地下9階 プロローグ3:回想―ナナシ―「了」
息を切らせながら、ナナシは廃墟の街を全力で駆けていく。
無理やり飲み込んだ唾液は、乾いた喉を痛いほどに張り付かせた。
涎を撒き散らしてむせ返りながらも、ナナシはそれでも足を止めることはない。
「なんで……」
顎下を伝う体液は、汗か、涙か、鼻水か。
おおよそ血液以外の顔面から出る体液全てを垂れ流しながら、ナナシは走り続けた。
止まることはできない。止まってはならない。
「なんで、こんなことに――――――!」
そこかしこから這い上がる、魔物達の呻き声が聞こえる。
今も走るナナシの足首を掴もうと、地面から鱗に包まれた手が次々と“生えてくる”。
足を止めれば、そのまま喰われてしまうだろうか。
どちらにしろ、この街にいる人間に未来はない。
であるならば。
「ジョゼットさん……ッ!」
自らの命の心配を、この時のナナシはまったくしてはいなかった。焦りが心を塗りつぶしていた。頭の中はぐちゃぐちゃだった。
なぜ、なぜこんなことになったのか――――――。
繰り返し自問するも、さっぱり解らない。
簡単な仕事だと聞いていた。
ナナシ自身も、そうだとばかりに思っていた。
ジョゼットからは近寄るなと言われていたものの、「足を踏み入れるな」とは言われていなかったのだ。
だから、“こんなこと”になるなんて、思ってもみなかった。
今、目の前では無数の魔物達が、蘇った亡者のように地面から這い出しつつある。
まるで、噂に囁かれる十六年前の、地下街出現の日の焼き増しだった。
「俺のせいなのか! 俺の、俺が悪いのか!」
吐き捨て、駆ける。
叫び声に周囲の魔物達が一斉にこちらに眼を向けるが、ここまで数が多くなれば、もはや隠行は無意味だ。構わずに足を動かし続けた。
爪が振るわれる、牙が向けられる。
背中が裂かれ、足に穴が開く。
それでもナナシはただ早く、ジョゼットの元に駆け着けなければならなかった。
ジョゼットはほとんど寝たきりの状態だったのだ。
これだけの魔物が湧いている今、その無事は保障出来ない。
ナナシの脳裏に、絶望的な光景が浮かぶ。
途端、感じる浮遊感。
考え事をしていたせいか、何かに躓き、ナナシは横転した。
魔物に足を掴まれたか、と思い急ぎ確認すると、そこには寸断された魔物の死骸が転がっていた。
どうやらこれに躓いたようだ。
その死骸を見改めると、死因はどうやら、大型の機械工作具で身体を捻り切られたように見えた。
これとは別の一体は、纏っていた簡素な防具の一部が、ドロドロに溶かされ凝固していた。ドリルで抉られたような痕や、ドライバーを直接眼窩から生やした死骸まである。
向っていた先。そこを囲むように、点々と工具にて止めを刺された魔物の死骸が続いている。
もしや。ナナシは死骸の後を辿っていった。向う先はジョゼットの家。その工房だ。
工房に近づくにつれ、転がる死骸はおびただしいまでの数になっていく。
程なくして、直にナナシは目当ての人物を見つけることが出来た。
「ジョゼットさん!」
「……よお、お前かナナシ。随分とまあ煩かったもんだから、目が覚めちまったぜ」
そこにはジョゼットが、崩れた瓦礫を背に、もたれかかるように腰かけていた。
何ともないとでも言いた気な、いつも通り好々爺な風体で、片手を上げて振っている。
もう一方の手には、未だ血の滴る先の尖ったバールが握られていることからも、ジョゼットが魔物の死山血河を築いたことは明白だ。
弱っていてもなお、ジョゼットの強さは健在であった。
ナナシは転がるようにして、ジョゼットの元へと辿り着いた。
「よかった……よかった! ジョゼットさんが無事で、俺……!」
「は、よせよ。俺がこんな雑魚共に負ける筈がねえだろうが。だがまあ、よく来たな。あんがとよ」
そう言って、ジョゼットは穏やかに笑った。
これまでにナナシが見たこともなかった、穏やかな顔だった。
その顔を、何と言い表したらいいものか。
背負っていた何もかもから解放された、まるで透明な笑みだった。
ナナシは何故か、背筋が凍えるような錯覚を感じた。
「ジョゼットさ――――――」
「どうやら封印が解けたみてえだな。お前、心当たりがあるか?」
「……ッ、はい」
「そうか。じゃあ、話せ」
ナナシは語る。
カメラを手に、封印の間へと足を踏み入れた瞬間に、魔物達が地面から這い上がって来たのだと。
あまりにも簡単な説明に、しかしジョゼットの片眉が上がる。
「……なるほどな」
「何かが起きたような、そんな気配はありませんでした。でも、きっと俺のせいです」
「気にすんな。封印が解けるなんてな国の怠慢であって、お前のせいじゃない。あんな適当な封印、どうせ何時かは破れたさ。そいつが少し早くなっただけだ」
「でも! 俺が! 俺のせいで……!」
「うるせえな。俺が違うっつってんだから、違うんだよ」
ぐ、と黙りこむナナシを見てジョゼットは思考する。
ナナシは何をかが起きたような気配はなかったと言っていた。恐らくそれは事実だろう。
そして、“それこそ”が答えでもあるだろうと、ジョゼットは当たりをつけた。ナナシが“感じ取れなかった”だけなのだろうと。
封印とは、言ってしまえば神との『やくそく』だ。
一般に言われる誓約等を思い浮かべてはいけない。神意が含まれる『やくそく』は、強い強制力を持つのだ。
封印結界に刻まれた『やくそく』は、あらゆる生物にその『やくそく』を強制順守させる力があった。大雑把に言うなれば、これが結界の仕組みである。
それを破壊するには、結界に込められたやくそく、神の意図や性質――――――神意と同等以上の加護をぶつけるか、神威――――――魔術を持って、結界自体を破壊ないしは解除しなくてはならないのだ。
その際に溢れた魔力は、爆発や轟音といった物理現象へと還元されることになる。無音でそれを行うのは、よほどの技量の術者にしか不可能であるだろう。そのはずだ。
だが、どこにでも例外は居るものだ。
言うまでもなく、この世界は神によって支えられている。
そしてナナシの身には、神の加護が全くと言っていいほど宿ってはいなかった。
ナナシは物理現象として顕現した神威、つまりは魔術といった外部要因からは、加護が存在しない分むしろ大きな影響を受けるだろう。
だが、結界といった概念そのもの、神意そのものに作用する魔術ならば……。
ジョゼットが名を授けたと言っても、それは“ジョゼットを通した”間接的なものでしかない。加護はジョゼットに与えられたものであり、ナナシ自身に得られたものではないのだ。本質的にナナシは、神意の虚無状態を保っている。
神意が身に存在しないナナシには、神との『やくそく』など、“守らなくてはならない”義理などあるはずもないのだ。
当然、結界などが通用するはずもない。
つまりはこういうことだ。
『地下街』封印の間を中心に街全体に張られた結界は、不踏の封印結界であった。
魔物を、中心部に限っては人間をも拒絶する封印は、しかしナナシには全く効果がなかった。
何の障害にもならず、ナナシは封印の間へと足を踏み入れた。
その瞬間に、封印は誤作動を起こすことになる。
何者をも寄せ付けぬ封印であるはずが、しかし内側に何者をかを招き入れている、という矛盾を孕むことになったのだ。
『やくそく』などと言ったが、その実は緻密な術式によって構成されている封印結界は、しかしナナシが触れた瞬間に、たったそれだけで消滅した。
破壊でも解除でもない。エラーを起こして自己崩壊、消滅したのである。
結界ソースコードの自己崩壊による瓦解とあっては、これがどれだけの異常であるか、元神職に就いていたジョゼットには良く理解出来た。
地下街が長い休眠状態を破り、活性化を始めた原因は、ナナシに言い置いていたジョゼットの認識の間違いにもあっただろう。
本来は足を踏み入れることが出来る筈もない場所だったのだ。
近付くなと言い含めるだけで、それで充分だと思ってしまっていた。
責を問うのなら、自分にこそ問われるべきではないか。ジョゼットはナナシを責めるつもりはまったくなかった。
「なんだ……? シケた面すんじゃねえよ、色男が台無しだぜ。ま、俺にゃ敵わんがな」
「ジョゼットさん、またそんな……」
だが、『地下街』の封は解けてしまった。ナナシが解いてしまったのだ。
封印の仕組みなど、少し調べれば解るようなものだというのに。中心部の結界内には立ち入れぬということは、冒険者に少しでも理解のある者ならば、もはや常識だ。
今回の一件には、何者かの誘導の意図を感じられる。
そもそも封印があることを知っていたはずなのに、普通ならば封印の間には立ち入ることが出来ず無意味であると知っていたはずなのに、ナナシに依頼をしたジョンという男の存在が訝しい。
ナナシ自身は自責の念でそこまで考えが回ってはいないようだが、疑うには十分だ。
何をかの意図を持ってナナシに近づいたのだろうか。
それは解らない。
だがしかし、一つだけ確かなことは。
「――――――こりゃあ、冒険者にはおあつらえ向きの特技だな」
ナナシが行った結界崩しを、ほぼ正確に推察したジョゼットは、ニヤリと口端を持ち上げた。
「さて。流石に疲れた。手を貸してくれ」
「はい、もちろん。直にここから逃げましょう」
ナナシはジョゼットに肩を貸すよう、背中に手をまわし身体を担ぎ上げ。
「――――――え?」
不意に。
指先がぬるりと滑った。
一体、これは何なのか――――――。
見れば、ジョゼットの背中から、座り込んでいた場所までを濡らす多量の液体が。赤い。赤黒い。大量の液体が。
視線を落とすも、この液体が何なのか、理解出来ない。
酸素が回らない脳は、思考することを拒否していた。
「ジョゼット、さ……こ、れ……」
「悪いがな、もう怒鳴るだけの体力も惜しい。このまま工房に連れて行ってくれ」
「で、でも!」
「言う通りにしろよ。お前に何が出来る? 魔法も使えないお前に傷が癒せるとでも? 聞き分けのない事を言わずに、ほら、さっさと行こうぜ。もう少しで完成するんだ。もう少しで、な」
考えるまでもない。
ジョゼットの背を濡らしていたのは、大量の血液。
抉り取られた背から今も流れる血液は、とうに致死量を越えていることを一目で理解させられる。
もはや手遅れだった。
だが、そんなことはどうでもいいことだとジョゼットは笑う。
その笑みは、先と同じ、無色透明。
……自分の最後を悟った者の顔だった。
「……はい」
今度こそナナシは何も言えなかった。
ジョゼットはこれから、“仕事納め”に行くのだ。
それを邪魔することは出来なかった。
ナナシは唇を噛みしめ、ジョゼットの身体を支えた。
一歩踏み出すごとに、ぽつぽつと音を立てて、血液が地面に染みを作っていく。その音を耳に入れないように務めて歩いた。命が零れる音だった。
ナナシは己に課された責任を理解していた。
それは、見届けることだ。
職人の仕事が完遂される、最後のその一瞬まで――――――。
血みどろになった二人の後姿が、工房の扉の向こうへと消えていく。
ナナシが内側から魔物の進入妨害のためのバリケードを築く最中、俄に、工房から甲高い澄んだ音が廃虚の街へと響いた。
音に導かれた魔物達が、誘蛾灯に群がる羽虫のように、わらわらと工房を目指して来るのが扉の裂け目から見えた。
ついには空腹に我慢が効かなくなった数体の魔物が、塗装が剥がれた扉へと鋭い爪を突き立てる。
だがそんなことはお構いなしに、より高く、遠くへと音は響き渡る。
かぁん、かぁん――――――と、鉄を打つ音。
熱気が籠る工房の片隅で、膝を抱えて座る青年が、一心不乱に鉄を打つ老人の背を静かに見詰めていた。
□ ■ □
一体どれほどの時が経ったのだろうか。
数十分だろうか。それとも数刻だろうか。
時間にしてみればそれほど長くはなかっただろう。
何時しか鉄を打つ音は止み、辺りには魔物の叫びと、バリケードを壊す音だけが聞こえていた。
迷宮のただ中に建つジョゼットの住居は、封印の綻びから抜け出した魔物達の襲撃を想定して建築されている。
ボタンひとつで外壁の周囲に鉄板を降ろし、即席のバリケードとするといった仕掛けはもちろん、トラップや防衛機構も山ほど備え付けられ、その規模はもはや小型の要塞と言える程だ。
だが襲撃を想定してあると言っても、あくまでそれは封印の網目を抜け出した程度の魔物への備えであり、これだけの数を相手取ることは出来る訳もない。
ついに一体の魔物の爪がバリケードを破り、脆い扉へと突き刺さった。
かぎ爪を引っ掛けるようにして、内側から扉が引き裂さかれていく。
大きく空いた穴から工房の中へと、ぬうっと魔物の頭が現れた。
大型の昆虫と動物を無理やりに足したような顔。その顔に在り得ぬ表情が浮かんだ浮かんだのは、哀れな餌を見つけたからか。飢えと、食欲を満たす喜びの顔であった。
半獣半虫の魔物は涎を垂れながら舌なめずりをして、大きくその顎を開いた。
その時だった。
「グ――――――ブ、ギャァアアアアッッ!?」
扉に突っ込まれていた魔物の頭が、爆ぜるように吹き飛んだのは。
あまりもの衝撃に、頭部だけが爆ぜたのだろう。扉に寄り掛かるようにしていた魔物の身体は、糸を切った人形のように縦に崩れ落ちた。
魔物の頭の代わりには、“鉄拳”が添えられている。
無作法な客人を出迎えたのは、この鋼に包まれた拳であった。
「そうだ、それでいい。戦えないなんて泣き言を言ってた割には、やるじゃないか」
薄暗い工房の中で、ジョゼットは目をぎらつかせながら、その鉄塊へと向き合っていた。
血の抜け切った顔は蒼く、今にも倒れそうな有様だ。しかしその双眸だけは抜き身の刃の如く光を放っている。まるでこの一瞬を見やるためだけに、人生の全てを捧げて来たかのような、そんな輝きだった。
ジョゼットは言う。
「俺がお前に叩き込んでやったのはな、名のある流派でもなけりゃ、系統立てられた体術でもない。
魔術を除いて、俺が培ってきたあらゆる技術……剣術体術火器術を織り交ぜた、護身術なんてのもおこがましい、ごった煮さ。だが、世界でお前しか使う者のいない、一人切りの流派……『機関鎧』を纏うことが前提の、戦闘術だ」
そうだ。ジョゼットは続ける。
「名無しの戦闘術――――――『無名戦術』だ」
彼らしい、獰猛な笑みと共に。
「無名……戦術……」
「そうだ。お前はどう思ってるかは知らねえが、お前には才能がある。少しずつだが、しかし確実にあらゆる知識や技能を会得していく才能……冒険者の才能だ」
「俺に、冒険者の才能なんてないですよ……そんなもの、ある訳がない」
「どうしてそう思う」
「だって……俺は何にも解っちゃいない! 何でここにやって来たのか、俺がここに居る意味も、何も解らない。どうしてこんなことになったのかも……!」
「自分には何も無いと、そう思っているのか」
「冒険者のような信念も、覚悟も、俺は持てません! 今だってここから逃げ出したいくらいだ! 戦うのが怖い! なんで、そんな、なんでですか、なんでそんな事、ジョゼットさん……!」
ナナシはしゃくりあげたように、喉を鳴らしていた。
「泣くなよ、まったく、最後までお前は……」
「やめてください! どうしてこれが最後みたいなことを言うんですか!」
ジョゼットは薄らと笑うのみで、答えない。
「信念、覚悟……か。大いにくだらん。そんなものを持つ必要はない!」
覇気と共に放たれる言葉が、ナナシの腹の底を打つ。
「俺を見ろ、ナナシ。俺を見るんだ! 信念がなんだ、覚悟がなんだというんだ! そんなものを持って、持ち続けて何になる!
変わらぬ信念はいつしか執念となるだろう! 曲がらぬ覚悟は頑なさへと変わっていく!
捨ててしまえ、そんなもの! 腐って腐臭を放つ前に、捨ててしまえ! 俺のような男になる前に――――――!」
ナナシへと縋り付くようにして、ジョゼットは言う。言ったのである。
咳き込むジョゼット。
落ちていく、赤。命。
「いいんだよ。鉄はな、真ん中が柔らかいほうが、強いんだぜ」
「真ん中を、柔らかく……」
「そこに意思がまっすぐ通っていれば、あとは全部余計なものだ。そうだろう?」
ナナシは顎を上げた。
満足気な顔をしたジョゼットが居た。
もはや死に体のジョゼットを見ても、ナナシは取り乱すことはなかった。
「そうだ、それでいいんだ。なあに、こんな事はよくある事だ。大した事じゃねえ。お前はこれくらい、笑い飛ばせるぐらいにならなきゃいかん」
「……はい」
「さて、まだ時間はありそうだ。少しジジイの昔話に付き合ってくれ」
ジョゼットは、工房の隅に腰を降ろし、語り始めた。
それは彼の半生。後悔に彩られた歴史であった。
「ああ……冒険者を引退して、この街であいつと一緒になって、そして息子が産まれて、孫が産まれて……思い返せば色々あったもんだ。
お前ももう、知っているだろう。十六年ほど前の話だ。あの日のな。
あの時の俺は、息子夫婦と孫娘と一緒に暮らしていた。それはそれは可愛らしい娘でな、自慢の孫娘だった。
おじいちゃんおじいちゃんって、俺の後ろを追いかけてきてなあ。息子にかまってやれなかった分、この娘には良くしてやろうと思ったよ。
ご機嫌取りに昔話を……俺の、冒険者時代の話しばかりしていたら、そしたら俺に懐いちまってなあ。両親はいい顔をしなかったが、自分も冒険者になるって聞かなくなっちまった。
夜には毎日、俺の冒険譚をせがんでな……寝言を言って、手足ばたつかせて寝るんだよ。えらい可愛くてなあ。きっと、夢を見ていたんだろうなあ。冒険者になった夢をよ……」
どこか遠い、記憶の彼方を見る瞳。
ナナシは悟った。
ジョゼットがあの瞳で彼方を見る時、そこには彼の孫娘が居たことを。
「俺も俺で、柄にもなく顔だらけさせてな。いっつも笑ってた。笑っていられた。こう見えて、昔の俺は熱心な神教徒でな。冒険者となったのも、神への供徳を積むためだった」
神様たちは具体的な形で御利益をくれるからな、とジョゼットは力なく笑った。
与えられる利益は、レベルであるか。
「だがな、あの日、気付いちまったのさ。神様は確かに力を与えてくれるだろうよ。でもなあ、助けてはくれないのさ。否、助けてはくれるんだ。でもそれは、酷く自動的なものだったんだ。
そこにありがたみや、何かを思うことが間違いだったと気付いたんだ……そう、忘れもしない、あの日にだ。
今日みたいに、地面から無数の魔物が生えてきた日、地下街が出現した日だ」
ジョゼットの手に、なけなしの力が籠もる。
だがその手は拳を形にすることはなかった。
「あの日、俺はいつも通りに家に帰って来た。それでいつも通りにただいまと言って、いつも通りに孫娘を腕に抱いて、いつも通りに一日を終える……そのはずだった。
家に帰った俺を出迎えたのは、喰い散らかされた息子夫婦のはらわたと、何かを叫ぶように口を開いた孫娘の、半分だけの顔。
そして、牙を赤く染めた魔物だった。
そこから先はあっと言う間さ。おぼろ気にしか覚えちゃいねえ。ただ、地獄だったよ。瞬く間に街は餌場になって、そして元冒険者だった俺だけが生き残った」
目を覆うようにして語るのは、過去を思い出したくがないためか。
それとも……涙を隠すためか。
「俺は神に尽くしてきたはずだった。息子がガキだったころも、世話を放り出してまで日々の祈りは欠かさなかったし、あの日だって教会で祈りを捧げて来た帰りだったんだ。
だが、その神が俺に何をしてくれた? 力を与えてくれた? 馬鹿な。そんなもの何の助けになるという。所詮与えられた力じゃないか。神様の気まぐれで、いつか取り上げられるかもしれない。
俺が欲しかったのは力なんかじゃなかった。神は救いを与えてはくれない。祈りを求めながら神は、俺の助けを叫ぶ声を無視したんだ……。
救いなんて期待するほうが間違っているのにな。ただ、あの時の俺はそう考えていた。あれだけ神に尽くしてきたというのに、この仕打ちはなんだ……とな」
それは、巌のように頑強であった老人の、感情の吐露だった。過去への贖罪であった。
ただただナナシは、静かにジョゼットの言葉へと耳を傾けていた。
魔物達のざわめきなど、少しも気にはならなかった。
「そして俺は神を憎み、放神を行い……後はお前の知っての通りさ。十年以上、コイツを打ってた」
軽く握った拳で、コンと手に持った鉄塊を叩く。
それは、ただの鉄塊ではなかった。
人間の頭部程の大きさで、中空の造り。頭に被ったならば、薄緑色のレンズ部分が丁度目の位置に当たるだろう。
それは鉄塊ではない。それは鉄兜だった。
「……ジョゼットさんには、答えが出ていたんですね」
「ああ。俺たち人間は神に依存し過ぎている。この世界も然りだ。人は、世界はもう少しだけでいい。自分の足で立って、考えるべきだ」
ジョゼットが鉄兜のコメカミにあたる部分を弄ると、鉄兜は割けるように大きく展開。その内側を晒し出す。
外見に比べ、機械的な印象の内部構造が覗く。この兜が、ただ単に鉄を打っただけのものではないことが察せられる。
これはその外観とは裏腹に、実際には“この世界の科学技術”の粋を集めた技術によって基盤から構築された機器なのだ。
『機関鎧』という――――――弱き人のための道具である。
「だがまあ、お前には関係のない話だな」
「それは」
「お前さんがうらやましいよ、ナナシ」
ジョゼットは兜の内部、その一部を愛おしそうに指先で撫でた。
兜の内部、装甲板の隙間に隠されるように彫金がなされた一ヶ所。
そこには、何かの文字――――――人名が、掘られているようだった。
「神の力に頼らない武器を作ろうと思っていたんだが、土台それは無理な話だった。物質の構成にまで神の影響があるってんじゃあ、お手上げだ。
この鉄から神様を追い出す事は出来なかったのさ。だが加護同士をぶつけて中和させて作る、無色の魔力から製法のヒントは得ていた。俺は、これに別のものを込めることで、神意的にニュートラルな物質へとしたのさ」
「別のもの?」
「呪いだ。神々へのな。放神を行った俺にはうってつけだろう。元々聖職者だったこともあって、やり方とその効能は骨身に染みてる。対象はもちろん、神様達よ。呪いってのは対象がいなけりゃ成り立たんだろう?
つまりは、だ。神を拒絶するのではなく、否定したんだ。神様を追い出そうとするんじゃなくて、飲み込んで犯してやったのさ。逆説的に神の存在を容認することによって、やつらの横っ面を引っ叩いてやったわけだ」
「神の“存在”を拒絶するのではなく、その“影響”を否定した……」
神などいない、とその存在を拒絶するのではない。
ジョゼットは、神など“いらない”、と真っ向から挑んだのだ。
それは間違いなく呪いだろう。
その言葉が正しいならば、ジョゼットによって打たれた鉄は神の認知下にありつつも、その影響をほとんど受けることがないということだ。
つまり、神が定めた『信仰』によって、行動や能力が左右されることがないわけだ。
ジョゼットが本来していた想定からは外れることになるだろうが、ある意味では神意を受け入れているということは、条件さえ合致すればその恩恵を受け取ることが出来る可能性も残されているはずだ。
ここまで来たらいいこと尽くしのように聞こえるだろう。
だが、所詮は呪い。邪法である。
対象が神々であり、具体的な効果が定められてはいないとはいえ、呪いがもたらすリスクやマイナス効果は計り知れない。
ナナシのように神意の認知外でこそないものの、神への呪いが込められた武具など、この世界にあってはイレギュラーでしかないのだから。
「どこまでいっても所詮は呪いだからな。人体に悪影響を及ぼすのは間違いがなかった。呪いが外に漏れ出ることがないような造りにしたが、その分装着者に全部跳ね返るようになっちまった。
神様達への呪いが跳ね返って、強烈にな。神意を締め出したはいいものの、今度は逆に、その呪いを克服できるだけの奴を探さなきゃならんくなったのさ。本末転倒とはこのことだ。いないんだよ、そんな奴はな。
そうしてどうしたもんかと煮詰まっていたある日、お前が現れた」
「呪いが神意の逆流現象……なら、俺には効果がない……?」
「その通りだ。一目でお前は“違う”と解ったさ。こいつを着るのは、お前しかいないと思った。皮肉だが、運命を感じちまったんだ」
鎧を着た奴は、神様を呪ったために天罰が下るのさ、とジョゼットは言う。
なるほど、ならばこの鎧を纏える者はいないだろう。
あらゆる神意の影響を受けつけぬ、ナナシ以外には。
「俺がこいつを造ろうと決めたのはな、神に頼らずとも人は生きていけるってえ証明のためだ。出来れば、ぶん殴ってやりたかったがな」
そこまでは望まんよ、とジョゼットは笑いを落とす。
ナナシの手の骨が、ミシリとして鳴った。
「機関鎧ってのは冒険者用の武装じゃあない。こいつは本来、レベル上げの出来ない街の自警団の連中やら、身体の衰えた者のリハビリや、手足を失った冒険者のために造られたもんだ。
こいつも同じさ。こいつは、弱き者のためにあるんだ。弱き者が理不尽に嘆くことのないように、理不尽に立ち向かって行けるように。そのために在るはずなんだ。
今でも思うよ。あの時、機関鎧がたった五機でいい、街に配備されていたらってな」
「ジョゼットさん……」
「今となってはもう遅いがな……ぐ、ごほっ、ごぼッ……!」
身体をふらつかせたジョゼットに慌ててナナシが駆け付けようとするが、ジョゼットはそれを手で制する。
向けられた掌には、血がべっとりと付着している。喀血の跡だった。
以前ジョゼットが倒れたよりも少量の喀血は、もはや吐く程の血も残っていないからなのか。
「ふん、人を呪わば穴なんとかだ。この病は呪いが原因で患ったものなのさ。しかも呪ったのは神様よ。治療なんて出来る訳がない。
何故こんなことをした、とは言ってくれるなよ? こればっかりは当人にしか解らんさ。復讐者の気持ちなんざな……」
何かを言わねば。ナナシの喉元まで、熱い塊がせり上がった。
しかし、ナナシはそれでも何も言うことはできなかった。
ジョゼットの目がとうに曇り、呼吸が段々と浅く、早くなっているからではない。
重い荷物をやっと降ろせたかのような、そんな穏やかなジョゼットに、情けない姿を見せてはいけないと。
何故かは解らないが、ナナシはそう思ったからだ。
「さあ、話はお終いだ。お客さん達がシビレを切らしてらっしゃるぞ? 腹が空いてたまらんとさ。鉄の拳骨を腹いっぱい喰らわせて差し上げろ」
「……はい」
「段どりは解ってるな? 予備バッテリしか積んでないからな。工房の周りに群がっている有象無象どもを蹴散らした後、一度補給に戻って来い。
その後は、脇目も振らず一目散に逃げるんだ……そんな顔をするな。言ったろう、お前には才能があるとよ。自信を持て。お前は俺の、たった一人の弟子なんだからな」
「……ッ!」
「返事はどうした」
「はい、ジョゼットさん……はいッ!」
「それでいい。ああ、忘れる所だった。なあ、ナナシよ。こっちに来い」
ジョゼットは、近付いたナナシの頭に兜を被せながら、静かに言った。
「孫娘を――――――『ツェリスカ』をよろしく頼む」
「はいッッ!!」
「ようし、いい返事だ! 行け! 全身に機関鎧を装備した若き『完全装鋼士』よ! 礼儀知らずの馬鹿どもを、蹴散らしてこいッ!」
もはや言葉はいらない。ナナシは力強く頷いた。扉を蹴破り、工房の外へと飛び出す。
待ち受ける魔物達の群れ。その中心へと、ナナシは踊り出た。
処刑場へ自ら足を運んだ愚か者の姿を見下ろす魔物達。
雲の隙間から指す一条の陽光を受け、鈍く輝きを放つその者の体は、鋼で出来ていた。
その男の体は、鋼の鎧で出来ていた。全身を、鋼で覆っていた。
『鎧』だ。
一部の隙も無く総身に機関鎧を纏った者――――――その名を、『完全装鋼士』と呼ぶ。
「うううわあああああああッ!」
自らを鼓舞する叫びは、幼子が上げる産声にも似ていた。
「俺は、戦う! 戦うぞ――――――ッ!」
集中する殺意。
ゴブリン、オーガ、リザードマン、フローターデビル……これまで逃げ続けて来た相手の視線に晒されて、自然、ナナシの足が震えを帯びていく。
鎧は重く、身体は痛く、心が軋む音が聞こえる。
情けなさに噛み締めた奥歯が割れてしまいそうだ。あれだけ命掛けの鼓舞を受けたというのに、力が萎えていく。
「だから、頼む……!」
ナナシの口から漏れ出たのは、懇願であった。
「頼むよ……頼む……お願いだから」
それは神ある世に、神から見放された男が捧げた、祈りであった。
「ジョゼットさんを、救ってやってくれええええええ!」
全身の細胞から搾り出したような、金切り声。
たくましさの欠片も無い、だが。
「動けぇぇぇえええッ! 『ツェリスカ』ァアアアアアッ!」
『――――――OS・起動』
その祈りは、届いたのかもしれない。
『おはようございます。機関鎧駆動補助AI、ツェリスカです』
視界が瞬間、緑色に染まる。網膜に光源が投射されたのだ。
現在のコンディションがバイザー下に表示され、合成音声がシステムの起動を告げた。
ナナシがこの世界で過ごすことになってよく耳にするようになった、魔力を用いた機械に搭載される、人工妖精――――――補助AIの声によって。
人工的に妖精を再現したものが、この世界のAIであるという。
AIと言えど、応答は入力に対しあらかじめプログラミングされていた言葉を継ぎ接ぎして返すだけであり、人工“知能”と言える程の自律性を備えているとは、お世辞にも言えない。
だが、このAIの合成音声の生々しさは、人間のもの比べても全く遜色はない。
少女の声質を用いられているそれ。ジョゼットが鎧本体だけでなく、プログラミングにまでどれほど心血を注いでいたことか。想像に容易い。
『ツェリスカ』と、そのAIは名乗った。
プログラミングに沿って、ナナシと共に、産声を上げたのである。
きっと、ジョゼットは孫娘を復活させようとしたのではないだろうか。せめて、声だけでも。
ジョゼットが何を想って鎧に孫娘の名を付けたのか。
復讐のためか、贖罪のためか、あるいはその全てなのか、それはナナシには解らない。
だが、何となくだがナナシは、ジョゼットが孫娘に、彼女が憧れた冒険者をさせてやりたいと願ったからではないかと、そう思った。
造り物でしかないとしても、孫娘の名を冠した鎧が未踏の地を踏みしめ、未だ見ぬ不思議を目撃していくとしたら。何よりもの慰めになるだろう。
それが自己満足だと笑うことは出来ない。
ジョゼットにとって、この鎧は、孫娘の写し身なのだ。
「……ああ! おはよう、ツェリスカ。俺の名前はナナシ……ナナシ・ナナシノだ!」
『ユーザー認証を行います……マスター登録者と声紋合致、ユーザー認証完了。よろしくお願いします、マイ・マスター』
そう、この日この時。
ナナシは、ツェリスカと出会ったのだ。
『当機のコンデションを表示しますか?』
「ああ、頼む。チェックリストは音声で出力を」
『了解しました。起動状態が不完全のため、全機能の8割が動作不良を起こしています。当機の戦闘能力は30%まで低下。戦闘行動終了後、メンテナンスすることをお勧めします』
「起動実験さえしてないからな。仕方ない、悪いけどぶっつけ本番だ。ツェリスカ、行けるか?」
『問題ありません』
「言い切るか。さすが、ジョゼットさんのお孫さんだ」
『敵性勢力の接近を確認。接敵まで距離10』
包囲が狭く、殺気が濃密になっていく。
『使用可能武器検索……ヒット。サブウェポンを確認しました。サブウェポン、リボルバー及びカッティングのドライバを確認しました。使用中、照準に自動補正が入ります。注意してください』
機関鎧の腰には折りたたみ式の巨大なリボルバーキャノンが、肩の後ろには、分厚い片刃剣が携えられている。
どちらも同等に大きく、重い。
鎧の重量はさることながら、武装だけでも恐ろしいまでの加重が掛かっている。
ジョゼットから自衛手段だと教え込まれた技術の一貫に、射撃や剣術の訓練が含まれていた。やはり、初めから、これを着込ませるための仕込みだったのだろう。
訓練の大半が、荷を背負わせて重みに耐えさせるという、異様なものであったのも。
「本当に過保護なんだから……。武器パージ、弾薬もだ。少しでも軽くしてくれ。内蔵武装だけでいい」
『了解。内蔵武装は魔力稼働式鉄杭が使用可能です。ワイヤー、及びサークルカッターはプログラムが解凍されていません』
「十分だ」
『敵勢力接敵、戦闘行動開始。右腕間接固定、魔力チャンバー開放……撃発準備完了。どうぞ』
「行くぞぉぉおおおおおお!」
右の肘から鉄の杭が露出。
ナナシの咆哮と共に、魔物の群れが殺到する。
『イグニッション』
「フィスト・バンカァァアア――――――ッ!!」
鉄拳――――――。
■ □ ■
――――――踊っている。
ツェリスカが踊っている。
返り血を浴びて真っ赤になりながら、踊り狂っている。花冠を頭に草原の中を駆け回っていた、穏やかだったあの日のように。
途切れる意識を繋ぎ、霞む目を凝らしながら、ジョゼットはナナシの戦う姿を眺めていた。
冒険者時代に溜め込んだ魔法薬を山と使ったおかげで傷は塞がったものの、あの出血量では、長くは持つまい。
重傷を負い病に侵された身体で、まだ生きていられるのが不思議なくらいだった。執念が成したものなのだろう。
弟子の活躍を最後に目に焼き付けて逝こうと思い、こうして外にまで這いずって出て来たはいいものの、もはや指一本すらも動かない。
「あぁ……雨か……」
いつしか空は曇り初め、ぽつぽつと雨が零れ始めている。
「そういえば……あの時も、雨だった、な……」
次第に雨は強くなり、容赦なくジョゼットの体温を奪っていく。
残された時間が減るのは一向に構わないが、ナナシの姿が見難くなるのだけは残念でならなかった。
「本当に……あの時の、焼き増しなんだな……」
今まで、こんな雨の日は外を見ることすら苦痛だった。雨に薄められて湧き上がる血の臭いを思い出し、幻臭に苦しめられることになるからだ。
臭いだけではない。こちらに手を伸ばし、助けを求める家族の姿まで見えていた。まるで地獄だった。
雨が振った日は鉄を打つことも休んでいた。その日は、ただただ絶望に耐えることにだけ費やされていた。
外に出ることなど、考えられないことだった。
だが、今は。
なぜだろうか。雨音が酷く優しく、懐かしく、自分の名を温かく呼ぶあの子のような、そんな音に聞こえていた。
これまで凝り固まっていた怒りが、憎しみが、洗い流されていくかのようだ。
もう少しも辛くない。悲しくもない。痛くも、苦しくも――――――。
「……終わりました。ジョゼットさん」
「……ああ、お前か」
呼びかける声に、閉じかけた意識を取り戻す。
小脇に兜を抱えたナナシが、まだ荒い息を吐きながら、雨からジョゼットを守るように立っていた。
ナナシの後ろには、魔物達の屍の小山が築かれている。ジョゼットが打ち倒した魔物の総数の、ゆうに倍は下らないだろう。
地表に這い出して来られる程度の低層をうろつく下級モンスターといえど、初陣でこれだけの数を仕留めたともなれば、上出来と言えよう。
機関鎧の性能にも助けられたのだろう。
しかし、低級モンスターなど物の数にも入らない程の作品を造り上げたとの自負はあったが、無理矢理に完成を急いだせいで起動不全を起こすことが間違いなしであったともなれば、性能だけが理由とは言い難い。
間違いなくナナシ本人が身に着けた、技の成せる所であると言えよう。
「レベル0の癖に、ってか。レベルなんて、くだらねえよな……そうだ、だから俺は、お前にツェリスカを渡そうと決めていた」
「本当に素晴らしい鎧でした。生き残れたのは、これのおかげです。ジョゼットさん……俺、勝ちました」
「じゃあもう少し嬉しそうな顔しろよ。初陣を勝ち残ったんだぜ。そんなしけた面は、するもんじゃあねえな」
ぐ、とナナシは息を詰まらせた。
唇を噛みしめ、無理やりに感情を堪えているかのような顔だった。
「ほら、お前は勝ったんだろ? なら笑わないとな」
「……笑うなんて、出来ないですよ」
「笑うんだよ。出来なくても、無理矢理笑え。これから先、出来なくてもいい、今だけ、ここは笑っとけ」
「……はい」
返事とは全く裏腹の顔であった。
はあ、とジョゼットは溜息を吐く。
どうやら、まだ教えねばならないことがあるようだ。
「いいか。お前がこれから足を踏み入れるのは、人死にが当たり前の世界だ。友人、仲間、恋人……自分に近しい者達が、あっというまに、理不尽で呆気なく死ぬ。そんな世界だ。
いちいち泣いていたら持たないぞ。時間の無駄だ。そんな暇があるのなら、前を向いて、一歩でも多く踏み出せ。出なければ、次はお前が倒れることになる。進むんだ。
一歩進めば一歩分、二歩進めば二歩分だけ、迷宮は攻略されていくのだからな」
「めい、きゅう?」
「そうだ、ナナシよ。お前は未だ踏破されぬ迷宮を攻略する、冒険者になるんだ。命を掛けて、名声を、名誉を、栄光を、金を、力を手に入れんと迷宮に潜る、冒険者へとな」
「俺が、冒険者になる……!」
ジョゼットの言葉を噛み砕き、飲み込んで、理解して。
ナナシの顔に驚愕が浮かんだ。
それは単純な驚きの表情ではない。胸の内に熱い風が吹いたかのような、ある種の熱意を孕んだ顔だった。
ジョゼットはニヤリと笑った。
「いいか、冒険者になる以外にお前が“元いた場所”に帰る術はないぞ」
「……知っていたんですか?」
「さあな。だが解ってはいた。仮にも俺は名付け親で、お前の師匠だぞ? お前のことなんざ、全部お見通しだ」
「俺、は、この世界の人間じゃ」
「言わんでもいいさ。だいたい把握はしているさ。神意の存在しない生命体なんて、不自然過ぎるからな。この世界に産まれる訳がないんだ。じゃあ考えられることは一つだ。
神意の影響が届かない場所で産まれて、やって来たと、そういうことだな」
「初めから解っていたんですか?」
「言ったろ、一目見て解ってたとな。神父は未だに信じちゃいないらしいが。まあ、元冒険者の勘ってやつさ。おかげで不思議なことに意味を与えずに、そのまま不思議なこととして受け入れられる」
消えかかった蝋燭とでも言うべきか、驚くほど舌が回る。
気を抜けば意識が途切れてしまいそうだが、まだほんの少し猶予が残っているようだ。
「ナナシ、こっちに来い」
「……はい」
「ツェリスカを良く見せてくれ。いや、ツェリスカを着たお前を、良く見せてくれ」
頷き、ナナシは兜を被る。
そして壁にもたれ掛かるジョゼットの傍らへと、片膝を付いた。
ジョゼットは目を細めてナナシを、否、ナナシとその身を覆う機関鎧を見詰めた。
「すまんな、もういいぞ」
「……このまま貴方を担ぎ上げて、連れて行けたらいいのに」
「無理だって解って言ってるだろう? じゃなかったらまた怒鳴られたいのか、ん?」
ナナシだって、もう解っていることだろう。
ジョゼットはもはや手遅れだということを。
だから、罪悪感に押し潰されそうになりながらも、謝罪を口にすることはなかったというのに。
後悔は残る。後ろ髪が引かれ、足が動かない。
「ようし、初陣ついでに初クエストもこなしてみせろ。冒険者としての、第一歩だ。依頼してやる。
お嬢の所に駆け込んで、役人共に地下街の封印が解けた事を知らせるように言え。そして今後の保護と活動のための支援を要請するんだ。
神父の名前を出せば、お嬢の親も頷くだろうよ。その時はお前自身の事は黙っておけよ。これから先、お前に加護が宿らないことを、他人に知られないようにしろ。いいな、復唱しろ」
「……はい。お嬢様の所に、役人に取り次いでもらえるよう報告に行きます。今後の事も、お嬢様に頼みます。俺の事は、誰にも話しません。秘密にします」
「ああそれでいい。さあ、もう行け」
「……」
「……どうした? なぜ行かない」
「わかっています……わかっているんです! でも、やっぱり、こんな所にジョゼットさんを置いて行くなんて、俺には出来ない! どうしても出来ない!」
「……まったく、お前って奴は」
「嫌です! 嫌なんです! 頭じゃ解っています! でも無理なんだ! 一緒に行きましょうジョゼットさん、お願いだから行くと言って下さい! そうしてくれたら、俺は……!」
絞り出したかのような叫び声。
ジョゼットがこのまま死んでしまうだろうことは、嫌でも理解していた。それに対して、もしかしたらだとか、助けがくるかもだとか、そんな考えは浮かばない。
工房周りの魔物はあらかた一掃したが、それでも時間が立てばまた、土の下から魔物達が這い上がってくるはずだ。
もしこのまま此処にジョゼットを置き去りにしたらどうなるか。
きっと、魔物達を肥えさせるだけになるだろう。
肉片の一欠片も残らないに違いなかった。
「ほう、もしかして俺を囮にするつもりか? いい心がけだ。生き残り方ってのが解ってきたようだな」
「そんなこと!」
「は、冗談さ。しかしなあ、おい――――――」
ジョゼットは深く溜息を吐いた。
そして肺一杯に空気を溜める。
「いつまでも甘ったれてるんじゃねえ! このクソガキ!!」
腹の底から響く、落雷のような一喝。
正に雷に撃たれたかのように、ナナシは身を竦ませた。顔は鉄兜に隠れていて解らないが、今にも泣きだしてしまいそうな、そんな顔をしていることだろう。
「言ったはずだ、お前は冒険者にならねばならんと! だったら、こんな所で立ち止まることが許されるわけがねえだろうが! 殴られたいのか!」
「う、ぐぅ……!」
「立ち上がれ! そして往け! 決して、振り向くな!」
叱咤され、ようやくナナシはふら付きながらも立ちあがった。
「そうだ、それでいい」
満足気に頷いたジョゼットに背を向ける。
……足が重い。
振り返るために費やした努力は、きっとこれまでの人生で、一番のものだっただろう。
不甲斐ない。
あまりもの情けなさに、ナナシは眩暈さえ覚えていた。
あんなにも世話になったジョゼットに、自分は何も返せてはいないではないか。
ジョゼットが死に瀕しているのは自分のせいだ。これでは恩を仇で返したようなものではないか。
「俺は……俺は、何て……ッ!」
馬鹿で、ぐずで、間抜けで……そして、無力なのだろう。
ぎり、と奥歯を噛みしめる。
振り返ったはいいものの、一歩が踏み出せなかった。
いつの間にか土砂降りになっていた雨が、鉄の外装を叩く音も耳には入らない。
「ああそうだ、言い忘れるところだった」
動かぬナナシの背へと、ジョゼットは投げ掛けた。
「よくやったな」
「……え?」
「よくやった、と言ったんだ。初めての戦いにしちゃ上出来だ。何も言うことはねぇさ、お前は立派だったよ」
「――――――ッ!」
もう限界だった。
記憶にある限り、初めて褒められたのだ。
兜を被っていたこと、背を向けていたことは幸運だったのかもしれない。
溢れる涙を見られずに済んだのだから。
「俺、なります! 絶対に冒険者になります!」
「そうかい」
「だから……!」
ナナシは、一歩を、踏み出した。
「さよなら、ジョゼットさん……ッ!」
「おう……あばよ、ナナシ。そして、お前が決めた道を往け、冒険者」
足取りは重い。
しかし確実に、ナナシは前へ前へと、進んでいった。
後悔とは、後で悔やむことなのだ。だから今は、進む時。
それでしかジョゼットに返礼出来ないのだとしたら、せめて最後は望まれた姿を見せることが、自らに課せられた義務のはず。
冒険者は、倒れた者の元へと引き返してはいけないのだから。
「まったく、面倒なヤツを拾っちまったもんだ――――――」
背後で、何かが崩れ落ちる音が聞こえた。
ナナシは振り返らなかった。