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関根教授の事件簿  作者: 黄印一郎
猫を被る
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 昨今の学生達の名前にはどうにも奇抜な物が多すぎる、と感じるのは私だけではあるまい。中間テスト代わりのレポートを採点しながら、私はそのように感じてしまう。


 つまり、姓名のうち名の読みがわからないのである。特に大きな問題が発生する訳ではないのだが、採点する際にまず目を通すのが記名の有無である以上、どうしてもストレスになってくる。そして、偏見に過ぎないとわかっているつもりではいるのだが、どうも氏名の読みがわかりづらい学生の書くレポートは、その内容もわかりづらいことが多いのである。


 たかだか学生の書くレポートなど頭と尻だけざっくり見て、それで採点してしまえば良いではないか、と考える教員もいる。彼らもまた面白くもなんとも無いレポートなどの為に、自分の研究の時間を削るわけにはいかないのだ。あるいは、院生や助教に任せてしまう、なんて荒技も存在する。


 しかし私の場合やはりどうにも生来の生真面目さが発揮されてしまうのか、院生達や助教の研究や論文執筆の邪魔をしてはいけないと考えてしまうし、一つ一つきちんと目を通して採点しなければ、ごく一部ではあるが存在する真面目な学生の労苦に報いる事は出来ないと考えてしまう。


 いずれにせよ、私は苦労を承知でいかにも非効率的な事を行っている訳で、そんな謹厳実直の士たる私の元には、今日も多くの学生が参勤交代の如く入れ替わり立ち替わり訪れる。


 大抵の場合、彼らの主張はこうだ。「我、やむごとなき由によりて、レポートを期日迄に渡すこと(あた)はず。慈悲を持ちて我がレポートを受け取り給へ」

 上から目線なのが気になるが、これはどういうことなのかというと……まあ、止しておこう。同じ、あるいは類似した内容を何度も説明することも、説明されることも、私は好まない。私がその手間を惜しまないのは、洋子さんに対してのみだ。


 さりとて、そのような大名行列に並ぶ浅葱裏の如き学生達の中にも、格別の印象を以て私の脳裏にその姿を留める者が居ないわけではない。事実として例を引けば、本日私の記憶に留まり、洋子さんとの夕餉の席で俎上に上った学生は三名であった。



 先ず一人目は、午前中、まだ一限が行われている真っ最中に私の研究室にやって来た、昨年春から私が顧問を務めているサッカー部の主将である。サッカー部は一昨年退官された先生が顧問をなさっていた部で、何とかお願いできませんか、と学務係から連絡があり、また当時の幹部連中が研究室までやって来て揃って頭を下げるので、私もしかたなく顧問を引き受けたのである。断じて教授に就任したばかりで気分が良かったからではない。


 彼は上半身に欧州(おうしゅう)のなんとやらというサッカーチームのユニフォームを着て、下半身は(ひざ)までのハーフパンツ姿であった。緋色(ひいろ)と黒の縦縞(たてじま)は少々目に痛かったが、問題はそこではなかった。問題なのは、彼が履いていたのがサッカーのスパイクであり、彼が歩く度に研究室の床に敷かれたカーペットには泥汚れを伴って円いスパイクの跡が残るということである。彼はノックもせずに研究室へと手ぶらで侵入してきた上、私の研究室にマーキングするかのように点々とスパイクの痕跡(こんせき)を残したばかりか、その口で恐ろしい事を(のたま)った。


「すんません、今年部の運営とか色々忙しいんで、先生の単位、何とかならないっスか」


 私は敢然(かんぜん)反駁(はんばく)した。大学という教育施設(しせつ)は、かような個人の我儘(わがまま)を許容するものでなく、あくまで個人の学業の成果によって判断される、その知識と理解を十分に深めたことに対する評価が成績評価であり、単位であって、何もその成果を示さないうちから与えられるものではない、と。部の運営が大変なのはわかるが、それを言い訳にすることはいかがなものかと苦言(くげん)を呈しもした。

私としては、ごくあたり前の事を、ごくあたり前に言っただけのつもりである。しかし彼のお気には召さなかったらしい。


「わかりました。じゃあもういいっス」


 彼はそう吐き捨てて、憤然(ふんぜん)たる面持ちで私の研究室を去っていったが、ご丁寧(ていねい)に新しくマーキングを残していくのを忘れなかった。サッカー部の、引いてはその顧問たる私の名誉(めいよ)の為に言っておくが、このような態度は彼個人の資質によるものであって、決してサッカー部に所属する全員がこのような態度をとるものではない。事実私の研究室に所属するサッカー部の部長は、非常に成績優秀であり、かつ物腰も丁寧柔らかである。


 それはともかくとして、私は一限が終わるまで、清掃員の倉庫から借り出してきた掃除機と共に、床の泥汚れと格闘(かくとう)する羽目になった。


 彼のことを洋子さんに話したところ、彼の態度にも問題はあるが、正論ばかりをまくし立てて彼に反論の余地を残さなかった私の責でもあるらしい。私はこれを聞いてしきりに反省した次第である。


 気を取り直して二人目である。二限の講義の後、昼食を採り、放課に学生達が陳情に訪れるまで論文でも読んでおこうと研究室に戻った私を待ち受けて居たのは、スーツにメガネをかけ、鞄を提げた、いかにも就活中、と言わんばかりの四年生であった。


 彼はなかなかに見所のある若者で、自分のおかれた状況を情感豊かに、それでいて事細かに説明して見せた。普段ならそんな同情を誘うための言葉は煩わしさすら感じるものだが、彼は話が上手く、私は何の気なしに相槌を打っている間に、話に引き込まれてしまったのだ。


 曰く、彼は父親の仕事を手伝っていたのだが、どうにもこのまま家業を継ぐことに踏ん切りが付かず、どうしようかと迷って居る間に大黒柱である父が倒れ、大学に通う合間に家族総出でなんとか家業をこなし、どうにか経営を持ち直したところで、父親の病気が癌である事が明らかになったと言うのだ。


 今春に手術を受けたのだが、どうにも予後が宜しくなく、あれよあれよという間に父親は亡くなり、家族が途方に暮れていたところ、父親が入院していたとある大学の付属病院に勤務する内科医に、父親の死因は単なる予後不良による衰弱ではなく、執刀医の診察ミスによる医療事故であった疑いを告げられ、家族一丸となって立ち向かうことを決意、現在係争中であるという。彼は、同じような境遇の人達の為にも、自分がここで諦めるわけにはいかないと言う。


 同時に、父が遺した会社を何とか保って行かねば、冥土の父に顔向けが出来ないとも言った。


 そのような状況の中で、自分が大学に通う事も難しいのだが、父に通わせてもらっていた大学であり、残すところあと一年、何とか卒業だけはしようと思って、どうにかこうにかレポートを仕上げて持って来たという。


 青春の最も輝かしい時期、このように自分の将来を真剣に苦悩していた良き一青年が、運命の悪戯(いたずら)に巻き込まれ、私心を殺して世の中の為に巨悪に立ち向かおうと言うのだ。私は感涙にむせいだ。直前に訪れた学生の横柄な態度と比較してしまったせいもあったが、何よりも彼が若くして抱くに至った使命感が、私の教育者としての信念を大いに刺激したのである。


 私は涙ながらに彼のレポートを受け取ると、何か困った事があれば必ず相談に乗るから、きっと連絡を寄越すように、と半ば押しつけるように言った。彼は何度も頭を下げ、その度にありがとうございます、と言いながら、(うつむ)いて研究室を去っていった。


 何度も鼻をかみながら、私は清々しい気持ちがいっぱいであった。受け取ったレポートの表紙に記されていた名前は、どうにも読みがわからなかったのだが、私は彼のレポートを大事に机の抽斗(ひきだし)仕舞(しま)って、このようなすばらしい気分に(ひた)りながら思索(しさく)(ふけ)ろうと、大学構内の散策に繰り出したのであった。



 洋子さんはこの話を聞いた時、初め何やらきょとんとした顔つきであったが、私が、「このような時代であろうとも、見所のある学生はいるものだ」としみじみと語ったところ、彼女はやんわりと、「そうですねえ」と微笑んだ。私が内心、この話をして良かったとほっとしたのは秘密である。


 その後何故か洋子さんは、急に古いドラマが見たくなったと言い出し、私は彼女を連れてビデオレンタルショップまで繰り出すことになった。洋子さんはたっぷり三十話はある医療ドラマをまとめて借り、私は学生の時分に見たきりの映画を借りた。洋子さんはどうやら、そのドラマの主演である田宮二郎とかいう俳優のフアンであるらしい。


 私が内心僅かばかりむっとしていると、洋子さんは、「もちろん一番のひいきはあなたですよ」と言う。私は内心鼻高々であったが、「私はそんな小さな事を気にする人間ではありませんよ」と小忿(しょうふん)して見せた。


 さて洋子さんは朗らかに可愛らしく笑うと、「今日の学生さんなら、きっと田宮二郎みたいな良い俳優になれるでしょうね」と言うので、私は、「彼のようにすばらしい心根を持つ人間にこそ、学業の道を志して貰いたいものだ」と反論した。もちろん我が家では洋子さんの言うことが不文律であり、私がこのように反論することは珍しいのだが、彼女は鷹揚に頷いて、そうですねえ、と同意を示したのである。


 そして私たちは、仲良く並んで家路に着いた。全く、良き日だったと言える。



 さて、そのような思い出に耽溺したいところであるが、問題は三人目であった。もちろん私の行動はやましいところなど一欠片も無いものであるから、当然のようにきちんと洋子さんにお話ししたのだが、誤解を避けるためにぼかした部分があるために、もしかしたら少々伝わりづらかったかも知れない。


 放課に訪れた学生達の言葉を半分聞き流しながら、内心ではあるものは可とし、またあるものは否として、ばっさばっさと大鉈を振るうように仕分けていた私が、そろそろ帰宅しようかと思っていた矢先、ノックの音が研究室に響いた。やれやれ、と思いながら入室の許可を出すと、入室してきたのは、整った容貌(ようぼう)の女生徒であった。私と彼女は互いの顔を見て、あっと驚くこととなる。


 入って来たのは、つい先日痴漢(ちかん)事件で関わる事となった、サカイアヤコさんであったのだ。


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