24.幼いころの記憶
それはうだるような暑さの夏、紡生が八歳のころのことだった。
その日は父親も母親も家を空けていた。
紡生は夏休み中で、一人留守番をしていた。
けれど寂しくはなかった。
産まれたときから一緒にいる飼い猫のムギがいたから。
ムギは紡生にとって姉のような存在だった。
世話を焼いてくれたり、励ましてくれたり、寂しくないようにいつも一緒にいてくれた。
その日も当たり前のように一緒にいた。
お昼ご飯を食べて、眠くなって寄り添いながらお昼寝をしていた。
そんなときだった。焦げ臭いにおいが鼻をついたのは。
起きたときにはもう、辺り一面が火の海になっていた。
黒い煙がモウモウと立ち上り、一緒に寝ていたはずのムギの姿も見えない。
逃げられそうな道なんてもうなかった。
幼い紡生にはどうしたらよいかなんてわかるはずもなく、加えて煙を吸ったのか苦しくてパニックになっていた。
満足に体も動かないし、一人ぼっちだし、炎は止まらないし。
ただひたすらに怖くて、苦しくて、熱くて……ずっと泣いていた。
そんなとき、ムギがどこからか駆け込んできた。
蹲る紡生に鳴き声を上げて、ここにいると全力で叫んでくれていた。
それから少しすると、誰かが駆けてくるのが見えた。今にして思うと消防士だったのだろう。
ムギは消防士をつれてくるために離れていたのだ。
紡生はおぼろげな記憶の中消防士に抱えられ、火の海の中を進んでいった。
光が見えた。ああ、もう外に出られるんだ。そう思った。
……けれど
突然、がれきが落ちてきた。天井が崩れたのだ。
そのがれきも炎を纏っていて、容赦なく紡生たちの身体をあぶっていった。
今も痕が残る足の傷は、そのときに負ったものだ。
それでも消防士は懸命にかいくぐり、外へと連れ出してくれた。
光の中へと向かう紡生は、未だ炎の中にあるがれきを見ていた。
その下から見えた赤を――
紡生の意識はそこで途切れた。
◇ ◇ ◇
「次に目が覚めたのは病院のベッドの上だった。私は助けられたんだ。……でも――そこにムギはいなかった」
ムギはあのがれきの下敷きになってしまったらしい。
消防士は紡生を助け出すだけで手いっぱいで、埋もれたムギを助け出している暇はなかったのだ。
助け出された紡生を見て「君だけでも助かってよかった」と大人たちは口にした。
けれど紡生にとっては全然よくなかった。到底受け入れられることではなかった。
だって紡生にとってムギは半身のようなものだったから。
いることが当たり前で、大切な家族で、慕っていた姉で。
それなのに目が覚めたらもうこの世のどこにもいないだなんて、もう一生会えないんだって……。
そんな理不尽、受け止めきれるわけがない。
突然の別れをすんなりと受け入れられる人など、この世にはいないだろう。
それに……。
「ムギは私を助けに来てくれたのに、私は……」
紡生は苦しそうにうつむいた。
助けに来てくれたムギを犠牲に生き残ってしまった。
その事実はひどく残酷に紡生の心を蝕んだ。
出火の原因が隣人のたばこの不始末だということもどうでもよかった。
自分が消えない傷を負ったこともどうでもよかった。その傷が原因で転びやすくなったのも。
何をすれば結末を変えられた?
どうすればムギは生きていてくれた?
何かできることがあったんじゃないのか?
そんな疑問が絶えず紡生を苛んだ。
――もしもあのとき意識を手放していなかったら
――もっと早くに目覚めて逃げ出していれば
たらればを考えても意味がないことは分かっていた。ムギが帰ってくるわけじゃないことも。……それでも考えずにはいられなかった。
考えて考えて、そして己の無力に打ちひしがれ、できることなどもうないのだと思い知る。
その繰り返しを生きてきた。
「……赤いものをみるとね、今でもあのときの気持ちを思いだしちゃうんだ」
歳を取るごとに過去の記憶は薄れ、罪悪感も悲しみも飲み込めるようになってきた。
けれどふいに赤が目に入ると、どうしてもあの日の絶望と重なってしまう。
奥に奥に押し込めたはずの罪悪感を刺激してしまうのだ。
「……」
「……」
話し終わると、重たい沈黙が流れた。
思っていたよりヘビーな話がきて反応に困っているのだろう。
紡生は苦笑して、空気を変えるように明るい声を上げた。
「とはいえ、ここ数年は倒れることもなくなっていたんだよ? 今日なっちゃったのだって、たぶん寝不足のせいだし」
「……寝不足の理由も、もしかしてそれのせいなの?」
紡生の頭の傍へやってきたアメは、火事という言葉を使わなかった。
紡生への負担を気にしてくれているのだろう。
「そうだね。トラウマともうまく付き合っていたつもりなんだけど、感情が大きく揺さぶられた日とかは見やすいね」
今朝夢に見てしまったのは恐らく、黒永とアズキのことがあったからだ。
自分を消してしまおうとしていた黒永。
それを死してなお止めようとしていたアズキ。
どちらもお互いのことを思っていたからこそ起こったすれ違い。
紡生にとっては、それがまぶしく見えた。
だって紡生はすれ違いを起こすまでもなく失ってしまったから―ー。
「ちょっとうらやましかったのかも。……まあでも疲れているときとかも見るから、たぶん今回のはそっちだと思うよ」
「そうなのね。ならあたしがおまじないを掛けてあげる! だから今はとにかく寝ちゃいなよ!」
「おまじない?」
「そう。違う夢を見られるようおまじない」
アメは起きたときと同じように紡生の目元に胸毛を乗っけた。
眼と耳がすっぽりと覆われて、じんわりと温かくなっていく。
天然のアイマスクのようで、なんだかおもしろかった。
「ふふ、くすぐったい」
「艶のある毛並みでしょ。特別サービスなんだからね?」
「……うん、これならよく寝られそう」
アメはグルグルと喉を鳴らしていた。
耳に心地よいその音は子守歌のようで、少しずつまどろんでいく。
ウトウトとしだしたころ、ふと先ほどみた夢を思い出す。
あれは何だったのだろう。
明らかに自分ではないのに自分自身のことのような……。
それに桜のある穏やかな場所も、知らないはずなのに知っているような気がする。
どこかで見かけたのだろうか。
(……あ、そうか)
あわせ屋……この屋敷に似ているのだ。
ここにあの立派な桜があるかどうかは知らない。
桜の見える縁側があるかどうかも知らない。
けれどなんとなく、この屋敷で起こったことのような気がする。
懐かしいような、切ないような、不思議な気分だった。
そして――
(…………あの子、ちゃんと逃げられたかな)
夢現の狭間で、思い出せないあの子のことを思う。
なにを差し置いても生き延びていてほしいと願った子。
神様に助けてほしいと願った子。
姿かたちも思い出せないけれど、何よりも大切だと思っていた。
「……にげて……くれていたら、いいなぁ」
紡生はそうこぼして眠りに落ちていった。




