどと。
絶対に認めてはいけない。
そうしなければ、諦めていた自分を、自分の心根をも認めてしまうことになる。
自分は、何も、変わっていないのだと。
「お兄ちゃん! それ以上は駄目だよお兄ちゃん! 死んじゃうよ!」
「ううううるさい! 俺に触るな!」
「きゃあっ!」
「あっ……!」
振りまわした腕が当たり倒れた少女に、慌てて男は取り繕った。
「ご、ごめんよ。痛かったかい?」
「ううん、いいの。敵さんがしぶとくて、お兄ちゃんイライラしちゃったんだよね? 大丈夫、解ってるから」
「あ、ああ……」
そう、全身鎧の男はあまりにしぶとかった。
戦い方もそうであるが、その根性がとんでもなく粘着質であった。最後は咽び泣きながら立ち上がったように思える。
高位付与魔術師と滅多に表舞台に現れない天魔族を相手した他の仲間達二人が、呆気なく勝利してしまったのを余所に、自分は今の今まで戦い続けていた。
完全に実力が劣るものに翻弄され、しかもそれを仲間達に見られたのだ。
これでは“下”に観られてもおかしくはない。
それは、生まれてこの方、力に恵まれて周囲の嫉妬の対象に為り続けた男にとって、耐えがたい屈辱だった。
全身機関鎧の男のレベルは、あの中で一番下だったはず。
リーダー格の鳥男に遠く及ばない実力であることは、一目で理解出来ていた。
だから、新技や能力を用いて絶対的差というものを教育し、二度と歯向う気が起きないよう徹底し、下してやるつもりだった。そしてあの少女二人を、救い出そうと思っていた。
だが、一合二合と打ち合う内、焦りが産まれることとなる。
倒れないのだ。
打ちこむ攻撃の全てが、まるで初めから狙いが解っていたように構えられていた拳に逸らされ、いなされ、弾かれてしまう。
ならば数で勝負だと、打っても打っても、結果は同じ。
流石に地力の差はあるため、いくつかは直撃する。
だがその意思のしぶとさで、こいつは立ち続けていた。心が折れることはなかった。
優越感をすら覚えていた心に、次第に焦燥が芽生えていく。
いつ、この男は倒れるのだろう。
この男のいかなる攻撃を持ってしても自分は倒れることはないが、自分のいかなる攻撃を持ってしてもこの男を倒すことも出来ないのではないか。
もしや、永遠に膠着状態が保たれるのではないだろうか。
否、この作業とも言える攻防の応酬。ミスをすれば敗北を喫することになるのは自分になってしまうのではないか。
そんなことはありえないことは解っている。だが、“千日手”に陥ったという途方も無さが、そんな不安を抱かせる。
そして自分にはミスを犯さぬという自信が、無かった。
そうやって全身鎧の男と向き合うと、嫌でも自分の所作に意識が向いた。
強い肉体。高いレベル。稀有な能力。有利な加護。どれをとっても、自分の方が圧倒的に優れている。
しかし所作、挙動には、大きな違いがあったのだ。
全身鎧の男は貧弱な身体を最大限に駆使し、最効率の動作を執っていたように思える。
戦闘の最適解を、常に導き出していたのだ。
機関鎧の性能を大幅に底上げするような形態を用いてもいたが、それに振りまわされ“過ぎる”ことなく、動作の擦り合わせを行っていた。
思考錯誤の下に機能が徹底的に使用されていたことが、相対した時に良く理解できた。
機械的な能力の底上げなど、一過性のものに過ぎないと割り切っていたということか。
それ以上に脅威だったのが、見極めの技術。
放つ技は初動を見切られ、構成する術は“狙い”を見切られる。
まるで二手三手どころか、十手二十手先まで見透かされているような感覚だった。
未来視のスキルであるとは考え難い。相手の攻撃だけを予見するスキルなど、聞いた事がなかった。
戦いの最中、彼は思わず全身鎧の男に問うた。
「お前は一体、どんな能力を持っている」
すると男はこう答えた。
「能力なんかじゃない。ただの感覚で、俺自身にだって解らない。解らないけれど、“解る”。相手が何処を見ているのか、何を狙っているのか、解るんだ。解った後に、遅れて攻撃が飛んでくるのだから、それを弾いているだけだ」
男自身、自分の挙動に戸惑っていたように見えた。
そしてその直後、体捌きの精彩さを欠いた男はそのまま胸に攻撃を喰らい、倒れた。
敗因はスタミナ切れ。
呆気ない幕切れだった。
体力のステータス値という、覆しようのないレベル差の開き、その影響が現れたのだ。
驚いたことに、手帳型のステータスカウンターを奪い調べてみると、男のレベルは0だった。
そんな馬鹿な話があるか、と叫びたかった。つまり男は、一般人程度の戦闘力、スタミナしか保有していなかったのである。
全身鎧の男の話をまとめれば、出来るからやっているだけという、理由にならない屁理屈で自分に迫ったのだ。
選ばれた者である自分に取り、こんな一般人でも身に付けられる普遍的な力があるということなど、認める訳にはいかなかった。
何か秘密があるに違いない。だが、それは詳しく調べなければ解らないだろう。
ただ解ったことは、この男の保有する技術が驚異的であったことだけ。
見切り見極め、自分と相手との限定的な小世界である戦場を、冷静に俯瞰していたということだけだ。
それに比べ、自分はどうだったか。嫌でもそう思わされる。
この男は、自分の合わせ鏡だからだ。
そうだ、自分は自らの内に眠る強大な力をどう使うかに、終始していたのではなかったか。
それはその力に支配されていることと、同義ではないか。自分が無いということではないのか。
力が自分などと――――――。
強いと感じたのは主観的なもので、常に最強だった自分の何と比べて強い、と感じたかは自明である。
こんな、低レベルどころかレベル0の相手が自分に迫る力を身に付けたとあっては、いったい自分の存在は何だったというのか。
あの神の言ったことは、嘘だったのか。
手違いで死なされた自分には、最強の力が与えられたのではなかったのか。
「俺は……」
男は鮮やかなオッドアイを、思考の澱みに曇らせる。
余計な事を考えるのはよそう。
手こずったとしても、結果的に勝利したのだ。今後も自分に敵う相手は現れまい。
それに大きな“収穫”もあったのだから、それで良しとしようではないか。
そう結論付け、男は収穫したもの――――――倒れた犬耳の少女の灰色髪へと、手を触れた。
「クカカカカ。どうもどうも、ご苦労様です」
「貴様は……」
何時の間にそこに居たのだろうか。
くたびれたスーツを纏った男が、道端で出会ったとでもいう風に、帽子を脱いで会釈していた。
くすんだ銀髪が零れ落ちる。
確か、スミスと名乗る国軍関係者の男だったはず。
自分達のパーティーに、新たに発掘された迷宮の警備を依頼してきた男である。
未登録迷宮への盗賊や犯罪者の進入を防ぐという、よくある依頼。
相手が貴族出身の冒険者を名乗ったのは予想外だったが、それだけだった。それもよくある話である。
基本的に冒険者は、発見されてからの年数が若い迷宮に潜りたがるものだ。
未登録迷宮とあらば垂涎の的であるだろう。早い者勝ちであることは、言うまでもない。何としてでも、身分を偽ってでも潜り込もうとする。
だが、実際は発見されたばかりの未登録迷宮に潜ろうとする冒険者の数自体は、そこまで多くはないのである。
迷宮登録には、発見、調査、確認のサイクルを必要とするのである。
今回発見された迷宮は、発見から調査に移行しつつある段階だと聞き及んでいる。
そんな、内部構造や出現する魔物の傾向が未だ不明のままの迷宮に挑もうとする者など、後ろ暗い理由があるか、一攫千金を狙った本物の命知らずかのどちらかだろう。
命の危険が付きまとう探索だが、誰だって命を捨てることはしたくないのだ。
強引なフリーランスの冒険者崩れがいるというのは確かだが、全員が全員そうではない。そのようなフリーランスの冒険者は、盗掘者と呼ばれ蔑まれていた。
今回の相手も盗掘者の一団であると判断した。
資格提示に応じなかった事が、その判断は正しかったと証明している。
だが、特有の欲深さというか、がっついた雰囲気を感じはしなかったが。どこの世界にも変わり者はいるということか。
例えば、この全身機関鎧の男のような。
「こんな所まで来て、何の用だ? 依頼者は安全な場所で大人しくしていろ。まだ下の階層の調査が終わっていないんだろう」
「いえいえ。皆さんがしっかりと依頼をこなしてらっしゃるかなあと心配になりましてね。こうしてお仕事姿を拝見しに参ったわけですよ、クアッカッカッカ!」
「……見ての通りだ」
抱き上げた犬耳の少女を示すと、素晴らしいとスミスは拍手する。
「いやはやいやはや、どうやら楽勝だったようで。物足りなかったのでは?」
「ふふーん、当然! 私たち黄昏の夕凪の敵じゃなかったよね!」
「……お粗末、過ぎた」
「ええ。弱い者いじめをしているようで気が引けましたが」
「ぶー! そっちは見てただけじゃんか! 自分だけ良い子ぶっちゃってさあ、この性悪!」
「なんですってぇ!?」
「クカカカカ……何と言いますか、彼もそうでしたけど、そういう流れというのはそちらの文化なんですかねえ?」
人には理解不可能なものに出会った時、笑い声を上げる者がいるという。スミスはどうやらそこに類する人間だったようだ。
ごほんと咳払いした後、さてと続ける。
「貴様がここまでやってきたということは、騎士達の調査も終わったようだな。これで依頼は完了したということか」
「ええはい、こちらの準備は滞りなく、全て終了いたしましたよ! いやあ、本当にあなた達のおかげだ!
盗掘者の探索スピードがこちらの想定以上だったので、作業が終わる前に滅茶苦茶にされて台無しになってしまうのではないかとヤキモキしましたが、いやあ良かった良かった!
貴方達は良くやってくれましたよ、本当に……これで彼らは自らの人生を省みて、地獄を見ることになるでしょう! いやはや、素晴らしい仕事をしてくれましたねえ! 私はとても気分が良い!
報酬は弾ませてもらいますよ! 嬉しいでしょう? ククク、カカカカカ!」
「同意した額でいい。もうここに居る必要は無くなったな? では、これで失礼させてもらう。皆、行くぞ」
スミスの脇を抜けるように男は足を進める。
「おおっと、待って下さい。それを見過ごすことは出来ませんねえ」
通り過ぎる瞬間、スミスは男の腕を掴んだ。
チチチ、と指を顔を前で振り、それ――――――犬耳の少女を差す。
「その娘は重要参考人ですので、勝手に連れて行っては駄目ですよ。規則なのでね! クカッカカカ!」
「……チッ」
「別に拷問しようなどとは思っていませんから、ご安心を。なあに、傷一つ付けませんとも。誓ってね! 用が済めば連れて行っても構いませんよ!
どうです? 欲しいのでしょう? 正直に言えば瑞々しい肢体を貴方のものとする手はず、整えて差し上げてもよろしいですよ!」
「下種が」
舌打ち一つ。
少女が引き渡される時、戦士の少女や女魔術師が不満の声を漏らしていた。
鳥頭の口走った事が真実であったなら、貴族関係者がバックに付いている盗掘者達が重罪を貸されることはない。しかし、処分を待つまでの間、この少女がどのような扱いを受けるかは保障出来ない。
だからむしろ冒険者同士で内々に処理するため、自分達で連れ帰ったほうが都合が良い。
そう男とその仲間達は思っていたらしい。
面倒なことを、とスミスを睨み付けていた。
その裏では、どうやってこの少女を奪還するかの算段を立てているのかもしれない。
だが、何をするにしても、もう遅い。
「結構結構。それではこれにてさようなら。お仕事、お疲れ様でした! ククククク!」
さようなら、と手を振るスミスに背を向けて、銀髪の男とそのパーティーは迷宮を後にすることにした。
名残惜しそうに、通路脇に倒れている侍従服を来たもう一人の少女を男は見やっていたが、仲間の一人が労わるように背を抱いた。
「あの娘達の事は可哀そうだけれど、仕方ないよ。次はきっと、上手くやろう? 大丈夫、私達が居るんだからさ! 帰ったらメイド服パーティーしようよ、ね、お兄ちゃん!」
「……大丈夫。私達が、ついてる」
「ええ。私達は何があってもあなたについて行くと、そう言ったでしょう?」
「皆……ありがとう。そうだな、俺はこんなところで躓いてはいられないんだ。俺は何時まで経っても、弱いままだな」
でも、きっと大丈夫だと男は笑った。
「俺達の冒険は、まだ始まったばかりなんだから」
□ ■ □
「いえいえ……ここで終わりですよ。ええ、ええ、報酬を差し上げましょう、差し上げましょうとも。良き働きに見合った報酬を……貴方を見逃すという、ね」
物質化した影でナナシ達を運びつつ、スミスは背後をちらりとだけ振り返って呟いた。
「“御三方”も満足されていますし、隠し通せるでしょう。しかし規模縮小されたのが痛いですねえ。仕方ない、ポケットマネーを切りますか……ああ世知辛い」
「しばらくはコーヒーだけの生活になりそうですね」と銭勘定をしつつ、“仕込み”を続けるスミス。
今回、国軍の幹部を装い『堕天使コピー』に近付いたのには、理由があった。
それは『プラン』に関係するもので、プランBの閉鎖に伴いこれまでの成果と、プランA対象者の所在を確認報告せよ、という命令が下ったからである。
プランAとは――――――異界の魂を“こちら側”で産まれた赤子に宿す試みの、『転生プログラム』。
プランBとは――――――異界の存在をこちら側に引きずり込む、『転移プログラム』。
どちらも神へ至るための道程を探るプランであり、そしてプランBは閉鎖されることが決定していた。
どうにも、コストが高すぎるからである。存在の立脚点が異界に基づいているため、こちらの世界の常識が、全く通用しないのだ。例を上げれば、レベル概念が適用されないこと等である。
そんな赤子にも等しい存在など、最後まで面倒見切れないし、付きっきりになる暇も無い、ということだ。
比べてプランAは、こちら側の世界に存在を準拠させてしまうので、命を落としたとしてもそれは個体の自己責任。
金も手間も掛からず、多くのケースを同時に抱えることが出来るため、研究という観点から見ればこちらを採ることは当然とも言えた。
ただし、自己責任というのは便利な言葉であることを忘れてはならない。わざわざ処分せずとも、勝手に死んでくれるというならば簡単だ。
恐らくは、そうなるように仕向けられるのだろう。誘蛾灯に誘われて燃え尽きる羽蟲のように、自らの意思で死地に向かわされることになるのだろう。
それは直接手を下されることと、どちらが幸せだろうか。
また、プランAの基礎データである堕天使の前例もある。
前例があるのだから、その通りに事を進めていけばいいのであって、考えるべき事はプログラムの自動化だ。
これまでの統計によると、魂を呼び入れた際に神を騙って、神として「特別な力を与えたと」でも述べておけば上手くいく確率が高くなるらしい。
対象は自らを選ばれた特別な存在であると錯覚して、色々と“頑張ってしまう”のだと。
この場合、対象には自動的に堕天使の加護が与えられることになる。
長年学会では堕天使の直接加護を受けるにはどのような条件が必要なのか、という議論が続けられてきたが、転生者であることが条件であるとは、考えも付かないだろう。
そして堕天使と敵対関係にある加護神を信仰する集団、主に閨閥貴族の家系に産まれるようにしておけばなお良し。
後は放っておいても排斥を受け、生まれか人か世界に恨みを持ちつつ、冒険者の道を歩むようになるというわけだ。
そうやって産み出された大勢の『堕天使コピー』の内、最もオリジナルに近い形で進行中のプログラム被験者に、プランB責任者である自分の担当する彼をぶつけることで進行度を計る。今回は、そういう試みであった。
なるほど彼は噛ませ犬にされた訳か、とスミスは嘆息する。
それが彼に与えられた最後の仕事だった。
自分が担当しているという一点で、プランBの集大成と見られたか。
しかし、こうやって簡単に敗れてしまった姿を曝したことは、プラスに働くかもしれない。
元より優先度の低いプランである。価値無しと判断されれば、警戒するのは、“彼ら”を目の敵にしているアレのみでいい。
「力しか“ものさし”が無いとは、愚かですねえ。クックック……」
喉の奥でクツクツと笑い声を上げるスミス。
だがそれでいい。彼の価値を把握しているのは、自分だけで十分だ。
力――――――神意にしか価値を見いだせない連中には、終ぞ理解することなど出来ないだろう。
堕天使コピーでさえもそうだったのだ。
自らに近しい存在だと感じていたためか強く揺さぶられていたようだが、結局は力にアイデンティティを求めたのだ。
そんな、レベルなどというものに頼りきり、人間の力を磨くことを忘れた者共など、神に届くものか。
「しかし毎回ヒヤリとさせられますねえ。いやあ、今回は危なかった。ここで貴女が“改宗”してしまっては、全て台無しになる所でしたよ」
「よく耐え切りましたね」と、スミスは影に飲まれていく鈍色の頬をくすぐった。
スミスが背後に向かって指を鳴らせば、クリブスが、アルマが、影に呑まれて沈んでいく。
面倒臭くなったのだろうか、ナナシ以外は影による転移魔術で送ることに決めたようだ。ナナシはその特性故に引き摺って運ぶしかなかった。
この辺り、まだ融通が利かないのだなとスミスは肩を揉んだ。
「綱渡りをするのはもう疲れましたからねえ……本当に、暗躍するのも楽じゃあないんですよねえ」
今回は、いや今回もまた賭けの要素が大きかった。
ナナシ及び“転移者”が結界無効化能力を備えているように、転移転生者達は大なり小なり、皆何らかの異質な性質を備えていた。
共通するものを挙げるならば、『信者獲得』だろう。
世界の理から外れている彼等は、その理に不満を持つものにとり、大いに魅力的に映るらしかった。
個体による手段が問題なのではない。中には、微笑みかけただけで心を鷲掴みにしてしまう者さえ居るというが、それも性質に依るものだった。
鈍色が頭を撫でられ、頬を桜色に染めた理由がそれだ。
つまり堕天使コピーは、その『信者獲得』を鈍色に使ったのだ。
あれには本当に肝が冷えた。何せ、ここで鈍色が改宗してしまえば、また一から“巫女”探しをしなければならなくなるのだから。時間的猶予はもはや無いのである。
もちろんナナシも例に漏れず、『信者獲得』の性質を備えてはいた。
しかし具体的手段を持ち得てはいなかったため、そこまでの強制力を発揮する事は無かったのである。
堕天使コピーとは違い深い仲になりたがらないのは、自らの特性に薄々感づいているからか。
しかし『信者獲得』とは惚れ薬のような、そんな易しい性質ではないのだ。
“手段”を用いて直接行使された場合、対象の自意識は上書きされ、愛や恋といった強い感情にコーティングされる。
そして、あらゆる命令を受け入れる態勢となる、言いなりの人形となるのだ。正に、神に傅く敬謙な信者のように。
果たして、ナナシの側に居る女性陣は、ナナシの言葉に絶対服従するだろうか。
ナナシの命に拒絶することなく、粛々と従うだろうか。
掛けられた言葉を拡大解釈して、ナナシの意に反する行動を執りはしないだろうか。
触れ合う機会の多いパーティーメンバーはともかく、お嬢様と技師に関してはありえない事であると断言できる。
ナナシがこれまでしてきた余計な気遣いは、スミスに言わせてみれば思い過ごし。取り越し苦労でしかない。
彼の奥手な正確がどれだけもどかしかったことだろう。
「さっさと誰かとくっ付いて下されば、こちらとしては楽だったのですけどねえ。まあもう贅沢を言っていられませんから、良しとしましょう。
あれだけタイプの違う婦女子が周りに居るというのに、奥ゆかしいというか何というか……それで失敗しては泣くに泣けませんよ」
しみじみと息を吐くスミスの姿は、くたびれた会社員そのもの。
上司からの圧力と部下からの突き上げの妥協点を探し、更にその隙間の空白を縫って事を進めるのは、相当に骨が折れる作業だった。
多少無茶な試練を課したとてナナシが死にはしないと確信はしていたが、絶対ではないのである。
スミス独自の計画には巫女の存在が不可欠だったが、その選定も偶然に依るもの。同じ演出を二度しろと言われても、土台無理な話だ。
それに万が一プランAが成功してしまえば、これまで行って来たことは全くの無駄となるではないか。
そしてその先の恐るべき――――――。
「それではあまりにも、ナナシ様に失礼というものでしょう」
ここに来るまで払ってきた犠牲を慮れば、ナナシは決してスミスを許さないだろう。
スミスが出来る償いはただ一つ。
ナナシを、“神の座”へと押し上げることだけ。
ナナシが神と成ったその瞬間に、あらゆる罪は浄化され、己は卑しくも神の寵愛を受けることになるだろう。あるいは、裁きを。
そして、神が人間の創造物であることが、ここに証明されるのだ。
神を祀る“迷宮”も、迷宮を外敵から守るために在る“魔物”も、そこに収まるべき“神”も、全ては完成に近付きつつある。
だが、未だ足りない。
決定的な一つが。
「そう、足りない、足りないのですよ。神に身を捧げるべき巫女が――――――“贄”が足りない」
貴女もそう思うでしょう、とスミスは影へと呑まれて行く鈍色に問いかけた。
返事はない。
しかしスミスはカラスが鳴くような、甲高い笑い声を上げた。
「貴女に最高の栄誉を与えましょう。神の一部となる栄誉を。ですから、さあ、心安らかに神に召されなさい」
陰が“ぬるり”と蠢いた。
神とは信仰により存在を継続させ、世界の礎となる。
人が言う神とは、長い時の中で人の命の循環を基盤とした、世界に組み込まれたシステムのことを指していた。
その神は自然そのものとなる。人は自然を、神を畏怖し、感謝を捧げて生きていく。すなわち、信仰を。
神はその信仰を糧にして、自らを存続させるのだ。
では、短期に神を立脚させるにはどうしたらよいか。急拵えの神、そのため信仰を得られる見込みが無かったとしたら、どうしたら良いのか。どうその神の存在を持続させたらよいのか。
スミスの結論はこうである。
贄を捧げること――――――。
それに尽きると。
直接神へと、命を吸い上げさせるのだ。
贄が神とより深い関係にあったならばなお良し。
強烈に神に揺さぶりを掛け、そうすることで希薄であった存在が、より強固なものとなるだろう。
それは、神となるべく対象が未だ存命中であったとしても変わらない。
いや、むしろ強く神としての素質が高められることだろう。
神となっては消えてしまう感情や意思の力が、魂へと蓄えられていくのだ。
「愛しい愛しい彼の血肉になれるのだから、貴女も満足でしょう――――――ねえ、子犬ちゃん」
巫女とは、供物の換言であるが故に。
ある意味ではナナシの命よりも慎重に扱ってきた巫女――――――鈍色が、完全に影に飲まれるまで、スミスはじっと見守り続けていた。
その視線に紛れもない慈愛と、羨望を込めて。