地下11階
ナナシが目覚めた時、最初に視界に写ったのは、染みが滲んだ灰色の天井だった。
見知らぬ場所でもない。
ああ、やっぱりな。
浮上していく意識の中、ナナシはぼんやりとそんなことを思っていた。
鼻腔の奥を緩やかに刺す臭い。瞼を静かに透かす人工の光に、眉間にシワを寄せる。
痛む体をゆっくりと持ち上げれば、扉の開く音が聞こえた。
「うおっ!」
眼がうよりも早く、扉から進入した何者かに、ベッドへと力尽くで倒される。
痛みに目をしばたかせながら、薄らと輝く灰色に、ナナシは口を開いた。
「……よ、おはよう」
「わん」
眼前には、じっと顔を覗きこむ鈍色が。
じいっと覆いかぶさるようにこちらを凝視しているが、全くの無表情なのがナナシの不安を煽った。
いつもはそれこそ子犬のように天真爛漫としている鈍色であるが、なまじ顔の造詣が整っているせいで、無表情となると威圧感を感じてしまう。
暗い銀色の髪に、そこからぴょこんと飛び出した二対の犬耳。否、狼の耳。
長いまつ毛、青い瞳、薄く引き締められた桜色の唇に、尖った顎。
鈍色の顔を見ていると、野性の獣を美しいと思うそれと、同じ感情が湧いてくる。
研ぎ澄まされた刃に、凍えるような美しさを見出すこととも等しいだろう。
鈍色の顔は、刃の先端から垂れる一粒の雫を、そっと乗せた切っ先によく似ていた。
隙を見せれば喉元をかっ切られてしまうかもしれない。ありもしない、そんな畏れを抱かせる程に。
鈍色にその気はないとしても、こうして真っ直ぐに見つめられるだけで背筋が震える。
「俺が目を覚ます前からいたのか?」
「……」
じっとこちらを見る、青い瞳。
目の下には隈が浮いていた。
自分の体が身奇麗でいたのは、彼女が看病をしていたからだろうか。
「悪かったなあ。野郎の寝顔なんか見てても、何も面白くなかったろ?」
「……」
「ここ、何号の病棟かな? なあ、俺が運び込まれてからどれくらい経った? 皆はどうなったんだ?」
目覚めてからすぐさま、此処が何処であるかは把握していた。
漂う消毒液の香りと、正常に保たれた空気。
学園内に設置された、冒険者のための荒事専用の病院だ。
詰めているのは一流の医師と回復術士で、息さえあれば回復させるとさえ言われる彼らの腕前を、ナナシは良く知っていた。
取り乱さず落ち着いていたのは、そのためである。
クリブス達は危険な状態ではあったが、死んではいなかった。
最初に病室に飛び込んで来たのが鈍色であり、こうして自分が目覚めてからもあのお節介な担任の女教師が登場しない事を考えれば、皆無事なのだろうと予想が付く。
心配ではあるが、今は鈍色を落ち着かせてやるのが先か。
「……」
「……そろそろ口利いてもらえるとありがたいんだけど」
間が持たない。
どうしたものか、とナナシが口角を引くつかせていると、鈍色の青い瞳が急にその輪郭を崩した。
「わうぅ……っ」
瞳の輪郭が崩れるなど実際にはありえない。
しかしナナシにはそうとしか見えなかった。張り詰められていた涙腺が、一気に決壊したのだ。
「おいおい、泣くなよ」
ぼたぼたと顔に水滴が落ちる。
ふうふうと噛み締められた唇から、漏れる吐息がかかる。
鈍色は無表情のまま、ナナシの目をじっと見据え、ぼとぼとと涙をこぼし続けていた。
血が通わない顔は、相変わらず怖気が立つほどの色気を感じさせる。
「まいったな」
柔らかく、ナナシは溜息を吐いた。
自分の上から微動だにしない鈍色をどう扱ったらいいものか。
仕方なしにナナシは、強張った関節を無理矢理に動かして腕を上げた。
痛む節々から察するに、眠っていた時間は一日二日程度ではないだろう。指先は自分のものではないように、ぴくりとも動かなかった。
ナナシはぎこちなく右手をあげて、そのまま掌で滑空。
鈍色の頭に着地させた。
「鈍色」
「わふ、ふく……ひう、ひっぐ……」
そのままゆっくりと手を、鈍色の上を向く耳の谷間に行き来させる。
大量に顔面へと降り掛かって来る雫。逆効果だったようだ。
あやすつもりで撫でつけたつもりが、もっと激しく涙を落とされてしまった。
顔がびしょ濡れになっていく。
「鼻水は垂らさないでほしいんだけど」
もう手遅れか、とナナシは諦めた。
顔を拭えたのは、鈍色が首元に顔を埋め、「わんわん」と声を上げて泣き始めた後だった。
□ ■ □
「静かにしたらどうだ。個室じゃないんだぞ」
注意の声に扉へと視線を向ければ、そこには呆れた顔をしたクリブスが立っていた。
「お騒がせしてすみません」と同室に入院していた患者達へと頭を下げつつ、ナナシのベッドへと近付く。
「クリブス。よかった、無事だったか」
「ああ、もう退院した。入院しているのは君が最後だぞ、ナナシ」
「寝付が悪いんだよ、俺。しかし一番重傷っぽかったお前がもう退院したってことは、アルマも無事か」
「鈍色と違って体の完成した生粋の戦士だからな。僕達とは耐久力が違う」
「お前はどうなんだクリブス。腕はどうだ、繋がったか?」
「見ての通り。流石は国家冒険者養成学園に務める回復術士だ。繋ぎ目も解らんよ」
不安と緊張が解けて消えていく。
鈍色を腹にしがみ付かせながら、ナナシはようやく微笑みを浮かべた。
クリブスの節くれ立った手と、その先にある鉤爪がうにうにと動く様を見せ付けられる。
ナナシの腹がぐうと鳴った。
「何かお前の手見てたら、腹が減って来たよ。今度さ、手羽先食べに行こうぜ、手羽先」
「君は一体僕をどんな目で見ているというのか」
「頭の悪い発言はやめろ。馬鹿か君は」「うっせい、馬鹿って言う方が馬鹿なんですー」と適当に相槌を交わしながら、ナナシは気怠い身体をゆっくりと起こす。
泣きつかれたのか眠ってしまった鈍色が、ベッド脇にずり落ちていった。
ようやく身体を伸ばせるな、とナナシはぐいと背伸びする。やはり身体が重かった。
強張った関節を解すように、足首から順にストレッチ。
深く息を吸い、深呼吸。
「げ、ふぉっ! うげっほ! げぼぉっ! ごほふ!」
むせた。
「肋骨が折れていたんだから、無理をするな。もう少し“上手く”やったらどうだ? ご自慢の無名何とかは、呼吸が要なんだろう?」
「無名戦術だよ……ったく。ちぇ、レベル0のポンコツめ。なんでこう弱いのかね」
「……すまなかった。今回は、君に全ての負担を掛けることになった。僕の責任だ」
「気にしなくていいって、リーダー」
「しかし……」
運がよかっただけだ。今回自分達が生き延びたのは。キマイラを打ち倒せたのも。
どうやって危機を切り抜けたのか、記憶にはほとんど無かった。迷宮を単身帰還する道中は、熱に浮かされたように朦朧としていた。
「ツェリスカが、俺に何かした、のか?」
「どうした?」
まともに考えれば、己の身に何をかが起こったのだと考えるべきだが……否、やめておこう。鼻腔の奥をかすかに刺激する、鉄の臭いがした。
だが、このような幸運は二度とはあるまい。
それをクリブスも知っていた。
次もまた、何時か、こんな状況に追い込まれるだろう。その時は、あっけなくやられてお終いだ。
冒険者など、その時までの存在だ。訥々と資源を持ち帰るだけの消耗品だ。
だがクリブスには死ねない理由があった。
そして、生真面目な正確なクリブスは、パーティーリーダーという役割に、背負わなくてもいい責任まで感じている。
ナナシはクリブスのそんな正確を、とても好ましく思っている。
「何でもないよ。じゃあさ、へこむんならさ、俺に存分に感謝してくれ。俺とパーティーを組んでいて、よかったろ?」
「まったく君という奴は……そうだな。ああ、よかったよ」
今度はゆっくりと息を吸い、またゆっくりと吐き出した。
それが深呼吸ではなく安堵の吐息だったことは、クリブスにはお見通しだったようだが、指摘されることはなかった。
見栄を張って何でもない風体を装ったが、ナナシは心底安心していたのだ。
クリブスが纏ういつも通りの落ち着いた空気が、日常に帰ってきたことを実感させられる。
ぐ、と力を込め、今度はフリではない本格的なストレッチを始める。
足首から順番に身体を解していく。足は第二の心臓とも言われる身体部位だ。末端の関節から順にゆっくりと、しだいに大きく動かしていけば、全身に血が巡っていくのを感じた。
順に、腰、背中、肩へと頭部を目指して昇っていくよう、関節の錆を落とす。
鈍色が邪魔だったが、がっちりと腰をホールドされていて動かせなかった。構わずにストレッチする。
手首の筋を伸ばし首をぐるりと回した時に、違和感が。
まるでドロドロに溶けた鉛を流し込まれたかのような、そんな違和感がした。
首が重くて回らない。間接が錆びてしまったかのようだ。
「ああ、くそ。身体が重いや。なあ、俺どんだけ寝てたのよ?」
「五日ほど。医師の話によれば、怪我自体は大したことはないらしいぞ。君は疲労で眠っていただけだ」
「どうりで、すっげー気持ちいいと思った。あーあ、よく寝た」
「何も言わない。言わないからな」
「そいやアルマはどこにいんの?」
「アルマも重傷だったが、一番早く退院したよ。もう全快しているはずだが、姿は見ないな」
「珍しいな……やっぱりあれかな、変身の影響が出たとか」
「長時間変身していたからな。薬が切れたのか……何か、思い詰めたような顔をしていた。後で様子を見に行ってやってくれ」
「了解。それで、お前も本当に大丈夫なのか。その、どこか後遺症が残ったりとかは」
「小心を隠し切れないのが君の欠点だな」
「うるさいよ鳥頭」
「心配性め。千切られた腕はこの通り。見た目はくっついてはいるが、完治した訳じゃないからな。それまでは軽い依頼しか受けられない」
「そっか。依頼受ける時は声かけてくれよ。俺も付き合うから」
「そうしよう。ほら、診察書だ」
と、書類を手渡して来るクリブス。
受け取ってざっと目を通せば、それはナナシの検査結果を記したカルテのようで、細部まで一切の隠蔽なしに記された詳細なものだった。
というのも、“詳細”という詳細が記されたようなものではない。問題なし、と簡潔に判子が押されて、それでお終いのカルテである。
この世界では、人権というものは非常に軽い。
金で売り買い出来る程に。
外部機関へのカルテ移譲に対する規制などなかったし、本人への掲示も料金を支払えばそのまま渡してくれる。
冒険者ともなれば身体が資本なので、自分自身の身体の事を正確に知ることができるのは嬉しい制度だったが、この辺りの文化の違いに面食らう事は多くあった。
カルテを受け取ったナナシは、ぺらぺらとそれを捲った。
「異常に血中の鉄分が多いらしいが、それ以外は目立った所はないそうだ」
「鉄分?」
「常人には考えられないほど、だそうだ。身体に影響も見られなかったから、何らかの加護が働いているのだと判断されたようだが。何か心当たりは?」
「いや、特に何も……」
「迷宮で何か拾い食いでもしたんじゃないのか?」
「するか! ていうか、んな怖い事出来るかっての!」
「冗談さ」
「本気で言ったろ、お前」
「だが迷宮に潜っていたんだから、どんな変化が起きるか解ったものじゃない。『彼女達』の所で再検査を受けておくように」
「はいよ」
生返事を返しながら、ナナシは幾分か柔らかくなった首を鳴らした。
本当に解っているのかとクリブスが訝しんでいたが、特別な事情を持つ自分であるのだから、再検査は必要だろう。もちろん、また医者に相談しに行くつもりなどなかった。
皆と自分の無事は確認出来た。
次は、鎧の様子を見に行きたい。
専属メカニックの元を尋ねよう。何か身に異変が起きた時はすぐに来るように、と何度も言い含められていた事もある。
彼女達は自分の“事情”を把握している数少ない知人で、腕も確かだ。
技術屋ではあるが、彼女達に限っては機械も人体も変わりはない。医者に行くよりもよほど安心できた。
「ところで、あのキマイラを君は単身で倒したらしいな」
「あー……らしい、な」
「どうした、えらく歯切れが悪いが」
「覚えてないんだよ。気付いたら、“ハンバーグのタネ”にしてた。たぶん、火事場の馬鹿力とか、そんなのじゃないかな」
「なるほど、馬鹿の力なわけだな。納得した。もう駄目かとも思ったが、やるじゃないか。見直したぞ」
「お前ほんと、お前……見直したって、今まではどう思ってたのよ?」
「自分の胸に手を当てて聞いてみるがいい」
「うわーい、褒められてるはずなのに全然嬉しくないやー」
これまでの会話の中、謝罪はあれど、ありがとうなどと礼の言葉は無かった。
パーティーは助け合うのが当然であり、そんな当然なことにいちいち礼を返す必要などないのだ。
冒険者達の、パーティーという“特別ではない特別な関係”を、ナナシは心地良いと感じていた。
冒険者という者達は、何という気持ちの良いやつらなのだろう。学園にやってきて初めて多くの冒険者と触れ合ったナナシは、衝撃を受けた。
命を預け合うという間柄は、地球に居た頃には想像こそすれ、実感する場などありもしなかったからだ。だが冒険者にとっては、それこそが日常だった。
ナナシが冒険者となって最初に学んだことは、仲間を信頼するということだった。
「そうそう、目が覚めたら即刻退院するように、とのことだ。婦長に睨まれる前に、早くベッドを空かせたほうがいいぞ」
「うん、そうする」
起き上がり身支度をするナナシに手を振り、クリブスは踵を返す。
「そうだな、リハビリにD級の依頼を受けようと思っているんだが」
「おー、さっそくか。いいね、付き合うよ」
「付き合うのは当然として、だ」
「ん、お、おう」
「費用は君持ちだからな」
「うへぇっ!? ちょっ、ちょっと待ってって! お前、普通割り勘だろうがそういうのは!」
「文句も意見も受け付けないからな。これは決定事項だ。君はこの五日間、僕がどれだけ苦心したか解るまい。ああ、ああ、解るまいさ……っ!」
扉にカギ爪をめり込ませ、俯きながら暗く笑うクリブス。
一応は学園から探究費として費用が出されているのだが、それで満足いく道具が揃えられるかというと、そうではない。
回復薬はもちろん、情報を得るのにだって金は必要だし、武具の整備に至っては物によれば驚く程の費用が掛かる。自分を鍛えるのにだって金は要るのだ。学園から支給された費用だけでは、全ては賄えない。
学生だけでなく、冒険者にとって金策は、もっとも頭を悩ませる問題だった。
金銭面に限っては強力なパトロンがついているナナシだったが、機関鎧の整備と学費以外では頼らないことを決めていた。
依頼はS級から始まりAからDと、難易度順に五段階でランク訳される。D級であれば苦情処理程度の依頼だろうが、それでも一人で費用を負担するとなれば馬鹿にはならない。
D級の依頼は基本的にバイトのようなものだと認識されているため、学園から回復剤等の費用が出ないのだ。
つまり、回復薬は自腹である。
ナナシが参加する以上、自動的に鈍色は付いてくるだろう。となれば、回復薬の費用は、少なくとも三人分は掛かるということだ。
一ヶ月は赤貧生活を送らなければならないことは間違いない。
「な、なんで? 何があったの?」
「君が倒れて、周りが放っておくとでも? 鈍色は君にずっと噛り付いていたし、竜人のお嬢様は講義をサボってまで見舞いに来ていたんだぞ」
「……まさか!?」
「二人が鉢合わせして何が起きるか、想像出来ないとは言わせないぞ。はは、ははははは……竜言語魔法を抑え込み、犬狼族の腕力に耐え、僕の怪我がどれだけ悪化したことか。
何故院内で怪我しなきゃいけないんだと、眠る君の頭を何度殴ってやろうと思った事か……!」
「……次の依頼、俺が全額持つよ」
「ああ、そうしてくれ」
「何かもう、ほんとごめん」
お互い疲れたようにして枯れた笑いを零す。
あの二人がどれだけ恐ろしいか、骨身に染みていた。
迷宮でもあれぐらいの底力を発揮してくれたらいいのに、とは言えないナナシとクリブスだった。
「それじゃあ、これで僕は帰るが、君も本当に早く出たほうがいいぞ」
「ああ、うん。わざわざ来てもらって、悪かったな」
「気にするな。ちょうど彼女の見舞いの時間だったからな。今日も怪獣決戦を傷だらけになって止めるのかと、辟易していたところだ。いやあ、肩の荷が下りた気分だよ」
「……えっ?」
「じゃあ、頑張りたまえよ」
手を振って、今度こそクリブスは退室していった。
残されたナナシはしばらくフリーズすると、慌てて鈍色の身体を揺さぶる。
「お、おい起きろ鈍色! 起きろって!」
「わふぅ……むにゃむにゃ、はぐはぐ」
「こら止めろ、脇腹をはむんじゃない! 早くしないと時間が――――――」
その時、何故かは解らないが、急に部屋の温度が下がったように感じた。
気付けばざわついていた廊下の声が、ピタリと止んでいる。
代わりに、「彼女が来たぞ」という囁き声が、そこら中から聞こえた。
もう、遅かったようだ。
諦観の念で、ナナシは頭上を仰ぎ見た。
見知った天井だった。
彼女達の喧嘩に巻き込まれ、良く担ぎ込まれていたから。病院の天井なんか見慣れても、少しも嬉しくない。
脳内に、日本が生み出した大怪獣のテーマが流れ出す。
アメリカに渡った大怪獣の一匹だけ生き残った子供は、その後すくすくと育っているだろうか。願わくば生き残っていてほしかった。
とりとめのない思考遊びをしても、現実からは逃れられない。
「――――――あら、起きていたのね」
「あひぃえ! お、おお、おおお嬢様!?」
「おはよう、ナナシ。無事で安心したわ」
「お、おはよう、ございマス……」
「あら、久しぶりねそのしゃべり方。何だか懐かしいわ。ウフフ、フフ」
無理矢理に視線をずらせば、豪奢なドレスに身を包んだ少女が、底冷えのする微笑みを投げ掛けていた。
彼女は竜人族の貴族の娘で、ナナシのパトロンとなってくれた人物だ。
ウェーブが掛かった金髪に、強気に釣り上がった目は、彼女の誇り高い気性を良く現わしているようだ。
こちらをじっと見詰める赤い瞳と、艶やかな桜色の唇は、見る者に遍く可憐な印象を抱かせる。
白磁の肌艶は十台の少女にふさわしい肌理細やかさでいて、薄い化粧が上品に彩られていた。
そして、彼女の魅力を存分に引き出す真紅のドレス。その裾から伸びるのは、先に豊かな毛を蓄えた、龍尾。
彼女もまた、鈍色のように、人外の美しさと気高さを持った少女であった。
だが、何故だろう。
そんな美しい彼女に見詰められても、胸が高鳴らないのは。
いや、冷や汗が流れるほどに心臓は早鐘を打ってはいるのだが。
「ねえ、ナナシ。おかしいと思わない?」
「ななななな、何がでしょうカ!?」
「わたくし、傍から見たらどう見えるかしら? もちろん、毎日病室に足を運んでは傷つき倒れた男が目覚めるのを待っていた、健気な女よね? そのはずよね?」
「そそそそそ、そうデスね!」
「それがどうしてかしら? 貴方が目覚めて感動的なシーンのはずなのに、わたくしったら、少しも涙が出てこないの。逆にほら、笑えちゃって。うふふふふ」
「は、ははは、そっちのほうが、いいよ。お嬢様に涙は似合わないよ。その、女の子は笑ってるのが一番可愛いですからして!」
「そう、ありがとう。うふふふふ」
「は、はは、はは……」
「ああ面白い。わたくしったら傍から見たら、毎日足を運んでいた病室で、男を取られたのを目の当たりにしてしまった女みたいね! ああ、面白いですわあ、うふふふふ!」
「……」
「面白いでしょう? 笑いなさいな」
「はいぃ……」
彼女の容姿で、整った顔以上に目を惹くのが、頭部から生える翠色の魔力角。
魔力エネルギーで形成されているその角は、実体ではない。彼女の身体中を巡る膨大な魔力を頭部から噴出させ、形成されていた。
竜人の中でも特に神聖と見なされる、選ばれた者のみが顕現させられる龍神の血を引く証、なのだそうだ。
力の象徴であるその角は、彼女が竜言語魔法を行使する際、決まって顕現させられていた。
その姿のなんと美しいことか。
鈍色が打ち鍛えられた刀剣に例えられる美しさであるならば、彼女は神業を以てして創造された芸術品のような、そんな美しさを感じさせられた。
両者に共通するものは、見る者に与える畏怖だ。背筋が粟立つ程の美しさは、もはや恐怖である。
一しきり笑った後、急に彼女は微笑みを氷のように固めた。
「一度、死んでみるかしら?」
「ひぃ!」
ことり、と首を傾げて問う。
「何か言うことはあるかしら?」
「う……っ、そ、の」
何を言えばいいのか解らぬが、とりあえずは、だ。
「来てくれて、ありがとう」
「……ん」
「嫌なものを一杯見なきゃいけなかったでしょうに」
「別に、なんともないわ、あれくらい」
冒険者御用達の病院へと見舞いに来るものは、そのパーティーのメンバーを除いて、少ない。
理由の一つが、その凄惨さにある。
院内では、廊下を慌しく駆けていく医師と看護師達の足音が絶えることはない。
手足の欠けた患者はまだ良い方だ。
最悪なのが、女性として使われた後の患者達――――――迷宮に潜む魔物に、繁殖用に囚われてしまった女性達だ。
五日も足を運んでいたのだとしたら、たとえ半刻程しか留まらなかったとしても、絶対に目にしているはずである。
ストレッチャーに乗せられて運ばれていく、腹の大きく膨れた女性の姿を。
国家冒険者は、国が資源を求めて冒険者資格を与えた者達である。
迷宮もまた、不用意にその内へと足を踏み入れた者を、材料とするのだ。
餌と獲物の関係だ。そうしてサイクルと循環が形成されているのである。
迷宮もまた生きている、という説が囁かれるのは、そんな理由からだった。
良い餌でなければ見向きもされなくなるし、かといって簡単に持ち帰られてしまっては、と。その辺りの駆け引きと調整の上手さは、悪魔的なものを感じさせる。
迷宮の恐ろしさを肌で感じる場所なのだ。学園の病院という場所は。
錬金科に席を置く貴族の少女には、辛かろう。
「冒険者っていうのは、そういうものなのでしょう? 驚くこともないわ」
何とも無いと言う風にして、彼女はその長い金の髪を払う。
それがあまりにも堂々としていて、ナナシは言葉を失った。
「だから言ったのよ。冒険者なんて、あなたには似合わないわ」
「……うん。ごめん」
「意味の無い謝罪は欲しくないわ」
「ごめん……」
「馬鹿な人ね」
それでお終いである。
彼女はナナシが何と言われようが、冒険者を目指す道を諦めないことを理解していた。
頭を下げるしかなかった。
「ところで」
と、彼女は眉間に皺を寄せつつ言って。
「嫌なものなら、たった今、見てるんだけれど。そろそろこの状況を説明してくれないかしら?」
彼女の視線は、ナナシの腰回りに顔を埋めてがっつりと抱きついている鈍色に固定されていた。
「ふふん」
と、鼻で笑う音が腰辺りから聞こえる。
「お前起きてやがったのか」と聞くよりも早くに彼女が反応した。
「なあ!? 『傍から見れば男に愛想尽かれた哀れな女』ですってえ!? こ、この、言わせておけばっ!」
「わんわん! わわわん!」
「気が付いたらこの一室から人が消えてるとか。対応が慣れちゃうくらいに日常のワンシーンになってるんですね、解ります……」
ぎゅいんぎゅいんと集まっていく魔力。
高まる二人のボルテージの前に、ナナシは逃げることも出来なかった。
果たして彼は、知っているのだろうか。
お嬢様からは、逃げられないということを。
患者達は皆退避していて、廊下の向こうから時折こちらを見ている。彼らにしてみれば、この二人の対決は茶飯事のようだった。
注意して見ると、この部屋。何度も改修した跡がある。それだけ短期間に何度も壊され、修復されてきたということか。
身動き取れない自分の側で、これだけの破壊活動が行われていたという事実に、ナナシはちょっとだけ泣きそうになった。
「ふ、ふふふ。この『セリアージュ・G・メディシス』を侮辱するなんて、覚悟は出来ているのかしら?」
「わふんっ! ぐるるぅ」
「いい、度胸ね!」
「あの、お嬢様? 一応、ここは病院なんですけど」
「あなたは黙ってなさい!」
「がう!」
「……いえ、何でもありませんです、はい」
もしかしたら自分は未だ昏睡状態にあって、これは夢なのかもしれない。
頬を抓ってみるも、痛いだけ。
痛いのだから、涙が出たっておかしくはないと、目から溢れる水分について自己弁護しておいた。
「この、泥棒犬――――――っ!」
「がるるるる――――――っ!」
閃光に包まれる視界。
「爆発オチはやめてお願い力技で終わらせるのはよくなぁぁあああ――――――!」
その日、怒れる龍の息吹に学園専属病院の一室が吹き飛ばされたと、患者達は口を揃えて語った。
身を挺して被害が広がるのを庇った男を褒め称え、また羨ましい奴だと呪ったという。
彼の立場と替わりたいと言うものは、一人もいはしなかったが。
「やっぱり……あいつは馬鹿だな」
病院からの帰り際、背後で光の柱が立ち昇ったのを、クリブスは呆れたようにして眺めた。
後日、報告を聞いて頭を抱えることになる。ナナシは退院するのが三日先延ばしになっていた。
またあの二人の仲介をしなくてはならないのかと思うと、本気でパーティー解消を考えてしまうクリブスであった。
ご感想いただけたら嬉しいです。
かっ勘違いしないでよねっ! 次話を投稿する元気が欲しいだけなんだからっ!
ごめんなさい。