第十五話 ハイハイと運動神経とあと色々
自慢じゃないが、運動神経はよかった。
体育祭のリレーで最終走者に選ばれたこともある。二十七年間、この体には自信があった。
スポーツ万能とまでは言わないが、初めてやることでも、コツをつかむのだけは早かった。
——今の体には、まだ慣れていない。
それだけが問題だった。
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エミリーが掃除をしていた。
いつも通りだ。無駄のない動きで、棚を拭いて、床を整えて、部屋の隅々まで丁寧にこなしていく。
俺はそれをぼんやり眺めていた。
エミリーが棚の下の埃を拭くために、かがんだ。
——行くか。
なぜそう思ったのかは、あまり深く考えないことにする。
子供というのは、気になるものに向かって突き進む生き物だ。
それだけだ。動機に他意はない。完全に無意識の本能だ。誰も責めてはいけない。
問題は——この体で、そこまで辿り着けるかどうかだった。
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理屈はわかる。
手と膝を交互に動かす。重心を前に移動させる。腕で体を支えながら、足で地面を蹴る。
そういうことだ。構造として、難しくない。前世で運動力学を専門に学んだわけではないが、見ていればわかる。
——いける。
俺は床に手をついた。
腕に力を込めた。
——あ。
顔から床に突っ込んだ。
壁のモニターが「転倒を検知しました」と静かに光った。余計なお世話だった。
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気を取り直した。
今度は慎重にいく。焦らない。重心を確認して、腕の角度を調整して——
前に進もうとした。
後ろに進んだ。
——なぜ。
もう一度試した。今度こそ前に進むイメージで、体に命令を送った。
右腕と右足が同時に出た。
——なぜ。
自慢じゃないが、体育祭のリレーで最終走者に選ばれたことがあるこの俺が、なぜ前に進めない。運動神経とは何だったのか。二十七年間の自信とは何だったのか。
モニターがまたひっそりと光っていた。
「転倒を検知しました」
——うるさい。
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四回目の挑戦だった。
今度は勢いをつけた。助走はできないが、気持ちの上では助走をつけた。エミリーの方向を見た。距離を測った。いける。絶対にいける。
——おらあ。
声に出た。
次の瞬間、体が盛大に前に倒れた。
床が顔に近づいてきた。
——あ、これはまずい——
痛かった。
本当に、痛かった。
泣きたくなかった。エリートサラリーマンとして、泣くのだけは避けたかった。でも体が泣いた。盛大に泣いた。前世の尊厳もプライドも関係なく、赤ん坊の体は素直に泣いた。
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エミリーが来た。
音もなく、0コンマ何秒かで来た。サイボーグの反応速度というのは、人間のそれとは別物らしい。
抱き上げられた。
温かかった。腕が機械のはずなのに、温かかった。エミリーが何か言いながら、背中をゆっくりとさすってくれた。
「坊っちゃん、頑張りましたね」
——褒められた。
泣きながら、俺は密かに拳を握った。誰にも伝わらなかったが、それでよかった。
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泣き止んでから、もう一度床に降ろしてもらった。
エミリーが少し離れた場所にしゃがんで、こちらを見ていた。にこにこしていた。「おいで」というように、手を伸ばしていた。
——もう一回だけ。
今度は気負わなかった。運動神経のことも、前世の自信のことも、全部脇に置いた。ただ、エミリーの方向を見た。
手を出した。膝を動かした。
前に、進んだ。
一歩だけ。それだけだった。
「あっ」
エミリーが、声を出した。
小さな、本当に小さな声だった。にこにこではなく——本当に驚いた顔だった。
これまで見てきたエミリーの表情の中で、初めて見る顔だった。
俺は小さな拳を、こっそり握った。
——よし。
誰にも伝わらなかったが、それでよかった。




