第九話 人生初のライバル
部屋にコバエがいた。
小さかった。でも確かにいた。窓のあたりをふわふわと漂っていて、特に目的もなさそうに飛び回っていた。
——この時代にもコバエがいるのか。
近未来だ。AIが発達して、魔法もある世界だ。てっきり害虫の類は絶滅させているか、少なくとも完全に駆除済みかと思っていた。でもいる。普通にいる。二〇五九年になってもコバエは健在だった。
——絶滅させればいいのに。
そう思ってから、少し考えた。
まあ——生命のバランス的なものがあるしな。
食物連鎖というものがある。コバエを食べる何かがいて、その何かを食べる何かがいて。人間の都合で一つの種を絶滅させると、どこかで歪みが出る。それはわかる。
——でもうっとうしいな。
コバエはふわふわと俺の顔の近くを通過した。
俺はその瞬間、倒すことを決意した。
――――――――――――――――――
腕を伸ばした。
届かなかった。
赤ん坊の腕は短い。しかもまだ思い通りに動かない。コバエに向かって腕を伸ばしたつもりが、空を切っただけだった。
コバエはふわふわと逃げた。
追いかけた。寝返りを打って、腕を伸ばして——届かなかった。
——くそ。
俺は仰向けに戻った。コバエがまた戻ってきた。図々しかった。
——倒せない。
これが現実だった。魔力を鍛えて、言葉を覚えて、着々と成長している俺が、コバエ一匹倒せない。
――――――――――――――――――
しばらく睨み合いが続いた。
いや、睨んでいるのは俺だけで、コバエは何も考えていないと思うが。
——名前をつけるか。
なぜそう思ったのかはわからない。でも、そう思った。
名前のない敵というのは、倒してもすっきりしない。名前があってこそ、ライバルになる。
俺は考えた。コバエにふさわしい、かっこいい名前。
——バルザック。
なんとなく、そう決めた。フランス系の家に生まれたのだから、フランスっぽい名前がいいと思った。
——バルザック。お前を俺の人生初のライバルと認めよう。
コバエ——バルザックは、俺の顔の上をふわふわと漂い続けた。
――――――――――――――――――
そこに、メイドが来た。
いつものように扉を開けて、いつものように俺の様子を確認しに来た。
俺はバルザックを目で追いながら、助けを求めるように視線を向けた。
メイドはバルザックを見た。
それから——腕を動かした。
変だった。
腕の動きが、人間のそれではなかった。肘から先が、一瞬だけ——変形した。金属的な何かが展開して、収束して、また元に戻った。
ほんの一瞬の出来事だった。
バルザックは、いなくなっていた。
音もなく、跡形もなく、消えていた。
メイドはにこにこしたまま、何事もなかったように俺の毛布を直し始めた。
俺はメイドの腕を見た。何も変わっていなかった。普通の腕だった。さっきの一瞬が幻だったかのように、何の痕跡もなかった。
——メイドさんって、ロボだったの。
俺は天井を見た。
バルザックはもういなかった。




