第一章・第二話 闇夜の失踪08.5
「お? 由那。今日はえらく早いな」
「ただいま。…何やってるの?」
この時間、珍しくリビングにいた俺は背後に近寄る気配を感じ取って顔だけ振り向いただけで相手を迎える。相手は仮にもこの家の主。そして俺は一応、使用人というやつに区分される。
世間一般ではこの態度は無いだろうと思われるだろうが、俺も由那も気にしていない。むしろこれが自然。これが普通だ。
俺がそう躾けたってのも無きにしも非ずだがな。
「あ? ああ。朱美さんがまた新たに衝動買いしたとかの絵画の配置を考えてるんだ。見りゃ分かるだろ」
「ふぅん…そう」
また不機嫌そうな顔を。
ったく。由那は極度の家族嫌いだからな。とくに朱美さんの勝手気ままなところは大っ嫌いなようで。まあ、分からなくもないが、そう露骨な顔するな。一応、仮にも母親なんだから。
「本当に、馬鹿みたい。ロクに家にも帰ってこないくせに、ここを美術館にして何が楽しいんだろう」
心底呆れたようなため息に俺も同意する。そりゃ、一つや二つの美術品なら文句は無い。だが、見渡す空間に十数点もの絵画やら美術品、骨董品の数々とくれば頭を抱える。
この状況も由那が家を嫌うことの一つだ。
古美術商が喉から手が出るほどに欲するこの名画・名品の数々を、こいつは何度壊そうとしたか。もう数も覚えちゃいない。こいつはそれだけの恨みを親に抱いている。
10年近くこいつのお守りをしているからそれが嫌ってほど分かる。俺としても雇い主である由那の親父より由那自身に深く思い入れがある。味方するなら損得を問わず当然こいつの方だろう。
「ったく。馬鹿言ってねーで、さっさと着替えて来い。今日はおでんにでもするか。給仕にそう言ってきてやるよ」
「…わかった」
憮然とした表情が少し和らぐ。こいつは金持ちらしくなく、一般的な家庭料理などを好む傾向がある。それは家族への反発か否か、俺には判断が付かないが。
しゅるりと首に巻きつけたマフラーを解くのを見、無言でそれを受け取る。手袋やら靴下やら投げ脱ぐのを文句も言わず拾ってやる。いつもなら鉄拳制裁してるとこだが、まあ、今日の俺は温厚だ。
まったく。来年から中学に上がるとは思えない態度の悪さだ。それも分かりはするが、一応宮永家の令嬢として常に恥じぬ所作を心がけろと言いたい。
「入学先は妥協してくれそうか?」
「まだ難航中」
再びぶすっとした表情に戻る。こりゃ、まだ荒れに荒れてるようだな。
こいつは曲がりなりにも貿易会社の社長令嬢。小学校に上がる頃はまだ経営が安定していなかったから公立の学校に通えていたが、大企業へと発展を遂げた今の状況では話も違ってくる。
もともと母親の方の血筋が旧家のなんちゃらとかで、現在も私立の学校へ編入すべきだと煩い連中もいる。それは由那が世間知らずの天然お嬢様っぷりを演じ、知らぬ存ぜぬを通して何とか免れていたが、来年は否応無く一流大学付属の中学校へ進学を強制させられるだろう。
財もコネも、そして由那自身の才能もある。これだけ揃ってる高価物件を中学側も放っておきはしない。現に1年も前からもう何校かから入学の案内が送られてきている始末だ。
道は遠いな。俺としても妹同然のこいつの数少ないわがままを通してやりたいと思ってはいるが、これは難しい山だ。
「でも諦めはしないよ。もともと勝手気ままにしているのはあちらなんだから、こういう時だけ口出ししても無駄な事を分からせてあげる」
にやりと笑む由那は心底俺に似てきた気がする。俺が育てたようなもんだから当然っちゃあ当然だけど。
「そりゃ面白い。梃子でも譲らないその根性しっかり見せてやれ」
「当然」
即答するいい返事に俺も笑う。傍から見れば、俺たちは悪魔よりも恐ろしい笑みを携えていただろう。自分で言うのもなんだが、自覚はある。
「でも問題はお爺様かな。あの頑固爺、母よりも煩わしいことこの上ないんだよね」
「ああ。あのくそじじいか。確かにあの朱美さんの親父だけあって一筋縄じゃあいかねーだろうな」
「うん、たぶんね。…あーあ。どうしようかな」
うーむ、と悩みこむその様子は、とてもじゃないが中学入学を控えた子供の仕草じゃない。これは経営者のそれだ。
皮肉だが、こいつは良い後継者になるだろう。俺の見立てだが、頭の切れるこいつは父親である隆社長のそれよりもずっと才能ある経営者になるだろう。本人がどれだけ嫌がろうと、こいつには天性の人の上に立つ素質があるのは間違いない。
いっそのこと今から会社の経営権奪って自分で好きなように動かしちまえば良いんじゃないか? と、由那に直接勧めようかと思うほどだ。12のガキには重荷だが、こいつなら超えていける根性がある。
「もう少し根気良く粘ってみるつもりだけど、もし説得できなかったら二重入学でもして私立校で不祥事でも起こしてやろう…なんて考えてるけどね」
「あ?」
「私を無理やり入学させる人たちが悪いって言うこと」
くすくすとさも楽しげに笑う子供らしくない光景。うわ、やっべ。こいつをこんなにしたの、俺のせいか?
それは明らかに犯罪だろうが、まあこいつに害が無く、かつ楽しめれば俺としては問題ないか。確かに、無理やり押し付ける野郎たちが被害を被ろうが関係ない話だ。自業自得だな。
「いざとなったら協力してやるよ」
「それはどうも。柳田さん」
結局、最後はにっこりといつもの笑みを浮かべる。
その表情はちゃんと子供に見えるが、これも確信犯だしな。俺としては慣れたものだが、同僚の使用人たちはこの捩れに捩れまくった捻くれお嬢様に、必要以上に関わらないのは少々問題だ。
これを教育したお目付け役として、一つでも欠点があるのは俺としても不名誉な事なんでな。と言いつつ、今からこれを更生させる気はさらさら無いが、人に否定されるような事実があっては不愉快だ。その点は改善すべきだろう。
つか、この性格はこいつが世を生き抜くための必要悪だ。まあ、でも、今ごちゃごちゃと考えてても始まらない。
「…とりあえず着替えて来い」
予想以上に俺に似た人格になった2号を、とりあえず着替えさせるために追い払う事にした。
ドカっ! ドカドカ…、バタンっ!!
「!?」
広い屋敷に響き渡るような乱暴な怒りの轟音に、変わらず朱美さんの趣味である骨董品の壺を磨いていた俺は思わずそれを落としかけた。
「おい、どうした?」
普段なら運転手も後ろについているはずだが、今日は由那一人のようだ。って、おい! 今日はすごいどか雪が降るとかで、外は猛吹雪だったはずだぞ!
もしかして、いや。もしかしなくとも、これは一人で帰ってきやがったな。その荒れに荒れた服装を見れば一目瞭然だ。
「お前な。なんて危ない事を…」
恐らく迎えを振り切って歩いて帰ってきたのだろう。荒く息を吐くその様子ですぐに悟った。顔なんか見なくても分かる。何年一緒にいると思ってる。
結局あれから強引に事を進めさせられ、受験を受けさせられた事で鬱憤が溜まってるのは良く分かるが、それにしても限度ってもんがあるだろう。もし危険な目にでも遭ったらどうするつもりだ、この阿呆が。
俺はそれを十分に注意するつもりで強引に頭を上げさせた。もちろん頑として拒んだが、俺と子供のこいつの力ではその抵抗もたかが知れている。
「おい、由那! いい加減駄々をこねるんじゃ……」
ねぇよ。と、言うつもりだった。その後に続く叱咤も当然口にするつもりだった。だが、続きが紡げなかった。
己の信念を必ず貫き、これ以上ないほど曲がった性格で、相手に屈服する事を決して許さない。興味の無いものはバッサリと切り捨てるが、一度こだわったらとことん追求し、納得がいくまでは決して手を抜かない性格のこいつ。
自分が弱っている所、特に涙は決して誰にも、長年一緒に暮らしてきた俺にさえ見せる事を拒む由那の瞳から、とめどなく溢れる雫。もちろん雪の跡なんかじゃない。
普段なら頑として隠すくせに、それすらも忘れてしまったかのように後から後から溢れ出る涙をただただ流し続ける。
何故泣いているのか。それを問う時間は与えられなかった。
「も…、もう、嫌だ……。な…で、私だけ…じ、ゆうにしちゃ…いけない、の」
搾り出すような声。その悲痛な叫びは、歳相応の弱さが見て取れた。
はぁ。ったく、俺とした事が。何で忘れてたんだかな。普段の飄々とした俺2号の歳相応らしくない姿に、当然のようにこいつは大人なんだと思い込んでいた。あまりにも美しく立つその姿に、こいつは強いのだと勝手に思い込んでいた。
馬鹿だな、俺は。いくら強く見えていても、所詮はまだ子供。思春期すらまだのガキだって事を理解していなかった。
普段はガキだガキだと軽口を叩いておきながら、本当の意味でのこいつの幼さを支えてやれていなかった。こいつの弱さを、その脆さを受け止めてやれていなかった。
「きょ、今日…、佳奈たちに…裏切り、者って…いわれた」
「…ああ」
「馬鹿にするなって…。ふざけるなって…」
「…ああ」
「人を見下して…楽しいか、って…いわれた」
「……そうか」
恐らくこいつのダチは許せなかったんだろう。由那が遠くへ行ってしまうのを。もう二度と同じ空間で勉強が出来なくなるのを。
そして言ってしまったんだろう。こいつが、由那がずっとその小さい体で抑え付けてきた、長年の無数にある小さな傷を開く、もっとも残酷な言葉を。もっとも恐れていた言葉を。
「あんた、なんて…もう…いらない、って……」
嗚咽混じりの消え入りそうな声で吐き出した言葉。やはりそうか。
こいつは自分を否定する言葉が一番怖かったんだろう。自分の存在そのものを否定される事。そのことが最も傷を抉り、深い苦しみを呼び起こさせる言葉だったんだろう。
そうでなければこいつがここまで弱さをさらけ出すはずがない。あれほど誇りを高く持っていた由那が、打ちひしがれる姿を見せるはずがない。
「大丈夫。大丈夫だ、由那」
しがみついて震えている細い肩をあやすようにぽんぽんと叩く。その細さに改めてこいつの幼さを知り、思わず苦笑する。
俺は決してお前を傷つけない、などと言うつもりは毛頭ない。たとえ誰もが離れて行っても俺はお前の側にいる、と慰める気もない。
言える事はただ一つ。
「俺はお前の敵にはならない。今まで10年近くも厄介なひねた性格のお前のお守りをしてきたんだ。今更、そんな面倒な事はしねぇよ」
「……っ、……ふ…、うっ、うぅぅぅ…――」
しゃくり上げていた由那の息が一瞬だけ止まる。だがそれはほんの一瞬で、次の瞬間。掠れた嗚咽が聞こえてきた。
「ったく。馬鹿な心配するな。いざとなったら協力してやるといっただろう」
縋り付くようにして泣く由那に、俺は深々とため息を付く。
まったく。やれやれだ。
「!? っ…な、なに……」
好きなだけ泣きつかせた後。俺は不意に片手で覆うように由那の視界を遮る。当然、唐突な事に落ち着いてきた様子の由那は驚いている。
「おい。良く聞けよ?」
真っ暗な視界に響く声に、ビクついたように由那の肩が跳ねた。それでも構わず続ける。
「お前は人の心に聡い。だがな、それだけじゃ本当の真意は分からない。お前に分かる真意は物事の一端だ。それに触れたからといって全てを理解した気になるな。
人は必ずしもお前の敵じゃない。敵意ある人間も、真意の裏を読めば無害だって事もあるんだ」
「……!」
ハッとしたように息を詰める様子に満足して覆っていた手を外してやる。ぼんやりと視界が見えて来ているだろうその瞳に、俺はにんまりと笑ってやる。
「…………」
「どうだ? 目が覚めただろ」
ふっ、と口元を吊り上げ、それ以上の相手はしてやらない。気を持ち直してきたこいつのことだ。どうせ文句の一つや二つや三つ、何重にも束ねて返すに決まっている。
「や、や、や……柳田さん!!」
ほうら、来た。
「おっと。文句はきかねぇぜ、お嬢様?」
「な、な、なっ…! っ、ありえない!!」
心外だと逆上する由那に思わず笑みがこぼれる。こいつはそうやって怒っていたほうがいい。らしくなく気落ちする様はあまり似合わねぇぜ。
「馬鹿! 根性悪っ! この、悪口!」
ったく、酷い言われようだな。
でもま、浮上したようだし。少しくらい文句を聞いてやるか。本日の俺も、珍しく温厚だからな。