第十四話 離乳食とお祈りと異世界だった件
気づいたら、離乳食が始まっていた。
具体的な時期は把握していない。赤ん坊に正確な時間感覚はない。
ただ——ある朝、いつものミルクではなく、ドロドロとした何かが目の前に現れた。
匂いを嗅いだ。悪くない。
食べた。
——普通においしい。
前世では朝食を抜くことも多かった。忙しいサラリーマンの宿命だ。でも今は違う。離乳食を食べる以外にやることがない。全力で食べた。
エミリーが「坊っちゃん、お上手ですよ」と言いながらにこにこしていた。
——褒められた。
嬉しいのか悲しいのか、よくわからなかった。
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しばらくして、家族と一緒に食事をとるようになった。
テーブルに父親と母親が座り、俺はエミリーに抱かれながら参加する形だ。家族の食卓に加わるようになった。
それ自体は、悪くなかった。
前世では家族と食卓を囲む機会がほとんどなかった。仕事が遅い、独り暮らし、コンビニ飯——そういう生活だった。だからこういう光景は、なんとなく新鮮だった。
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父親が両手を組んだ。母親も同じようにした。エミリーも、俺を抱えたまま静かに目を閉じた。
父親が、低い声で言い始めた。
「父よ、あなたのいつくしみに感謝してこの食事をいただきます」
——お祈りか。
俺は聞いていた。キリスト教の家庭だったのか。まあ、フランス系の家だし、ありえる。
「ここに用意されたものを祝福し、わたしたちの心と体を支える糧としてください」
——うん、よくある食前の祈りだ。
「わたしたちの主、無名の救世主によって」
——うん、わたしたちの主イエス・キリストによって——
待て。
「アーメン」
——今なんて言った。
俺は固まった。
無名の救世主。
今、父親は確かにそう言った。「わたしたちの主、無名の救世主によって」。
——無名の救世主って、なんだ。
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食事が始まった。父親と母親は普通に食べ始めた。エミリーも俺の離乳食の準備を始めた。
でも俺の頭の中は、さっきの言葉でいっぱいだった。
わたしたちの主、無名の救世主。
キリスト教の食前の祈りなら「わたしたちの主イエス・キリストによって」のはずだ。でもこの家では「無名の救世主」と言った。
——イエス・キリストじゃないのか。
俺は考えた。フランス系の家庭。キリスト教らしい祈り。でも救世主の名前が「無名」。
——どういうことだ。
俺はエミリーを見た。
「……救世主様ー?」
エミリーが俺を見た。首を少し傾けた。
「はい?」
「救世主様ー」
エミリーはにこにこしたまま答えた。
「主の教えを伝えた救世主様ですよ」
——主の教えを伝えた。うん、それはキリストと同じだ。
「……イエス様?」
エミリーの顔が、ほんの少し止まった。
「……イエス、ですか?」
「うん」
エミリーはしばらく考えるような顔をした。それから、穏やかに言った。
「申し訳ありません、坊っちゃん。私にはわかりかねます」
俺は少し間を置いた。
「救世主様のお名前は……わかっていないのです。残念ながら」
——名前が、わかっていない。
エミリーはにこにこしていた。何も不思議に思っていない顔だった。名前がわからないのが当たり前、そういう顔だった。
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その後、離乳食を食べながら、俺はずっと考えていた。
——嘘だろ。
キリスト教じゃないのか。救世主はいる。食前の祈りもある。でも救世主の名前が伝わっていない。「無名の救世主」として信仰されている。
——じゃあ、ここはキリスト教の世界じゃない。
似ているけど、違う。
——異世界、だったのか。
俺は天井を見た。
考えてみれば当たり前だ。転生先が「完全に現代地球と同じ世界」である必要はない。
魔法があって、AIが発展して、2つ名持ち美少女サイボーグ護衛霧使いメイドが居る近未来——その時点で十分に「別の世界」だ。宗教まで違っていても、何もおかしくない。
——気づくのが遅すぎた。
俺は密かに反省した。エリートサラリーマンのくせに、情報収集が甘かった。
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そこで、ふとエミリーを見た。
にこにこしていた。いつも通りだった。
——エミリーも異世界人ということになるな。
美少女。サイボーグ。護衛。メイド。水着(夏限定)。霧使い。異世界人。
——待て。
俺は考えた。
そうなると、この世界で会う人全員に「異世界人」の属性がつく。父親も、母親も、エミリーも、バルザック(故)も——全員異世界人だ。
——それはさすがに意味がない。
属性というのは、その人が他と違うときに価値がある。全員に同じ属性がついたら、もはや属性ではない。
俺はエミリーの属性リストの更新を、静かに取りやめた。
美少女。サイボーグ。護衛。メイド。水着(夏限定)。霧使い。
——このままでいい。
離乳食の最後のひと口を食べた。
エミリーが「お上手ですよ」と言った。
——褒められた。やっぱり複雑だ。
でも——異世界だとわかっても、目の前の食事はおいしかった。それでいいか、と俺は思った。




