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学務課へ本日の講義は間に合わない、と言うよりも講義が終わるまでかかっても大学まで辿り着きそうにない、と連絡を入れ、補講を開講するための面倒な手続きにかこつけての苦情を何とかやり過ごした私は、喫茶店にいた。
正面に座った女性――アヤコさんと言ったか――は沈鬱な面持ちで申し訳なさそうに視線を紅茶のカップに落したまま、もう十分も口を開こうとはしない。彼女はどうやら思い詰める性質らしい。謝罪というものは程々(ほどほど)の勢いが大事だというのに。一方で、白衣を着た方はコーヒーカップとアヤコさんの間で視線を往復させるばかりで、居心地の悪さを全身で表現している。当事者ではないとは言え、いや、だからこそ、もう少し落ち着いて居ても良いのではないだろうか。私は何となくAO入試の面接担当者のような気分になって、彼女たちを眺めていた。
モーニングの時間帯が終わり、中高年の女性客の姿が目立ち始めた喫茶店の店内で、私と女性二人はテーブルを挟んで無言で座っていた。目の前のコーヒー二杯と紅茶一杯が温度を失って行く。むすっ、とした表情を押し出して見せているのとは裏腹に、私の心中は落ち着いていた。むしろ、この状況から早く解放されないかと焦れていた。
取り押さえた男を駅員に引き渡し、今日の講義を臨時休講にする旨の連絡をした私は、そのまま警察の取り調べを受けることになった。正直な所、犯人も明らかであり、現行犯逮捕の功労者ではあるとは言え、私はただ巻き込まれただけの第三者であって、取り調べを拒否しても良いのではないかと思いはしたが、警官に連れられて犯人の男が目の前からいなくなると私は怒りの遣り場を失っており、その意味で公僕の方々には私の怒りのはけ口として十分に役立ってもらおうと考えたのだ。
つまり、淡々と氏名・年齢・住所・職業、と質問を重ねようとする警官に、私がいかに大変な目にあったか、その結果私の心情がどのようなものになったか、あるいは、それによって犯人の彼が如何様に糾弾さるべきか、チャーリー・チャップリンどころかウィンストン・チャーチルにも勝る勢いで情感を交えた大演説を始めたのである。
私の話を押しとどめようと口を開きかける警官を遮り、何度となく入れられる相槌に頷きを返しながら、満足するまで自分の言いたいことを言う。勢い込んで喋る私に、調書をとっていたもう一人の筆も徐々に勢いを失っていった。
単位を寄越せと副音声のついた陳情をするために入れ替わり立ち替わりやってくる学生達に何時間も割く私の労苦を、彼らにも十分にわかって頂いたのだ。
もう十分ですといった表情を顔面に貼付けた警官の、『ご協力ありがとうございました』という声と共に取調室のドアをくぐった。後ろで、ずっと取り調べをしていた彼が、その脂臭い息を小さくはき出すのが聞こえたが、私は気分良く取調室を立ち去った。むしろ、外まで案内するぐらいの奉仕精神があっても良いのではないか、と警察機構のサービス向上について思いを馳せていたぐらいだ。
狭い間隔でいくつも並んだドアの前を通り抜け、内心に反して憤然とした表情を作りながらも刑事課を後にして、警察署のロビーに出たところで私を待っていた彼女たちと再会し、そして現在へと至るのである。
アヤコさんはどうにか気持ちを整理し終えたらしく、ようやく少し顔を上げた。彼女は形の良い唇をきゅっ、と引き結び、軽い上目遣いで私を見て言った。
「申し訳ありませんでした」
ようやく場の空気が解れだした。私も最初に不機嫌面を見せてしまったために、なかなかこちらから歩み寄る、というわけにもいかなかったのである。
「いや、そんなに固くならなくても良い。今回の事は、不幸な事故だったんだと思おう」
私が尊大な態度を崩さずに言うと、アヤコさんもほんの少し愁眉を開いた。彼女は、自分達が学生であると名乗り、
「最近、どうもよく痴漢に遭遇していたので、ちょっと気を張りすぎていたのかもしれません。一人では心細くて声も上げられなかったので、今日は友人についててもらったのですが……」
彼女はそこでちらりと白衣の女性を見る。白衣の女性は、私の方に目を向けると、軽く頷いて同意を示した。私も鷹揚に頷いて返したが、しかし明らかに人選ミスだとも思った。満員電車になぜか白衣の女性が乗っているという不可思議な状況で犯罪行為に及ぶ人間はなかなか居るまい。
アヤコさんもどうやら同じ考えだったようで、彼女は視界の端で一瞬苦笑して見せたが、すぐに表情を戻した。私も、視線をアヤコさんに戻す。
「何にせよ、犯人が捕まって良かった。これで、ええと……」
「アヤコです。サカイアヤコ」
彼女の名字がわからずに私が詰まっていると、彼女が私の言葉に継いで言った。
「そう、サカイさんも、もう煩わされずに済むだろうから」
「ありがとうございます」アヤコさんは表情をゆるめ、重ねて言う。「今日はお時間を取らせてしまって、本当に申し訳ありませんでした。今更なんですが、お仕事の方、大丈夫でしょうか」
「いや、私の方は少しばかり時間の融通が利く仕事なので、気にする必要はないよ」
そう言って、サカイ、とは坂井かそれとも酒井かなどと無意味な考えを巡らせながらも、私は少しばかり感じ入る所があった。私が普段接する学生達は、あまり他人に対して気を使ったりしないのだ。今回のような事例であっても、わざわざ場を改めたりはせず、お決まりの謝罪を一通りした後ですぐに去っていったとしてもおかしくないのだ。
当然、彼らは、私の事情を斟酌しようなどとはしないだろう。他人との距離感を量る事が上手ではない、と言った方が良いかもしれない。
「そうなんですか。失礼ですが、お仕事は何をされていらっしゃるんですか」
そう訊かれ、私が答えようとした時、これまで一言も発する事のなかった白衣の女性が、アヤコさんの肩をつついて小声で言った。
「アヤコ、そろそろ行かないと、三限に間に合わないよ」
「でも……」
アヤコさんがちらと私の方を見たので、私は伝票を手に取った。
「かまわないから、もう行きなさい。学生の本分は勉強だからね」
「そんな、そこまでしていただく訳にはいきません」
彼女は伝票に手を伸ばそうとするが、私はさっと手を引っ込め、威厳を込めて言った。
「こういうときは、年長者に任せた方が上手くいくものだよ」
アヤコさんはそれでも納得がいかなかったのか、しばし逡巡して見せていたが、やがて鞄からA4サイズのプリントアウトを一枚取り出すと、私の方へ差し出した。
「こんなものしか用意できないのが恐縮ですが、ここに書いてあるのが私の連絡先です。今度ぜひきちんとお詫びをさせていただきたいので、どうかご連絡いただけないでしょうか」
美しい妙齢の女性から誘いを受けて、どんな形であれ断ったりするほど私も枯れてはいないつもりだ。私は頷くと、彼女に言葉を返した。
「さあ、早く行った方が良い。もう時間がないんだろう」
「わかりました。ありがとうございます。今日は本当にご迷惑をお掛けしてしまい、申し訳ありませんでした」
アヤコさんは丁寧に頭を下げると、店の入り口の方へ向かっていった。山椒の辛みがぴりりと効いたような、芯の通った立ち姿。白衣の女性の方もそれを見て、軽く会釈を寄越すと、アヤコさんを追って小走りで去って行った。白衣の女性が、携帯電話の画面を見ながらアヤコさんに何事か言っているのが聞こえる。
「今日の関根センセの民俗学概論、休講だって。ツいてたね」
因みに、私の名前は関根昭敏である。専攻は、民俗学。主に遠野方面の民間伝承を研究しており、学者としては柳田国男の二番煎じを通り越して五番煎じの更に絞りかすぐらいのものではあるのだが、私自身の研究テーマはそう言った過去に例のあるものとは一線を画したものであると自負するところであって、過去の研究者達が着目してこなかった地政学的な観点を加えた上で集落同士の交流と更には周辺領主の…………
それはともかく。
彼女たちは、自分が受講している授業を開講している教授の顔を、覚えていなかったのである。いや、まあ、実際のところは近隣の大学で関根という氏名で民俗学を教えている者が居ないかどうかを調べてみなければ言い切れないのだが、まず間違いないだろう。
仮にそうだとして、私も自分の授業を受講している生徒の顔を覚えていないではないか、との謗りを免れないが、それは私の授業が多数の生徒が受講する人気講座であるのに免じてご寛恕願いたい。
驚きと呆れが均一にブレンドされた奇妙な思考のまま、私は目の前のプリントアウトに視線を落とした。
視界に飛び込んできたのは、青みがかった灰色の猫。特徴的なエメラルドブルーの瞳がカメラのレンズ越しにこちらを見つめ、二等辺三角形を描く耳は、頭の外側に向けて大きく張り出している。所謂ロシアンブルー、という品種であるらしい。
写真の上部には、シンプルなひと言。
『まよい猫探しています』
アヤコさんはどうやら、あまり細かい事に気を遣わない性質らしい。




