第一章・第一話 再びの大地03.5
「おめでとう、真希ちゃん。柳田さんと結婚するんだって?」
「ありがとう、由那。それにしても情報が早いのね」
勢い良く抱きついてきた子を笑顔で抱きしめる。私の可愛い可愛い妹のような存在。
私の名前は高瀬真希。いずれは柳田真希になる予定だ。そしてこの子、この愛らしく聡明な少女は宮永由那。私の仕事先でもあるこの宮永家のご息女だ。華奢で可愛くて、礼儀正しくて頭も良くて、そして何より誰よりも優秀で健気な子である。
私が由那のことを妹のように可愛がっているように、彼女も私のことを姉のような存在だと言ってくれた。それがとても嬉しい。何よりも嬉しい。恋人からプロポーズされた時よりも嬉しかった。
彼女の両親は全く家に帰ってこない勝手な親たち。ワーカホリックの旦那様と遊び人の奥様。本当に常識では考えられない方たちだが、私にとっては彼らが雇い主だ。文句は言えない。
でも内心は文句のオンパレードだ。私が宮永家に勤めることになった頃、彼女は樹以外の使用人には本音を語ろうとしなかった。穏やかでいても、決してその本心を悟られないようにしていた。彼以外は誰も信用していなかったのだ。
ちなみに樹とは職場の同僚で、由那のお目付け役をしている男の事だ。その彼と夏に結婚が決まったのはいいが、私の可愛い可愛い由那を汚染するような教育方針はどうにかして欲しい。おかげで由那も樹に似てすっかり黒くなってしまったじゃない!
でも彼がいたから由那はちゃんとした人生を歩んでこれたのだと思っている。樹から愛情を受けたからこそ、彼女はこうして今笑っていられる。そうでなければ、完全に心を閉ざしてしまっていただろうから。
歳は近くても、さすがに13年も勤めているだけの事はある。若手では一番の古株で、旦那様の秘書に次ぐ長さだ。だから樹が由那の兄であり、父親のような存在なのも頷ける。ちょっと悔しいけど。
「ね、真希ちゃん。お式は絶対に宮永系列の式場を使ってね。サービスするように言っておくから」
「あら、嬉しい。是非お願いしちゃうからね」
「うん。絶対ね」
ああ、なんてかんわいいのかしら! あまりの可愛さに思わず抱きついてしまった。
私が男だったら、絶対に由那をモノにしていたのに! くぅぅ、なんて惜しい事なのかしら。
いいえ。私が女だからこそ、由那に寄り付く虫たちを駆除できるのよ。私の可愛い妹に近づく害虫は末代まで祟ってあげるわ。そうよ、触らせるどころか声すら彼女にかけさせないわ。絶っっ対に!
「でもちょっと寂しいな」
「え?」
「だって…お式が済んだら真希ちゃん、辞めちゃうんでしょ?」
くぅぅぅ! そうだ。そう。そうなのよ!
宮永家で働く既婚の女性は退職するのが通例だ。別にそういった決まりは無いけど、でも少子化対策のために子供が二人以上いない既婚の女性はここでは働けないのよ。良い対策かもしれないけど、理不尽だわ。
いえ。いいえ。絶対に私は帰ってくるわ。すぐ双子の赤ちゃん産んで帰ってくるわ。何が何でも。
「ま、真希ちゃん?」
思わず両の手をグーにして力んでしまっていた私を、由那は怪訝そうに見つめてくる。
ああ。何て可愛らしい表情。笑った顔も好きだけど、そういう表情も大好きなのよ? もう、食べてしまいたいわ。
待っててね、由那。お姉ちゃんは必ず1年で戻ってくるわ。長い1年だけど、我慢してあなたを遠くから思っているからね。いいえ、毎日電話するわ。愛おしい妹のために。
「そっか。電話すれば寂しくないね」
「…え? あ、え、ええ。そうね。電話するわ、絶対。毎日するわ」
「うん。楽しみにしてるね」
吃驚したわ。思わず考えている事が口に出てしまったのかと思ったわ。でも私たちは以心伝心よ。何て素晴らしいの。
由那の周りはまるで空気清浄機のように清らかな空気で満たされている。もしかしたら彼女こそが空気清浄機なのかもしれない。いいえ、彼女が空気清浄機なのよ。私のオアシスよ。
ああ。この子を樹なんかじゃなく、私の手で育てたかったわ。いいえ。樹ほどじゃなけど、私だって5年間は一緒に生活してたもの。誰より一緒にいたもの。仕事の時間が終わっても由那の側にずっといたもの。例えその間に家中に埃がたまって腐食しかけたとしても、私はずっと由那の側にいたのよ。ずっと、ずぅーと。
さすがに半年も家に帰らなかったら由那に帰ったほうが良いと突き放されても、彼女の優しさだからと4日は粘りながらも渋々帰ったり。帰ってそこで見たものは金輪際話すつもりは無いけど、壮絶だったって言う思い出もあるわ。
ああ、何で私は女なの? 何故子供を産むのは女じゃなきゃいけないの? なぜ由那と私はずっと一緒にいられないの?
はあ。世の中の無情さに悲しくなるわ。
季節は過ぎ、もう1年と4ヶ月目。あれから由那と会えた機会は一度たりとも無い。そして彼女との電話も私が妊娠して以来ずっとおざなり。
メールは不定期ながらも続いているけど、それでも徐々に少なくなってきている。恐らく身重の体に気を使ってくれているのだと思うし、それに由那も色々と忙しいのだろう。
決して由那が悪いわけじゃない。彼女は学校以外にも色々と忙しいのよ。社交ダンスやピアノ、茶道や華道、お琴に日本舞踊。武道も護身術程度に習っていたり、英会話やテーブルマナーに、優雅な立ち振る舞いを学んだり。寝る時以外は自由時間なんてあったものじゃない。睡眠時間だって4~5時間しかとってないし。育ち盛りの年頃なのによ!
これじゃあワーカホリックの旦那様より酷いわ。いつか体壊しかねない。いいえ、実際に壊しているのよ。私が必死で看病して。そう、あの時はとてもムラムラ来たのよ。って、そうじゃなくって!
嫌っている両親の言いなりになって何でも我慢する必要なんてないじゃない! なんでそんなに良い子を演じているのよ。もっとわがままになったって良いのよ。あの自由奔放な両親みたいに!
とにかくそれ以来、私が勤めていた5年間で色んな物を止めさせたわ。十分プロの域だったピアノと茶道、華道、お琴に日舞。英会話も当然必要なし。残りの社交ダンスとテーブルマナーに、身を守る術の護身術。それをお嬢様の礼儀として恥を掻かない程度に無理なく指導するようにしてもらったのよ。
ようやく時間作ってもあの恋愛体質の奥様が不必要な見合い話持ってきたりして。当然由那が握りつぶしてたし、私も存分に協力したわ。
恐らく止めていた私が退職したから復活したのね。由那がまた体壊しでもしたらどうしてくれるの!
それにしても。
「もー!! どうしてもっと早く子供が産まれないの!」
「なんだ、真希。そんなに早く俺との子供産みたいのか?」
意地悪そうに微笑んで、裏切り者の樹が語りかけてくる。そうよ、彼は毎日私の由那と会ってるから裏切り者なのよ。それでいて職場の文句を言ってくるから、本当に嫌なやつなのよ。
「違うわ。早く由那に会いたいの。だから絶対に双子の赤ちゃん産むわ」
「産むわって…、宣言して生まれるようなもんじゃないだろ?」
「いいえ、根性で産んで見せるわ。そしてお母さんに子供たち預けて真っ先に復帰してやるんだから!」
「ふーん」
何か含みのある声で私を見る樹が癇に障る。
「何よ。あなたは良いじゃない。ずーっと、四六時中。可愛い可愛い私の由那と一緒にいられるんだから」
ムカムカと樹を責める。帰ってくるなり文句を吹っかける彼が私は鬱陶しくて鬱陶しくてたまらない。
こんなに神経をすり減らせていたら流産してしまいかねないから、あまり思い悩まないようにしているけど、羨ましくてずるいと思っているのだ。
「お前さ、由那みたいな子供を増やすつもりか?」
「あら、いけないかしら? 由那みたいに可愛くて、可愛くって、ものごっつ可愛い女の子の双子を産むわ!」
意気揚々と答える私に、樹はいやに真面目な表情で見つめてきた。
「俺が言っているのは、由那みたいに親の愛情を知らない子を増やすのかって聞いてるんだ」
「……っ、そ、それは」
低い声音。いつもより厳しく聞こえるその声は、当然厳しく言っていた。そして表情を見ると少し怒っている。
当たり前、か。確かに私は考え無しだったかもしれない。これから生まれてくるこのお腹の赤ちゃんたちに、由那が味わってきたような寂しい思いを決してさせてはいけない。
そんなことを私がしたら、由那は私を恨んでしまうかもしれない。もう口も利かなくなってしまうかもしれない。
嫌だ。そんなこと嫌。由那に話しかけてもらえない生活なんて、考えられない。
「…………」
「大丈夫だ。由那には言わないでいてやる」
私が真っ青な表情をしていたせいか、樹はふっと表情を和らげた。これは私にだけ見せる顔だ。由那は愛情こもった視線だと言っているが、これは別の意味で私を特別可愛がっている(というか、明らかに苛めている)表情なのだ。
しかし私、何でこんな人好きになったのか未だに分からない。ただ由那と樹と三人でいる事が多かったから、私はただ由那の愛情と混ざって勘違いしているのかもしれないのだと、最近ちょっと思い始めた。
「そうそう。今度由那がさ、妊娠祝いでお前が行きたがってたホテルの高級ディナーに招待してくれるってさ」
「え? 由那も一緒なの!?」
「いや。あいつが気を利かせたから俺と二人だ。俺は三人でと誘ってみたけどな」
意地悪く微笑む彼は嫌いだ。私は明らかに落胆し、肩を落とす。
そんな様子に気が付いたのか、樹は綺麗に折りたたまれたメッセージカードを差し出した。
「何?」
「お前宛。由那からだ」
「!」
それを聞くなり彼からひったくるようにして奪い取る。
つらつらと書かれた綺麗な字を辿る。簡潔にまとめられた由那らしい内容を何度も何度も読み返す。
そこには、来月の第一週の水曜日に一緒にランチに行こうとの事が書かれてあった。ちょうどテスト休みだとかで、日が空いているらしい。
こ、これはデートよ。由那とのデートじゃない! なんて素晴らしいの!
本当は今日の彼女の誕生日にもプレゼントを渡しに行きたかったけど、樹に止められてしまって渡せていない。それに、これは私と由那の二人だけのお出かけ。由那を一日独占出来るまたとないチャンスだわ。
「それで日程だけど、お前はそれで良いのか返事聞いて来いって…、おい? 聞いてるか?」
ついデートの事をうっとりと妄想していた私は、その後の樹の問いかけは全く聞こえていなかった。そのため勝手にデートの予定が組まれていたが、後日改めてそれを聞かされてもすっかり有頂天だったので、私は全く気にしないのだった。