37.紡生の作戦
煙が晴れてきた。
その奥に、不規則に形を変える大きな影が映る。
紡生はミケの前に立ち、首輪を掲げるように持ち上げた。
「ルルーちゃん、だよね? この首輪の持ち主の」
名前に反応するように二つの赤い目がこちらを振り返る。
紡生はできるだけ刺激するように声を張り、ルルーの名を呼んだ。
「聞いて。私、あなたのことたくさん調べてきたの。あなたはロシアンブルーのルルーちゃん。ママさん……蒼樹さんに愛されて十三年も一緒に暮らしていた子だよね。でも一月半前のあの日、鳥に気を取られて外に出てしまった」
怨霊の核になっているのが誰で、どこの子なのか。どんな子だったのか。何が好きだったのか。
そして……どうやって殺されたのか。
紡生は、その全てを調べてきた。
「迷子になったあなたは、心細いままに彷徨っていた。そのときにあの人と出会ってしまった。ずっと苦しめ続けられて、最後は誰にも見つけられずにゴミ袋に詰められて、埋められた。……まだ息があったのに」
怨霊が、苦しそうに歪む。
その記憶を恐れる様に震え、体がべちゃりという音を立てた。
怨霊になってしまえば自我などないはずなのに、恐怖の念は未だに残っているようだ。
死してなお、恐怖や恨みにつながれている。
それはどんなに苦しいことだろう。
考えるだけで胸が痛くなる。
「……自分をそんな目にあわせたやつなんて許せないよね。復讐したいって思うのも当然だと思う」
怖かっただろう。
痛かっただろう。
苦しかっただろう。
身体が満足に動かせなくなって、それでも苦痛から逃れることはできなくて。
死へ向かっていくのを感じ取るしかできない日々。
どれだけ心細かったことか。
怨霊になるなという方が難しいだろう。
「……でも恨みに染まってしまえば、怨霊になってしまえば魂が擦り切れるまで苦しみ続けることになる」
輪廻に還れずこの世に留まり続け、やがて分解されて消えていく。
「完全な消滅を迎える」それがこの先ルルーを待ち受けている未来だ。
「……でもこれ以上、ルルーちゃんに苦しんでほしくなんてない。それは蒼樹さんも同じ思いだよ」
散々苦しんだ。
痛めつけられて命を落とした子が、これ以上の苦痛を受ける必要がどこにある。
「蒼樹さんはね、ずっとあなたを探していたよ。無事に帰ってきてくれるのを待っていた。……それはもう叶うことがないと分かっているけれど、それでも今もずっと、あなたの帰りを待っているの」
変わり果てた姿を見たのだ。もう帰ってこないことは分かっている。
それでも――魂だけでも帰ってきてほしい
ルルーの元へ向かう紡生に、蒼樹はそう言った。
「自分にできることは祈ることだけだけど、ルルーちゃんが帰る家はここにあるって知ってほしいって。ずっと待ってるって言っていた」
ルルーに向かって手を差し出す。
「だから恨みに囚われないで。お家に帰ろう?」
伝わってほしいと願いを込めて見つめる。
……けれど。
「ギャアオオオ!」
怨霊は止まることなく突っ込んできた。
巨大なドロドロとした塊の中から鋭利な爪のようなものが伸びてくる。
「っち!」
爪が届く直前、ミケが紡生を咥えて飛び退いた。
そのまま自身の背中に紡生を乗せると、怨霊と距離を取る。
「掠ってないか」
「大丈夫。それより……残念だけど私の言葉じゃ届かなかったみたい」
思い入れのある首輪を持ち出しても、飼い主の名を出してもなんの反応も得られなかった。
ありったけの心を込めた言葉でも、届いた感触は皆無だ。
「そりゃ怨霊になるほどの恨みだからな。すんなりいくわけがない」
「……ならやっぱり《《あの作戦》》しかないか」
紡生はこちらを振り向き姿勢を低くした怨霊を痛まし気に見つめた。
「やめるか?」
ミケに問われるが首を横に振る。
紡生の決意はもう固まっていた。
「まさか。ここまでして何もしないわけない!」
「だろうな。なら、準備はいいな」
「うん、もちろん!」
紡生はしっかりとミケの背中にしがみ付き、落とさないように首輪を抱え直した。
「ミケさんこそ、準備はいい?」
「ふん。誰に言ってんだ」
ミケは軽く鼻を鳴らすと、勢いよく怨霊へと向かっていく。
怨霊の爪を躱し上空へと飛ぶと、炎を吐き怨霊の行く手を阻んだ。
ふいに行く手を阻まれた怨霊は数秒だけ動きを止める。
「今だ!」
「えい!」
その声に合わせ、紡生は持っていた首輪を怨霊めがけて投げつけた。
放物線を描いて宙を舞ったそれは怨霊の中へと落ち、ドプンと音をたてた。
「ギャアアアオオオオオ!」
首輪を取り込んだ怨霊は叫び声をあげて苦しみだした。
核となったルルーの思い入れのある品を取り込むことによって、奥底に沈んでいた自我が刺激されたのだ。
負の感情でまとめられていた中に余計な感情が混ざれば存在が不安定になる。
怨霊は赤い目をせわしなく動かし、焦点が定まらなくなった。
自分が何者で、なぜここにいるのか分からなくなったのだろう。
けれどそれも数分のことだった。
怨霊はその赤い目に怒りを乗せ、紡生たちを見た。
痛みを与えた紡生たちを完全に敵として認識したのだ。
「よしっ! 行くぞ!」
ミケは足場を蹴り上げ、大きく飛び上がった。
猫の脚力をいかんなく発揮して隣のビルへ隣のビルへと飛び移っていく。
「来てるか!?」
「うん!」
すぐ後ろを怨霊が追ってきていた。
恐ろしいほど怒りの気配を携えて、痛みを与えた者達を亡き者にしようと狙っている。
けれどミケ達の顔には笑みが浮かんでいた。
「狙い通りだな!」
怨霊が追ってくるように仕向けること。
それが二人の狙いだった。
そのまま逃げてもよかったが、恨みの元の柴田がいるとなるとそちらに憑いて追ってきてくれない可能性があった。
だからわざと攻撃し、怒らせ、自分たちに狙いを向けさせたのだ。
「このまま一気に飛ばすぞ! 落ちんなよ!?」
言い終わる前にグンと加速する。
民家の屋根を踏みしめ、宙を舞う。
風景が目まぐるしく変わり、すぐに見覚えのある建物が見えてきた。――猫社だ。




