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第十六話 父の仕事とすごいものの話

父親が帰ってきた。


いつもと、少し違った。


扉を開ける音からして違った。


いつもは静かで、落ち着いた所作で帰ってくる人なのに、今日は少し足音が速かった。


エミリーに上着を渡すときも、いつもより動きがせわしない。


——何かあったな。


前世の営業経験が、無意味に反応した。


人間は興奮しているとき、細かい動作が雑になる。


上着の渡し方、鞄の置き方、靴の脱ぎ方——全部がいつもより0コンマ何秒か速かった。


父親はそのまま、母親のいる部屋に入った。


声が、聞こえてきた。


――――――――――――――――――


断片だった。


壁越しで、まだ言葉を完全に聞き取れる段階ではない。でも俺の耳は、ここ数ヶ月で確実に鍛えられていた。


拾えた単語を、頭の中で並べた。


——信じられない。

——出力が、桁違いだ。

——解析チームが全員、困惑している。

——どこから来たものか、わからない。


俺はエミリーの腕の中で、天井を見た。


——エネルギー会社の父が、こんなに興奮している。


父親はこういう人ではなかった。少なくとも俺が見てきた数ヶ月の間、あの人が声のトーンを上げたことは一度もなかった。来客があっても、仕事の話をしていても、常に落ち着いていた。


格のある大人の、あの静けさが、今日だけ崩れていた。


——何を見つけたんだ。

この世界には、エネルギー会社の父親がこれほど興奮するようなものが存在する。


チートなし転生者の俺には関係ない話かもしれないが——それでも、気になった。


――――――――――――――――――


しばらくして、また声が聞こえた。


今度は少し落ち着いたトーンだった。母親と話している声だ。


——ヴァンドームにも、話を通した。


——一緒に調べることになった。


俺の耳が、そこで止まった。


——ヴァンドーム。


以前来たお客様の会社だ。格のある男性で、父親がいつもより丁寧に接していた。あの人が「もう少し大きくなったら、お互いの子供を会わせよう」と言っていた。


——つまり、幼なじみ候補はヴァンドームの子供ということになる。


俺は考えた。


ヴァンドーム。


パリの広場の名前だ。前世でも知っていた。高級ジュエリーが並ぶ、あの気品のある広場。その名前を会社名にしているということは——相当な家柄だということだ。


——ヴァンドームの子供。


俺は思考を展開した。


前世のエリートサラリーマンとしての分析能力を、全力でヴァンドームのお嬢様の人物像推定に投入した。


ヴァンドームだ。あのヴァンドームだ。政治系の、格のある家の子供。きっと物静かで、礼儀正しい。でも芯はある。育ちのよさというのは、滲み出るものだ。


髪は——きっと手入れが行き届いている。色は明るいかもしれない。ブロンドか、あるいは上品な栗色か。目は——落ち着いた色がいいな。グレーとか。深い青とか。ヴァンドームの名前に似合う、静かな目。


声は——きっと穏やかだろう。でも、話すと知性が滲み出る感じの。


——おしとやかで、聡明で、一本筋が通っている。


——ヴァンドームのお嬢様。


完璧じゃないか。


——完全に想像だが。


――――――――――――――――――


扉が開いた。


父親が部屋に入ってきた。


いつもと顔が違った。目が、少し輝いていた。大人があれほど目を輝かせているのを、俺は初めて見た気がした。


父親は俺を見て、少し笑った。それから抱き上げた。


温かかった。


——いつもより、少し体温が高い気がした。


大人が本気で何かに興奮しているときの熱だ。俺には何のことかわからない。でも父親が何か大きなものを見つけて、それに全力で向き合っていることだけは、伝わってきた。


父親が何か言った。


俺の名前を呼んで、何か言った。言葉の半分しかわからなかったけれど——


——お前にもいつか話せる日が来る。


そういうニュアンスだった気がした。


俺は父親の顔を見た。


——父さん、一体何を見つけたんだ。


答えは返ってこなかった。父親はただ、少し力強く俺を抱いた。


――――――――――――――――――


その夜、俺は天井を見ながら考えた。


父の仕事のこと。解析チームが全員困惑した、正体不明の何か。ヴァンドームと共同で調べることになった、桁違いの出力。


——この世界には、まだ俺の知らないものがある。


そして。


——ヴァンドームのお嬢様。


おしとやかで、聡明で、一本筋が通っていて、落ち着いた綺麗な目をしていて——


——会うのが楽しみだ。


完全に想像だが。


俺は小さな拳を、こっそり握った。


誰にも伝わらなかったが、それでよかった。

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