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土曜日の朝、洋子さんから少々用事を言いつかって早くに家を出た私が大学に着いたのは、9時少し前という頃だった。
まだシャッタが降りたままの窓口の横の扉をノックして、顔を出した事務方へ用件を申しつける。事務員は面倒くさそうな顔をしながらも、本当はこういうの出来ないんですよ、等と言いながら、私の言った通りの内容をメモ書きにして渡してくれる。
大学の学務課という物はそれほど仕事が多いというわけではないが、さりとて仕事が全くない、というわけでもない。時期によって仕事の量がまったく異なるし、学生や教授が我儘を言えばそれに応じて仕事が増える。尤も後者の場合仕事が増えるのは熱心な者だけで、話の内容が二転三転する上に大概は聞かなかったことにしているうちにその話自体が立ち消えてしまうから、熱心な者もいつしか熱意を失っていき、場当たり的に事務仕事をこなして行く方が利口だと知る。教育研究機関に勤める者としてはまったく嘆かわしいものだと私はこれについて考える度に思うのだが、それも致し方あるまいとも思う。おおよそ大学の教員というものは、一癖も二癖もある者が多いし、学生達は文字通り世間知らずである。一々付き合っていたら身が持つまい。
さて私が学務課から受け取ったのは、ある学生の個人データ、より正確に言うと、彩子さんの電話番号と住所その他諸々、所謂連絡先である。昨今の社会事情を考えると、このように簡単に個人情報を明かすことは宜しくないのだが、それよりもわざわざ教授が訪れて用事を申しつけると言う面倒を何とか躱したいのであろう。学務課を弁護するわけではないが、こうして私が学生の連絡先を訊きに来るのはこれが初めてのことではない、ということもある。
学内ネットワークとは教員にとってはとても便利なもので、学生の受講リストの横にあるチェックボックスにぽちりとチェックを入れればそれだけでチェックした学生にメッセージを送る事が出来るのだが、いかんせんこれを使いこなしている学生というのは少ない。こちらがメッセージを送っても、学生がログインしなければ確認されないのである。ネットワークに携帯電話のアドレスを登録していれば、そちらにメッセージが転送されるようにもなっているのだが、登録作業を行っている学生もまた少ない。
昨今システムの進歩はすばらしいが、それを使う人間が積極的にシステムに関わろうとしなければ意味を為さないのである。未だに携帯電話に怖々手を伸ばす私が言っても説得力が足らないかもしれないが。
とは言え、学生に積極的に関与するように仕向ける事もまた難しいだろう。私が講師として大学教育に携わり始めた二〇年前には既に、多くの学生は勉強をすることにあまり積極的では無かったのだから。
大抵の教員はメッセージを送った段階で努力義務を達成した、と考えるし、事実十分に責務は果たしていると言えるが、私にはそれで納得する事はできないし、何よりも収まりが悪いのである。
故に何年も前から、メッセージを送っても反映されないという結果を繰り返した挙げ句、とうとう私は彼らの携帯やら、それで通じなければ親元やらに直接連絡を取るという昔ながらの方法へ回帰するに至ったのである。
その過程で学務課の面々とは個人情報の取り扱いに関するガイドラインがどうたら、それでは学生達の学習が達成されないだろうとこうたら、幾度かの押し問答があったのはご愛敬であると言えよう。
受け取ったメモをいそいそとポケットに仕舞うと、私はそのままエントランスを抜けて歩き始めた。大学から最寄りの駅まではそれほど離れてはいない。今から向かっても、洋子さんとの待ち合わせの時間には十分に間に合うはずだ。
まだ午前中であるから、気温が上がったとは言ってもそれほど暑いわけでもない。僅かに蝉の声を耳にしながら見上げた空は、雲一つ無い快晴であった。




