第1話 夜会の準備と、消えない違和感
婚約破棄から始まる物語です。
ですがこれは、ただの“ざまぁ”ではありません。
静かに仕事をしていただけの令嬢が、
気づけば王宮の均衡を崩していく話です。
派手な魔法も戦争もありません。
あるのは、数字と判断と、信頼。
そして――
捨てられたはずの令嬢が、第二王子と並び立つまでの物語です。
どうぞ、ゆっくりお付き合いください。
王宮から届いた夜会の招待状を手にしたとき、エリシア・フォン・アルヴェーンは胸の奥に、言葉にできない違和感を覚えていた。
季節の変わり目を祝う、恒例の夜会。
本来ならば、第一王子の婚約者である彼女が、隣に立つのは当然の場だ。
――それなのに。
招待状に記された文面は、どこか事務的で、温度がなかった。形式としては何も間違っていない。ただ、以前なら添えられていたはずの、短い労りの言葉がない。それだけのことなのに、胸の奥がひやりと冷える。
「……エリシア様?」
背後から声をかけたのは、専属侍女のマリアだった。彼女は鏡越しに、主人の表情をうかがっている。
「お顔の色が、少し……」
「大丈夫よ。ただ、少し考え事をしていただけ」
エリシアはそう答えて、視線を鏡に戻した。
淡い金色の髪は丁寧にまとめられ、派手さはないが、伯爵家令嬢として恥じない装いだ。華美な装飾を好まないのは、彼女自身の性分でもあり、また――かつて婚約者にそう求められてきたからでもあった。
『王太子妃は、国の象徴だ。だが、過剰に飾り立てる必要はない』
そう言っていた第一王子の声を、エリシアは今でも覚えている。
彼の言葉を信じ、彼の隣に立つに相応しい存在であろうと、彼女は努力を重ねてきた。夜会や社交の場だけでなく、政務の合間に渡される書類の整理、数字の確認、外交文書の下書き。誰に評価されることもなく、ただ「必要だから」という理由で。
それが婚約者として当然のことだと、疑いもしなかった。
「……最近、殿下はお忙しそうですね」
マリアが、慎重に言葉を選びながら口にする。
「ここ数週間、ほとんどお顔を合わせていません。伝言も、使いの者ばかりで……」
「王太子殿下ですもの。政務が立て込んでいるのでしょう」
エリシアは微笑んでそう返したが、声は自分でも驚くほど平坦だった。
本当に、それだけだろうか。
問いかけは、胸の内で形になる前に消えていく。考えすぎだと、自分に言い聞かせる癖は、いつの間にか身についてしまっていた。
夜会の準備が整い、王宮の大広間へと向かう回廊を歩く。高い天井、磨き上げられた床、灯された無数の燭台。華やかなはずの光景が、どこか遠く感じられた。
そして――会場に足を踏み入れた瞬間。
エリシアは、はっきりと理解してしまった。
第一王子は、彼女を待っていなかった。
広間の中央、注目を集める場所に立つその姿。いつもなら、視線が合えば軽く頷き、隣へと招くはずの婚約者。その腕に、今夜寄り添っているのは、見知らぬ若い令嬢だった。
淡い色のドレスに身を包み、怯えたようでいて、どこか誇らしげな表情。彼女は、王子の腕にしっかりと手を添えている。
周囲の貴族たちの視線が、一斉に動いた。
ひそひそと交わされる声。
探るような目。
同情とも、好奇ともつかない感情。
そのすべてが、エリシアへと向けられている。
「……そんな」
マリアが小さく息を呑むのが、背後で分かった。
けれどエリシアは、立ち止まらなかった。歩みを止めれば、何かが決定的に崩れてしまう気がしたからだ。
頭の中は、ひどく静かだった。
驚きも、怒りも、悲しみも――確かにそこにあるはずなのに、どれもが薄い膜を隔てた向こう側にあるようで、現実味がない。
ただ一つ、確かな感覚だけが胸に残る。
――ああ、やはり。
言葉にならない納得が、ゆっくりと沈んでいく。
第一王子は、こちらを見なかった。
いや、正確には、一瞬だけ視線が交わった。しかしその目に宿っていたのは、かつての親しみではなく、決意の色だった。
その瞬間、エリシアは理解する。
今夜、この場で、何かが終わる。
そして始まるのだ。
彼女の知らない形で。
華やかな音楽が鳴り響く中、エリシアは静かに背筋を伸ばした。
どんな結末が待っていようとも、取り乱すつもりはなかった。
それだけは、決めていた。
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