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完全装鋼士 : レベル0  作者: ノシ棒
第1章 ―学園編:ナナシ―
18/64

地下17階

小一時間程女性に問い詰められることを嬉しく感じるのは、少数派ではないだろうか。

この場合不幸なことに、ナナシは多数派に属する種類の人間だった。

まるで母親か教師から説教を受けているようだ。頭が上がらないといったらなかった。


「で、なんだ? そんな理由でガチンコやらかしたと?」


「いや、その、色々理由とか都合がありまして、その……」


「へー、ほー、ふーん。それで?」


機械油の臭いが充満するドックの中、巨大なスパナで頬をぺちぺちと叩かれながら、ナナシはしどろもどろに答えた。

もちろん正座をしながら、である。


「おチビが血相変えて飛び込んで来たと思ったら、まったくよ。で、まだ何か言い訳はあるのか? ん?」


「いや、その、かくかくしかじかという訳でして」


「まるまるうまうま、で終るとでも思ったか、おい」


「ですよねー、ハハ、ハ……」


一通りナナシの申し開きを聞いて、不機嫌そうにその女性は舌打ちを漏らした。

イライラに任せ、黄金色の尻尾は太腿に打ちつけられていて、ピンと立った鋭い耳の片方がせわしなく上下している。

感情に任せて動くシャープな耳と尻尾は、彼女が犬狐族である証。

彼女の髪色と同じ色のそれらは、どうやら犬狐族の中でも珍しい毛色であるらしく、目が覚める程の金。

機械油で薄汚れたつなぎを着ていてもなお、いっそう目を惹く魅力があった。

例え毛がほこりと油にまみれ黒ずんでいても、目の下に大きな隈をこさえていても、彼女の美貌が損なわれることはない。

背筋を伸ばしぐっと張られた胸は、開けられたつなぎの前から、今にも飛び出してしまいそう。

つなぎの下に着込んだ白色の肌着が押し上げられる様は、少しも飾り気がないにも関わらず、彼女をより絢爛に仕立てあげているかのようだった。


「いやしかしですね、男には引けないときがあるとか、ないとか」


「うるせえ! オレの睡眠時間を返しやがれ! オレがせっかく、お前が困るだろうと思って三徹で整備中だった鎧を、またこんなにしやがって!」


「あだだだだ! ギブギブギブ!」


「いいよ上等だ、また徹夜してやんよ! オレは、お前の、専属技師だからなあ!」


「あがー! ごごごごめんなさいいいおおおいでで!」


コメカミに青筋を立てた彼女はナナシの頭を小脇に抱え、ヘッドロック。

女性にしては長身の彼女だったが、さすがにナナシとは身長差があるために、ナナシの顔目がけて飛び付く様な形となる。

ナナシは顔面を抱えられるがままに、彼女の体側へと頭を埋めることになった。

その時ナナシの脳裏に浮かんだのは、何だっただろうか。

頬に感じる至高の感覚。

それを比喩する言葉に違いない。


「んわぁぁぁいたいいたい……ああでもちょっとやわら……あがが!」


「ふんんぬ! まだ締め付けが足りねえってか!」


ゴム毬。マシュマロ。時速80km。

様々な例えがあるが、彼女を表すならばこの一言に尽きるだろう。

Gの衝撃。

ナナシは、にやつく頬を申し訳なさそうな顔に戻すのに精一杯だった。


「あいたたた、ひどいですよナワジ先輩」


「ふんっ! いい薬だ」


いー、と歯を剥いて、『ナワジ』と呼ばれた彼女は腕を組む。

狐の耳と、尾。

金の髪。

均整の取れた体を締め付ける、窮屈なつなぎ。

化粧気が無いというのに溢れる女としての魅力。

だというのに、心根はむしろ男らしくいて、姐御などと生徒達には慕われている。

『ナワジ・マウラ』、それが彼女の名であった。

組まれた腕に持ち上げられ、ナワジの胸元が我侭放題に主張する。

知れず、ナナシはごくりと喉を鳴らしていた。


「……ふん」


ナナシの視線が胸の辺りを行き来していることに気付いたのか、否か。

ナワジは一層腕をきつく絞り、背を反らす。


「ちょ、ちょっと、ナワジ先輩! 俺が悪かったから、謝りますってば! そんな迫らないでくださいって!」


罪悪感というよりも、こんな時にも目が向いてしまう男のどうしようもなさにいたたまれなくなり叫ぶ。

しかしナワジはそんなナナシの心境を知ってか知らずか、ずんずんとナナシに近付いて、睨め付けた。


「勝つためには“武器”は効果的に使うべきだ。そうだろ?」


「いや、それはそうですけど……いったい何の関係が?」


「何度も同じ技を使ってちゃ効果は薄れるが……そうでもしないと勝てそうにないなら、な。お前もそう思うだろ?」


「はあ、まあ」


「そうか、わかってるか。だっていうのにお前、事あるごとにステゴロばっかりしやがって! 試運転後の調整途中だったんだぞ、余計ぶっ壊れちまったじゃねえか!」


「いや、今回は仕方なくてですね、それに持ち出したのは鈍色で……」


「ああん!?」


ずい、と一歩踏み出すナワジ。

迫る双丘。

「すみません」とナナシは生唾を飲み込んだ。


「しっかし……お前、どんな使い方をしたらここまで筋疲労を起こせるんだ? この人工筋肉、最新型の試作品だぞ」


「ツェリスカが新しいプログラムを組んだんですよ」


「独力で自己進化するAIねえ……つまんねえの。その内オレいらなくなるんじゃないのか?」


心底つまらなさそうに溜息をつきながら、赤銅色の布に巻かれた長物を取りだすナワジ。

ずいと差し出されたそれを、ナナシは受け取った。

赤銅色の布は、耐火耐熱の保護シートだ。火蜥蜴の体毛をフェルト状にして織り込んだ保護シートは、鈍色がツェリスカを包んでいたものと同じもの。

ツェリスカが新機能『瞬間着脱』を使用した際、体に巻き付けていたものである。

貴族の男との決闘騒ぎで、放たれた魔術が掻き消されたように見えた一件。そのタネは、この保護布にあった。中空を高速で移動し、対火布で火球を包んで潰していたのである。傍目には魔術が消滅したように見えただろう。

ナワジから手渡された物の中身は、手触りと重さからして、何らかの武器だろうか。大きく、長く、中々の重量があった。


「これは?」


「また無茶されたらかなわないからな、お前が自分で持っとけ。預かってた大剣を、ツェリスカに合わせて打ち直したもんだよ。ほら、開けてみろ」


するりと布を解くと、そこには硬質なロッドと五角形型のブレードが。

はて、とナナシは首を傾げる。

大型のブレードは、ジョゼットが作成した打ちっ放しの大剣を鍛え直したものだろうことは、容易に考え付く。しかし、ブレードの支えとなるべき柄が見当たらない。

腕部や背部に装着して盾として用いるならば、殴打武器としても使えるだろうが、これでは剣としての機能は見込めないだろう。

逆にロッドの方は伸縮式で、非常に使い勝手が良さそうだった。これならば振り回すにはもってこいだ。

棒術とは汎用性に富んだ格闘術である、とはナナシがジョゼットから叩き込まれた知識の一つだった。

ナナシ自身、無名戦術の修得の一環としてあらゆる武器使用術を学んだ折り、その汎用性には舌を巻いた。

というのも、名うての神聖武僧だったジョゼットの最も得意とする武器が棒であり、専ら格闘訓練では棒で文字通り打ちのめされるのが常だったからだ。

突きや払いはもちろんのこと、棒のしなりを生かし削ぐように対象を掠めることで“斬る”ことや、回転を加えて“抉る”こと、または力点を移動させることで“絡め取る”ことなど、その闘法は変幻自在。

かの闘神の武器もまた、棒であるという。棒とは非常に使い勝手に優れた武器なのだ。

無名戦術があらゆる武術の集合であるとしたら、これほど汎用性のある武器はうってつけだったのだろう。ジョゼットは、まだ冒険者であったころから、無名戦術の構想を練っていたのだ。

唯一つジョゼットに誤算があったとしたら、ナナシには棒術の適正が――――――否、武器を使う才自体が無かったことだった。

訓練を積んで人並みには使いこなすことが出来るようにはなったが、それだけだ。高位の魔物を相手取るには心許ない。

それよりも高い適正をみせた素手での格闘術や、それを補助するための刀剣術を重点的に鍛え上げた方が良いだろう、というのがナナシとジョゼットの共通見解だった。


「これは、剣……ですよね。でも、柄が」


どこにあるのか、と問わんと顔を上げたナナシを、ナワジは手で制した。

「組み合わせてみろ」と言われ再びブレードに視線を戻すと、ブレード基部にジョイント穴を発見。見れば、ロッドの先端の鍵状部分と、噛み合うようになっている。

ナナシはブレード基部にロッドの先端を挿し込み、半回転させた。

ガチリと機構が回転する音が聞こえ、ロッドが伸びる。


「おおっ!」


一瞬でロッドとブレードは変形結合し、それらは大剣と、その柄と化した。

柄頭が展開しT字型となったそれは、サイズこそ巨大であるものの、ナナシが日常的に見かける道具の“それ”と、類似したもの。


「これ……スコップ、ですか?」


「そうだ。突いてよし、斬ってよし、刺しても殴ってもよし、もちろん穴掘って埋めてもよしの万能大剣。名付けて掘削大剣だ!」


「これは……なんと!」


「ふっふっふ、驚いて声もでないか。オレの会心の一作だからな! 使うたびにオレを思いだして感謝しろよーナナシ?」


「なんと……!」


「お、おいおい、驚き過ぎだって。なんだよ、恥ずかしいじゃんかよ、もー」


「なんと……微妙」


「そうだろうそうだ……んだとコラァ!」


「あだだだだっ!」


ナワジのメカニックらしからぬ苛烈な性格は、元々は狩猟民族であった犬狐族である所以か。

ナナシの頭をがっちりと抱え、ナナシが割と本気で抵抗しても、その拘束が外れることはなかった。

高レベルの技師は、機材を取り扱うために腕力も高いのである。


だが、結局は“ここ”と“ここ”が物を言うのだ、と頭と腕とを指して言ったのは、彼女の師であり祖母であるヒナコだった。

その基準からして見れば、ナワジは間違いなく天才であり、稀代の異才でもあった。

半分以上完成している“補助器具”としての機関鎧の在り方を変え、自らの理論でもって機関鎧を“主武装”として作り変えようとしているのだ。

技術的なブレイクスルーが、ツェリスカの改良中何度も認められたのは言うまでもない。もしも彼女が研究者で、これを論文として発表したら、もしかしたら世界の科学技術は二・三歩以上進歩したかもしれない。

マウラ・ワークスの秘蔵っ子とは良く言われるものの、それに見合う以上の才をナワジは秘めていた。ヒナコがナワジを表に出したがらなかったのは、彼女の才が悪用されることを恐れてのことだった。

だが、それも杞憂かもしれない。ナワジは、とにかく犬狐族の特徴である気性の激しさが目立つ少女だった。

気に入らない仕事は頑として首を振らず、依頼を受けたとしてもクライエントの態度が気に入らなければ職場放棄は当たり前。

自分の身体をいやらしい目で見て来る客を巨大スパナと鉄拳で殴り倒すなど、彼女にとっては至って普通の事だったのだ。

学園だって籍を置いているだけで、ほとんど授業になど出た事はない。その都度ヒナコが頭を抱えていたのは言うまでもない。

それでいて腕は超一流なのだから、だれも文句は言えなかった。ナワジはこの年ではや頑固職人として周囲に認識されていた。

ともすれば、それは傲慢に映るかもしれない。しかし、ナナシにはその人格がとても好ましく見えていた。きっとジョゼットに似ているからだろう。

ヒナコの手によって育てられたナワジは、気性の荒さと懐の広さが絶妙の配分バランスで化合された、姉御肌な人物として成長したのである。

彼女のクライエントこそ数は少ないが、いわゆる隠れファンというものは、男女に限らず結構な数がいるらしい。

そのファン達が彼女の顔を見ようと、日頃から依頼を大量に持ち込んでくるのは想像に容易いだろう。そして、それを彼女が断固として受け付けないことも。

そんな彼女だが、ナナシの依頼だけは断ることがなかった。

そしてナナシからの依頼には、自分の力を全て出し切るように、力量以上の仕事を完遂させるように、毎回の如く限界に挑み作業に没頭していた。文字通り、寝食を忘れる程にである。

自分の依頼を最優先にこなしてくれる理由が、何かは解らないが――――――と、ナナシは努めてくり返すようにしていた。

理由を考える、という意味ではない。

“解らない”という思考を“装う”ことで、その理由に気付かぬようにしている。

例えフリでしかなくとも、装うことしか、ナナシが考え得る選択肢はなかった。


「まったく。本当にお前は、専属メカニックが付いてる有り難さを解ってるのか?」


「ええ、解ってますって。ナワジ先輩の仕事は間違いないですから。信頼してます」


「ふん、どうだか……ほらよ、ついでにこれも持ってけ。サービスだ」


次いで押し付けるように渡されたのは、大剣に比べれば小ぶりの電動丸鋸(サークルカッター)である。

丸鋸は機関鎧の手首底部にも装着出来るよう設計されており、ツェリスカ本体から動力を得て、強力な切断力を発揮する仕組みのようだ。

これもまた、切りつけて良し、削って良しの、閉所で多目的な用途に使うことを前提として設計されていた。

ナナシの要望通り、狭い迷宮内部でも取り回しが利くよう、コンパクトに折り畳めるようにもなっている。


「サービスって、これ、俺には解らないけど良い物なんでしょう? 流石に自費を切らせるわけには」


「いいから持ってきな!」


サービスだとは言っていたが、片手間で出来るような品ではないことは、素人目にも了然。使われている鋼材もまた同じである。

やはり、頭が上がらない。

感謝の念をそのまま伝えても、ナワジは嫌がるだろう。ナナシは黙って、渡された電動丸鋸(サークルカッター)の具合を何度も確かめた。

力強い重みに自然と頬が上がる。その様子を見ていたナワジも、満足そうに微笑んだ。

ジョゼットの設計思想であった対市街地戦使用から、冒険者が必要とする対迷宮戦使用への武装変更がようやく完成に近付きつつあることを、ナナシは大剣と電鋸の重さと共に実感した。

これらの武器を新しく生まれ変わったツェリスカで繰れば、どれだけの戦力が見込めるだろうか。

例えば、先日の迷宮の主、キマイラを独力で打ち倒すことが出来るだろうか。

……無理だろうな、とナナシは直にその考えを棄却した。

新たなプログラムを得て、新たな武器を得ても、それだけで直に強くなれるはずもない。

確かにスラブ・システムという高レベル冒険者に迫る軌道と速力を手に入れはした。だがそれも短時間のものだ。

それに、“芯”の強さはまるで変わらずにいる。

いくらナナシに付随する機能が強化されたとしても、それを扱うナナシ自身はレベル0。何時か、必ず頭打ちとなる時がくるだろう。

既にツェリスカの性能の大半を持て余している状態なのだ。スラブ・システムがいい例である。あのシステムの制限時間は、充填魔力量のパーセンテージに依るものよりも、ナナシの身体が耐え得る時間、という意味合いの方が強い。

ここでも自分の特殊な事情が足を引っ張る。

こと自分に限っては力を得たとしても、強さには直結しないのだ。

口惜しいが、より身体を鍛え技術を磨かく他に解決法はなかった。

人間としての力を一層磨かねばならない。

ナナシはハンガーに吊るされたツェリスカを見て、そう思った。


「こいつにも早いとこ追加装甲と武装を付けてやらないとな」


ナナシの視線に釣られ、ナワジはツェリスカを眺めながら「まずは射出ワイヤーでも増やすか」と呟いていた。


「いや、それよりも重火器か……いっそ同時に……」


「そんなの俺、扱えませんよ。武器を使うのは、どうにも」


「苦手だからって使わないままでいたら上達しねえよ。お前はレベル0なんだから、自分の力はあてには出来ない。これから先は武器に頼らなきゃいけねえ。解ってるだろ」


「それは、まあ」


「煮え切らねえな。それ、装鋼士の悪い傾向だぜ。機関鎧は自分が強くなったような錯覚を与えるからな。そうでなくてもツェリスカは……」


ツェリスカを眺めながら取り留めのない思考に入ったナワジに、ナナシは苦笑する。

やはり彼女は、天性の技師のようだった。


「呪い……か。主を死地に向かわせる鎧なんざ、ぞっとしねえな」


しかし、次いでナワジから漏れた呟きと一瞬だけ向けられた視線には、ナナシは気付くことはなかった。

ナワジが感じたもの。それは、ヒナコがツェリスカへと感じさせられたものと全く同じものだった。

忌避感と好奇心とがない交ぜになったような、人として、技師としての感覚である。

ナワジは自分がこんなにもナナシに肩入れする理由を、深く考えた事がない。

ヒナコから、ナナシのおおよその“事情”を聞いてはいた。

そして、かつてジョゼットがヒナコに宛てたツェリスカ作成に関する資料と、ナナシについての考察レポートにも目を通している。

もちろんその事はナナシには伏せてある。ヒナコ曰く、よけいな“しがらみ”を作らせないため、だそうだ。

ナナシに必要なのは、自分を偽り事情を隠しているという後ろめたさを抱えていても、無条件に味方してくれる者がいるという安心であり、決して情を交わせる相手ではないのだ、と。

「今は未だ、そしてこれから先は解らないがね」と笑いながらヒナコは締めくくった。

そこまで思い出し、初めてナワジは考えた。

果たして、自分がナナシに向けるこの感情は、ナナシの特別な事情に依るものなのか、否か。

即ち……この世界で唯一、直接に神の加護を受けてはいないナナシのスタンドアローン性を、神意と誤認しているのかどうか、ということだ。


「……ふん。くっだらねー」


だが、直にその考えを斬って捨てた。

意味のない考えだからだ。

もしナナシがスタンドアローン性を失ったとしたら、この感情は消えるのかもしれない。それは悲しいことかもしれないが、恐らくはそうなるであろう確立の高い、事実だ。

だが、それでナナシに味方することを止めるかという話になると、そんなことはありえない。

ナナシが理想とする冒険者の在り方があるように、技師にだって誇りはあるのだ。一度こうと決めて抱え込んだ依頼人を、裏切ることなどない。


「考えるのは好きだが、考え過ぎるのは趣味じゃねえな」


大事なのはそれだけだ。

同じようにナナシに傾倒する彼女達はどうかは解らないが。最近転職を果たした元兵士は得たいの知れない所があるが、あの犬耳の少女は問うまでもないだろう。

彼女はナナシが初めて探索した迷宮で得た、収得物のようなものだ。その情は、神の意を受け付けぬ男への憧れから来るものではない。

お嬢様の方は正にナナシの特性が成した感情であるが、だがそれが真となるのも時間の問題だろうか。

切欠はくだらないものであるかもしれないが、ああいうお上品なお嬢様は、得てして粗野な男に“ころり”と“いってしまう”ものと、相場が決まっている。

強気で見えて根の弱いお嬢様に、弱気に見えて異様に芯の強い男。お似合いではないか。

始まりがある種の作為的なものであったとしても、それがなくても時を共に過ごしたならば、お互いが離れ難い存在となるのは目に見えている。

面白くはないが。


「お嬢には礼を言っておけよ。ぶっ倒れたお前に回復魔術を使い続けて、輸血までしたんだからな」


「お嬢様が俺に、ですか……? いや、でも、よく型が合ったなあ」 


「人事みてえに言うなよ。純人と竜人の血は濃さが違うが、お前たちは珍しいケースで、血中に含まれる成分だとかが全て許容範囲に収まってるそうだ。型もピッタリ。その気になれば臓器移植も可能らしいぞ? よかったな、相性が良くて」


「いや、よかったなとか言われても」


「お嬢にとって肌に針を刺すこと、自分の身体に傷を付けることがどういうことか、解らねえってことはないだろ? 迷宮に潜る時のように、神様が目を瞑ってくれる訳じゃないんだぜ。医療行為のためだとしても、事前儀式がどれだけ大変で負担を掛けたか」


「それは……はい。解っています」


「じゃあどうしたらいいかも解るな。デートの一つでも誘ってやれよ。喜ぶぜ?」


「いや、それも、はは……困ったな」


「どうしてこいつはこう……ええい、くそっ! 気を遣うオレも馬鹿だな!」


「あだだだだ! ギブギブギブ!」


そうして、しばらくナナシと今後の機関鎧の改良方針について話し込んだ後、ナワジはナナシの帰宅を見送った。

学生寮は工房から二駅離れた場所に建っている。ナナシは節約のために徒歩移動を心がけているらしく、暗くなる前に帰るとのことだった。施設毎がやたらと距離があるのが、都市化した学園の不便な所である。

個人クライエントのための区切られたドックから人気が無くなったのを確認して、ナワジはふうと溜息を吐いた。

彼女らしくない憂鬱な吐息であった。


「武器は効果的に使うべき、ね。そいつが出来れば苦労しないんだけどよ。まあ、こうでもしないと差を埋められないし……な?」


「こんな事をするのは、本当は自分のキャラじゃないんだぞ」とナワジははにかみながら、つなぎのファスナを上げた。

「勘違いするなよ」と言い訳をされたツェリスカは、当然のように物言わぬ鉄として、ドックの一角に吊り下げられていた。



□ ■ □



どこか他人事のような感覚で、迫る刃を見据えていた。

もちろん、脅威を感じてはいる。

しかしそこに恐怖はなかった。何の情動も、浮かんでは来なかったのだ。

代わりに、数秒前のやり取りが思い起こされる。


「失礼ですが、貴方様はナナシ・ナナシノ様……でよろしいでしょうか?」


「ええ、はい。俺のことですが」


「ああよかった。では、早速で申し訳ありませんが、お命頂戴致します」


「――――――えっ?」


最初は、“花売り”の少女だと思っていた。

ここが学園を中枢区に据える学園都市であったとしても、別段治安が良いという訳ではない。

元来荒くれ者ばかりである冒険者や、世俗の欲にまみれた貴族の子弟が集うような都市だ。厳しい規則はあれどもむしろ、治安意識は低い。あんな決闘騒ぎが起きても、無視されるくらいには。

都市住人の全てが学生という訳でもないのだ。

違法行為などは元より、裕福ではない者達はどうやって金を儲けるか、という思考に終始していた。

極端に言ってしまえば、学園の目の届かない場所であれば何をやってもよい、というのが住人達の認識である。

光あれば闇もまた同時に存在するのは当然の事。此処のように、工業区にほど近い薄暗い路地などでは、秩序など有って無いようなものだ。

この、今にも自分の喉元にナイフを突き刺さんとしている少女も、そんな住人の一人だろうとナナシは思っていた。

学生であるということは、それだけで身柄が保障される。鎧も着ずに、こんな場所を一人で出歩けるのは、自身が学生であったため。

危機意識が低かったことは言い訳できないが、それでも裏社会に生きる住人が、学園所属の学生に手を出すなどとは考えられなかったのだ。

それに、常に鎧を着込んでいられる訳もない。鎧がなければ外を出歩けないなどとは、なりたくはなかった。

地を滑るように近付いてきた少女のナイフ。その先端が、喉に触れようとしている。

訓練されねば出来ない芸当だった。恐らくは、その道のプロだろうか。

何故こんな場所に暗殺者が、などとは未だ考えられない。

一瞬の間に浮かんだのは、ああこれは死ぬな、というひどく軽い感想だけ。


「ナナシ様――――――ッ!」


ナイフの切っ先がナナシの喉に喰い込む寸前。

聞き覚えのある声と共に、影が降り、少女の手のナイフを弾き飛ばした。

視界の端で、白と黒の布がふわりと舞った。


「ご無事ですか! ナナシ様!」


「あ、ああ……何とか」


「よかった……駆けつけるのが遅くなり、申し訳ありませんでした」


「お前、アルマ……か?」


「はい。遅れたことのお叱りは後で受けます。今はこの不埒者の排除を!」


言うが早いか、花売りに扮した少女へ飛びかかるアルマ。

恐らくは戦士職以外のジョブに転職をしたというのに、それでも少女を圧倒しているのは、アルマ自身の才だろう。

だが以前の動きとは比べ物にならない程に、その動きは鈍い。

しかし、以前までのアルマにあった翳りは、微塵も無くなっていた。

上手い――――――否、巧いのか。

速力で上回るはずの花売りを、アルマは技術で抑え込んでいく。

ナナシにはアルマが、まるで生まれ変わったかのように見えていた。

そう、その姿は、まるで。


「め、メイド?」


すらりと伸びた背筋に、手足の先まで洗練された挙動。

後ろで一括りにされた髪。鼻の上にちょんと乗った眼鏡は、戦闘行動を取っているというのに、決して落ちることはない。

額に輝く白いヘッドドレスは主張し過ぎることはなく、しかし身に付けた者の魅力を十二分に引き出している。

跳ぶ度に翻るスカートは、半ば辺りに目立たないようにチャックが仕込まれていた。長短、どちらでも対応できる造りになっているようだ。素晴らしいことである。

スカートの裾から除く長い足は、黒いタイツに包まれていた。これも、生足派ならばすぐに脱いでもらえばそれでいい。

いやむしろ、この光景を見ればタイツ派に鞍替えするだろう。ナイフが掠る度に、少しずつタイツが破れ、白い素肌が露出していく。これも、素晴らしいことである。

その白と黒が醸し出すコントラスト。素晴らしいの一言に限る。それ以外にない。

惜しむらくは、この手であの薄地を破けなかったことか。


「いや、そうではなく」


ナナシは目頭を揉み、もう一度アルマの姿を検めた。

アルマの身を包む、黒を基調とした単調な服。

それは典型的な、所謂メイド服と呼ばれる服であった。

何度見直してもそれは変わらない。

アルマはメイドとなっていた。


「あいえぇー……なんでアルマがメイドになってんの、これ?」


唖然としているナナシを余所に、アルマは少女を追い詰めていく。

アルマの両手に握られた短剣と短杖が魔力を帯び、力場を形成、魔力剣と成る。

ナイフと魔力剣がぶつかる度に、火花が散り、辺りを照らした。


「私がいる限り、この方に指一本触れさせはしない」


「――――――チッ!」


「疾く去るがいい! そして貴様の主に伝えろ。この方は貴族共の欲望に塗れさせていい方ではないと!」


アルマが双剣を一振りすると、少女は舌打ちを一つ残し、暗がりへと消えていった。

気配が去ったのを確認したアルマは、剣を収めナナシへと駆け寄る。

戸惑うナナシの側に来るや否や、アルマは額を地面に打ち付けるように跪いた。


「参上するのが遅くなり、申し訳ありませんでした!」


「お、おう。別にいいから、頭上げてくれよ」


「いえ、そんな訳にはいきません。主人を守ると誓っておきながら、この体たらく! 聞けば、愚かな貴族に争い事を持ち掛けられ、重傷を負われたとも……!」


「いや、そんなに大きな傷じゃなかったから。まだひり付くけど大丈夫だよ。うん」


「いいえ、頭を下げようと、許されることではございません。かくなるうえはこの命を持って償いを!」


「せんでいいから! 止めろや馬鹿野郎!」


「しかしッ! 私は貴方を守ると、誓って……!」


「いや、それはもういいから。っていうか、なんでメイド服? なんでメイドさんになってんの?」


「あっ、はい!」


アルマはぱっと顔を上げ嬉しそうに笑うと、その場でくるりと一回転。

スカートの裾をつまみ上げ、深く一礼した。


「この度はようやくレベルが20になり、従者として最低限の基準を満たしましたので、馳せ参じた所存でございます」


「従者て……ん、レベル20!? この前レベル1に戻ってたから、ちょっと早すぎやしないか?」


「はい。あの日からずっと一人で迷宮に籠り、自己鍛錬に努めていました」


「おいおい、無茶するなあ」


「ナナシ様程ではございませんよ?」


「そう言われると返す言葉が……いや、それで従者ってなに? なんなの?」


「ナナシ様は私のご主人様、と言う意味ですが、それが何か?」


「そんなさも当然みたいに言われても。ああ、この前の宣誓か……ちゃんと聞いておくんだった……」


後悔先に立たず。

アルマの説明を聞くと、どうやら先日転職した折りに新たに加護神を得たらしい。


「私が新たに得た加護は、侍従の加護。加護神の名はメイド・オブ・オール・ワーク。高名な神々の身辺を世話する、侍従の神なのです」


「知らんて。聞いてないし」


なるほどそれならば、ナナシが祝福を与えたとしても、加護を得られるだろう。

他の加護神に仕える、という侍従神の特性ならば、通常のように加護神を得てそれを信仰する加護神システムとは異なり、自らが主と定めたものにだけ忠誠を捧げたらよいのだ。

侍従神への信仰のメリットは、加護を得るというよりも、その忠誠心を讃えられるということだ。これは、通常の加護システムの埒外にあった。ここに神意はまったく作用していないのである。

祝福を与える者が何者であったとしても、重視されるのは本人の忠誠心のみだからである。

ナナシが祝福を与えたように見えたが、実際はアルマ自身が侍従神に認められたと、そういうことらしい。

しかし恐るべきは、侍従神という全く戦闘に向かない加護神と従者という職でもって迷宮に挑み、レベルを20まで引き上げたこと。これは尋常なことではなかった。

つまりアルマは、ある意味ナナシと同じように独力でもって迷宮に挑み、短期間でここまで己を鍛え上げたということだ。

元々規格外の能力を誇っていたアルマだったが、やはりと言うべきか、地力も他を隔絶するほどに高かったのである。

“闘うメイド”など、史上初ではないだろうか。

ともあれ、これが鈍色達に知れたらまた厄介事が起きそうだ、とナナシは額を抑えた。

またドラゴンブレスを喰らうことも覚悟しておいたほうが良いかもしれない。


「あー、ていうか、なんでお前スカートなんか履いてるの? 認めたくないけれど、従者だったら、ええと執事服とかじゃない? そんな女性用の服着てると本当に女に間違われるぞ?」


「いえ、私は女なのですが……」


「……えっ?」


「……女、なんです」


「あ、えっ? 本当に? 本当に女だったの? あ、あっれー? いや、そういえば思い当たる節がちらほらと、あったような気も……」


「いいんですいいんです……どうせ洗濯ができるようなアバラ胸ですから、男と思われていても無理はないですよフフフ……」


「それ自爆……あああ、俺が悪かったから! 落ち込むなって!」


見るからに落ち込んで地面に魔法陣を描き始めたアルマを、慌ててナナシは立ち上がらせる。

こんな所で悪霊を簡易召喚されてはたまらなかった。

感情表現が見るからに豊かになったことは、喜ばしいことだが。


「なあ。さっきのあの子、やっぱり暗殺者なのかな?」


「はい。どうやら、貴族派が差し向けた刺客のようで……」


「もう、か。早いな」


「よほど腹に据えかねたのでしょう。元々、睨まれていたようですから」


「覚悟はしていたが、実際されるとキツイな」


「ご安心ください。貴方は私が守ります。この身に代えても、必ず」


「そうかい、そいつは心強い。しかしずっと迷宮にいたってのに、よく調べがついたな」


「いえ、カラスのような声で笑う元同僚から、この侍従服と共に餞別だと知らせられまして。心底気に入らな奴でしたが、あれで中々こちらを気にかけているようで。今度会ったら半殺しで済ませてやります」


「ふうん?」


「そ、それにしても凄いですね! 暗殺者に襲われても落ち着き払っていられるなんて。どんな厳しい場面に出くわしても、常にどこか超然としていられるその御姿。流石です」


「いやあ……それは、違うよ」


「そんなことはありません」とナナシを褒め称えるアルマだったが、もうその半分もナナシの耳には届いてはいなかった。

どうやら、自分が臆病者であると自嘲しているように取られたらしい。

それは間違いだった。

先の決闘騒ぎでもそうだ。

確かに自分は、命の危機を感じても、それにうろたえることはなかった。

それは決して己の胆力が優れているからだとか、精神が強靭であるからだとか、そんな理由ではない。

ナナシは虚ろに目を開きながら、喉元に指を伸ばした。

触れると、滑りと共に、指先に赤い泥のようなものが付着する。ナイフの切っ先が掠っていたのか、少しだけ出血していた。

慌ててアルマがハンカチで傷跡を押さえるが、ナナシには血の赤も、傷の痛みも、どこか別の世界の出来ごとのように思えた。事実、ここは異世界なのだ。

この眼に映る異世界の光景は、それがどれだけ生々しい情動を伴っていたとしても、この場所に自分が“生きている”という実感がまるでない。

確かに自分は、死ぬことを恐れていない。

冒険者には日常生活において、生の実感が無いとはよく言われるものの、事此処に至ってなおこの世界の出来事は夢なのではないか、と思っている自分が居る。

この世界で唯一の偽りがあるとしたら、それは自分自身の存在なのだから。

もしこの世界で死を経験したとしたら、元の世界に戻れるのではないか――――――そう考えずにはいられなかった。

……だが、この生が本物だと確信した時もある。

それは、何時か。

強く感情が揺さぶられ、自身の存在を強く意識した時は、何時か。

自らを含め、この世界を五臓で俯瞰した時は、何時なのか。何時だというのか。


「――――――う、ぐ!」


「ナナシ様? ナナシ様! 大丈夫ですか!?」


「あ、ああ……うん、大丈夫」


「そんな顔を真っ青にされて言われても、信じられません!」


強引に肩を貸されながら、ナナシ達は帰路に着く。

「今後は御側に侍ります」というアルマの宣言も、機能性を追求したはずの衣服から漂う甘い香りも、ナナシを思考から引き戻す事はなかった。

何時か、などと、考えずとも解ることだった。

ただナナシは、それを否定することに全ての時間を費やした。



□ ■ □



「一人にして欲しい」と渋るアルマと入り口で別れた後、ナナシはふら付きながら部屋に転がり込んだ。

蛍光灯が点いていたことにも気付かず、重い足でベッドに向う。

今は何も考えず、眠ってしまいたかった。


「わふ、わんわんっ!」


寝室から駆け寄ってきた鈍色が腰に抱きつくも、何のリアクションを返す事はなく。

そのまま二人して布団の上へと倒れ込んだ。


「……くぅん?」


また勝手に部屋に忍び込んだのか、といつものように叱られる事を予想していた鈍色は、怪訝な声を上げナナシの顔を覗き込んだ。

そして直にナナシの異常に気付く。

まるで生気のない虚ろな顔に、鈍色は慌てた。


「うううーっ!」


こんな時にどうしたらいいか、鈍色は解らなかった。

じわり、と瞳に涙が浮かぶ。

こんなにも弱々しく消耗したナナシを、鈍色は初めてみたのだ。

鈍色に出来たのは、身体が動くままにナナシを抱きしめ、首筋に見られた傷跡に舌を這わせるだけだった。

ナナシの瞼が落ちるのを確認すると、鈍色は器用に尻尾を伸ばし灯りを消した。

そしてナナシが寒くないよう、寂しくないよう、悲しくないように、小さな胸の内に掻き抱く。

手を回し、ナナシの大きくて小さい背を、いつかの自分がされたように心臓の鼓動に合わせポン、ポンと叩く。


大丈夫、大丈夫だよ。私はここにいるよ――――――。


体温と一緒に染みいるように、そう想いを込めて鈍色はナナシを抱き寄せる。

言葉は通じずとも、想いは通じるのだと、そう鈍色は信じていた。


「……に、び……ろ」


「……わん」


鈍色の暖かなぬくもりに守られて、ナナシはまどろみの中、自らの恐ろしい内面と向き合っていた。

自身の生を強く意識した時は、何時か。

それは、ジョゼットが死んだ時。

初めて迷宮に潜った時に、大量の生贄を見た時。

同級生達が、目の前で罠に掛かり、命を落とした時。

キマイラに生徒達が殺され、仲間達が瀕死に追い込まれていた時。


――――――そうだ。他者の死に触れた時だった。


ガチリ、とナナシの歯が鳴る。

ガチガチと奥歯が噛み合い、体が震えた。

誰かが殺される場面を見て、自己確認に耽りアイデンティティーを確かとするなど、許される事ではない。人が死ぬ瞬間こそが、生きていると強く思えるなどと。

元の世界では知る由もなかった己の本性。

その恐ろしさに負けたナナシは、眠りながら涙を流す。

だが、その時、ナナシの脳裏に声が聞こえた。


いるよ。ここにいるよ。私はここにいるよ。ずっと側にいるよ。だから大丈夫。きっと、あなたは大丈夫――――――。


全く覚えのない、初めて聞く少女の声だった。

不思議と少女の声に集中していく内、恐怖が薄れていくのを感じた。

ぎゅう、と身体を抱きしめられる度、震えが収まっていく。

どうして異世界に飛ばされてしまったのか、どれだけ考えても解る筈もなかった。

この世界で自分が何をすべきかも解らない。冒険者にも、ジョゼットの遺言であるというその一心だけで、何か夢を持って目指したという訳でもない。

そもそも、何かの役割など、初めから与えられていないのかもしれない。

だが、何もかもがあやふやで曖昧で、確かなものが血の赤でしかなかったとしても、自分を優しく包んでくれるこのぬくもりを大切にしたいと、ナナシはまどろみの中で思った。



□ ■ □



「おはようございます」


「……んん? んえ?」


「おはようございます、ナナシ様。今日もいい天気ですよ、ほら」


「ん……あ、ああ、おはよう、アルマ。その、なんでここにいるの?」


「朝食の用意が整っておりますよ。さあ鈍色、貴方も早く起きなさい」


「わふ……くあぁ……むにゅ」


「こら鈍色、指を咥えるな。あとアルマ、お前なんで俺の部屋に居るの? 鍵かけてあったよね?」


「おはようからおやすみまで、ご主人様の暮らしを見つめるのがメイドの仕事ですからっ」


「そんな握りこぶし作って言われても。あと俺の部屋の鍵穴が破壊されてるように見えるんだけど……おい、今さりげなく短剣背中に隠したよな?」


「錯覚ですよ?」


「小首を傾げて言うなっつの。メイドポーズか。もういいや、顔洗うからどいてくれ」


「いえ、せっかくですしお手伝いします」


「お前、遠慮なくなってきたな。さっきから覆いかぶさって至近距離で会話してるって状況に眼を瞑ってやってるんだが」


「うう……残念です。申し訳ありません」


「まったく、お前らおとなしくしてろよ。顔洗ってくるから」


「わふ」


「ふふふ、貴方はいいですね鈍色、ナナシ様と同衾出来て。ナナシ様の腕の中は、さぞ心地よかったでしょう。ヴァルハラのように」


「くふふー、わふんっ」


「ううっ、私は部屋に入るタイミングを逃して、独り寂しく廊下で膝を抱えながら眠ったというのに」


「ふっふっふっ……わふわふ」


「今日だって『ご主人様っ、起きてくれないといたずらしちゃうぞっ大作戦!』の決行にも失敗して」


「んわ……っ! わんっ! わんわんっ!」


「はあ、後学の為に作戦の全容を聞きたいと。ええとですね、まずはそっとご主人様の枕元に顔を寄せてですね。

 ご主人様、朝ですよっ――――――ねぇご主人様、早く起きてくれないと私知りませんからねっ――――――もうっ、しょうがないなぁ。これでいい加減起きてくださいよ。目覚めのキ――――――」

  

「うおおーい! なんじゃあこりゃあ! なにこの皿に盛られた物体!? 魔物!?」


「あっ、お気付きになられましたかっ。今日は私が朝食を作ったんですよ。ちゃんと鈍色の分もありますので、ご安心を。ナナシ様のお口にあうかはわかりませんが、自信作です」


「いや、口にあうあわない以前に、これ口に入れられるの? 何の料理?」


「まだ手の込んだ料理は出来ませんので、目玉焼きを。何度も失敗して、これだけは出来るようになった一番の自信作なんですよっ」


「そんな恥ずかしそうにされても。これ目玉焼きだったの? 炭化して原型が……ええー……」


「あ……そ、そうですよね。天魔族なんかが作った料理など、口に入れたらケガレが……」


「こらこらこら! 浮き沈み激しいな! はっちゃけられるようになったのは解るけど、ちょっと情緒不安定になってるぞ。それに、食わないとは言ってないだろ」


「あっ……はい! ありがとうございます!」


「この場合礼を言うのは俺の方だよ。朝飯用意してくれてありがとな。さあ、鈍色」


「くぅん……」


「薬箱から胃薬を取ってきてくれ。もちろん二人分な……そんな顔するな。諦めろ」


「わふん……」


「おはようナナシ。鍵が壊れてたわよ? まったく不用心、ね……」


「お、おはようセリアお嬢さま。その、ね? まずは落ち着いて俺の話を聞いて」


「……ねえ、ナナシ。あなたの側に、メイド服を着た女が侍っているように見えるんだけど、わたくし幻覚を見ているのかしら? あと、犬っころが貴方のベットから出てきたようにも。半裸で」


「幻覚ではありませんよ、貴族のお嬢様。私はナナシ様に全てを捧げた身なれば。即ち、この身はメイドにして既に常在奉仕。身も、心も、全てはナナシ様の所有物なのです」


「……へぇ」


「わふんっ」


「へ、へぇ、『ゆうべはおたのしみでしたね』ですって? へぇ、ふーん……ナナシ! 説明なさい!」


「はいぃ……説明させてくださいぃ……」


朝の一幕である。

こうしていつも通り、慌ただしい一日が始まるのだろう。

ナナシとしては昨夜の自分の痴態を思い出さずに済み、ありがたい気持であった。

少女に抱かれて慰められるとは、恥ずかしいと顔を赤らめそうになるが、幾分か楽になったのも事実である。

現金な奴だと思うが、挫けそうだった心がそれで“もって”しまったのだから仕方がない。

恐ろしい考えは消えることがないが、それでも折れてしまうまでは頑張ろうかと思える程には、この慌ただしいやりとりは価値のある物だった。

何よりも有り難いことはといえば。


「おうじょうせいやーッ! このチャイルドマレスタ――――――ッ!」


「いや、こいつ俺と同年代でお嬢様より年上ああああ――――――!」


お嬢様の怒りのドラゴンブレスで、アルマ曰く自信作の目玉焼きが消し飛んだ事である。

合法ロリっていいよね☆

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