第二話 西暦と夢のない未来の話
生後三週間が経った。
たぶん。
正確にはわからない。赤ん坊に時間の感覚はない。眠くなったら寝て、腹が減ったら泣いて、おむつが濡れたら泣いて——それだけだ。前世では二十七年間、自分でコントロールしてきたはずの体が、今は完全に本能に支配されている。
——泣きたくないのに、泣く。
これが地味につらかった。
腹が減る。脳が「泣け」と命令する。俺の意識が「いや待て落ち着け」と抵抗する。でも体は泣く。盛大に泣く。するとどこかから母親が来て、俺を抱き上げる。そういうサイクルだ。
尊厳とは何か、と俺は天井を見ながらよく考えた。
答えは出なかった。
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情報収集だけは続けていた。
目はまだぼやける。でも耳は思ったより使える。聞こえてくる会話を拾い、翻訳して、少しずつ状況を把握しようとしていた。
わかったこと。
父親は会社に勤めている。かなり上の立場らしく、家は広い。母親は穏やかで、俺を抱くとき必ず何かを話しかけてくる。言葉の意味はまだ半分しかわからないが、声のトーンでだいたい察せた。
——悪い環境ではない。
転生先としては恵まれている方だろう。チートはないが、衣食住は保証されている。前世でエリートコースを歩んできた経験が、何かしら活かせるかもしれない。
そう、冷静に分析していた。
——ただ。
俺は近未来に転生したと思っていた。壁のあちこちにパネルがある。どこかで機械の音がしている。ドローンの羽音が窓の外から聞こえる。どう見ても現代ではない。
では何年なのか。
それだけが、まだわからなかった。
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答えは、意外なところにあった。
ある朝、父親が出かける前に俺の顔を覗き込んだ。いつもそうする。仕事に行く前の習慣らしい。でかい手で俺の頬をそっと触れて、何かを言う。
俺はその日も天井を見ていた。
そして——気づいた。
父親の背後、壁に埋め込まれたモニターの隅に、小さな文字が光っていた。
日付だった。
俺は目を細めた。ぼやける視界を、必死に絞った。
——読める。
西暦、二〇五九年。
俺はしばらく、その数字を見つめた。
二〇五九年。
——二〇五九。
頭の中で計算した。現代から、大体三十五年後。俺が死んだのが二〇二六年だとすれば——三十三年先の未来に転生した。近未来に転生した、という予想は正しかった。
——では。
俺は天井を見た。
二〇五九年ということは、二〇四五年はすでに過去だ。
二〇四五年——シンギュラリティ。AIが人間の知性を超えると、かつて言われていた年。俺が生きていた頃、ネットでさんざん議論されていた。「仕事がなくなる」「人類が変わる」「AIが世界を管理する」——色々な未来予測があった。
ではこの世界では、二〇四五年に何が起きたのか。
父親は今日も仕事に出かけた。
スーツを着て、端末を持って、どこかへ向かった。
——仕事、してるじゃないか。
シンギュラリティが来たら仕事しなくていい未来が来る、とか言っていたのは何だったのか。俺の前世では散々「二〇四五年以降は人間が働かなくていい時代になる」という論調があった。楽観的すぎる未来予測だとは思っていたが——やはり現実はそう簡単ではなかったらしい。
父親の背中が、扉の向こうに消えた。
——夢がないな。
俺は思った。
三十五年後の未来に来ても、人間はまだ働いている。満員電車かどうかはわからないが、朝に家を出て仕事に行く生活は変わっていない。AIが世界を変えたとしても、人間の日常というのはそう簡単には変わらないらしい。
——まあ、そうか。
考えてみれば当たり前だ。世界が変わっても、人が生きていれば、誰かが何かをしなければならない。
腹が減ってきた。
脳が「泣け」と命令してきた。
俺の意識が「まだ考えてる途中なんだが」と抵抗した。
体は泣いた。
どこかから母親の足音が聞こえてきた。




