第2話 第一王子の隣にいたのは、私ではなかった
広間に満ちる音楽と談笑のざわめきは、まるで別世界の出来事のようだった。
エリシアは、定められた立ち位置――本来なら第一王子の隣であるはずの場所から、少し離れた柱のそばに立っていた。誰かに指示されたわけではない。ただ、そこが「今の自分に許された場所」なのだと、自然に理解してしまっただけだ。
視線を上げると、やはり目に入る。
第一王子アルベルトと、その腕に寄り添う令嬢。
彼女は、周囲の視線を意識してか、少し緊張した面持ちをしていた。だが、王子が耳元で何かを囁くたび、花がほころぶように微笑む。その仕草は初々しく、そして――あまりにも親密だった。
エリシアは、無意識のうちにドレスの裾を握りしめていた。
これまで、王子の隣に立つのは自分だった。
そう信じて疑わなかった。
婚約という形だけでなく、日々の積み重ねがあった。夜遅くまで続く政務の合間、疲れた様子で執務室を訪れた彼に、温かい茶を差し出したこと。山積みの書類を一緒に確認し、誤りを指摘したこと。誰にも見られない場所で、支え合っているのだと思っていた。
――それは、勘違いだったのだろうか。
「エリシア様……」
マリアが心配そうに声をかけてくる。
「お飲み物をお持ちしますか? 少し、お顔が……」
「いいえ。ここで大丈夫」
エリシアは小さく首を振った。
逃げるようにその場を離れることは、したくなかった。何も知らないふりをして、微笑んでいれば、いつか元に戻る――そんな期待を、もう自分自身が信じていなかった。
周囲の会話が、断片的に耳へ届く。
「……あの方が、噂の……」
「やはり、そうなのね」
「でも、正式な発表はまだ……」
言葉の端々に含まれる含みが、胸に刺さる。
エリシアは背筋を伸ばし、ゆっくりと深呼吸をした。ここで動揺すれば、彼らの思う壺だ。何も決まっていない以上、自分は第一王子の婚約者である。その事実だけは、まだ変わっていない。
そう思おうとした、その時。
アルベルトが、こちらを見た。
一瞬だけ、確かに目が合った。
だが、彼はすぐに視線を逸らし、隣の令嬢へと顔を向ける。そして、まるで示すかのように、その肩へ手を添えた。
その仕草は、あまりにも明確な拒絶だった。
胸の奥で、何かが静かに音を立てて崩れる。
エリシアは、もう誤魔化さなかった。
――ああ、そうなのね。
これは、偶然でも、誤解でもない。
意図的な選択なのだ。
自分は、選ばれなかった。
その事実を受け止めた瞬間、不思議と心は凪いでいた。悲しみはある。悔しさもある。それでも、叫び出したいほどの衝動は湧いてこない。
代わりに浮かんだのは、ひとつの疑問だった。
自分は、何を間違えたのだろう。
努力が足りなかったのか。
価値がなかったのか。
それとも、最初から――必要とされていなかったのか。
答えは出ない。
ただ、胸の奥で、確信だけが形を成していく。
今夜、この夜会は、節目になる。
自分の人生にとって。
ふと、視線の端に、もう一人の王子の姿が映った。
第二王子レオンハルト。
人混みから少し離れた場所で、壁にもたれかかるように立ち、静かに広間を見渡している。誰とも積極的に言葉を交わさず、杯を手にしながら、ただ観察するような眼差し。
その視線が、一瞬、エリシアに向けられた。
驚くほど、静かな目だった。
哀れみでも、好奇でもない。
まるで――すべてを理解しているかのような。
だが次の瞬間には、何事もなかったかのように視線は外される。
エリシアは小さく息を吐いた。
期待してはいけない。
誰かが助けてくれるなど、思ってはいけない。
自分の立場は、自分で受け止めるしかないのだから。
やがて、音楽が止み、広間にざわめきが広がった。
視線が、自然と第一王子へ集まっていく。
アルベルトが、一歩前へ出た。
その仕草を見た瞬間、エリシアの心臓が、はっきりと脈打つ。
――来る。
理由は分からない。
だが確信だけがあった。
今から語られる言葉は、もう取り消せない。
エリシアは、そっと目を閉じた。
そして、どんな言葉が告げられても、顔を上げて受け止めると、心の中で決めた。
逃げない。
泣かない。
取り乱さない。
それが、今の自分にできる、唯一の矜持だった。




