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関根教授の事件簿  作者: 黄印一郎
猫を被る
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 サカイアヤコさん、猫探しのチラシで見る限り、名字の方は坂井と書くらしい――親元で暮らしているためか、あるいは女性の氏名・連絡先とわかるものを公共の場に(さら)すことを避けたのであろう、名前の方は書かれていなかった――彼女と顔を合わせたのは、事件以来初めてであった。私は結局彼女に連絡を取りはしなかったし、彼女の方には私に連絡を取る手立てが無かったからである。


 しかしながら、私の方ではこのような事態は想定しておいて(しか)るべきであった。彼女は私が担当する講義を受講しているのだし、私の方は学生の陳情(ちんじょう)にある程度耳を傾けているのだから。


 ともあれ、研究室に姿を現したその坂井アヤコさんに、私から声を掛けた。日本における最古の歴史書では、男から声を掛けるのが正しい作法、ということになっている。そして私は常にそれを実践するように心掛けている。


「やあ、久しぶりだね」


「お久しぶりです。先日はどうもご迷惑をお掛けしました」アヤコさんはそう言って、深々と頭を下げた。新幹線でパーサーが車両を出入りする度にするような、綺麗(きれい)なお辞儀(じぎ)だった。


「あれ以来、加減はどうかな」私はどきりとして、少々おかしな事を口走ってしまう。


「ええ……体調は悪くはありませんが……」


「ああ、いや、なんというか……」


 痴漢事件についてを迂回して話すには、どう言葉を繫いだらよいか考えていると、アヤコさんは私の意図を察したのか、笑みを浮かべた。


「おかげさまで、毎日無事に通学しております」


「ああ、これはすまない。嫌なことを思い出させてしまった」


「いえ、構いません。もう解決したことですから」彼女は穏やかに答える。それを聞いて、


「そうか。それは良かった」私も落ち着いて答えを返した。


「けれど関根先生」


「なんだい」


「せっかく連絡先をお教えしたのに、全然連絡を下さらなかったじゃありませんか」


 アヤコさんが拗ねたように言ったので、私は内心狼狽(ろうばい)した。私は彼女の連絡先を知っていたのか、と問われれば、確かに知ってはいたのだが、それとて猫探しのチラシ一枚である。まして、いかにアプローチは男性から女性に向けて為されるべきとは言っても、僅かに迷惑(めいわく)を被った程度のことで、()びを相手にせびるような真似、私の矜持(きょうじ)許容(きょよう)し得無いのである。素知(そし)らぬ振りをして答えた。


「タマキチ君を見かけなかったからね」


 私が手元の資料に目を落として気まずい空気をごまかそうとしていると、アヤコさんは美しく、ほう、と溜息をつく。耳元に這い寄るようなその長い吐息に、思わず背筋がぞくりとした。


「わかりました」アヤコさんが言う。


「そうか、(あきら)めてくれるか」私はほっとして顔を上げた。


「ええ。お詫びをすることは諦めました。代わりに、痴漢を捕まえて下さったお礼をしたいと思うのですが、誘われて頂けますか」


 さて、艶然(えんぜん)と笑う彼女の前で、ぎょっとしたのは私の方である。


 私は、再び狼狽(ろうばい)した。


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