第16話 悪意は、静かに始まる
最初は、些細な違和感だった。
朝、エリシアの机に置かれたはずの資料が、一部抜けている。
会議の開始時刻が、直前に変更されている。
共有されるべき補足情報が、自分にだけ届いていない。
どれも、偶然で片づけられる程度のこと。
だが、三日続けば、それは偶然ではない。
「……こちらの資料、昨日の最終版でしょうか」
エリシアが尋ねると、若い文官は首を傾げた。
「最終版? いや、今朝修正が入ったはずだが」
「修正の通知は受けていません」
「おかしいな……」
彼は慌てて確認に向かった。
戻ってきたときの表情は、微妙に困惑している。
「確かに通知は出ている。だが、配布リストに君の名前が抜けている」
意図的か、単なるミスか。
証明はできない。
「……ありがとうございます。最新版をいただけますか」
エリシアは、淡々と受け取る。
心の奥で、静かな警戒が芽生えていた。
――始まった。
午後、さらに分かりやすい出来事が起きた。
地方開発に関する契約案。
昨日確認した条項が、一つだけ差し替えられている。
文言は似ている。
だが、責任の所在が微妙に変わっていた。
このまま承認すれば、問題が発生した際、第二王子側が責任を負う構造になる。
エリシアは、ゆっくりとページを閉じた。
冷たいものが、背中をなぞる。
――これは、偶然ではない。
「殿下」
執務室の奥で、レオンハルトが顔を上げる。
「どうしました」
「こちらの契約案ですが、昨日の確認時と条文が異なります」
資料を差し出す。
レオンハルトは、静かに目を通した。
「……差し替えですね」
「はい」
「通知は?」
「ありません」
短い沈黙。
彼は、すぐに誰かを呼び出すことはしなかった。
「あなたは、どう判断しますか」
問いは、試すものではない。
状況確認だ。
「意図的な可能性が高いと思われます。ただし、証拠はありません」
「差し戻しますか」
エリシアは、少し考えた。
「今は、戻しません」
レオンハルトの視線が、わずかに鋭くなる。
「理由は」
「表面化していない段階で動けば、こちらが過敏だと取られます。まずは、変更履歴と承認経路を確認します」
静かな返答。
レオンハルトは、ゆっくりと頷いた。
「良い判断です」
それだけ。
守るでも、煽るでもない。
信頼の確認。
夕刻、廊下ですれ違ったカイルが、低い声で言った。
「気をつけろ」
「……何か、ご存じですか」
「知っているとは言えない。ただ、最近、向こうが妙に静かだ」
それは、嵐の前触れのような静けさ。
エリシアは、小さく息を吐いた。
夜、執務室に残って契約書の履歴を追う。
修正が加えられた時間。
承認した部署。
経路。
ひとつ、名前が浮かび上がる。
第一王子側の管理部門。
直接の証拠ではない。
だが、流れは見える。
――罠を張られている。
だが、それはまだ完成していない。
エリシアは、静かにペンを置いた。
恐怖はある。
だが、以前のような無力感はない。
今回は、自分が状況を理解している。
背後で、レオンハルトが書類を閉じる音がした。
「焦らなくていい」
静かな声。
「罠は、急いだ方が綻びます」
エリシアは、頷いた。
「……はい」
悪意は、声を荒げない。
笑顔のまま、静かに近づいてくる。
それでも。
彼女はもう、目を逸らさなかった。




