船底の馬
東日本大震災で被災された方々に、心よりお見舞い申し上げます。
せめて元気づけることができればと「Smile Japan」企画に参加しました。
(規定の2000字を遥かにオーバーしています。申し訳ございません)
代々、調馬を役職とした綱之の一家でさえ蹄鉄など見たことは無い。
馬の蹄と言えば、冬に藁で出来た馬沓を履かせるくらいなもので、まさか体に鉄を打ち込むなど思いつきもしなかった。それどころか異人は馬にまで手術を施すと言うから、開いた口が塞がらずにいる。
「異人ってのは、見た目も大きけりゃ五臓六腑も鉄で出来てるかもな」と言うのが綱之の見解である。穏やかな気性になると言うが、目の前で去勢される馬を見ていると、なんとも哀れな気がしてくる。ふがふがと喋る助手は「西洋では畜生にも医術を施すのである」と偉そうに言うものだから、横浜の居留地では人ですらそんな目に遭うのかもしれないと肝を冷やした。
ガラガラと鳴る轍の音が横浜の居留地に響く。土煙の舞う大通りを曲がり、コロニアル様式の洋館へ黒塗り馬車が入って来る。綱之は白い玄関に張り出したポーチから足音が遠ざかるのを確かめて、御者が屋敷裏へまわすのを待った。馬の手入れをしていると、屋敷の窓から幾人かの笑い声が聞こえてきた。その内の一人、綱之の主人でもあるエドウィン・ダンは辺りに響きわたる大声で話しているようだ。
「ワデルの屋敷に行くのですね。素晴らしい。彼は誰よりも素晴らしい技術士、ミツは日本一の幸せです」
ダンがお雇い外国人仲間を大げさに褒めるので、お光は気を良くしたのだろう。嬉しそうな笑い声も聞こえてきた。他にも英語で話す男の声が聞こえてきたので、それがワデルと言う異人だと気づいた。思わず、ブラシをかける手に力がこもる。屋敷のリビングと裏庭は目と鼻の先。ダンの大声以外、何を話しているか分からなかったが、絹張りの長椅子に座るお光の姿を思い浮かべて綱之は唇を噛みしめる。
「異人に囲われるなんて、洋妾と変わらねえ」
先ほど見たお光は二人の異人に挟まれて、大きな腹ぼてを庇いながら馬車を降りていた。
「何やってんだろな、俺は」
綱之とお光が手を取り合い、海の彼方に見える異国の船を追いかけたのは遥か昔のこと。故郷を出た綱之が、戊辰戦争で主を失い再び戻ってみれば、家族は異人の馬を世話していた。去勢された馬も結構だが、暴れ馬を乗りこなしてこそ男だろう。武士の誇りはどこへ行ったかと思う。おまけに、小さな飯屋だったお光の家は居留地の片隅で西洋料理を饗している。つまり、故郷の全てが異人に媚びて暮らしていた。嘆きつつも綱之は、働かなければ生きていくことは出来ないので、新政府の依頼で獣医学を教えに来たダンの元にいる。せめて、「お光と一緒になれたら」との思いがあったが、こうして打ち砕かれてしまえば残されたのは馬しか無い。
綱之は、蹄に蹄鉄を打ち込まれ、前しか見えないよう目に覆いをされて、男の本分さえも取り上げられた赤毛の馬に、逆らうことの出来ない自分を重ねて見るのだ。
「情けねえ」
すると、赤毛の馬が綱之の顔を舐めはじめたので、「うわっ、くせえ」と言いながら大きな頭を押しのける。案外、異人の馬というのは頭が働くようで人の様子が気になるらしい。
「俺は馬にまで同情されるのか」
綱之の馬への経験は、異人の妙な手術であっけなく一蹴されてしまった。何のために生きて来たのかと言いたくなる。これも御一新のせいだと決めつけてしまえばそれまでだが、諦めてしまうには若すぎた。横浜に戻ってからの綱之は、何もかも中途半端なまま、何ひとつ手にすることなく時間だけが過ぎていくのを感じている。
お光とワデルが帰った後、書斎にいるダンに呼び出された。ダンは、上げ下げ窓の側で珈琲を飲みながら洋菓を勧めてくる。
「君は、横浜が良いですか?」
思わず、だからここに居るのではないか、と答えそうになった。何を言うかと異人の顔を睨み付けると、うまく伝わらないと気づいたかダンは笑いながら用件を告げた。
「北の馬は逞しい。君は、横浜の馬より好きになるかもしれません」
来春、獣医学を教えるために北海道へと向かうダンは、ついて来い、と言ったつもりなのだろう。綱之は一瞬、微笑む腹ぼてのお光が思い浮かんだが、「この町に未練があるわけじゃないしな」と胸の奥で呟いた。
最初の頃、船底の牛馬は鳴き叫び、雑魚寝をする乗客を悩ましていたが、何日も続くと声を発することも少なくなってくる。波はそれほど荒くない。しかし、慣れない船暮らしは人も動物も疲れさせる。綱之は、生気のない馬を擦りながら、「もうすぐだから辛抱しろよ」と元気づける。すると、後ろから声がした。
「お馬さんたちに、お薬だしてみる?」
振り返れば、絣の袷に半纏を引っ掛けて、足に脚絆を付けた、まるで伊勢参りでもしそうな娘が立っていた。叶枝の軽装を見ていると、行き先が分かっているのかと心配になる。だが綱之も北国がどれほど過酷なのか、背丈よりも深く雪が積もる、としか聞いたことがないので諌めることは出来ない。
「獣医もいる。そんなことで薬を無駄遣いするんじゃない」
「いっぱい持ってるから、大丈夫と思うけど」
この船にはダンと綱之以外にも、北を目指す多くの人が乗っている。中でも、叶枝の父は薬売りだと言う。
「お父ちゃんはね、蝦夷の熊は大きいから、いい熊胆が取れるだろうって」
他にも、大木の杉を求める材木屋がいる。雇われのマタギも同行していた。狭い船底には夢を抱いて来た多くの人が、牛馬の糞尿の臭いに苦しみながら、ひしめいているのだ。
「ねえ、函館に着いても一緒だよね?」と綱之を真似て馬を擦りながら、叶枝は問う。
「さあ、俺はダン先生と牧場を作りに行くから」
言いながらも綱之は、叶枝に薬売りの父に、材木屋にマタギに、乗り合わせた全ての人に縁を感じ始めていた。これから森を開き、家を建て、牛馬を育てる。暮らすには薬も必要だろう。新天地には何もない、と誰かが言った。自分たちで作り上げるのです、とダンが肩を叩く。どこまでも広がる大地に新しい町を作るのは、並大抵ではないだろう。だが、皆で手を取り合えば、いつか多くの人たちが暮らせるようになると信じるしかない。それは北海道の厳しさを知らない愚かさ故の思い違いかもしれないが、それでも何とかなる、と綱之は心の内で笑うのだ。
「なあ、あんたさあ……」
言葉を切ると、叶枝は大きな目を見開いて続きを待っている。綱之は言うかどうか迷ったが、ようやく、
「あんた、馬は好きか?」と口にした。
そろそろ函館の港は近いのだろうか。どこからか、カモメの声が聞こえて来た。