地下23階
気付いたら男のマッパの描写を20行以上書いていた
筋肉のキレや尻のへこみの描写を見て誰が喜ぶというのだろうか
私はそっと全削除した
僅かに肌が汗ばむ陽気。
木漏れ日から射す光に照らされながら、幾人かの男女が山道を登っている。
その身を飾るのは、国立学園都市の制服。学園に通う生徒達だ。
「ねえ、本当にこっちの道で合ってるの? 間違ってるんじゃなくて?」
「ああ、地図によればこちらの方角で合っているはずだ」
「鈍色。喉が乾いていませんか? ほら、紅茶がありますよ」
「わふー」
セリアージュ、クリブス、アルマ、鈍色。
探索者科クリブス班一行である。
その最後尾に、山のような荷物を背負って歩く男が独り。
「死ぬ……もう死ぬ……重い……死ぬ……」
「おいナナシ、遅れているぞ。きりきり歩きたまえ」
「しゃっきりなさいな。男でしょう」
「わふん」
「はいぃ……」
ナナシである。
全員分の荷物を背負って山道を歩くナナシの姿は、まるで大亀の様。首からは鎧が収められたケースが掛けられていて、更なる重圧を掛けている。
足が山肌の土にめり込む程でも、ナナシに同情する者は誰もいなかった。
彼を見る目は皆「こいつどうしようもないな」といった類のもの。軽蔑の目。
突き刺す視線の冷たさにナナシは半泣きだ。
「なにがちょっと遊びにギャンブルでもしてみないかー俺に任せておけーよ。これも記念だしーとか、ばっかじゃないの?」
「うぐぐ」
「お貴族様はこんな野蛮な遊びはしないのかな、だとか、得意満面な顔で言っていたな、確か」
「うぐぐ」
「ああいうのはね、勝てないように出来ているものなのよ。1回負けたら素直に引き下がればいいものを、次は当たるーとか、ほんと何なのあなた、馬鹿なの? 馬鹿よね? 馬鹿でしょ。馬鹿ですって言いなさい」
「羽目の外し方を知らずにはしゃぎすぎて痛い目をみる田舎者か、君は。鈍色がいくらか取り返してくれなかったら、どうしていたんだ」
「わふわふ……わふわふ……」
心なしか顎と鼻がやたらと鋭角に伸びているように見える鈍色。周囲の空気がざわざわとざわめいていた。
列車にゆられてのんびりと楽しい旅行のはずが、調子に乗ったナナシのせいで、都市間を魔獣を相手にしながら徒歩移動という苦行の旅に。
呪い殺すような目で見られつつ延々と小言をぶつけられるナナシには、もはや副リーダーの威厳や信頼は欠片も残っていなかった。
「結局それでも交通費が足りなくて、現地まで徒歩でいかなきゃいけないとか、もう」
「いや、だからあそこで一発当ててたら」
「当ててたら、なんだと? もう二日歩き詰めなんだぞ。誰のせいだと思ってるんだ、いい加減にしろ」
「分の悪い賭けは嫌いじゃないーとか言ってかっこつけちゃって」
「はん、最高に格好悪かったぞ、君」
「ああ、髪べたべたする……お風呂入りたい……ブレス撃ちたい……」
「おい、遅いぞ。早く歩け。重いだって? ハッ!」
「もう本当に馬鹿。すっからかんになるんじゃ飽き足らず、皆のお金にまで手を付けるなんて馬鹿すぎるわよあなた。いい加減にして頂戴!」
「馬鹿だな。ああ、ここまで馬鹿だとはな。二度言うぞ、ここまで馬鹿だとはな!」
「この馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿――――――」
「この馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿――――――」
「んへぇぇぇ……ごめんなさいぃぃ……」
呪詛のように両サイドから耳元に囁かれ、ナナシはとうとう泣き始めた。この男、あろうことか鼻水まで垂らしている。
「うわあ」という引いた声。こいつ泣いたよ、という気持ち悪い物を見た感がありありと伝わって来る。
小声で「きたなッ」という声も聞こえていた。「うざッ」という声も。ちなみに前者がクリブスで、後者がセリアージュの台詞である。
もう本当に、すごく、心が痛い。
「まあまあ、そろそろ許して上げましょうよ、ね?」
「アルマ……!」
「ほら、ナナシ様も涙を拭いて」
「俺の味方はアルマだけだよ……ううう」
アルマの助け舟にナナシはなんとか縋り付き浮上する。
イカサマに掛けられていることにも気付かずに、パーティーの金に手を付けたのは自分であるので、どれだけ責められても言い訳出来ない。
鈍色にまで冷たい態度を取られて、ナナシは心底反省していた。
その反省も、次はうまくやるぞ、という駄目男の代表のような明後日の方向の反省であって、もちろんそれをクリブス達は見抜いているのだから責め続けているのだが。
「いいのかアルマ、こいつは君の調理道具も質にいれて博打をやったんだぞ」
「……ナナシ様? それ、初耳なんですが。本当ですか?」
「いやあ……ハハハ」
「私の目を見てくれませんか?」
絶対に見れない。
誤魔化し不能。クリブス班の数少ない良心担当が真っ黒に黒化する。
メイドになって何がすごいって、オーラがすごい。黒いオーラが。
「あら、まあ。本当にメイドの命の次に大事な調理道具が無くなっていますね。ねえ、ナナシ様? どこにいってしまったんでしょうかねえ?」
「あの、アルマ、さん? なんで天魔化してらっしゃるんですか?」
「それはですね。お馬鹿な真似をした主人を、折檻するためですよ」
「爪が! 爪が食い込んでる! あひぃ!」
「ククククク、クァッカッカッカ……失敬。いやですわナナシ様。本当は私、こんなことしたくはないのですけれど、これも主人を真人間に矯正せんがため……お覚悟を」
アルマの肌が蒼に染まり、鋭く伸びた真紅の爪がナナシの喉を圧迫していく。
怒ったメイドさんって怖い。
誰だよ、ご褒美とか言ってた奴は。
博打は身を滅ぼすと、ナナシは改めて思い知ったのであった。
「あ、あー! ほら! あれ! あれ見て! あれ!」
「ああん?」
「まだ折檻はこれからですよ?」
「うるさいわね……何よ」
「ケッ!」
「あれ! 街! 温泉街! 見えた!」
片言で何事か破れかぶれに叫ぶナナシ。
荒んだ目で面倒臭そうにしながら、パーティーメンバーはナナシが指す方角を見た。
見て、そしてその瞳に輝きを灯した。
そこには森の中、崖に沿うようにして四方を壁に囲まれた街が見えていた。
街のそこかしこからは煙がもうもうと上がっていて、街の全体像を薄く滲ませている。
幾本もの長い煙突から吐き出す煙が、街を覆っていた。
物を炊いて出る煙ではない。あの煙は、湯煙だ。
風に乗って微かに硫黄の独特の臭いがこの場所にまで漂って来ている。
あれこそがナナシ達の目的地。今回の旅行先。
「わあ……」
「ほう、中々雰囲気があるじゃないか」
切り立った崖に囲まれた山岳の温泉地帯。
湯治の街である。
□ ■ □
漂う硫黄の臭いと煙、ほっこりとした赤ら顔の旅行客。
湯治の街は繁盛しているようだ。細長い通りにずらりと並んだ出店へと、思い思いに客が集まり、会話に花を咲かせている。
地形を生かした温泉街として発展を遂げた湯治の街は、この国の民達の憩いと癒しの街として評判を得ている。
年配の客が多いのは、どこの世界も同じだろう。
「んお? オーッスお前ら! 遅かったじゃん」
湯治の街に足を踏み入れたナナシ達を出迎えたのは、浴衣を着て身体から湯気を上げるナワジだった。
金の髪はしっとりと濡れ、艶やかさを増している。肌は磨かれて、まるで突きたての餅のようだ。グロス塗っているわけでもないのにぷるりと水気を含んだ唇が、ガキ大将のように斜めに釣り上げられている。
着崩した浴衣が、彼女の豪放な正確によく似合っていた。半纏を上から着てはいるが、がばりと胸元が開けられて、袖が二の腕まで捲くられ、太股は付け根まで露出してしまっている。体が冷えたらまた風呂に浸かればいいといった風体だ。
顎から一滴の汗が喉をつたわり、大きく開けられた胸元、その谷間へと滑り落ちていく。
ごくりと喉を鳴らしたナナシの脇腹を思い切り突きつつ、クリブスはナワジへと頭を下げた。
「お待たせしました、ナワジ先輩」
「おー、クリブスの。気にすんなよ、オレもゆっくり出来たしよ。みんな、今回は誘ってくれてサンキュな」
ナワジもまた、今回の旅行に誘われていた。
セリアージュも参加するのだから、ではナワジも、とナナシが言い出したためだ。
一週間はこの街で骨休めする予定であるので、整備士がいてもらわねば何かと不都合もある。
「で、二日も遅れてどうしたよ。ちっと心配したぜ?」
「いえね、この馬鹿がいらないことをしでかしてくれましたから」
「ええ、ええ、この馬鹿がね」
「ごめんて……」
「なーんだよナナシ、お前またなんかドジ踏んだのかあ?」
ゲラゲラと笑うナワジ。
その吐息には多分に酒気が含まれていた。
もうすっかり“出来上がって”いるようだ。
アルコールの臭いに、うっとセリアージュが顔を反らした。
「わたくしアルコールはちょっと……臭いだけで気分が……」
「ぶふぇぁぁぁイナリブレスゥゥゥ」
「やめてくださいませんこと!? んがっ、酒臭っ!?」
「でぇっへっへ! ぶれーこーだよぶれーこー!」
「ちょっ、離れ、離れなさい! お酒なんか飲む人の気が知れないわ!」
「飲むんじゃなくて呑むのさ。ま、お嬢にはわかんないかねえ。酒は大人の味だからよーっとくらぁ」
「それ、わたくしがお子様だって言いたいの?」
「そう聞こえたんならそうだろうぜ。自覚あるんじゃねーのー?」
「どこ触りながら言ってるの!?」
「おっぱい」
「放せって言ってるのよ! やめっ、やめなさっ、んあっ!」
古今東西、酔っ払いには手を付けられぬ。
「うぇーははー! どぅわーいじょーぶだってえ! そのうちお嬢もバインバインになるさあ! うっひゃっひゃ!」
「こんの酔っ払いが! 離れなさっ、ひんっ!」
「ちっちゃいと感度がいいってえのはほんとみてえだな。おお。先っぽはっけーん。なあナナシよ、やったなあおい! 育てる楽しみが出来たな!」
「……ノーコメント」
「オレも乳は敏感なんだぜ。覚えとけよーこら。まあこれ以上はでっかくなんねーけどな! どうよ! うへははは!」
「……ノーコメント」
「さわっか? ほれ、おねーちゃんのおっぱいさわっか? ほれほれ!」
「どっか行きなさいよこの無駄乳女が!」
ナワジ無双である。
「ほら先輩、また後で絡んでくれたらいいですから、まずは荷物置かせてくださいよ」
「へーへー、もうひとっ風呂浴びてくっかな。そいじゃお嬢、また後で裸の付き合いしようぜ」
「しません!」
「つれないの。そいじゃなー」
「もう! わたくし絶対、お酒なんか飲まないわ! 絶対に!」
空の酒瓶を掲げて手を振るナワジを見送りながら、プンスコプンスコと頭から魔力の湯気を上げながらずんずん進むセリアージュを追って、ナナシ達も宿へとチェックイン。
宿は、歴史ある趣の良い旅館。選んだのはクリブスであるので、見た目にはそうと解らぬが、恐らくは格式の高い宿なのだろう。隠れた秘宿というやつか。
部屋割りは、男女別の中部屋が二部屋。
内装は和風で。床は草を編んだものが数枚組むようにして並べられている。
先ほどの浴衣のような簡易服といい、どこか日本の趣を感じさせる空気に、ナナシの涙腺が思わず緩む。
「ナナシ、どうした?」
「いや、硫黄の煙が目に染みて……」
誤魔化し切れてはいないだろう。「そうか」とだけ答えて、クリブスは荷解きを始めた。
ナナシは背負っていた荷物を女子達の部屋に届け、ほうっと一息。
引き戸になっていた窓を開け放てば、爽やかな空気が部屋の中を流れていく。
冒険ではない、旅行で遠出をしたのは、始めてのことだった。
剣呑さに溢れている世界だと思い込んでいた。だが、こうやって静かに心落ち着けて景色を見れば、こんなにも美しく感じる。
自然の尊さ、清らかさはどこの世界も同じだ。
眺めれば、どこか寂しいような暖かいような気持ちが胸に湧き上がる。
それは、郷愁というものだった。
「ん……揺れてないか?」
「ああ、地震だ。最近多いな」
小さく音を立てて軋む部屋に、ナナシとクリブスは眉根を上げた。お互い慌てずに、慣れたものだ。
温泉地であるということは、地下には山脈が通っているということだ。地下熱の影響で、地盤が動くことは多々ある。
さらに言えば、ナナシ達が活動するこの大陸は、いくつかの大陸プレートが重なる点の上に存在している。
どうあっても地震とは切り離せない生活なのである。これもまた、ナナシに日本の暮らしを思い起こさせるものであった。
「お、止まった」
「そういえば地震で思い出したが、この辺りに鎮石があるそうだ。後で観光がてら、見に行かないか」
「鎮石? なにそれ?」
「そんなだから赤点を取るというんだ……こういう山脈地帯には、火山の噴火を抑えるために鎮石が収められているんだ。見た目は巨大な石の釘のような形をしていて、それが地下のマグマ層に神威を送り込み続け、火山活動を抑えている。結界の一種だな」
「暴れるなまずの頭を刺す、と。そういうことなら、俺は行かない方がいいな。何かの拍子に結界が解けたら事だろ」
「ああ、結界破りの特性か。便利だか不便なのだか……まあ大丈夫だろう。近くに行くだけだ。触れることはない」
「そういうことなら」
言いつつ、ナナシは衣服を全て脱いで浴衣を身に付けた。
鏡の前に立つ自分の姿。あの頃よりもずっと筋肉が付いた。少しは強くなったのだろうか。
ポージングをしていると、呆れたような溜息が聞こえた。
クリブスの呆れた目。ナナシは仕返すようにニヤリとして笑った。
「クーリーブースー君。君も浴衣に着替えたまえよ」
「後で着替えるさ。……おい、なんだ、その手は。近づくな」
「ふっふっふ、俺が着替えさせてやんよー!」
「ふざけるな! このっ、近寄るな向こうへ行け!」
「よいではないかよいではないかー!」
ばたばたと部屋の中を走り回る二人。
あれだけ消耗していたというのにナナシももう元気なものだ。
ひなびた旅館に居るというのに風情も何もあったものではないが、学生などこんなものである。
「やめっ、やめないか!」
「ほーれ、いちまーい! にーまーい! さあどんどんいこう!」
「ナナシ」
「おっ、大人しくなっちゃって、諦めたか?」
「殺すぞ」
「ご……ごめんし……」
懐刀を抜くクリブス。
まさかこんな所でクリブスの隠し爪を見る羽目になろうとは。
腰溜めになって構えるクリブスの眼は血走っていて、余計な口を開けば刺されることは間違いない。
本気でやるぞ、という雰囲気をナナシは肌に感じ、身体を震えさせた。
「そんな怒らなくても……ねっ、ほら、冗談だから、ねっ!」
「はあ……もういい。僕は荷解きをしているから、君は食事を取るなり、温泉に浸かるなりしてこい」
「え、一緒に温泉行こうぜ。いいじゃん、ナワジ先輩じゃないけど、男同士裸の付き合いしたってさ」
「そんなに刺されたいのなら僕は構わないが」
「行ってきまーす!」
帯を結ぶのも適当に、部屋を飛び出していくナナシ。
クリブスは慌しくも憎めない男に、「まったく」と苦笑した。
「こんな身体、誰にも見せられんさ」
部屋に鍵を掛けた後の、鬱蒼とした呟きは、誰にも届かなかった。
ローブを脱ぎ去って、クリブスは鬱蒼した表情で鏡の前に立つ。
「君には、特にな……」
クリブスの笑みは自嘲へと変わっていた。
□ ■ □
室内風呂は香木、露天風呂は石造りの湯船。
湯色は乳白色。成分は硫黄成分が多分に含まれていて、酸化した湯の花……温泉の不溶性成分が沈殿したものによって少しのぬめりを持った、濁り湯だ。
効能は肩こり腰痛などの神経痛や適応症に加えて、美肌効果。浸かれば打身擦り傷、飲めば内臓病にも効くという万病の薬。
嘘か真か、男も女も“サイズアップ”効果があるとも噂されている。
そんな本格的な露天風呂を目の前にして、仁王立ちする男がいた。
「温泉、それは自然が生み出した奇跡……温泉、それは神が与えし至高のファンタズム……温泉、それは人類に許された最後の恵み……」
全裸で意味の解らないことを唄うその男。
ナナシである。
旅行が決まってからこちら、何だかテンションがおかしくなっている。
「ふっほっは」と不気味な笑いを上げながら、“ぶらぶら”と“揺らしている”姿は正視に耐えない。
痛々しくて。
「頭は洗った。身体も洗った。さあ後は湯船にインするだけ! うぇへはは温泉だぁ……懐かしいなぁ……うわ、泣けてきた……」
ばちばちと顔を叩きながら湯船に近づくナナシ。
飛び込むだなどと無作法なことはしない。まずは掛け湯から。
足から順に慣らしていき、胸、肩、背へと湯を流す。そうしてようやく湯船に浸かる資格が得られるのだ。
この辺り日本人らしいナナシだった。
「お、おお、おおおーっ……」
足から順に湯へ入る。
爪先に痺れるような感覚。じわりと体温が上がっていくこの実感。
これだ、とナナシは確信する。やはり日本人は、風呂に浸からねば。
日本人にとって、風呂は心の洗濯のようなもの。いつもシャワーばかりでは、心が腐ってしまう。
腰まで湯船に浸れば、ナナシの全身を薬湯に温められた血が、悪い物を洗い流して巡っていく。
まずは半身浴から。ゆっくりと身体を温める。
それから腰をずらして湯船の底に尻を着かせれば、首の下までが濁り湯の中に消えていった。
今まで凝り固まってきた疲れが、わだかまりが、湯に溶けて消えていってしまうようだった。
「ああ……いい湯だなあ……」
よくないものが流れて消えて、蓋をしていたものがなくなってしまったからなのだろうか。
沢山のものが脳裏に浮かんでは消えていく。
日本の暮らし、大学、コンビニ、電車、ゲーム、漫画、自分の部屋、両親の顔……。
次いで浮かんだのは、異世界に初めて立った日のこと。
ナナシとなった自分のこと。
いきなり死に掛けた体験、救われて涙を流したこと、新たに得た名前、それからの苦痛を伴う鍛錬の日々……。
思えばもう、あれから数年。決して短くはない月日が経っている。
自分はあの時よりも少しはましになっただろうか。
あの時よりも、前に進めているだろうか。
「無名戦術真打、ナナシ・ナナシノ――――――そう名乗るにはまだ早いかなあ、ジョゼットさん……」
己の未熟な心もまた、湯に溶けて消えていってしまえばいいのに。
執念に生きた老人が振るった拳は、憎悪の拳だった。
無名戦術とは殺人拳……否、殺神拳だ。
その正統後継者であるという意である真打を名乗るには、まだまだ、至らぬ部分が多すぎる。
理念がもはや異なっているのだ。
編み出され研鑽された憎悪の拳を、活人拳として、冒険者として道を切り拓くために使えと託されてしまったのだ。
活人拳として用いられている無名戦術はそのポテンシャルを100%発揮することは無く、技のキレはいつも冴えぬまま。最新の奥義を繰り出せるのは稀のこと。
そんな体では真打を名乗るに名乗れぬ。至らなさに恥かしくなるばかりだ。
近道は見えている。無名戦術に、殺意を取り戻せばよい。憎悪を込めて技を放てばよい。
さすれば無名戦術は本来の理念を取り戻し、この手足を命を手折る牙へと変えるだろう。
鎧を脱げばよい。
生身を晒し、圧し込めた恐怖を解放し、狂気へと転じさせればよい。
怒りや憎しみは、ある。あるのだ。
ある日突然、こんな訳も解らぬ世界に放りだされ、何故こんな目に合わねばならないという思いは抱いて当然だろうが。こんな世界壊してしまいたいと、理不尽に対する怒りはずっと、胸の内に燻り続けている。
だが、自分とツェリスカは二つで一人の冒険者だ。
そう、冒険者なのだ。殺戮者になどなってはならない。
鎧はナナシを外敵から守ると同時に、内から湧き上がる暗い感情を圧し込めていた。それはツェリスカを纏ってさえいれば自分は冒険者でいられるのだという、自己暗示にも似た思い込みであった。
そしてその自己暗示は正常に作用していた。今の所は、だが。
だから、焦って力を望んで道を踏み外せば、それはジョゼットへの裏切りなのだ。
怒りを捨て、憎しみを捨てて若者を見送った、復讐の鬼。その想いは無駄には出来ぬ。
「急がば回れ、近道なんて考えずにゆっくり、ゆっくり、進んでいけばいいさ……あー気持ちいい」
露天風呂には誰もいない。貸しきり状態である。
ここぞとばかりにナナシは縁の岩を枕にし、手足を思い切り伸ばした。
そのまま手足をだらりと伸ばして、ナナシは湯に身を任せ目を閉じる。
濁り湯には塩分も含まれているのか、体が浮力でふわりと浮いた。
体中から更に力が抜けて、完全に脱力。体の隅々までリラックスする。
浮上するナナシの潜望鏡もリラックス状態だ。
普段はもう少し頑張り屋なんだぜ、と誰に聞かれるでもなくナナシは言い訳をした。
「いーい、湯ーだなぁー……はははん」
鼻歌が静かに木霊する。
源泉の流れる音、風で葉が擦れる音が耳に心地よい。
そんなリラックスしたナナシの背後へと、忍び寄る影があった。
濁り湯の中にあっても目だけが二つ、爛々と輝いている。
虎視眈々とナナシの側へと近づく、金色の影。
「いーい、湯ーだぁーなぁ」
「ごぼばぼばぶばばばばーッ!」
「はははんぉごばぶぼべばーッ!?」
忍び寄る金色の影に湯底へと引き摺り込まれるナナシ。
人間は水中に引っ張られると混乱して取り乱すという習性がある。
何がなにやら、ナナシも混乱し暴れて湯をバシャバシャと掻き混ぜる。
非常時であるため仕方はないが、温泉では絶対にやってはいけないルールの一つである。
湯に髪を付けることは勿論、素潜りなんぞしたら、温泉玉子の刑にされても文句は言えぬ。
ちなみに温泉玉子の刑とは、潜望鏡脇の大事な袋を熱々の源泉の下で打たせ湯にさせることで、衝撃と熱さの二重苦を与えるという、それはそれは残酷な刑罰である。
「なんっ!? なんだあ!? 新手の魔物かッ!?」
金色の影から何とか逃れて喚くナナシ。
大事な潜望鏡が握られたような気がして肝っ玉が縮んでいた。
「誰か……居るのか? 出て来い! 何者だ!」
「オレだ」
「うへぇおわ!? ナワジ先輩!?」
ざばあと温水を滴らせて湯底から姿を現したのは、ナワジだった。
張り付く前髪をうっとうしそうに掻き上げてから、にかっと不敵に笑っている。
見惚れるような、太陽の輝きを連想させるいつもの笑み。ただシチュエーションがいつもとは全く違う。
いっそ爽やかに「よう」と片手を上げて、「びっくりしたか?」などとイタズラ成功とでも言いた気にしているナワジは、温泉に相応しい姿だった。
つまり、何も身に付けていない。
全く裸体を隠そうともせず、片手を腰に当てて胸を張るナワジ。
瑞々しい肌の表面を幾つもの白い球が滑り落ちていく様は、ある種の芸術品を思わせる。
思い切り良く反らされた背に突き出された胸は、その見た目であるにも関わらず重力に逆らって上を向いている。
巨大な存在は、ただそこにあるだけで凄まじいプレッシャーを放っていた。
「うわぁぁあ!? かっ、隠してくださいよ!」
「オレには隠さんといかんやましいところなど、一片もない!」
「男らしい! でもアウトだから! 誰かに見られたりしたらどうするつもりだったんですか! っていうか何でここにいるんですか!」
急いで目を瞑って湯に身体を沈め、後ろを向くナナシ。
やれやれとナワジが肩をすくめる気配。
「おいおい、誰かに見られるなんてある訳ないだろ? 貸切りの家族風呂なんだからよ」
「家族風呂って……人が居ない理由は解りましたけど、でもなんでまたそんな高価なとこ選ぶかなあ、クリブスは」
「クリブスの奴が入館拒否くらいまくったかららしいぜ。ベタリアンが入った後の湯なんか使えるかー、だってさ。あーあ、世知辛えよな」
「そう、でしたか……クリブス、そんなこと一言も言わなかったのに」
「そりゃお前さんには言わんだろうさ」
湯を掻き分けて近づいて来る音。
湯の波が押し寄せて来る。
「あの、何で近づいてくるんですか?」
「ここ浅いんだよ。そっちの方が深い」
「……もういいですから、せめてタオルでも巻いてくださいよ」
「わーったわーったよ。なんでえ、ケチ」
とぷんと身を沈める音がして、ようやくナナシは目頭を揉み解した。
なんだろうか、一気にどっと疲れた。
ナワジは人をからかうのを好むきらいと、妙に律儀な所があるからして、温泉のルールを守ってタオルなど巻いてはいないだろう。ナワジの言葉は信じないでおく。
幸いこの湯は濁り湯だ。見えてしまうことも見られてしまうこともない。このままでいるのが吉である。
このまま振り返らずにいれば、色々と収まるだろうからして。
「ほいゲッチュー」
「んほぉう!?」
などと考えていると、がっちりと背後に組み付かれてしまった。
ナナシの胸板と腰のまえで手と足を組む、羽交い絞めの完成形。しがみ付き。
嫌が応にも感じてしまう。背中の柔らかな二つの感触に、腰後ろの辺りにさわさわとむず痒いような感触。
やはり、タオルなど巻いてはいなかった。
「ああああたってる! あたっちゃってますから! やっぱり何もつけてないじゃないですか!」
「ハッハッハー、別に変なもんでもないんだから、そう嫌がるなよ。女にゃ天然のスポンジとブラシが付いてんのさ。あ、タワシじゃないから安心しろよ。オレの薄い方だから」
「何を安心しろと! お願いだから離れてくださいって! 洒落にならん!」
「あ、ちょっとちょっと、ナナシ、ストップ。止まれ」
「なんすかあ!?」
「いや、真剣な話しだ。止まれって」
「……なんです?」
「しーッ、静かに。よく聞け」
「解りました……」
「オレな、ガチで発情しちまってる。お前の子供産みたい」
「……じゃ、そういうことでさいなら!」
「いや待て待て! 頼むよ! さっきからお前の腰んとこが丁度いい所に当たって、あーヤベ、これヤッベェ」
「やばいっすよ! 色んな意味で! もうとっくに!」
「こんな状態で放っておかれたらオレ、どうにかなっちまうからさ、な? 頼むよ!」
「うわーッ! 離せーッ! お願いやめてえ!」
「1回だけ! な? 1回だけでいいから! 先っちょだけでいいから! な? な! いいだろいいよな!」
「よかねえよ!」
ナワジを張り付かせたまま大暴れするナナシ。
意地でも放さないつもりなのだろうか、ナワジもしがみつく力を強くし、耐え抜いている。
そしてそのせいでより強く諸々が押し当てられることになっているのだが、慌てるナナシは気付けない。
そう、近くに怒気を漲らせた何者かが立っていたことにも。
「楽しそうね」
瞬間、あれだけ湯に使って温まったというのに、全身が冷たく凍えた。
毛穴という毛穴が開いて、鳥肌が立ってしまっている。背筋に氷の柱を突っ込まれたかのようだ。
潜望鏡は使用可能状態になっている。覚悟はいいか俺は出来てる状態に頼むからならないでくれと願うナナシだったが、背中から様々な柔らかさが暴力的に神経に流し込まれ、主張を止められないままでいる。
咄嗟の判断で手ぬぐいを引っつかんで前を隠した己の反射神経に、ナナシは喝采を送りたい気分だった。
ナワジが抱きついているために、手ぬぐいで腰を巻くようにすることは出来ない。前を押さえつけるようにして隠すのは、自然な隠し方に見えるはず。
「おおおおお嬢様!?」
「あら、何かしら、ナナシ」
王者の風格を漂わせながら、セリアージュ登場。
組んだ腕に顎を僅かながら反らせたポーズは、いかにも怒っていますよといった風。
「あああああのここっ、こっ、これ、これはその」
「話しをする前に、まずそれを引っ込めなさい」
「はいぃ……」
ばれてた。
半分湯船の中だというのに、なぜだろう、ブリザードのど真ん中にいるように寒いのは。
「あなたたち、なんで裸なのかしら?」
「いえ、その、温泉だから……」
「クリブスから聞いていなかったの? 貸切だけど混浴になるから水着を着用すべしって」
セリアージュは見事な紅いビキニの水着を纏っていた。
トップにはさりげなく金の華がプリントされていて、いやらしくなく視線を誘導するようになっている。
ボトムは腰の横で紐を縛るタイプ。角度はないが、腰横の紐が可愛らしく揺れ、見るものを楽しませる造り。
何よりも、水着から覗く彼女の真っ白な腹と背、脚と腕が、目に焼き付く。
邪魔にならないように金の髪は首後ろで一つ括りにされ、巻き上げられている。
首筋から背筋に掛けてのラインが滑らかでいて、脇腹から腰に掛けての緩やかなくびれは天然自然の芸術だ。
このセリアージュは心の底から身体まで、良家の淑女であった。
彼女の初めて見せた水着姿から、目を逸らせない。
「その節操ない粗末なもの、切り取ってあげましょうか?」
ひゅんとなる粗末なもの。またバレていた。
そこまで粗末じゃないと声を大にして反論したかったが、今ここでそれをしたら、命に関わる。男としての。
「おい、お嬢様、やめろ」
と、ナナシにしがみついたままのナワジの抗議。
ああ、とナナシは思った。
これ、パターンに入ったな。
「何かしら。酔っ払いはさっさと上がりなさいな」
「切って捨てられたら困るな。これはオレのもんだ」
「は? 貴女、何を言っていらして?」
「いらないんだろ? じゃあオレに譲れよ」
「はああ? 言語野がのぼせてしまったのではなくて? 酔っ払いの妄言はわからないわね」
「なーナナシもそう思うだろ? オレの方がいいだろ? あんなよりおっきくて柔っこいぞー」
「失敬な! わたくしは並みサイズよ! そんなの年取ったら垂れるだけなんだから!」
「やっかみやっかみ。持たざる者の遠吠えは心地いいねえ。はっはっはーだ」
「うぐががが……!」
「おっとブレスは厳禁だぜ」
いつの間にかナナシから離れたナワジは、口を開きかけたセリアージュの咥内へと白いビンを突っ込んだ。
酒瓶だ。
「うぼぉあ! えぼっ! あなだっ、なにぶぉっへえ!」
「酒」
「そんにゃのわひゃっへるわよ! わらくしおさへははめはっへ――――――きゅう」
セリアージュ轟沈。「いえーいオレの勝ち」とブイサインをするナワジにはどう応えたらいいのか。
さすがは酔っ払いである。爆発オチを未然に防いだナワジにナナシは感謝した。
「おお、寒い寒い。もっかい温泉浸かろうぜ。ほれ、お嬢様」
「ちょっ、お嬢様投げちゃだめですって! うわ危な!」
放り投げられたセリアージュをキャッチ。肩に寄り掛からせれば、反対側にはナワジがもたれ掛かる。
ナナシは為すすべなく湯船に腰を下ろされた。左右の肩に掛かる金髪に意識が集中してしまう。
ナワジはそんなナナシの葛藤も意に介さず、ナナシの肩に手を回しては、手酌で酒瓶を傾ける。
あれだけナナシがごちゃごちゃと言ったことは覚えていてくれたのか、濁り湯の中に胸まで浸かってはいた。
隠すべき場所が隠されて見えずにいるのは、喜ぶべきか否なのか。複雑である。
「わふーん!」
「こら! 鈍色! もっとちゃんと頭を洗って……ああ!」
どばんと派手な水柱。
誰かが温泉に飛び込んだのだ。
誰だとは問うまでもない。「ぷあっ」と濁り湯から顔を出したのは、鈍色だ。
鈍色もまた、桜色をしたワンピースタイプのスカートが短い水着を着ていた。
前も後ろも全く起伏が無い、平面という言葉がぴったりの身体付き。だがその身体は健康的に締まっていて、野生の果実を思わせた。
それを見ると、幼い果実を摘み取りたくなる衝動が湧き上がるのは、ナナシだけなのだろうか。
鈍色は湯面をばしゃばしゃと蹴って泳ぐ。
これも、温泉ではやってはいけないことであるのは言うまでもない。
そうしてナナシの側まで泳いで近付くと、セリアージュとナワジの位置を確認し、自分の定位置を陣取った。
「お、おい鈍色。お前まで」
「わふん」
梃子でも動かぬぞ、といった風に鈍色は鼻を鳴らす。
鈍色の定位置はナナシの膝の上。
組まれた脚の間にすっぽりと納まるようにして、その小さい尻を座らせている。
「わふー……」
「気持ちいいですか、そうですか……」
ぐっと背を伸ばし、ナナシの胸板にもたれかかる鈍色。
湯の中で揺れる尻尾がこそばゆい。腰が浮いてしまいそうになる。
ちらりと鈍色がこちらを見上げたような気がした。
当ててるのよ、とでも言いた気な目だった。
「もう、仕方ないですね」
「アルマ、お前もか」
「はい、主あるところにメイドあり。私もご一緒させて頂きますね」
セリアージュに遅れたのは、鈍色の身体を洗ってやっていたからだろう。アルマもやはりここに居た。
アルマの水着は紺色をしたセパレートタイプのもの。しかし袖付きで、ほとんど露出もなく、シャツとパンツを着ているような外見だ。
頭の上には濁り湯よりも尚白い、真っ白に染め上げられた純白のホワイトプリム、メイドカチューシャが。
それが、野暮ったい水着を、何故か魅力的に感じさせている。何故だろうか。
「メイドはただそれだけで至高の存在だからですよ、ナナシ様。水着がメイドの魅力を引き出すのではありません。メイドが水着の魅力を引き出すのです」
「お前、そんな性格だったっけ……」
「日々メイドは進化しますので」
ナナシの視線に気付いてか、くい、とこの湯気でも全く曇らぬ眼鏡を押し上げて答えるアルマ。
アルマはナナシの背後にポジションを定めたようだ。ナワジから酒ビンを取り上げ「お酌します」と、どこからか取り出した御猪口を手渡す。
上手い手である。ああすることで酒量を操作し、制御してやっている。ナワジも飲めない訳ではないし、酌を受けるのだから良い気分になるだろう。
酒は飲むのではなく、呑むものなのだ。量ではない。そういうことか。
「さ、ナナシ様も」
「ん、ああ、ありがとう」
「ふふ、どうぞ。今日くらい酔ってしまってもいいんですよ。のぼせてしまわれたら、私がお部屋までお運びしますから」
「それは遠慮しておく」
受け取った御猪口に注がれる酒。ナナシは舌先を湿らすだけにしておいた。
酒は飲めない訳ではないが、あまり得意ではない。
とうに成人と呼ばれる年齢は超えてはいたが、祝いの席でも勧められねば口にはしない性質だった。
「あれ? なんだこれ、水?」
「おー、それは魔力水さー。ここの山から採れた湧き水なんだとか」
赤ら顔で御猪口を煽るナワジ。
「ま、お嬢様が来るだろうって思ったからよ。未成年に酒を飲ませるのはあれだし、すり替えておいたのさ」
「はあ、そうですか」
「お酒は成人になってからだぜ」
びしりと鼻先に指を突き付けられても、何と言えばいいものか。
これがナナシにとりただの水であることを解っていたのだろう、アルマはくすくすと笑っていた。
「そういうことなら、もう一杯」
「はい、どうぞ」
「オレオレもー」
「わふわふん!」
「鈍色、あなたは駄目です」
「わふん……」
酒ではないが、空気には酔えようか。
ナナシは温泉に温められて火照る身体を誤魔化すように、冷たい水を一気に飲み干した。
さてこの状況からどうやって抜け出すか。
それを考えれば、二日酔いの如く頭が痛むナナシであった。