第3話 婚約破棄を宣言されました
広間に満ちていた音楽が止み、空気が一変した。
ざわめきが静まり、自然と視線が一点へ集まっていく。第一王子アルベルト・フォン・クラウゼは、中央の一段高い場所に立ち、満足そうに周囲を見渡していた。
その隣には、例の令嬢がいる。
エリシアは、胸の奥が冷えていくのを感じながらも、背筋を伸ばしてその光景を見つめていた。逃げ場はない。ここで何かが語られることは、もはや疑いようがなかった。
「皆、集まってくれて感謝する」
アルベルトの声は、よく通る。
王太子として訓練された、威厳ある響き。
「今宵は、季節を祝う夜会であると同時に、私から皆に伝えるべきことがある」
貴族たちの間に、小さなざわめきが走る。
エリシアは、静かに息を吸った。
心臓の鼓動は早い。それでも、不思議と頭は冴えていた。
――来るなら、来なさい。
そう、自分に言い聞かせる。
「これまで、伯爵令嬢エリシア・フォン・アルヴェーンと、正式な婚約関係にあったことは、皆も知っての通りだ」
名前を呼ばれた瞬間、視線が一斉にエリシアへと向けられる。
同情、好奇、期待、そして――どこか安堵。
彼女は一歩も動かなかった。
「しかし熟考の末、私はこの婚約を解消することを決断した」
――婚約破棄。
その言葉は使われなかった。
だが意味は、はっきりと突き刺さる。
広間が、ざわめいた。
「理由は明確だ。彼女は……王太子妃として相応しい資質を欠いている」
アルベルトは、視線を外さない。
まるで断罪するかのように、エリシアを見据えている。
「社交の場での華やかさに欠け、周囲を導く器ではない。加えて、私自身の心が、彼女から離れてしまった」
隣の令嬢が、かすかに俯いた。
だがその口元には、抑えきれない喜色が滲んでいる。
「政略としての婚約であったとはいえ、愛のない関係を続けることは、国にとっても不幸だ」
正論めいた言葉。
だが、その一つひとつが、エリシアの胸を削っていく。
――愛が、ない。
それは、初めて聞かされる言葉だった。
これまで、彼女は「役に立つこと」を最優先にしてきた。感情を押し殺し、王太子の負担にならぬよう努めてきた。それが愛ではないと言うのなら、自分は何のために――。
だが、エリシアは口を開かなかった。
反論は、しない。
弁明もしない。
今この場で感情的になれば、すべてを失うと分かっていたからだ。
「以上をもって、婚約は本日限りで白紙とする」
アルベルトは、そう言い切った。
それで終わりだった。
彼女のこれまでを振り返ることもなく、功績に触れることもなく。
ただ、「相応しくない」という一言で。
エリシアは、静かに一礼した。
「……承知いたしました」
自分の声が、思ったよりも落ち着いていることに驚く。
膝が震えそうになるのを、必死で堪えた。
周囲が、どよめく。
「まあ……」
「泣きもしないなんて……」
「やはり冷たい方だったのね」
ひそひそとした声が、刃のように突き刺さる。
アルベルトは、一瞬だけ眉をひそめた。
想定していた反応と、違ったのだろう。
「君は……何も言うことはないのか」
試すような声。
エリシアは、顔を上げた。
視線が交わる。
かつて、信頼していた人。
隣に立つ未来を信じていた人。
その瞳に、もう迷いはなかった。
「ございません」
きっぱりと、そう答えた。
「殿下がそうお決めになったのであれば、従います」
その瞬間、広間の空気が一段冷えた。
アルベルトは、わずかに口角を上げる。
「そうか。ならば――」
彼は、はっきりと告げた。
「君がいなくとも、国政は何の問題もなく回る。むしろ、これからはより円滑になるだろう」
その言葉は、決定打だった。
エリシアの胸の奥で、何かが音を立てて崩れ落ちる。
怒りでも、悲しみでもない。
――否定。
自分の存在そのものを、不要だと言われたのだ。
それでも、彼女は涙を流さなかった。
ただ一度、深く息を吸い、そして。
「……それでは、失礼いたします」
もう一度、礼をして踵を返す。
その背中に、誰も声をかけなかった。
それが、すべてだった。
だが――
「……それは、事実ではない」
低く、静かな声が響いた。
エリシアの足が、止まる。
振り返ると、そこにいたのは第二王子レオンハルトだった。
人混みから一歩前へ出て、アルベルトを真っ直ぐに見据えている。
広間が、完全に静まり返った。
「兄上。今の発言は、訂正されるべきです」
淡々とした声。
だが、その言葉には、揺るぎない確信があった。
アルベルトが、苛立ちを隠さずに言い返す。
「何を言う。お前に、何が分かる」
レオンハルトは、エリシアを一度だけ見た。
そして、静かに告げる。
「――すべてです」
それ以上は、語らなかった。
だがその一言で、十分だった。
エリシアは、初めて胸の奥に、小さな熱が灯るのを感じていた。
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