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完全装鋼士 : レベル0  作者: ノシ棒
第2章 ―喪失編:仲間―
26/64

地下24階

()の使い方を教わりました。

感想ください(露骨)

評価ポイントでもいっすよ!(謙虚)

こうですねわかりました!(ごめんなさい)

通された座敷で料理に舌鼓を打つ。

箸を使うのも久方ぶりで、最初使い方を忘れてしまってはいないかと不安にもなったが、この手は覚えていたようだ。

危うげなく器用に煮豆を摘むナナシの箸使いは、セリアージュ達に感嘆の声を上げさせる程。彼女たちは上手く箸が使えず、スプーンやフォークを出してもらっていた。ナワジは気にせず箸を握りこんで、そのまま料理に突き刺していたが。

ナナシよりも上品な箸使いをしていたのは、クリブスである。焼き魚の小骨をナナシ以上に器用に取り分けてまとめている。鉤爪が邪魔になろうかと思いきや、全くそんな事はなかった。

驚くナナシの目の前で、箸を素早く開閉さえして見せている。何となく悔しい気持ちになるナナシだった。

得意気なクリブスにむすりとしつつ箸を運べば、自然と口元が綻んでいく。

山奥の旅館は料理が美味いと相場が決まっている。


「うまいな、これ」


「ああ、うまいな」


「わふわふ、わふわふ」


「うー……まだ頭痛い……」


「お嬢様は軟弱だなあ、おい」


「誰のせいだと……ったたた」


露天風呂から上がった後、夕食だと女中に座敷へと案内されたナナシ達。

用意されていたのは色鮮やかな季節の料理。これも、和風の趣のもの。

敷かれた座布団を見て、膝を曲げて座るという文化は中々触れる機会はないぞ、と皆上機嫌になった。どうもこの大陸では、こういう和風の文化は輸入したもの、外国のものという認識らしい。この温泉街は、日本で言う所のアメリカ村か中華街と同じような位置付けなのだろう。

クリブスはふらつくナナシを支えながら、座布団へと腰を下ろさせた。案の定、湯にのぼせて足取りの覚束ない様子だったナナシをクリブスは鼻で笑いはしたが、言及はしなかった。

どうせ、赤ら顔なのは湯当たりしただけではないことを解っているからだ。ナナシの扱いなどクリブスはとっくに慣れていた。

今は我関せずと、浴衣に着替えて食事を摂っている。

浴衣の下は首元まで覆った黒のハイネック。暑苦しい奴、とナナシは呆れたような顔。クリブスは涼しい顔。どちらかと言えば、我関するなと心の距離を置いているように見えた。

女性陣も、露天風呂でしっちゃかめっちゃかとありながらも、クリブスの前で何食わぬ顔で食事をしているのだから、メンタルの強さは並大抵ではない。

ナナシと乱痴気騒ぎをしたことはバレていると解っていようものが、クリブスが男として見られてはいないのではないかと心配にもなったが、どうやら違うようだ。女心は解らんと気にしないことにした。

気を抜けば肌色を思い浮かべてしまう自分がやましいのかとも思えて、ナナシは恥かしく思った。どうにも身体が反応してしまうのは勘弁してもらいたい。

湯上りの女性の臭いが部屋に漂っている。前を向けば、しっとりと水気を含んだ髪を結い上げたセリアージュとナワジが。隣には方が触れ合う程近くに鈍色が座っている。彼女に関してはいつも通りであったが、時折その尻尾で腰の辺りをくすぐるのはやめてほしい。

ナナシは運び込まれる膳に集中した。


「山菜の盛り合わせと、海の魚の御造りでございます」


「おお、これぞ海の幸山の幸って感じだな」


「今朝採れたばかりのものらしいですよ。海の幸は転送術式で港から輸送した、料理長自慢の一品です」


次の料理を座敷に運ぶのは、アルマであった。

和装をした女中達に紛れ、メイドが膳を運ぶ姿は異質である。

敷居を踏まないよう音を立てないようにつつつと歩く、完璧な女中歩き。

各々の鍋にマッチで火を着けながら席を回るアルマに、何だかなあとナナシは苦笑する。


「ありがとう、アルマ。お前も一緒に食べたらいいのに」


「いえ、主人と席を共にするなど、とてもとても」


「命令って言ったら、どう?」


「実を言うと私、お世話される事に慣れていなくて。女中の方々に料理を運んで頂くだけで、ほら、全身にじんましんが……」


「損な性質(たち)だなあ」


「そうでもありませんよ?」


何が嬉しいのだろうか。

くすくすと口元を隠して笑いながら、アルマは鈍色と顔を合わせて「ねー」と頷き合っている。

アルマから茶を注いでもらう。熱い茶が喉を通り、胃を内側から温めていく。

鈍色がそっと、その小さな身体を預けて来た。ナナシは黙って湯飲みを傾けながら受け入れる。

クリブスはカニかエビのような甲殻類の身を剥くのに夢中になっていて、セリアージュは頭を抱えて味噌汁を音をたてながら飲み、ナワジは煮玉子をほふほふと頬張っている。

まったく、良い休暇である。


「む……また地震か」


クリブスの眉根が上がる。

カチャカチャと皿が膳の上を滑り、音をたて始めた。

揺れが大きくなっていく。


「こりゃけっこう……でかいぞ!」


皿の割れる音と女の悲鳴が聞こえる。

バランスを取るクリブス。鋭く周囲を見渡すアルマ。お互いに支えあうナナシと鈍色。揺れに口元を押さえ顔を青くするセリアージュ。ちくわが乳房の間に入って汁を吹きパニックになるナワジ。

湯飲みが跳ね、倒れる。縦揺れだ。立っていられない。


「ふわわわわわ!」


「クリフ、鈍色! 掴まれ!」


「すまん!」


「お嬢様、バケツ、バケツを持ってくるまで我慢を……!」


「あびゃばばばゆれれゆれゆれるるるうべぇぇぇ……ッ! も、だめぇぇ……ッ!」


「あぢゃぢゃぢゃぢゃ! 乳が! 谷間が! んがぁぁああ顔射ああっつあっづあ!」


「お嬢様ぁーっ! いましばらく! いましばらくお待ちを! 乙女としてあるまじき絵面になってしまいます!」


「あ、無理これえぼろしゃー」


「ふおおーっ! セーフ!」


「おぼろろろ」


「いや、アウト! アウトですお嬢様! 鼻から! 鼻から出ております!」


しばらくして揺れが収まると同時、廊下の向こう側から隠しようのない女中たちのざわめきが。

従業員達が落ち着いてくださいと叫び声を上げている。保護防壁を張ったから、この旅館内は安全だと。


「クリフ!」


「わかってる、行くぞ!」


「鈍色とアルマは二人を頼む!」


ナナシとクリブスは鈍色達の返答も待たずして、引き戸を開け払い外へと飛び出した。

三階の屋敷部屋から危うげなく庭へと着地。

足裏と膝に砂利石が食い込む。今更ながら、素足で出てくるんじゃなかったと後悔。

外は暗い夜の闇。だが、ある一点の空だけが、薄明るく光を放っている。

まるで、炎に照らされているかのようだ。


「なんだ、火事か……?」


「いや、あれは……神意の輝きだ」


断言するクリブスの瞳には、明けに照らされ、チラチラと炎が踊っていた。


「どうする、行くか?」


「いや……戻ろう。出来る事はない」


「でも」


「いいから。戻れ」


結局何をするでも出来るでもなく、クリブスに促されてナナシは旅館へと引き返す。

その後は従業員たちの指示に従い、大人しく部屋で過ごした。鈍色達も不穏な空気を感じたのか、不満を零しつつも大人しく引き下がった。宴会という気分でもない。水を差されたとナワジは苛立ちを露にしていた。

あれだけ穏やかであった街の空気は一変して、何か怯えるような、重大な何がしかが起きるまえの緊張に張り詰められたかのような、異様な空気に包まれていた。

することもないので、仕方なく布団に横たわりながら、ナナシはクリブスの様子を伺う。

クリブスは、何かを察知した様子だった。

だが布団に包まれたクリブスは背を向けていて、頑とした空気を放っている。

気配で解る。眠ってはいない。ナナシはどう声を掛けたらいいものか、解らなかった。


「クリフ、寝たのか?」


「……」


「……なら、いいさ。何か解ったことがあったら俺に言えよ。いいな」


一緒に解決しにいこう。それは言わずとも伝わることだと信じて。

返答はない。

夜が更けていく。ナナシの布団から静かな寝息が上がり始める。

部屋の中に、朝方まで何時までも閉じられることがない、爛々と輝く二つの瞳が浮かんでいた。



□ ■ □



「なあ皆、クリフの奴、どこ行ったか知らないか?」


起床したナナシは開口一番、顔を合わせた皆に向かって問う。

ナナシが眠りから覚めた時、もうクリブスの布団はもぬけの空。特徴的な鳥頭をした人影はどこにも見えなかった。

女性陣は皆起き抜けの顔。

着崩れた浴衣から覗く素肌が眩しいが、だらしなさの方が前面に出ているのでは、色気を感じることもない。


「知らないわよ……頭痛い……」


「わふん」


「見ちゃいねえなあ。どうした?」


「いや……なんでもない」


思えば昨夜は、あの夜空をぼんやりと照らす炎を見てからクリブスの様子はおかしくなっていた。

それを見落としたのは、自分の責任だ。恐らくクリブスはあの輝きの下に向かったのだろう。地震の原因にも、心当たりがあるようだった。

ここで皆に「一緒にクリブスを探そう」と乞うことが筋だとは思う。

だが同時にナナシは、クリブスが単独行動を執ったのは皆に知られたくなかったからではないか、もし後を追うのだとしたらそれは自分しかいないのではないか、とそうも思っていた。

それは確信だった。

クリブスも、追って来るのはきっとナナシ一人であると、そう思っていると。


「ちょっと俺、散歩行ってくるよ。昼飯には戻るから、心配しないで」


「待ちなさいよ。せっかく旅行に来たんだから、みんなで……ったたた」


「無理すんなよ、お嬢様。ナナシ! 今度はスッカンピンになるなよ!」


「賭けはもうしませんって! 勘弁してくださいよ!」


兎に角探しに出るべきか。

単独行動が長引けば、どうせ馬鹿だと言われることは眼に見えている。自分だけが許されたなどとは勝手な思い込みであるので、余計な詮索もされたくはない。

さてどうするかと靴の紐を結んでいると、「わん」と聞きなれた声。

解ってる、こっちは任せろ。

と言わんばかりに鈍色は両手を頭上に掲げ、親指を立てている。頼もしい顔付き。

任せた、頼むわ。

とナナシはトランクを肩に引っ下げて、親指を立て返した。

一歩玄関から外へ出れば、からりと晴れた陽気が差す。硫黄の煙にも負けぬ日の光が眩しい。

目の上に掌で影を作りながら、さてとナナシ。どこを探すべきか。


「おはようございます、ナナシ様」


「おはよう、アルマ」


物陰から現われたるアルマ。毎度のことなので、ナナシは驚くこともなく返答した。


「ハンフリィの行方は調べがついております」


「そっか……お前も解ってたか」


「はい。ハンフリィはすぐに顔に出るタイプなので」


「あの鳥頭が顔に出るタイプだって? お前あいつの表情とか解るの?」


「ええ、割と表情豊かですよ?」


「そっちのが驚きなんだけど……」


「こちらへ。ご案内いたします」


「ああ。よろしく頼む」


アルマの後ろを歩く。

朝早くだというのに、温泉街の路地は人で溢れていた。

ただし観光客ではなく、そのほとんどが従業員達、それも大工や建築業に携わるものばかりのように見受けられる。

彼らは驚くほどの速度で、それこそ眼にも留まらぬ速さで木材を切り崩し、歪んだ屋台骨や家屋の補強に取り掛かっていた。

どうやら昨晩の地震で歪んだもののようだった。家屋が傾ぐ程の揺れ。やはり大きかったのかとナナシは納得する。

大工達は瞬く間に家屋を修復し、次の家屋へと取り掛かっていく。


「すごいな。速過ぎて目で追えない」


「おそらく彼らは高レベルの従業員達なのでしょう。接客、という領域においての」


言うならば、接客レベル99とでも言うべきか。

ナナシの横を「すみませんねえ」と老婆が滑る様にして擦れ違う。腰が曲がって膝は上がらないだろうに、残像を残すほどのスピード。

氷の上を滑っているかのような異様であった。


「ターボばあちゃんかよ……レベルっていうのは、本当わからないな。あれ、体ぶっ壊れちゃうんじゃないの?」


「本人達は力んだり早く動こうという意識はないんですよ。レベルの補正というものは、本人よりも世界の方に掛かるものですから」


「魔力による加速とも違うのか。というと、なんだ、あの超スピードは本当に早くなってるんじゃなくて、空間を操作してるってこと?」


「どちらかと言えば時間操作かと。時間を切り離し、周囲とは異なる時の早さで行動しているのです。結果、超スピードで動いているように見えるだけ。どれだけ自己の時間をこの時間軸から切り離し行動出来るか、その目安を『すばやさ』とも呼ぶのです」


つまりは、周囲よりも早い時の流れに乗っている、ということか。

レベルの恩恵、補正はそのようにして、世界の側に掛かるらしい。

神より与えられた力だ。直接腕力が強くなりました、と言うよりも、世界そのものに干渉して質量や重力を軽くしたと説明する方が“らしい”だろう。

そのような理屈の無い不条理や理不尽こそが、神意の本領だ。

レベルとは、その恩恵をどれだけ強く受けられるかという目安であるということらしい。


「なるほどね……同じステージに乗れさえすれば、どうにでもなりそうだな……」


「そう、ですか」


ぼんやりとして、早送りをするように家屋を建て直していく職人達を眺めながら言うナナシ。

意図して漏れたのではないだろう呟きに、アルマは相槌を打つ。

その言葉が持つ意味。ナナシ自身気付いていない、その重さに、背筋を粟立たせながら。

ナナシは気付いていない。自分が今、どれだけ恐ろしい事を述べたのかを。

それを体現し得る可能性を自らの内に秘めているのだという自覚もなく、ナナシは脳裏である光景を描いていた。

戦いの光景を。思い描くが自然であるかの如く。眉根が顰められたのは、高レベルの人間を相手にすれば、己の敗北が必至であると思い至ったからか。

足を止めず、しかし再び物思いに耽った様子のナナシ。それは、今は未だ、と。そう思っているからではないだろうか。

確実に、一歩一歩、戦闘者としての道を歩み始めているナナシに、アルマは己の頬が歪むのを止められなかった。

それで、よい。小さくともよい。一歩一歩、前に。きっと、その先に――――――。


「人気がなくなってきたな。やっぱり、鎮石の方角か」


「はい……ナナシ様、これより先は」


「言わなくていい。一人で行くよ。悪いな」


「……はい」


ナナシが己の口で一人で行くと言ったのは、それをアルマに告げさせないため。

アルマの責とさせないためだ。

何があっても自己責任。単独行動の鉄則である。

ナナシも自分自身の心が発する行いを、アルマに押し付けたくはない。


「この路地を抜けると山道に出ます。山道を追わず、置き石を目印に獣道へと分け入ってください。獣道を越えた崖の上、その先にハンフリィはいます」


「分かった。静かに慎重に、そしてこっそりと、だな」


「はい。これより先は禁足地。表の見物客用に作られた山道とは違う、神域への入り口です。結界は張られてはいませんが、人に見られては事。ハンフリィの目撃証言の揉み消しと共に、人払いをいたします」


「何から何まで、すまんな。ありがとう」


「恐悦至極にございます。ですが、謝意は不要にてございます。この身はメイド、主人の命ずるままに動くが使命。あなたの望みを叶え、御身を支えることが至高の喜びなのですから」


「大げさな奴だな。まあ、留守番頼むわ」


「御武運を」とアルマは頭を下げた。「昼飯までには帰るよ」とナナシは片手を上げて返答。歩を進める。

アルマの言葉通りに、進む先に置石を発見。その先は一見すれば原生林にしか見えない、手付かずの獣道である。

封印結界を張らずカモフラージュに留めてあるのは、人払いと金儲けの兼ね合いであるからか。

踏み入って貰っては困るが、しかし見世物となってもらわぬも困る。そんなところだろう。

封印は維持せねば劣化してしまう。かつての『地下街』の放置された状況から鑑みるに、封印処理は国の仕事であり、そしてその仕事は不真面目にこなされているようだ。

魔物が出て人を食うでもなければ、こうやって民間や信教の手に維持管理は任されている。管理責任は地域の方々と、専門家の皆様にお願いします。そういうことだ。

ドライな対応に見えるが、流石にこの世界にあっては国政と宗教の分離は中々に難しい問題であるらしい。

ナナシは屈んで道を見る。また置石があった。ここが分岐点のようだ。

道は人工的に作られた山道と獣道とで、二股に分かれていた。脇には地図もある。

山道の方に向かって行けば、ある程度は鎮石まで近づける見学用の小屋に出るらしい。立地上、獣道を進んでいけば、崖の上に出るようだ。

鎮石は、そこだけ天上から崖を切り抜いたようにして、穴を穿ったように鎮座している。周囲を高い崖で囲まれた形。

人が足を踏み入れるには中々に厳しい、天然の罠が仕掛けられた迷宮のようだ。

それ以外にも工作はされているだろうが、アルマが言うには大丈夫だろう。それにクリブスが先行している。もう隠蔽術式等は解除されているはずだ。

それに自分は冒険者。

迷宮突破が本業である。


「つれない鳥頭発見、と。よーう、クリフ」


ナナシは不安定な足場を軽やかに踏み越えると、崖の上で地面に向かい何をかをしている鳥頭へと、「よう」と気軽に声を掛けて肩を組んだ。


「うひあっ!?」


「お、おお?」


「き、きき、み、君は、一体、何をしてるんだこの、馬鹿!」


「お、おう、わるかったから。驚かしてわるかったから。ちょっと落ち着こうか、な?」


クリブスの反応は大げさな程で、ナナシが触れるや大声を上げて飛び上がった。

心臓の辺りを手で押さえながら、崖にぴったり背を付けている。

足ががくがくと震えているのは、さて何故だろうか。


「ははあん」


「な、なんだその顔は。それより君、どうしてここにいる!」


「クリフ、お前、高い所苦手なんだな?」


「んぐっ……! そ、そんなことはどうでもいい! どうしてここにいるのかと聞いているんだ!」


「どーん」


「ひあああっ!? 押すなッ馬鹿ぁ!」


面白いなこいつ、とナナシの頬が釣り上がるのを見て、クリブスの鳥面が絶望に染まった、ように見えた。


「なんでここにいるのかって、それは俺の台詞だよ」


「それは……! 君には、関係のないことだ」


「何かあったら教えろって言ったろ。ほら、話してみなさいよリーダー。ほーらほーら」


「やめっ、やめろ! 押すな! 押すな押すなやめろやめないか! 話す! 話すから!」


「はい、どうぞ」


ぱっと手を離してニンマリと笑うナナシにクリブスは睨み付けるも、気にした様子は無い。

見て分かる程に震えて目に涙を溜めていれば、迫力など出ようはずもない。

どうぞと促され、クリブスは肩を落としながら語り始めた。

「見ろ」と地面に書かれた魔方陣を指しながら、クリブスは説明する。


「最近、この二・三日の間に頻発し始めた地震は、ここの鎮石が原因だ。地脈を抑えていたはずが、何らかの要因で抜けかけていたんだ」


魔方陣から魔力の光が漏れ、空中に文字を描いていく。

立体投射のモデルとマップ。

本来はプレゼンテーション用に使う、クリブスの魔術である。


「頭を押さえられていたナマズが怒って暴れてるってことか」


「ナマズならどれだけいいか……調べて分かったよ。ここを流れる地脈は、霊脈魔力溜り気脈……全ての地脈の頂点に立つ力を持つ、龍脈だ」


「……暴れてるのは龍、ねえ」


「地を統べる龍と、天を統べる鳳凰。この二柱がこの国の仰ぐ主神だ。それは分かっているな」


「それは、まあ」


「つまり、龍脈を抑えるには鳳凰の力を使うしかないということだ。抜けかけていた鎮石とは、鳳凰の羽のことだったんだ」


クリブスは深刻そうにして、そう告げた。

対するナナシは不思議そうに片眉を上げるのみ。クリブスは話を聞いていたのかと苛立ち気にして詰め寄った。


「察しの悪い奴だな。ここまで言えば解るだろう」


「いや、ごめん、まったく解らない」


「だから! 鳳凰の羽である鎮石の機能を正常にするには、鳳凰の血を引く者が……不死鳥を始祖とするハンフリィ家の、その長子たる僕が出向かなければならないんだ!」


「そうなのか」とナナシは頷く。クリブスの伝えんとしたい事は、絶対に解っていないだろう顔。

それよりも、何故そんなにクリブスが苛立つのかと困惑しているようだ。

クリブスはナナシの純朴さに多くを救われていたが、しかしナナシの無知さを嫌ってもいた。

人の心の機微に聡いくせに、その背後関係を計れない。それがこの男の欠点であるとも。

それは未来を予測する能力の欠如。この男には、今しかないのだ。

だから、クリブスはナナシのそんな刹那的な生き方を嫌っていた。

目を離せば、すぐにでも死んでしまいそうで。


「僕はただのベタリアンじゃない。不死鳥のベタリアンなんだ!」


「う……ん。ごめん、クリブス、お前が何を言いたいのか、本当に解らない」


「だから……ッ! もういい! 君は、君という男は……! わかっていたさ! 期待などしていない! だからもう帰れ! 僕が全部なんとかするから、頼むから帰ってくれ!」


「……お前の言う通りだよ」


ナナシはクリブスの襟首を掴むと、無理やりにこちらを向かせる。

崖の上で無理な体勢をしていたクリブスは、容易に体を崩されて、ナナシの為すがままに。

至近距離で、鉛のような重く、熱い視線に射抜かれた。


「俺は馬鹿で、ぐずで、何にも解っちゃいない“世界知らず”だよ。お前のことだって、お前が知ってほしいと思っていたことは全然解らない。でも、知ってることだってあるさ」


「なんだ……離せ、ぐっ……」


「お前が俺たちのパーティーのリーダーで、俺が副リーダーだってこと。パーティーメンバーは支えあい、リーダーと副リーダーは補い合う。それが冒険者の鉄則だろう。違うか?」


ナナシはクリブスを突き放すようにして崖から遠ざけた。

クリブスはよろけながらもしっかりと立ち、ナナシを睨み付ける。

お互いの間に、一歩も引かぬ空気が流れていた。


「どうだ、クリフ。答えてみろよ」


「こちらの事情も知らずに……おためごかしを」


「そうだ。でも、俺の力は必要だろう? お前の助けになりたいんだ」


「まったく、君は……」


「どうなんだ、クリフ」


「僕をクリフと呼ぶのは、君だけだ」


しかして、折れたのはクリブスであった。

どうしようもないと頭を振りながら、クリブスは大きな溜息を吐いた。


「込められた神意が強すぎて再調整出来ずにいたんだ……力を、貸してくれるか?」


「もちろん」


快い是の返答。

クリブスは幾分か和らいだ表情で、ナナシと肩を並べて歩き始めた。

向う先は、鎮石である。


「五年も一緒にいるのに、解らないことってのは多いな。お前のこと、知らないことだらけだ」


「ああ、僕も同じだ。君は何も話そうとしないからな」


「それ言われるとちょっときついな……」


「なあ」とナナシは明けの空を眺めながら、クリブスに言った。


「旅行から帰って、卒業探索が終わったらさ、もう一度旅行しないか」


「……そうだな。それもいいな」


「今度は目的地とか決めずにさ、行き当たりばったりの旅とかどうよ?」


「無計画なのは好きじゃない」


「今回みたいにびっちりスケジュール組まれたらたまんないって。お下げ髪したステレオタイプ女委員長かっつーの、お前は」


「……ほう? 面白い意見だな。僕が、女、なんだって?」


「失言でしたごめんなさいねー。いいよ別に、またガチガチに予定立てられたら、適当にギャンブルでも打ってその予定崩してやるからよ」


「君、わざとだな? あの見え見えのイカサマに引っかかったのはわざとだったんだな?」


「さて、何のことやら」


惚けた顔。

交わされる軽口。

ナナシとクリブス。何時もの二人の関係。

近過ぎず、遠過ぎることもない、心地よい距離感。

この肩を並べて歩む距離、自分の隣を歩む者は、こいつしかいないという確信。

それは相棒、と言うべき間柄。

気恥ずかしくて決して口にはしないが、二人は確かに、互いを認め合っていた。


「なあ、さっきの事情とか何とか、教えてくれよ」


「断る。少しは努力しないか。自分で気付けるようになれ、馬鹿」


「うわ、なんだよその言い方。感じ悪いんでやんの」


「普段から勉強していればこんなことにはならないというのに……本当に君が副リーダーでいいのか、心配になってきたぞ」


「お前、言い訳出来ないこと言うなよな……」


「ほら、これだけ言われても勉強する気がないという顔だ。どうしようもないな、まったく」


「意地悪しないで教えてくれよ、なあ」


「人に言う前に自分を省みるべきでは?」


「うわブーメランだった」


崖を上り終えると、そこは街を一望出来る山の頂上であった。

眼下には煙を上げる湯治の街。職人たちが柱を抱えて、客たちもそれを手伝っている。そんな様子が小さく見えた。

手伝いをしている客たちの中で、一際目立つ一団があった。

金と銀に分かれて、忙しく木材を運んでいる。

セリアージュとナワジ。そして、鈍色とアルマだった。

皆、変わらぬ暮らしを守ろうとして、手を取り合っている。

そこには老いも若いも、貴族も平民も、そしてベタリアンも関係がなかった。

誰もが願う、人の、人らしい本当の姿がそこにあった。


「……ナナシ」


「……うん、解るよ。なんか、いいよなあ。こういうの」


「ああ、そうだな……」


さて、とナナシは両頬を叩いて気合を入れる。


「さ、リーダー。指示を頼む!」


「よし、状況説明するぞ。現在鎮石の入射角が地盤沈下により狂い、龍脈が活性化しつつある。このままではいつ暴走するか解らない。速やかに鎮石を刺し直し、神意の再調整を取るんだ」


クリブスが虚空に指を滑らせる。

魔方陣が展開。魔力の光によるプレゼンテーション。ミッション・ブリーフィング。

表示される大量の情報をまとめれば、こうだ。

この地は天地の神、龍神と鳳凰の力が交わる点であった。

このままでは地脈に異常が起き、大地が崩壊、隆起してしまう。

それを防ぐために、過去、鳳凰の抜け羽を鎮石として用い、天地の神意のバランスを取ることで打ち消し合わせていたのだという。

鳳凰の抜け羽はバランサーでもあり、カウンターでもあったのだ。だが、行き届かない管理体制によって、保たれていたバランスが崩れた。

温泉地は地盤が不安定な場所が多い。鎮石が建つそこも同じであったのだろう。地滑りや雨の影響によって、羽の先端から地脈に向って放出される神意の入射角に、ズレが生じたのである。

そして、本来は天と地で双方向から打ち消しあうはずの神意が、地脈を刺激し、龍脈のみが活性化してしまったということだ。


「見ろ……まるで破裂寸前の爆弾だ。バランスを取るために強固な造りとしたのが仇となったんだ。僕でもここまで近づかねば、はっきりと異常とは気付けない」


クリブスの戦慄を、ナナシは理解することは出来ない。

そこにあるのは、巨大な円錐の石柱であった。

山肌を垂直に削るようにして抉り、硬い地盤の層へと縫い止めるようにして突き刺さっている。

大きさにして15メートルはあるだろうか。巨大な石の針……否、不死鳥の羽、である。

抉れた山が崖となり、壁となったそこを、ナナシは天然の迷宮のようだと思った。

そして、今この不死鳥の羽を眼下にして思うことは、ここがまるで神殿のようだな、ということ。

迷宮と神殿が同一視される理由が、ナナシには解ったような気がした。


「まずはガス抜きをしなければ、ここら一帯が一切合財まとめて吹き飛んでしまう。ナナシ、頼めるか」


「了解。俺のすることは一つだな」


「ああ、そうだな。その後のことは任せろ。さあ――――――」


クリブスは頷いて、その鉤爪を真っ直ぐに指し示した。


「ぶちかませ――――――ナナシ!」


「おおうッ!」


クリブスの号令と共にナナシは跳び出す。

弾け飛ぶトランクのロック。


「行くぞツェリスカ! 装着変身!」


寸瞬の間。

完全装鋼士、ナナシ参上。


『スラブ・システム起動』


機関鎧の各所がスライド、圧搾空気が噴出。跳び出したまま、ナナシは垂直に上昇。

空を踏みしめ、駆け上がって行く。

ふわりと腹の底が浮き上がるような感覚。瞬間、ナナシは中空に身を任せていた。

朝日が鎧を照らし、鈍い輝きを放つ。


「無名戦術最新奥義――――――」


感じるのは力のうねり。

眼下の鎮石から迸る、不可視の力……神意。

この世で最も尊く、神聖不可侵であるもの。

己はこれからそれを、踏み躙る。


「『清淡虚無』――――――アース・ィイイタァアアアアッ!」


『アース・イーター』。

それは、ジョゼットより受け継いだ無名戦術の教え。対多脚型魔物用の技。静・動、両の構えより放たれる変幻自在の蹴撃。

否、それは蹴りではない。

足裏全体を使って対象を踏み締めるその脚は、相手を蹴り付けるためのものではない。

間接の稼働を阻害し対象の動きを封じるための、フルスタンプ(全力踏み付け)だ。

機関鎧の膂力補助を十二分に活かして、対象の関節を踏み砕き、縫い止める技。

言わば、垂直蹴爆撃。

空に鈍い鋼の色を滲ませて、急降下したナナシの右の足が、鎮石の頂点へと突き刺さる。


「くぅうおおおおああああ――――――ッ!」


刻まれる罅。崩落する岩盤。

鎮石の先端が地中へと垂直に打ち付けられる。曲がった釘を打ち直すかのようにして。

込められた神意が異世界人であるナナシの特性により消滅していく。神意の悲鳴。世界の法則に逆らう行い。ナナシという世界外の異物による、現存世界の蹂躙。

地震発生。

活性化した龍脈が、マグマとなって噴出する。その前触れが。


「クリフ!」


「よくやった、ナナシ!」


消失した神意、それも、地脈を丸ごと一つ抑える程のものを、どうやって補うのか。疑問は残る。

だが、クリブスは任せろと言った。

ならば、ナナシは信じるだけだ。

細かいことはいいのだ。ごちゃごちゃと考えるだけ、無駄なことだ。

神意や魔術のシステム、理屈はナナシには解らない。

解ることは一つ。

クリブスが大丈夫だと言ったのだから、大丈夫だ。

それだけ解っていればいい。


「不死鳥よ! 我が身に流れる火の鳥の血を通じ、今一度加護を……!」


クリブスが懐から仕込み杖を二刀引き抜くと、それを地面に突き刺したのを、ナナシは見た。

鎮石、長刀、短刀の三点が不可視の力で結ばれ、描かれた二等辺三角形の内部に魔方陣が描かれていく。

クリブスの体を通して、天空から何かが飛来していくのを感じた。

見えずとも、そこに何かがあることをナナシは直感した。

手足が疼く。体が震える。ツェリスカが唸り声を上げている。

我が身に刻まれた技が、自らを振るえと叫んでいた。

この拳は、神を撃ち貫くためにあるのだと――――――。



□ ■ □



魔力切れを起こして精根尽き果てた様子のクリブスを背負い、ナナシは出来るだけゆっくりと旅館に向う。

口を開けぬ程に消耗したクリブスは、枯れ枝のように細く、軽く、尻を支える手に頼りない重みを伝える。

苦しそうな吐息を肩口に感じて、ナナシは顔を青くする。

地脈を支える程の神意を、しかも自らの身を媒体として降ろしたのだ。無事であるはずがない。


「遅かったわね」


旅館の前で仁王立ちし、二人を待っていたのはセリアージュだった。

お嬢様、と口を開こうとしたナナシを制して、セリアージュは背負われたクリブスの肩に手を回す。


「彼はわたくしが看るから、あなたは他の所を手伝いなさい」


「でも、クリブスがしんどそうだし」


「いいから。回復魔術はわたくししか使えないでしょ。ほらさっさと動く」


野良猫を追い払うように手を振るセリアージュ。

ナナシはクリブスを下ろすと渋々といった体で、従業員達に指示して切り盛りするナワジの方へ。

セリアージュはナナシが立ち去るのを確認してから、クリブスを抱き抱え直した。


「大変そうね」


「ああ……お嬢様か」


「歩ける?」


「なんとか……」


「そう……ごめんなさい。あなたに負担を掛けてしまった。ナナシに知られたくはなかったでしょうに……」


「いいや、あの馬鹿は気付いてはいなかったさ。まあ、もう時間の問題だろうが……」


苦笑するクリブスに、セリアージュは唇を噛んで言葉を呑み込んだ。


「龍脈の異常はわたくしも感じていた。わたくしには龍の血が流れているのだから、すぐに解ったわ。もう間に合わないことも」


「いいさ。普通なら、国の調査期間を呼んで、数ヶ月掛かりで執り行う儀式だ。ナナシと僕がこの場に居たのは、幸運だった」


「あなた達を行かせたのは仕込みだったけれど、酔っ払ったのは振りじゃあないわよ。あいつと違ってね」


「それは安心した」


クリブスは呻きながら歩を進める。

痛ましそうにセリアージュがその身体を支えると、「ああ」と絶望を孕んだ声が聞こえた。

羽毛に包まれた顔の、その表情は解らなかった。

もし、クリブスが人と同じ肉の顔を持っていたら、泣きそうな位に表情を歪めていただろうか。


「いいから」


慌てて突き放そうとするクリブスを、セリアージュは抱き留める。


「いいから……わたくしは何も見ていないから」


クリブスの法衣。

その腰の辺りが、朱に染まっていく。

血だ。


「……不死鳥は、炎へと身を捧げて蘇るという。自分自身だけで完結した存在。復活は神にのみ許された権利……その血を引くものには、別の形として現れる。自己完結した身体として……つまりは、単体生殖を行える存在として、な。僕はその血を濃く受け継いでいる」


「いいから……言わなくてもいいから……」


「嫌になるよ。男なのか女なのかも解らんような身体で、誰からも忌み嫌われて……」


「クリブス、お願いだから言わないでちょうだい……」


「通常の卵子の排出ではなく、殻に包まれて出てくるんだ。途中で殻が割れるから、傷を付けて出血がひどくなる……こんな風に、神意に当てられて身体が反応したとなると、特にな。ほら、もう真っ赤だろう」


「クリブス!」


「事実なんだ。変えようがないんだよ。僕はベタリアンで、半端者だ。社会的にも、肉体的にも……どうにもならないよ。ハ、ハ、ハ……」


「だからあなたが変えてみせるんでしょう? 卒業したら、政治家になるって言っていたじゃない。しっかりなさい!」


「言っていただけさ。口にして外に出さないと、心が内側から折れる。怖いんだよ。怖くてたまらない。生きているのが、つらいんだ」


セリアージュは唇を噛んだ。

クリブスには噛む唇も無い。その身に、心に抱えたコンプレックス、悔しさはいか程のものか。

それは、決して弱音を吐く事が無かったクリブスの、同じくして神の血を引き逃れようも無い肉の枷を嵌められた貴族であるセリアージュだけに向けた、心の吐露だった。

仲間たちには決して打ち明けられぬ、心の脆い部分だった。


「あの人はそんなこと、思いはしないわ。あなたが恐れるようなことは、決して」


「そうだな……だからあいつと居るときだけが、何もかも忘れられた。でも、もしもと、そう思ってしまう。人に期待して、裏切られ続けて来たから……だから僕は、怖かったんだ。何よりも怖いのは、あいつに知られることだった。あいつから侮蔑の目を向けられたら、僕は……」


「そう」とセリアージュは静かに頷いて、そっと、労わる様にして、慈しむ様にして、そして羨むようにして、口を開いた。


「愛しているのね」


クリブスは何も答えなかった。



□ ■ □



おおよそ全ての家屋へと回す木材を運び終えた時にはもう、外は真っ暗になっていた。

休暇の旅行のはずが、まったく休めた感じがしない。などとぼやきつつ、湯面をすくって顔を濯ぐナナシ。

一日の締め括りは、やはり風呂に尽きる。

汗と疲れが温泉に溶け出していくようだった。

ナナシは肩をぐっと伸ばして解すと、身体の力を抜いて、湯の流れる様を眺めては楽しむ。

揺れる水面から覗くナナシの半身は、黒の布に覆われていた。

今度はちゃんと、水着を着用しているようだ。

これで安心だ。などと、何故か解らぬ頼りない安心にナナシはほうっと溜息を吐いた。


「隣、いいかしら」


「お、お嬢様!?」


返事を待つ前に、すっと白魚のように細く、濁り湯よりもなお真っ白な女の足が湯面へと差し込まれた。

ぎょっとして振り向けば、それはセリアージュだった。


「何よ」


「いや、その、別に何も」


「何も?」


常は縦に巻かれたボリューム満点の金の髪は、今は一つに纏められてアップにされている。

鈍色よりはふくよかな、しかしナワジよりは控えめな身体の曲線。しかし女としての魅力を損なわぬ程にある肉感は、赤いビキニの水着に、より際立っている。

昨日の水着とは違うものなのだろう。金色の龍の刺繍の衣装が異なっていて、ビキニであっても、昨日のものは両肩から紐で吊るすタイプのものであったが、今日のものは胸元から首に吊るすタイプのもの。

ボトムから飛び出して揺れるのは、翠色の鱗に包まれた龍尾。ボトムは尻の谷間が出ないよう、尾を避けてさらにその上で紐を結ばせるものとなっている。

セリアージュはナナシの視線を真っ直ぐに受け止めながら、隠すでもなく、睨み返すでもなく、不満気に口を尖らせていた。


「何か言うべきことがあるんじゃなくて?」


「う……その、よく似合ってる。うん、本当によく似合ってるよ、お嬢様」


「促されてから言うようじゃ、及第点ね。でもまあ、ありがと」


皮肉を返しながらもその頬が桜色に照らされていたのは、温泉の熱気にあてられたからなのだろうか。

セリアージュは静かに湯へと両足を入れると、ゆっくりとナナシの隣へと腰を下ろした。

肩が触れ合う程の距離。

昨日とは違う。お互いがお互いを意識しての距離。


「……お嬢様」


「何よ」


「何か、あったのか?」


「あなたっていう人は、鋭いんだか鈍いんだか……ね!」


「うわっ」


ばしゃりと湯を顔に掛けられて、困惑顔で顔を拭うナナシ。

目を開けるとむっつりとしたセリアージュの顔が、すぐ隣に。何かを期待しているのだろうか、水滴が滴る毛先を指先で弄っている。


「そんなこと言われても」


「こんな時ばっかりじゃなくて、普段からしっかりしてろってこと!」


セリアージュはそう怒鳴ると、その頭をナナシの肩口に押し付けるようにしてもたれ掛かる。

纏められた髪から滴る雫が冷たく首筋を伝い、思わずナナシは身震いした。


「嫌なの?」


「いや、そんなことは」


「じゃあいいでしょ。たまにはわたくしだって、こうしてみたいわ」


「お嬢様?」


「あなただって、少しは重みを感じるべきよ」


その言葉にどれほどの意味が込められていたか。

何らかの比喩でもって表現された言葉に違いなかった。

ナナシは申し訳なさを抱きつつ、セリアージュの頭の重みを受け入れた。

これまで、執念に生きた老人の言葉だけを胸に、ここまでやってきた。その言葉は、自分の目的と、目指すべき道と合致したからだ。

だが、裏を返せばそれだけだ。

その他の重荷を全て、見てみぬ振りをしてここまでやって来たのである。

背負うことを全て拒否して。

ただ鎧の重みだけを、その肩に。

彼女たちの心の内に、気付いていながら。


「ん……ごめん」


「ふん。謝るくらいなら、もう少し踏み込んで上げたらどう? クリブスだって……」


「あいつとは、これくらいの距離感で丁度良いのさ」


「友情でも、情は情よ。より深く、強いつながりを心は求める。違っていて?」


「……お嬢様にはどう見えた?」


「……嫌な聞き方」


「ごめん」


「謝らなくてもいいわ。でも、二度と言わないで」


それきりセリアージュは口を噤んだ。

熱せられる肌。流れ落ちる汗。二人の間に流れる空気は気まずいもの。

晒されたセリアージュの首筋に目がいく。

預けられた頭は胸元に耳が近づいていて、心臓の鼓動が聞き取られているようだ。

このまま露出した肩を引き寄せられたら。そうナナシは思う。

手が水面から上がる。

セリアージュの肩に、ナナシの指から落ちた水滴が掛かる。

一瞬ぴくりと身を震わせて、セリアージュは瞳を閉じた。

彼女もそれを望んでいるのだと、ナナシは思った。

だが。


「お嬢様がいるってことは、鈍色達もいるな? あいつら、また飛び込みなんてしないだろうな」


「……ええ、言い聞かせておいたわ」


手は湯の中に沈んだ。

セリアージュは蒼い瞳をまばたかせ、ナナシの肩から離れていく。

ナナシがセリアージュの肩を抱く機会は、ここに失われた。

ナナシが自ら彼女へと手を伸ばさぬ限りは、永遠に。


「わっふー!」


という静かな露天風呂の雰囲気をぶち壊す、溌剌とした声。

次いで、ざばんという大きな音と、跳ね上がる水飛沫。

すいーと水中を移動する影を追っていく、水面から突き出る水気を含んだ灰色の尻尾。


「言い聞かせた?」


「聞いてはいなかったかも」


がっくりと肩を落とす二人。

後から「オレもオレも!」という叫びと共に、またどばんと水柱が立つ。

言うまでもなく、飛び込んだのは鈍色とナワジの両名である。


「鈍色……ナワジ先輩……」


「あなたたちね……」


「おーっすお二人さん! あっ、いい雰囲気だった? わっりーわっりーオレも混ぜてくれよ!」


「ちょっ、やめなさい! 近づかないで! またお酒飲んでるでしょあなた! 何なのその水着は!」


「いや、動きやすさを重視して」


「馬鹿が着る水着でしょそれ! 紐じゃないの!」


「サービスだってサービス」


「何を言って……何よ、何で無駄肉を強調したポーズなんかするのよ」


「ほーれほーれ」


「何なの!? 何でそんなに揺らしてるの!? あてつけなの!? わたくしは並みサイズだって言ってるでしょう!」


「大丈夫、おっぱいは怖くなーい」


「あなたの頭の中が怖いわ!」


言い争いを始める二人。

背後から感じる瘴気も無視は出来まい。


「アルマ……」


「はい、なんでしょうかナナシ様」


「何時からそこに?」


「いつでも、私はお側におりますれば。そう、ナナシ様の胸の中に……胸……胸……」


「自分で言って傷つくワードは口にするの控えような」


背後に立つアルマの水着も、昨日のものとほとんど同じに見えるが、違うもの。異なる点は、白のラインが入っているくらいか。

身体を引き締めて見せるためのラインは、ともすれば、鈍色並になだらかな胸をごまかすためのラインかもしれないが。

彼女の身長で鈍色並みともなれば、こうして泣きたくもなろう。

男ならば毎日同じ水着を使うというのに、女性は大変だなと思う。

鈍色も違う水着を持って来ているのだろうか。


「ぷあっ」


思うが否や、ナナシの目の前の水面が盛り上がり、灰色の髪が姿を現す。

現れた鈍色もまた、昨日とは異なる水着姿。これは学校指定の水着だ。

胸元にネームが入った濃紺一色の、何の飾り気もない一体型の水着である。

このような型の水着には、ナワジのような起伏に富んだ体型よりも、鈍色のような、言ってしまえば幼児体系の方が似合うと思うのは、ナナシだけだろうか。

鈍色はぶるりと身を震わせて水気を払う。


「わふー」


そして何が楽しいのか、湯を滴らせながらへにょりと微笑んだ。

全く力の篭らぬその笑みに、毒気が抜かれるような、そんな気分にさせられる。

同時に、責められているような気分にもなる。己の甘さと情けなさを見抜かれて、それを肯定されているような気分だ。

例えば、先のような。

セリアージュの肩を抱けなかったこの小心を、そのままでいいと是正されるような。

甘やかして男を駄目にする女に、元から駄目男でしたというオチの典型例かと笑えてしまう。

小首を傾げる鈍色。果たしてその仕草は本物のものか、演技であるか。

どちらでもよいか。

自分が情けない男であるのは間違いはない。

それでも、まあ、こうして今を生きる仲間たちの一助になれたら、それでいいではないか。


「こらっ! 冷たいじゃないの!」


「隙あり」


「んひえっ! このっ、どこを触って!」


「おっぱい」


「言わなくてもいい、んあっ!」


「……目の毒だ」


「わんおー!」


「ナナシ様、こちらによく冷えた水が用意してありますよ」


「お前たちは目に優しいなあ」


「ケッ!」


「と思いましたがおっと残念。手がすべって全部こぼしてしまいました」


「災いは口からですよねー、ほんと……」


ぎゃいぎゃいと大声で騒ぐナナシ達。

火花はいつの間にか鈍色にも飛び火したようで、三つ巴の争いになっている。アルマもこっそりと追撃をして煽っているのだから性質が悪い。

暴れる彼女達の間に挟まれて、胸や尻で何度も顔が圧し潰される。柔らかいやら痛いやらで、嬉しいやら悲しいやら、複雑な気分だ。

旅館中に響く程の喧騒に、また食事時に女を温泉に侍らして悦に浸るド外道の男、と従業員に影口を叩かれるのだろうか。泣けて来た。

寝込んでいると聞いたクリブスにも、この喧しい騒ぎ声が届いているだろうか。


「おうい、皆!」


ナナシは彼女達に負けないくらいの大声を上げた。


「もっかい旅行、行こうな! 次も温泉にしてさ! その時はクリブスの奴も、無理矢理風呂にぶっこもう!」


「当たり前よ!」


「おーう!」


「わふん!」


「はい!」


間髪入れず、より大きな声での返答が。


「聞こえているぞ、馬鹿者達が」


開け放たれた窓。

部屋の中、憂鬱に壁際にもたれ掛かるクリブスにも、その声は届いていた。

羽毛と嘴に固まって、変わらぬ表情。

しかしその瞳は優しさに満ちていて、その時を夢見るようにして細められていた。

ああ、次に旅行に行く日が楽しみだ、と。

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