地下19階
ジョブチェンジを果たし特性の変わったアルマを、以前のままの連携に組み込むのは危険だ。というクリブスの案に則り、ナナシ達は今はもう懐かしい初級者用迷宮へと足を踏み入れていた。
初級者用迷宮とあってか出現する魔物も弱く、戦闘はつつがなく進んでいる。
兵士から侍従へとジョブチェンジしたアルマであったが、豪語したことはあり、以前とさほど変わらない感覚でナナシ達は戦闘連携を執ることが出来ていた。
流石にパーティーとしての突破力は落ちたが、それはナナシの装備が充実したことによりカバーする。
今のところは順調といって差し支えないだろう。
「探索だけは順調だけどな」
「なんだナナシ、何か不服なことでも?」
「あるに決まってんだろうが。試験二日前に迷宮に潜るとか、止めてくれませんかねえ。俺この後試験範囲の復習しなくちゃいけないんですけど?」
「そんなことを言われてもな。君だってアルマの調整に賛成しただろうに。それに出題範囲と予想問題は一通り教えてやっただろう」
「あれで覚えてられるのはお前みたいな頭の出来がよろしい奴等だけだっつの! 忘れちゃったよちくしょう!」
「あれくらい誰でも覚わるものだと思うんだが……」
「あーあ、あーあ! 言っちゃった言っちゃった! お前今、全国の赤点ライン防衛線で踏ん張ってる皆さんを敵に回したぞこら!」
「赤点とか……フッ。おっと失敬」
「てんめぇぇぇ……!」
「な、ナナシ様、抑えて抑えて!」
ぶるぶると震えだすナナシの拳を、控えていたアルマが慌てて抑え込んだ。
ナナシの動きに合わせて揺れる銀色のポニーテールと、純白のヘッドドレス。
濃紺のメイド服のスカート裾がふわりと舞い、ストッキングに包まれた長い脚が一瞬露わになる。太腿辺りには、短剣と短杖とが、それぞれ左右に分けられてホルスターに収められた。
迷宮に挑むというのにメイド服とは、徹底しているというべきか。
アルマ曰く戦闘用、とのことなので、防御性能には心配しなくても……いいの、だろうか。
ナナシには判別は付かなかったが、大きな違いがあるのだろう。
「アルマ、お前なら俺の気持ち、解ってくれるよな?」
「……えっ?」
「何そのリアクション。そういえばお前、いつも成績上位者にランキングされてたような」
「ええと、その、私も一度教科書を斜め読みしたら内容は全部覚えてしまえるので……申し訳ありません」
「うわあ敵ばっかりだなあ! ちきしょう!」
「いやほら鈍色! 鈍色がいますよナナシ様!」
「お仲間がいて良かったですね、みたいに言うのは止めて、惨めになるから! あいつは元から何も考えちゃいないだろ、ほら!」
ナナシが指さす方向では、鈍色が魔物召喚の罠を踏んでは、出現する吸血コウモリや火蜥蜴の頭蓋をハンドアックスでかち割って遊んでいる光景が。
傍から見れば、きゃっきゃっと楽しそうに笑い声をあげて遊んでいる少女という微笑ましい一場面ではある。
「わんわんおー!」
その少女が血濡れの斧を掲げていなければ、の話ではあるが。
また一匹のリザードマンが、召喚された瞬間に肉厚の斧で唐竹割りにされ、二つに増えることとなっていた。
有り体に言えばに真っ二つである。
「ええっと、その……た、楽しそうですよね!」
「さようなら知識。こんにちは血しぶき……」
鈍色が作った鮮烈な血の色で、頭から年号が二つほど消えた。
これはもう赤点確定だ。
出立に響かせたくないのに、とがっくりとナナシは肩を落とした。
「あああ落ち込まないでください! 主の心を折ってしまった責、どう償えば……っ! これはもう身体で御慰めするしかっ!」
「いいよ脱ぐなよ止めろよ」
「大丈夫ですナナシ様。ストッキングは脱ぎませんから!」
「……なんで俺の性癖を把握してんの?」
「ああ、それはベッドの下の収納ボックスの中にですね」
「もういい、それいじょうは止めて」
「忙しい奴らだな、君達は」
「お前に言われたかねーよ」
「クチバシを閉じていろ、ハンフリィ」
「……態度違いすぎやしないかい? 特にアルマ」
「主以外に払う敬意などありませんから」
「取ってつけたように敬語で話されてもな。今まで通りの口調で話せばいいのでは?」
「メイドですので。ご主人様に恥をかかせぬよう、立ち居振る舞い言葉遣いを正すのは当然のことなのです」
「君も大変だな、ナナシ」
「言わないで。頼むから」
重い溜息を付きながら、ナナシは泣きごとを零した。
心底同情するよ、というクリブスの言葉が身を刺す。
あ、やばい、泣きそう。
がっくりと項垂れていると、そっと横からハンカチを差し出された。
「どうぞ、お使いください」
「気が利くのが怖いんだけど……」
「ナナシ様のお声が聞こえましたから。間違いありません。これが主従の絆なのですね」
「ないから、そんなもん。妄想だから。幻聴だから」
「ご主人様のことならば何でも解ると言えるよう、努力をしていたつもりですが……まだまだということですか」
「ちなみに、どんな努力?」
「おはようからおやすみまで、ご主人様の暮らしを常にかんし……見続けておりますれば」
「いや、いい。聞きたくない。言い直せてないし……」
アルマが日頃何をしているか、深くは考えないことにしておこう。
「わんっ! わんわんっ!」
「おっと、団体さんが来たか。皆行くぞ!」
鈍色が尻尾を振りながらこちらに駆けて来る。
後ろには多数の魔物の群れが。
よくやったな、とナナシが鈍色の頭髪をがしがしと撫ぜてねぎらえば、鈍色はいい仕事をしたぜ、と誇らしげに胸を反らした。
鈍色はただ遊んでいたわけではなかったのだ。
今回の探索の目的は、戦闘時連携の確認にある。
単体の魔物との戦闘確認は既に終了していたので、次は団体戦。魔物召喚の罠を踏み続け、“当たり”を待っていたのだ。
魔物召喚の罠は、常時は単体でしか魔物は召喚されないのだが、数パーセントの確率で“当たり”を引くことがある。大量の魔物の召喚である。
鈍色はナナシの命でそれを待ち、“釣り”を行っていたのであった。
「アルマ! 鈍色と一緒に引っかき回せ! クリフは遅滞詠唱開始! 何時でも発動出来るようにしておけ!」
「はいッ!」
「わんっ!」
駆けだす二人の背を見送り、ナナシは網膜投射モニタをチェック。
「ツェリスカ、調子はどうだ?」
『システム・オールグリーン。全兵装正常稼働中です』
「そうかい、っとお!」
鉄棒のダイヤルを制御し、変形、ブレード基部と合体させる。
瞬時に大剣へと形を変えた武器を手に、魔物の群れに突っ込んでいく。
強烈な踏み込みと共に、大剣を体を支点に弧を描くよう振り抜けば、初級者迷宮に出没する魔物といえども頑強な防御力を誇る人面岩数体が、まとめて分断される。
不気味な断末魔を耳にしながら鈍色達の様子を見れば、彼女達はそれぞれ自らの獲物を持ち、次々と魔物を狩っていた。
ハンドアックスを竜巻のように振り回し、その膂力でもって魔物達をなぎ倒していく鈍色。
アルマはふっきれたのか初めから天魔化し、短剣と短杖に魔力を纏わせ、速力を活かして突出した魔物を確実に屠っていく。
互いが互いの立ち位置を意識し、スイッチ、カバー、隙を補い合っている。
息の合ったコンビネーションに、流石はクリブス班のツートップだと感嘆の声を上げた。
「数が多いぞ! どうやら大当たりを引いたようだ、ナナシ!」
「わかってる!」
近付いてきた魔獣の牙を装甲で受け流しながら、ナナシは返答。
ガラ空きになった魔獣の胴体に、大剣を叩き込んだ。
ナワジが突貫作業で組み上げた追加装甲は、小型の魔物であるならば、少々の攻撃を受けてもびくともしない。
とうとう改修が完了したツェリスカは、ナナシが思う以上に性能が向上していたようだった。
フル装備を施されたツェリスカは、やや細身のシルエットは変わらず、追加装甲により全体的に重厚でかつ力強さが増したような印象を与えられる。
重量には目を瞑るしかないが、しかし可動範囲や装着感はまったく以前と遜色がない。
一つ一つ丹精に作り込まれたパーツに、ナワジの熱意が感じられた。
彼女の職人気質には頭が下がる。ナナシは心の中で絶賛しつつ、手首からワイヤーアンカーを天井に向って射出。小型モーターによって体を引き上げた。
ギャアギャアとナナシを見上げて騒ぐ小鬼の群れに目掛け、腰にマウントしてあった重火器、巨大なリボルバー型の大砲を引き抜く。これも、ナワジによって改修されたものである。
碌に狙いを定めずに引き金を引き続ければ、破裂音と共に鉛弾がゴブリンの群れへとばら撒かれ、血しぶきを巻き上げていった。
「まあ、こんなもんだろうな」
アンカーを外しながら、ナナシは呟いた。
仕留められたゴブリンは、せいぜい十匹程度。
魔物召喚の罠から湧き出たゴブリンの総数の、半分にも満たない数である。
日本人男性らしく、ある種のあこがれを銃というものに抱いていたナナシにとり、割とショックな光景だった。
迷宮内部での使用を考えて、跳弾が起こらないような材質と形状に銃弾が加工され、貫通力が低いとはいえ元の世界であれだけの絶対性を誇っていた重火器も、こちらの世界ではこの程度の優位性しか認められない。
それは単に、魔物や魔獣が“生物として”、ヒト族よりも絶対的に優れているからである。
内蔵がいくら傷つけられようが、脳中枢が破壊されるまで、暴虐の限りを尽くすよう設計された生き物。
身体にいくらかの穴が開いた所で、止まる筈もないだろう。
魔物とは、心底恐ろしい存在である。
奴らを仕留めるには体力が尽きるまで“削る”か、一撃の下に体組織を破断するか、生命を維持する器官を破壊するか、どれかしかない。
もちろん重火器や兵器でもってしても、それらの芸当は実現可能ではある。ツェリスカの基本兵装であるフィスト・バンカーが最たる例だ。
しかし、軍隊等で扱うには重火器は、迷宮内部というバトルフィールドと、装備に掛かるコスト、重量を考えると、あまりにも非効率的であることは言うまでもなかった。
さっさとレベルを上げた方が手っとり早い、という結論に至って終わりだ。
そのために、この世界の技術がナナシが元いた世界と比べても遜色がなくそれどころか上回っているというのに、戦いの場においては未だに剣や弓が用いられているのである。
そも、未だに、などという考えが出る時点で間違っているのだが。
世のトレンドは魔術士。
科学技術は、大衆向けの便利用品。
そのような位置付けである。
機械技術とは、魔力収集をオートメイション化することによって、より容易にエネルギーをを得、制御する技術の集大成なのだ。
誰でも、つまりは純粋に人間のための魔力を集めるものが機械であり、ナナシがイメージするような純物理的な意味と価値は、あまり見出されていないのだった。
クリブスが飛行機に首を捻っていたのも同じ理由からである。
ここにも神意や加護が絡んでくるということだ。
例えば此処に木箱があったとして、これが核弾頭に等しい破壊力を持っていますよと言われても、ナナシは頷けない。
見た目は古臭い古物でも、中身を開ければ真言や経典が詰まっていて、それらはとんでもない威力を産むのだという。信じられないが、そういうものとして受け入れるしかなかった。
世界の始まりからして神意が基点にあるのだ。
ナナシが目にしてきた機械技術は、全てが魔力で動くゴーレムや、魔法顕現のための魔法陣の“代替”であるという認識なのである。科学技術は、魔道技術の代替用品として発展したのであった。
その技術の根底に流れる思想は、機関鎧であるツェリスカにも例外ではない。
込められているのは加護ではなく、呪いではあったが。
技術的に鑑みれば、ナナシが知るミサイル等の大量破壊兵器も製造は可能なのだろう。
だが質量兵器に限っては、この世界では技術力はともかくとして、それらを創造するノウハウと想像力が全く無いのである。例えば核などという単語は、こちらに来て一度も見たことも聞いたこともなかった。
そんなモノを作るよりも、戦略級魔法の開発や大魔術師の数を増やした方が、これもまた効率がよいのは言うまでもない。のだそうだ。
あるとすれば、対人用の自衛武器として、拳銃が少量出回っている程度である。
しかしそれも、本人が魔法を覚えればいいだけの話だ。高レベルの人間は、魔物達と同じく、銃弾など弾き飛ばしてしまうのだから無意味なのである。
ロケットランチャーといった大型の火器の概念を口頭で伝えただけで、火薬を増やすか弾頭に工夫を加えたらいいのだな、と理解を示したナワジが、どれだけ飛びぬけた異質な思考を持っているかが解ろう。
火薬はこちらでは本来、魔力を呼び込むためのスターター、呼び水としての用途しかないからだ。
この世界の住人からしてみれば、銃などという“趣味性が強い”武器を使うなど、と首を傾げることだろう。
実際、ナナシがナワジに銃を作って欲しいと頼み込んだところ、強い困惑を返されていた。
銃器は、迷宮探索にはまるで向かない武器なのである。
ともあれ、リボルバー型の大砲は、対魔物殺傷力こそ低いものの、閉鎖空間で相手の行動を阻害する武器としては非常に優秀な仕上がりとなっている。
求められる役割、つまりは牽制と足止めの役割を十二分に果たしていた。
「銃は使い所があんまり無さそうだな……アルマ、鈍色! そっちに固まったぞ! クリブス、二人に付与を!」
「承知! 何者にも負けぬ鉄の巨神よ、獅子王の加護を今ここに――――――壁よ!」
クリブスのかざした掌から、魔力の奔流が迸り、前衛二人を包み込んだ。
魔力で形成された半透明な殻に覆われた鈍色とアルマは、前へ前へと包囲を喰い荒していく。
「もう僕達の出番はなさそうだな」
「メイドさんに犬っ娘無双か。凄いな」
数分もしない内に、あれだけ湧いた大量の魔物は、見事に殲滅されていた。
ナナシを除く全てのメンバーが、上位に食い込む実力者であるために、初級の迷宮ではこの程度は当然の結果である。
「クリブス班の弱点は、やっぱ搦め手かな?」
「ああ。また魔力喰いが現れたとなると、キツイかもしれない。僕とアルマは魔力主体だからな」
「その時は俺と鈍色とで対処するしかないか」
「そうだな、頼んだぞ。この前のように分断されなければ、二人が前衛で僕が後衛、そして君が中衛の布陣で大丈夫だろう」
「お互いの苦手な所を補い合える、いいパーティーじゃないか。俺達さ」
そうだなと頷くクリブスと共に、鈍色とアルマを迎えるナナシ。
今回の探索は戦闘に重きを置いていたため、これで引き上げだ。
試験まで時間もない。
「思い出した……! 今何時だ!?」
「丁度日を跨いだ所だが」
「あかん……早く帰って勉強しないと」
「わふ……ふわぁぁ……むにゅ」
「寝るな鈍色! 寝たら赤点だぞ!」
「僭越ながら、私めが教師役をいたしましょう。ええ、是非に」
「まずお前は部屋に仕掛けたカメラを外せ。それまで出入り禁止だ」
「だから、教えてやっただろうと」
「わかるかっつーの! 鳥頭がよ! 帰るぞ!」
慌ただしく走り出したナナシの背に鈍色が張り付くも、気にした様子もなく駆け出していく。
クリブスとアルマは苦笑しながら顔を見合わせた。
ナナシがパーティーの要であることは間違いがない。実力的にではなく、精神的に支柱という意味でである。
最近、貴族の政争に巻き込まれてからこちらナナシが不安定になっていたことは、クリブス達は把握していたことだった。
本人自身、気付いてはいないだろうが。いや、気付いていたとしても、否定しただろうか。
ナナシは精神的な強さをこそ重視し、そこに執着する節があった。
近く、未踏の迷宮を探索するとなれば、ナナシにはぐらついていてもらっては困るのだ。
暗殺者を送り込まれて、まともでいられる方がおかしい。平静に戻ったように見えているだけで、内面は澱が溜まっているのは間違いがない。
早急に“ガス抜き”をしなくてはならない、との考えから、クリブスは今回の探索を持ちかけたのだった。
初級迷宮を選んだのは、魔物達をなぎ倒す爽快感を得るためだ。
「……自覚は、ないのだろうが」
ナナシの後を追うクリブスが、ふと振り向いた先。迷宮の奥。
そこには、ナナシが倒した魔物達の躯が、点々と転がっていた。
数自体は、鈍色達が倒したものに比べ圧倒的に少ない。
ただ、ナナシが手ずから殺した魔物の死骸は、その全てが悉く破壊され尽くしていた。過剰な程に。一つも原型を留めていたものは無い。
ある魔物は蛇腹状に折り畳まれていた。
またある魔物は、肉団子になっていた。
またある魔物は、掌大にいくつもいくつも引き千切られて散らばっていた。
「強者の特権では?」
独り言のつもりであったが、アルマの耳には届いていたようだ。
全く問題はないと、むしろ喜色を含んだ声だった。
「冒険者にモラルを問うても仕方なし、か。わかってはいるが……」
「何か問題でも?」
「いや……何もないさ。こうあって欲しいだなんて、勝手な押し付けだからな」
苦労して強くなり、力を手に入れたとして。
その力でもって弱い相手を徹底的にいびり殺すことは、さぞ快感だろう。
幼年部の子供たちは、自分に似せたゲーム中のキャラクターを自在に動かして、仮想世界の破壊を楽しんでストレスを解消すると聞く。
クリブスはゲームをやらないためにそのような感覚は解らなかったが、根底にある願望は共感出来る。
もし自分に力があったら。
あらゆるしがらみを……否。目に付くものを片端から壊して回っていたかもしれない。
「あいつも、暴れてすっきりしただろう」
目論見が果たせたかは分からないが、ナナシにどことなく自信が感じられるのは、いい傾向である。
それこそ本人は気付いていないことだが、間違いなくナナシは強くなっていた。
ツェリスカの性能が向上したからではない。ナナシ本人自身の身の運び、重心の置き方、腕の振り、膂力、目を見張る程ではないもののあらゆる能力技能が徐々に“伸び”を見せている。
強化されたツェリスカに当初は振り回されていたというのに、直ぐに適応し、今では更に強化された機能も使いこなしつつあるのがいい証拠である。
レベルに依らないヒト本来の力が、打ち鍛えられているのだ。
「ナナシは強くなったな」
「ええ、本当に」
その強さが、どのような種類の強さなのか。
アルマはただ喜びを以ってして、クリブスは複雑な感情を無理矢理に、二人は表情を微笑へと変えながら、ナナシ達の後を追う。
試験期間前に連れ出してしまった負い目もあることだし、あと一日、みっちりと仕込んでやろうとクリブスはプランを立てながら。
誘った手前何だが、赤点を取り、追試で出発を遅らせる訳にはいかないのだ。
鈍色の方はあれで記憶力が良いのだから、心配はいらないだろう。彼女はナナシに合わせて、成績不振を“楽しんでいる”だけなのだからして。
さあ、まずは歴史のテキストからだな、とナナシに声を掛けようとし。
鼓膜に、微かな震えが。
「……む?」
「ハンフリィ、どうかしましたか?」
「いや……何か、カラスの鳴き声が聞こえたような……」
「……そうですか? 空耳でしょう」
「そう、か。しかし君が、僕にそんな丁寧な言葉で話しかけるなんて、思ってもいなかったよ。貴族には敬語を使わないんじゃなかったのかい?」
「勘違いされぬよう言っておきますが、私は変わらずに貴族が嫌いです。これは単にナナシ様の侍従となったが故、意図的に変えたもの。そうでなければ、貴族など誰が好くものですか」
「そうだな」と苦笑しつつ頷き、クリブスは必死に年号の語呂合わせをしているナナシのダメ出しに向かう。
「――――――さあ、問題だ。今述べた選択肢の中から、一つ選べ」
「え、ええと、2番!」
「わんっ!」
「正解だ鈍色。答えは1番だ」
「わんってお前……! 鈍色、お前それほんとに答え解ってて言ってるんだろうな!?」
「わん?」
「こいつこれしか話せないんだった……!」
「さて次の問題だ――――――」
出される全ての問題に、「わかるかそんなもん」と頭を抱えるナナシへと、「君は馬鹿だな」と溜息を吐くクリブス。
ナナシに身体を寄せる鈍色は、離れる様子はない。
そんな三人の後方をゆっくりと追うアルマだったが、不意に足を止め後ろを振り返り、虚空を睨み付けた。
――――――クァッカッカッカァ……クククカカカカカ――――――
聞こえないはずの声が、アルマの耳に木霊する。
「笑うな」
気配は感じない。
幻聴だと解っていても、アルマは言わずにはいられなかった。
「もうこれ以上、私たちに関わるな。ゆさぶりを掛けるな。もういいじゃないか、諦めよう。“神を創る”なんて……」
ミシリ、と握られた手が音を立てる。
天魔化した影響により爪は容易に掌を突き破り、しかしまた天魔の魔力が傷を一瞬で癒していく。
「あの方に傷一つでも付けて見ろ……絶対に許さんぞ!」
負傷と再生とを繰り返す肉の疼きに顔を顰めながら、アルマは吐き捨てるように踵を返した。
幻聴だと解っていても、不吉な予感を拭うことは出来ずに。
ヒロイックな活躍の陰に隠れてしまっていたが、先日の決闘騒ぎの際にツェリスカと、それを駆るナナシの異常性は露見してしまっている。
だというのに、沈黙を続けている学園、そして貴族達。
何か得体の知れない陰謀に、知らぬ間にナナシが陥れられているような気がして、アルマはならない。
この身に代えてもナナシを守る覚悟と決意は、ある。
だが、彼自身がその渦中に飛び込むことを望んだら――――――。
馬鹿な考えだと、アルマは頭を振った。
「ナナシ様、勉強中のお夜食は、また私が腕を振るいます。任せてくださいね」
「きゃいんっ!?」
「え、ええっ!? いや、お前……いいよ、自分で作るから」
「いけません! 厨房はメイドの戦場。ご主人様は立ち入ってはいけないのです」
「本当に大変だな、君は……」
「止めてクリブスそんな目で見ないで! そ、そうだアルマ! 一緒に作ろう、一緒にさ――――――!」
迷宮の奥、光が届かぬその先で、影が“ぬるり”と蠢いていた。