地下1階
普段とは異なる女教師の、朗々とした声が教室に響く。
「まずはじめに、無がありました。始まりの無です。その後に、双子神が産まれたのです。はい、ここがポイント。誤解しがちですが、彼ら双子神は創造神ではありません。
彼らはその後に多くの神々と世界を産んだので、最高神の1柱として数えられていますがね。だからといって創造神と混同することは間違いです。双子というものは、同じようで相反する性質を持つもの。
つまりは光と闇。あるいは善と悪のような。双子神は、性質を決定付ける神だったのです。創造神……世界の卵ともいうべきものに、自らの性質を与えた神々なのですよ。
もうわかりましたね? 我々ヒト族と魔族との争いが終わらないのは、根源とする加護神の性質が相反するものだからなのです」
「先生。じゃあヒト族と魔族は、どちらか一方が絶滅するまで闘い合うのですか?」
「いい質問ですね。その答えはイエスです。それが自然の摂理というものですから。ですがあなた方にとっては喜ぶべきことです。獣が獲物を狩り、飢えを満たすように。
魔族も我々を狩り、腹を満たし、そしてまた我々も魔族を狩り、富みを、名声を、力を得るのですからね。自然というものは相互関係によって成り立っているのです。
私が信仰する加護神曰く、自然とはサイクルであり、この世のすべての因果は必然であり、であるならばあらゆるものが運命によって――――――」
「先生。授業を進めてください」
比喩表現ではない鳥頭の生徒が、節と爪に包まれた手を垂直に天へと伸ばす。
優等生が、と青年――――――ナナシは鼻を鳴らす。
話しが横道に逸れることを嫌がるのは解るが、余計な事をと思わずにはいられなかった。授業で何が面白いかと言えば、こうした教師の知識の披露、雑談が最も面白いとナナシは思っている。
非常に興味深い話だった。
すべてが自然のサイクルであり必然であるというのならば、この世には偶然など存在しないということになる。
なるほど、神が実在するような世界だ。そうでなくとも、資源の循環はひどく効率的なシステムであることには違いない。
ならば、自分がここに居るということも、何らかの意味があってのことだと言える。
「……そう考えることができたら、どれだけ楽かな」
女教師の加護神が言うことを信じるならば、の話だが。
左隣を見れば、鳥頭が苛立たしそうに腕を組み人差し指でリズムを取っている。
神経質な気質がある鳥頭には、教師の雑談がストレスなのだろう。
フォローを入れておくのもパーティの副リーダーとしての務めだろうか。ナナシは声を落として鳥頭へと声をかけた。
「クリフ、そうカッカするなよ」
「君は緩み過ぎだ。明日は迷宮探索なんだぞ?」
「まあ、そうなんだけどさ。死ぬ時は死ぬし、死ななきゃ生き残るだろ。しっかりしてくれよ、リーダー。みんなお前を頼りにしてるんだ」
「まったく君は……。もういい、授業に集中したまえ」
呆れたように溜息を吐く鳥頭。
照れくさいのだろう、しきりに嘴の下を撫でさすっている。
無条件の信頼と称賛に、どうリアクションを返したらよいのか解らないからか。良くも悪くも、生真面目なのだ。この我らが探索班のリーダーは。
ナナシ達パーティーのリーダー、鳥頭の名を、クリブス・ハンフリィという。
彼も家名を背負ってこの学園に入学した、貴族の一人だった。
ハンフリィ家は神鳥フェニックスの血を引く家系である。クリブズが学園生活において神経質になるのも仕方がないことなのだ。名家に生まれついたということは、それ相応に果たさなければならない責務が発生してしまうのだから。本人の意思に関わりなく、だ。
無能では絶対にいられない。そういうことだ。
いつの間にか椅子をくっつけて、自分の膝の上から夢の世界に旅立った犬耳ほど図太くなれとは言わないが、副官としては心配であった。
犬耳も犬耳で心配なのだが、それはともかくとして、堅い鎧の上で寝苦しいのか寝返りをうつのは勘弁してほしい。
腹によだれが染みて不快なのだ。そろそろ起きて欲しかった。
「……待て、何故君は『鎧』を着ているんだ」
「なんでって、ああ、そっか。お前いつもは食堂だったよな。このブルジョワジーめ」
「黙りたまえ。家のことは関係ないだろう」
「悪かった、怒るなよ。で、今日の昼食は?」
「今日は僕達の学年だけ半日授業だからな。昼食は持参していないから、今日は僕も購買だ。ふむ、五年目にして初めての買い食いになるな。少し楽しみだ」
「そうかい、そりゃよかった。ならお前も準備しといたほうがいいぞ」
「……何の?」
「見ての通り、戦いのだ」
「はあ?」
「フル装備はしなくていい、軽い方が有利だ。地形を活かして進め。敵に情けをかけるな。立ちふさがる者に容赦はするな。全て、なぎ倒せ」
「君、何を言って」
「生きることは食べること。購買は戦争だ」
「だから、何を」
「戦争なんだよ」
教師に意見したくせに、クリブスは自分の無駄口は気にならないらしい。
傍から見れば傲慢な態度であるが、いい傾向だとナナシは思う。初めはこうではなかったのだ。
クリブズに少しばかりの余裕を持たせるまで、どれだけ心を砕いただろうか。副官は色々と大変なのである。
そろそろ時間だぞ、とナナシは膝をゆすって犬耳を起こす。
ぱっと飛び起きた犬耳は、不安気にナナシの胴へとすがり付いてくる。寝ぼけて地震かと勘違いしているのだろう。デコピンで眼を覚まさせてやることにした。
犬耳は額を押さえ、目を白黒とさせている。泣きそうだ。耳がぺったりとして寝てしまっていた。
鋼鉄の指による、しかも膂力補助を受けた状態でのデコピンはさぞ痛かっただろう。
少し悪いことをしたとも思いはしたが、後悔はしていない。
シャツをよだれでべしょべしょにしてくれた礼である。
『バッテリーの充電が完了しました』
今日の授業はここまで、という教師の言葉と同時、機械音声が耳に入る。
『装鋼士』にとっては、充電時間の把握など出来て当然。サブバッテリからメインバッテリに切り替えられ、火を入れられた人工筋肉が収縮を始める。
ボルトの軋みを聞きながら、ナナシは満足気な笑みを浮かべた。
「お前もやる気になったみたいだな」
「わんっ」
対する犬耳も、獲物を狙うかのような獰猛な笑みで返す。
犬狼族の血が疼くのだろう。狩りと食事とは切っても切れないない関係なのだから。生きることは食べることなのだ。
「いや、だから君たちは何を」
「いくぞクリフ、遅れをとるなよ。エンチャントしておけ」
「がうー!」
「まあ、確かに空腹だが……?」
「そら、鐘が鳴ったぞ! 付いて来い!」
授業の終わりを告げる鐘と同時、ナナシと少女は駆けだした。他のクラスメート達も遅れてはならぬと、後を追う。
教室に残ったのは、片付けをする女教師とクリブズだけ。一瞬で人の気配は消え去った。
「一体、何が……?」
何のことか分からず、ふらふらとクリブズは後を追ったが、廊下に出た瞬間に後悔することになる。
長い廊下中に響く怒声と地鳴り。魔術的に防音と防汚処理が施されているというのに、土煙りまで舞っているようにも見えた。
生徒達が大量にひしめき合いながら、こちらに押し寄せて来たのである。
クリブズはひぃ、と喉を引きつらせたかのような悲鳴を上げ、ナナシ達の後を追ったがもう遅い。
「う、うわ――――――!」
「う、お、お、お、お、お――――――!」
生徒達の波に呑まれ、あっという間にクリブズの豪奢な冠羽は見えなくなってしまった。
一瞬の出来事だった。
その一部始終を、ちらと振り返った時に見てしまったナナシと犬耳。二人揃って恐ろしいと身震いをする。
「餓えって恐ろしい……。化けて出るなよ、クリフ」
「くぅーん」
クリブズに黙祷を捧げつつ、急ぎ購買に駆けつける。
しかし、遅かったようだ。すでにカウンタは無数の生徒達でごった返している。
「おばちゃん! 牛乳とパンちょうだい!」
「あいよっ!」
「おばちゃーん! こっちはお茶とサンド五つ!」
「ちょっと待ってな! 順番だよ!」
「おばたん! から揚げバー1つくだしゃい!」
「子供だからって甘くしないよ! 順番守りな!」
「ババア! 俺だ! 結婚してくれ!」
「一昨日きやがれ小僧が! 仕事上がりまでに婚姻届とハンコ持ってきな!」
正しく戦争である。
クリブズにナナシが語った話は誇張ではなく、攻撃魔法が飛び交い剣が振るわれ人が飛ぶ。
これで毎回死人が出ないのが不思議でならない。
げに恐ろしきは餓えた学生達である。
出遅れたナナシ達一同、後発の生徒達は、カウンタに群がる生徒達が空けるまで待たねばならなくなった。
今日は授業時間がずれ込んでいるため、余計に生徒の数が多い。現在の在庫のみでこれだけの数の生徒達の腹を満たせるのかと言えば、疑問が残る。
今日も飯抜きか、と幾人もの生徒達が崩れ落ちるのを尻目に、しかしナナシは不屈の笑みを浮かべた。
反撃の策は、我にあり。
「おねえさあああーーーーん!」
「んなあっ!?」
周囲の眼が一斉にナナシを向く。
「あらまあ、やあねえお姉さんだなんて。どうしたの?」
「ちょ、俺が先に並んで……」
「黙ってなクソガキ共。さ、まだまだ一杯残ってるから、何でも言っておくれよ」
「お茶とバーガーセット、三つずつ下さいな」
「はいはい、どうぞ。おまけでプリンもいれといたよ」
「ありがとうお姉さん! またよろしく!」
「ふふふ、お姉さんだなんてもうこの子ったら。私もまだまだイケるのかねえ」
「そ、その手があったか!」
「おば、おねーさん! 私にもお茶とバーガーセット! あとプリンおまけして!」
「心にもないことをガキンチョどもめ。ほらほら、ちゃんと列に並びな!」
「書類とハンコ持ってきたぜ!」
「式の新郎スピーチでも考えとくんだね!」
どーもどーもー、と恨み妬みの視線を受けながらナナシは帰還。
犬耳の喜びのハグを自慢気な顔をして受け入れる。
「わんわん、わんっ!」
「ほらほら、よだれを垂らさない」
「うー」
「アイツの分まで買わなくてもよかったのにって? ……微妙に仲悪いもんな、お前ら。でもいいだろ? 俺、あいつのこと好きだし」
「わ、ふ!?」
「もちろん頼れるリーダー的な意味でな。さ、教室に戻ろう。クリフが待ってる」
昼食の前に回復薬だなあ、などと喋りながら、ナナシは犬耳と連れ立って、生徒達の波間を悠々と歩いていく。
「遅かったじゃないか」と平然を装いつつも踏み後だらけになっているクリブスの、鳥頭の澄まし顔を思い浮かべ、二人して笑った。
ゆっくり三人で、テラスで昼食でも取ろうか、なんて。
□ ■ □
終業の鐘の音。
授業という苦痛の時間を与えられた学生達への、自由を告げる音がする。
遠足参加が決定しているクラスから、早速わいわいと喧騒が。
「よっしゃ! 終わったー!」
「お昼限定タルト、早く行かないと売り切れちゃうっ!」
「あーん、課題が終わらないよー!」
「な、なあ! 今日、これから暇か? よかったら俺と、遊びに行かないか?」
「てめえこの野郎! もてない同盟を破る気か!?」
「うるせええええ! もう一人身はいやなんだよおおお! 俺だって青春したいんだよッ! それで返事は!?」
「えっ、わ、私? ええと、一応暇だけど。どこ行くのさ?」
「クソッ! 邪魔してやる! 絶対邪魔してやるぞ……!」
「え、映画の券が二枚あるんだ。その、似合わないかもしれないけどさ、凄く良いって評判の恋愛映画を一緒に観たくって」
「いいけど……。私、男の子だよ? それでもいいの?」
「邪魔してや……え、男の子?」
「いいんだ! お前がいいんだ! 俺は、お前とがいいんだ! 他の誰かじゃあ駄目なんだよッ! 俺は、お前が……お前が……お前が好きだ! お前が欲しいんだ! だから行くのか、行かないのか、どっちなんだ!」
「あう……その……よ、よろしくお願いします……これからも、ずっと」
「悪かった。お前達の愛の深さを見誤っていたようだ。もてない同盟はお前たちの仲を祝福しよう。とりあえずご祝儀はデリケート部分用回復軟膏、使いきりタイプでいいか?」
皆、早速明日の準備をしようとパーティーメンバーを集め、奔走しているのだろうか。
冒険者科のクラスの面々も思い思いに武具の点検や、メンバーとの作戦会議を始めていた。
そしてまた、彼らも。
「痛っ! も、もう少し丁寧に塗ってくれたまえ」
「これぐらい我慢しろよ。ほら、もう少しで終るから」
「うう、明日は迷宮探索だというのに、無駄な怪我を……」
「戦場を甘く見るからだ。注意一秒、怪我一生だぞ」
「ああ、学習したよ……購買は戦場なんだな。ああ、本当に戦場なんだな……ッ!」
「戦争なんて虚しいだけさ」
遠い眼をし始めたクリブスの後頭部に、回復薬を塗り込む。
根元は黒色をしているが、羽先にいくにつれ焔が舞ったような、深い真紅になっていくという不思議な色だ。
毛色が混ざるのは他種族間との混血の証である。
ナナシはこの不思議な色をしたクリブスの羽に触れるのが気に入っていた。
もふもふと顔を埋めたい欲求に駆られるが、どこぞの犬耳が唸るので自重している。どこにヒトの耳があるかも解らないのだから。
これが二つ隣のクラス、錬金科に伝わったとしたら、間違いなく竜言語魔法が飛んでくるだろう。
想像するだけで恐ろしい。
「その、盛りすぎじゃないか?」
「毒じゃないんだからいいんだよ。自然素材を使った高級品だぞ?」
回復薬は内外服両用の薬だ。
迷宮では専ら水溶液にして飲み干す用途で使われているが、塗り込んだ方が効き目が良い。
見捨ててしまった詫びも兼ね、ナナシはクリブスの踏み跡だらけになった身体へと、回復薬を塗り込んでいた。
「ふんふふんふふんふふんふー」
「それは何の歌だ?」
「おしゃれなペンギンの歌」
「僕はペンギンでは」
「飛べないって所は同じだろ?」
「う、むぅ」
「ほら、完成だ」
「完成って、君な」
「いいじゃないか、カッコいいぜ。俺が女だったら間違いなく惚れてるな」
「む……。そ、そうか?」
回復薬を整髪剤に、いや整羽剤に、天にそびえるほどに冠羽が立つ。
解りやすいお世辞だというのに、クリブスは照れたようにクチバシ下を撫でさすった。
これまで賛辞を受けたことのなかったクリブスである。ナナシに言われたようにストレートな賛辞を受けると、どう対処したらいいのか戸惑ってしまうようだ。
クールさを売りにしているクリブスだが、今はその顔は朱に染まっているだろう。
傍目には羽に埋もれて顔色など解らないのだが。
「そのポーカーフェイスちょっと反則じゃない?」
「何を言ってるんだ?」
「いや、なんでも。それよかあいつはどうしたよ? 鐘と同時に急いでどっか行っちゃったけどさ、何かあったのか?」
ナナシは急ぎ教室を出ていったもう一人のパーティーメンバーについて、クリブスに問う。
焦っていた風な空気を発していたが、何かあったのだろうか。
「いや、薬を貰いにいったんだよ」
「ああ、なるほどね……『血』を抑えるやつか。数日は迷宮に潜ることになるだろうから、配慮してやらにゃならんかったか」
「気を遣われる方が辛いだろう。ただでさえ疎まれる天魔族なんだ。かの魔神にそっくりな容姿ともなれば――――――」
「クリフ、声がでかい」
「……失敬」
クリブスが後悔に深く眉間に皺を寄せる。肩をすくめてナナシは言った。
「周りが何であんなに騒ぐのか理解できないよ、俺は」
「歴史的事実というものは覆しようもない程に重いんだ。神意が顕現したなら、尚更な」
「人よりちょっと個性的なだけ。それでいいんじゃないのか? 重く考えるのはいいけど、そいつに潰されるのはどうかなと思うけど」
「……そう言ってしまえる君が羨ましいよ」
「さあ? 俺はその辺り何にもないからな。考えなしなだけさ、きっと。うちの魔法剣士様は大変だなあ」
「まったく、お気楽だな君は。だが、僕達のパーティーはこれでバランスが取れているんだろうね」
「いまいちまとまりは悪いけどな」
違いない、と二人して苦笑する。
ナナシ達の所属クラスは冒険者科の最後尾に位置している。
冒険者科だけで六クラス以上あり、これだけ見ても学園の規模の大きさが解るだろう。
学園のクラス分けは成績優秀者や寄付金の額を加味し、Aから順に振り分けられ、中間クラスは一芸特化の生徒達、それ以下が一般層の生徒達で構成されている。
残った最後尾のクラス。ここには特殊な事情を持ったものが配属されていた。
そうとは公然と口にされてはいないものの、内側に居る者達にとって、管理者側の意図は見えている。
つまりは、問題児達を一ヶ所に押し込めたわけだ。
「なあ、せっかく格好付けたんだからさ、婚約者さんとこでも行ってきたら? 探索が無事に終えられるように祈祷でもして貰ってこいよ」
「……彼女の所に行く必要はない」
「またまたー、強がっちゃってさ。命かけた冒険の前に、恋人の所に顔見せに行くのは別に可笑しなことじゃないだろに。妬けるなこいつ」
「君だって錬金科のご令嬢と懇意にしてるだろう。人の事を言えるのか?」
「お前、違うよ! お嬢様とはそんな関係じゃないって! あれは所有物と持ち主とか、そんな感じの独占欲だろ!」
「君は馬鹿じゃないのか? 鈍いにも程がある。そんな重たい鎧ばかり着てるから頭が回らないんだ」
「鎧のこと馬鹿にすんじゃねえって言ってんだろうがこの野郎。三歩歩いたら忘れちまうのかこの鳥頭!」
「三歩……はは、凄まじい侮辱を聞いたような気がするな。いいだろう、やるか!」
「おうよ、望むところだ!」
コメカミに血管を浮かばせながら立ち上がる二人。
ナナシはともかく、常日頃からクラスの面々を理性的ではないだとか馬鹿だとか言い続けているクリブスも、また自身がそうである自覚がないようだった。
明日は命を掛けた迷宮探索であるというのに、無駄な怪我をしたくないと言った自らの言をもう撤回している。
クリブスもまた紛うことなき問題児クラスの生徒であった。
つまり、掛け値なしの馬鹿達である。
「表へ出ようか……」
「屋上へ行こうぜ……」
「そうし――――――うひぇっ!」
「どうし――――――この気配は!」
まるで金縛りに会ったかのように同時に動きを止めた二人。
油が切れた人形のように、同じ方向にゆっくりと顔を向ける。
その顔は恐怖に引きつっていた。
壁を通り越した向こう側に、何か恐ろしいものでも見たかのような顔だ。
「ちょっと、そこを退きなさい! 退きなさいったら!」
「わんわん、わん!」
「わたくしの言うことが聞けないの!」
「がうー!」
「雌犬が……躾がなってないようね……!」
「がるるるるっ!」
耳をすませば、そんな声が聞こえてくる。
二人がよく知る声だった。
何やら揉めているらしく、怒声の応酬がされている。
その合間に尋常ではない振動が伝わってくるのが、恐ろしくてならない。
「あわわ、あわわわわ……!」
「君、丁度よかったじゃないか。向こうから来てくれたみたいだぞ? さあ、早く出迎えに行きたまえ!」
「むむむ、無理だって! あいつら喧嘩してんじゃん! 間に入ったら巻き添え喰らって死んじまう!」
「何とかしろ! してこい! 迷宮に潜る前にこんな所で死ぬなんて嫌だぞ!」
「ジョゼットさん……俺もすぐにそっちに逝くよ……」
「諦めるな馬鹿!」
喧々騒々。クラスの中は、一瞬で大パニックになった。
皆、声の主達がどれだけ危険であるか、骨身に染みるほどに解っているのだ。
だが無慈悲にも、声の音源は刻一刻と近づいてくる。
床を踏みしめるようにどすどすと足音がするのは、機嫌がよろしくない証拠だろう。
「わんっ、わんわんっ!」
「はああっ!? 口出しばかりして、恋人でもないくせに何様のつもりだ、ですってえ!?」
「むふー」
「む、きーっ! わたくしはナナシのパトロンよ! 口出しするのは当然でしょ! 言わばわたくしはご主人様! そう、ご主人様なのよ!」
「ぐぎぎぎぎ!」
「ふふふ、解ったかしらワンちゃん? ナナシはわ・た・く・し・の・なの!」
「がうがう!」
「ななっ!? 金でしか男を引き止められない哀れな女、ですってえ!? この、言わせておけば!」
なぜ会話が成立しているのかも解らない。
窓から逃げ出そうにも、午前中の授業にて教師が教室を破壊したために、あらゆる箇所に板が打ちつけられ、逃げ場はない。
生徒達には近づく足音が、死の宣告にしか聞こえなかった。
「もてない同盟からしてみればコイツは粛清対象なんだけどな……」
「触らぬ竜人にブレスなしだ。それともお前、奴と替わりたいとか思うか?」
「それは無理。竜言語魔法連射とか、なんぼギャグ補正が掛かってたとしても身体が持たね」
「そうだな。だが」
「それとこれとは、話が別だな!」
「うおお!? な、何だお前ら! 離せ!」
「やかましい! ぶち殺すぞ純人族!」
「そうだそうだ! 美少女は人類の共有財産なんだぞ! それを貴様二人も独占なんぞしおって!」
「おい、やめ、誤解だって!」
「こうなってはもう逃げられん。貴様は俺たちの盾になれ!」
「く、クリフ! 助けてくれ!」
「もう少し左に寄せてくれ。背中に隠れられない」
「お前、裏切ったな!」
ナナシを先頭に、その背に隠れる生徒達。
一応は防御陣を何重にも掛けてはいるのだが、それらは意味を為さないだろう。
パニックになってもこうして作業をこなせるあたり、一連の騒ぎが日常茶飯事であることが解る。
問題児ばかりのクラスにあっても、なおナナシ達に関わろうとするものが少ないのは、この男の周りにいれば被る被害が大き過ぎることが、骨身に染みて理解しているからだ。
学園の大多数の男子が参加しているもてない同盟も、普段はナナシを黙認しているくらいに。
誰だって竜の息吹に身を晒したくはない。
「この……泥棒犬!」
「がるるるるっ!」
叩き割られる勢いで扉が引かれ、声の主たちが教室に姿を見せる――――――その前に。
音よりも早く、眼を焼くような閃光が飛び込んできた。
瞬間、巻き起こる熱量と衝撃。
教室は、光に包まれる――――――。
「ちょっ、これほんとにヤバ――――――!」
こうして。
冒険者科の一室は、本日二度目の崩壊を報告することになるのであった。